政治

日華合作の日本軍機密費

日中戦争で山西省を占領し、行政権を把握した日本軍は独自の機密費を持っていた。山西省を所管する北支那方面軍隷下の第一軍は、当時から好き勝手をやっている“北支の関東軍”とも揶揄されたが、それは活動に充てる金の裏付けがあったからだ。

「山西工作費」と名付けられた機密費は、省内の各兵団で敵の帰順・懐柔工作に使われたほか、現地の民生向上のための施策――教育事業や都市インフラの建設――にも使われた。総額がいかほどだったのか、具体的にどのような事業にいくらが投じられたのかは断片的で全体像は分からない。ただ、この機密費の構図から分かる面白い点は、この仕組みが事変前からの流れを汲む、日華合作で出来上がったものであることだ。

この機密費について戦後に述べているのは、第一軍参謀部第二課(政務謀略)で機密費を管理していた土田穣と青江舜二郎の二人である。山西省政務関係者の回顧録『黄土の群像』に寄せた寄稿文で、当時、太原で実施した上水道建設にちなんで機密費の一端を明かしている。その仕組みはこうだ。

山西省内には、旧国民政府時代に閻錫山が力を入れて整備した工業群が存在し、その規模と生産される製品種類は一省独立が可能なほど豊富と言われていた。これを日本軍はほぼ無傷で接収し、軍管理工場として日系企業に対して委託経営をさせていた。この工場群で生産される製品のうち、「統税」と呼ばれた中央政府が決めた国税を課せられるものについては、いったん工場出荷時に課税を行うものの、その半額を奨励金として割り戻しを行っていた。省内産業を保護するためである。

その一方で、軍は山西省内においていち早く公定価格を設定し、その額は省外よりも低く抑えた。すべての製品は、いったん各製品別に組織された卸業組合が公定価格で買い上げるが、省外への輸出時には物価格差に対する関税を賦課した。この関税収入の仕組みと日本軍での機密費の流れを図示したものが下図である。

公定価格を統制するのは特務機関で、関税を握っていたのは土田と青江の第一軍参謀部第二課である。物価対策資金としてプールされた金は、省内の各兵団に機密費として支出され、各地の帰順工作等に使われたほか、省公署からの要請に応じて政務費としても支出された。用途はその時々によって異なるが、現存する史料では文教事業や都市計画事業に使われていることがわかる。データが限定されるが、山西省の生産消費統計で1942年度に約7000万元の出超となっていたから、関税収入による調節金は支出よりも収入が多く、総額については不明だが、機密費の規模は年間で数百万円(現在の貨幣価値で数十~百数十億円)に達したと思われる。

青江によると、この関税収入を元にした機密費の仕組みは、省長の蘇体仁と日本軍との話し合いで出来たという。それもそのはずで、外務省に残る記録では、太原が日本軍に占領されて約半年後の1938年6月には、すでに物価統制よりも先に関税の割り戻しが実施されて省内産業保護が行われていたが、それに対する中国側の回答は“事変前からの制度を踏襲したもの”というものだった。翌年の1939年には、関税収入を可能とする物価統制が布告されているが、これは中央が実施するよりも半年以上前のことだった。すでにこの時期には、山西省独自で日華合作による機密費の仕組みが出来上がっていた。