社会

支那の蝗害

中国大陸において、水害と旱害に並んで恐れられてきた災害が蝗害(こうがい)だ。地面を覆い尽くし、空を暗くするほど大量の蝗(いなご)は、通過した土地のあらゆる草木を食い尽くしてしまう。蝗群に襲われた村は食うに食なく、住民は出稼ぎを余儀なくされる。大規模な場合は飢饉が発生する。そのうえ被害が数年に及ぶ場合も少なくない。1927年(民国16年)に山東省で発生した蝗害は三年間続き、被害は九省二百余県、罹災者七百万人に達し、浙江一省の受けた損害だけでも、穀類二万トン弱、金額にして一億元に及んだという。

蝗が飛翔している様子。戦前の河南省開封にて。(出典:『華北の飛蝗』)

蝗が飛翔している様子。戦前の河南省開封にて。(出典:『華北の飛蝗』)

蝗群に襲われて無残な姿となった玉葱畑。(出典:『華北の飛蝗』)

蝗群に襲われて無残な姿となった玉葱畑。(出典:『華北の飛蝗』)

このような蝗害をもたらす蝗の威容は、戦前に大陸に出征した日本人もよく遭遇したようで手記に書き残している。

そこは十町歩もあろうかと思われる程の粟畑であった。畝間の地面といわず粟の幹といわず蝗が重なり合って蠢いていた。盛んにその葉を食い荒らしざわざわと音をたてている光景は想像に絶するものがあった。
中隊本部に連絡に行って帰るまでの三~四時間の僅かの間に粟はその幹と穂だけとなり、葉は一枚もついていない無残な姿となっていた。その畑の持主の中国人など知らぬ間の出来事のようであった。あの時たとえわかったとしても駆除する薬剤などあるわけでもないし、手の施しようがなかったのではなかろうか。

(出典:鈴木正七『復員船が来た』文芸社,2005年)

北京より天津に向かう途中万荘を過ぎ郎坊も間近いところ突然列車が停止した。線路いっぱいに蝗群が動いており蝗のつぶれる油で車輪が空転して進退を失したのであった。四周一帯の畑は全く青色がなく褐一色に変っている。附近の道路上には蝗油でスリップし立往生したトラック二台が停止していた。近くの支那家屋の土壁にも蝗群が波のように蔽って動く。又天日を暗くして襲来した蝗群が頭上高く通過するには慄然とした。
蝗群が襲った地方は収穫は皆無となり、農民は留守をおいて殆んど都会に出稼ぎに出るという。その被害は時に数十ケ鎮、又県全体にも及ぶこともあるという。

(出典:独立混成第四旅団戦友会『独旅』)

ただ、蝗の大量発生自体は大陸特有のものではないので、蝗害は世界中どこでも起こりうる。日本でも稀に起きることがあるし、対策が遅れているアフリカなどでは今も蝗害に悩まされている。日本人が蝗害と聞いて中国を連想するのは、パールバックの小説『大地』の影響だろう。

中国における蝗害の歴史は、詩経に登場するほど古く、歴代王朝によって「治蝗」は政の大事とされてきたが、蝗が大量発生する要因は近代にいたるまで謎であった。中国では水害や旱害の後に頻繁に起きたため、かつては水中の蝦が干上がって陸に上がると蝗になると考えられていた。この「蝗」だが、日本ではイナゴと読みがあてられているものの、実際に蝗害をもたらすのはトノサマバッタなどのバッタだ。それも通常の個体と比べて体色が黒変し、長距離の飛翔ができるように翅も大型化している。この形態の違いから、両者は長らく別種と考えられていたが、現在では同一種の相変異によることが分かっている。

上は通常のバッタ、下が相変異を起こして形態を変化させたバッタ。(Photograph courtesy Compton Tucker, NASA GSFC)

上は通常のバッタ、下が相変異を起こして形態を変化させたバッタ。(Photograph courtesy Compton Tucker, NASA GSFC)

バッタの相変異は、植生の異変と天敵相の破壊で生育地域の密度が異常に高まることで生じる。水害や旱害で頻繁に発生したのは、野鼠やハリネズミといった天敵がいなくなり、水が引いて孵化に最適な土壌で幼虫の大量発生を見るからだ。土中で密集した状態で刺激を受けながら孵化した幼虫は、土から這い出すと群集して餌を求めて移動し、成長とともに飛翔を始める。飛翔により移動範囲が広がると、他の群集と合わさってその規模も大きくなっていく。

薬剤による防除が生まれる前の治蝗策としては、土中の穴に注水したり、春秋の耕作前に土地を犂起するなどして孵化前に駆除するほか、幼虫や成虫は村中総出で叩いたり、火を付けたり、鴨や豚を放って喰わすなどして駆除していた。駆除した死骸は肥料や家畜のえさ、また「陸エビ」として食す地方もある。治蝗には農民の協力が欠かせないが、儒者が蝗害を陰陽に基づいて説いて以降、庶民の間では蝗の駆除が忌避されるようになり、中国では民国時代に至るまで治蝗が進まなかった。蝗害が繰り返された要因のひとつとされる。

国民政府は手順を定めた「治蝗月暦」を制定して効果的な防除を企図したが、地方官吏の汚職(治蝗には農民の動員が不可欠で利権が生じやすい)などで進まず、1934年(民国22年)には、ふたたび全国規模の蝗害に見舞われた。これを機に、国民政府は翌年、蝗害が頻発する浙江省など七省の農政主務官庁を集めた対策会議を開催し、治蝗組織の統一を含む抜本策を討議したが、成案を見ないうちに事変勃発を迎えた。

1937年(昭和12年)の日華事変以降は、親日政府でも蝗害防止に努めたが大差なく、毎年、どこかで蝗害が発生するという様だった。蝗害の発生が抑制されたのは、戦後の中共治下において農民の集団化と薬剤防除が普及してからだ。

ちなみに、日華事変で燼滅作戦と称して敵根拠地の覆滅に乗り出した日本軍は、敵である中共に「蝗軍」と揶揄された。敵地において隠匿物資を探すために墓の中まで暴いて歩いた所行ゆえである。

華北産業科学研究所華北農事試験場『華北の飛蝗』(調査報告第14号)1943年
多田部隊参謀部『水害ト蝗ノ発生ニ就テ』(方軍調資第六六号),1939年
華北交通株式会社『支那ノ蝗害』(支那紹介資料第八号)1940年
今井秀周「中国蝗災対策史―蝗は天災か人災か―」(『東海女子大学紀要』2002年)

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000397.html