李樹徳さん

李樹徳さん [2]

李樹徳さんは中陽県で中共党員としての偽装暴動後に日本軍に捕まり、太原にある第一軍の捕虜収容所「工程隊」に収監された。この際、李さんは同じく捕虜として工程隊に収監されていた党員の劉侵霄さんらとともに地下活動を展開した。この活動について劉さんが書かれたのが、以下に紹介する「太原日本軍『工程隊』獄中闘争の回想」だ。この文章は劉さんの筆であるが、工程隊での活動については中心者であった李さんの口述筆記に拠るところが多い。文中では李樹徳さんは、李滋という仮名で登場する。 [1]~[6]までの項分けは原文に拠った。

劉侵霄「太原日本軍『工程隊』獄中闘争の回想」

[1]

日本帝国主義者が太原に侵略してきて以降、小東門内にある城壁の東北の一角に捕虜収容所が建設された。その名も「工程隊」。大門には日本兵が立哨しており、「工程隊」の看板が掛けられていた。

ここは三棟の建物からなっていた。一番手前の前院には十数人の日本人通訳と一個小隊約五十人の日本兵が、中院には一個中隊約七十人の偽軍兵が詰めていた。奥の後院はとても大きく、門衛所や高圧電線が設置されていた。捕虜がいたからだ。

ここには十数戸の大部屋が並んでおり、一戸の部屋に百人近く収容できた。屋内で人は壁にそって一列に地べたに寝る。枕は煉瓦、ふとんは草だ。このほかに少校以上の国民党将校のための「将校班」があり、こちらは一部屋二人だった。「将校班」の人たちは上等な小麦粉を使った特別食で優遇されていた。他方、一般の人々の食事は具のない野菜汁と腐りかけた雑穀だった。医務室も設けられていたが、薬がないことは皆知っていた。

工程隊は山西派遣軍司令部の直轄だった。所長が一人(松本大佐)、尉官級の隊長が一人、通訳が三人配属されており、このうち通訳は日本人、朝鮮人、中国人が一人づつ。中国人通訳は陳財という名だった。

捕虜は「天」、「地」、「人」、「財」の各隊に分けられ、一千人単位とされていた。日本軍は捕虜の生活管理や使役へ派遣する際の人選などをさせるために、捕虜のなかから隊長を一人指名していた。百名を一班とし、班長を一人指名、各隊の隊長はこの百人から選ばれた。班の下には小隊が三つ編成されていて、小隊長を一人づつ指名した。頻繁に捕虜の出入りがあったが、人数は平均して一千四百人前後だった。私が収容されていたのは数ヶ月だから、全体でおよそ延べ一万人くらいの人が収容されていたことになる。

後院は不潔で、常に伝染病が蔓延していたから、毎日数人の捕虜が亡くなっていた。日本人と偽軍兵はめったに後院に立ち入らなかった。点呼のとき、彼らはマスクをして二十メートル離れたところから大声で点呼を行った。

収監されている人のなかには、我が党の抗日軍政人員や遊撃隊員、民兵、さらには無辜の百姓もいた。しかし、大多数は敗退する際に捕虜となった国民党軍の兵隊たちだった。彼らはみな捕まったときにその地で尋問を受け、名簿を作成されて送られてきていた。

工程隊に収監された人は、必ず三ヶ月から六ヶ月間監督されてからでないと外に使役に出されなかった。収容所が満員になると、苦力として外に移送されていく。また、伝染病を減らすため、一、二ヶ月に一回、重病人が釈放された。このとき、誰を釈放するかは尉官級の隊長と陳通訳、それに医師によって決められた。病気によって釈放される人はしょせんほんの一握りで、ほとんどの人は苦力として遠くへと送られていく。例えば、東北撫順の炭鉱や北平の労働収容所、或いは日本へ送られるのだ。また太原附近の炭鉱や飛行場、日本人経営の株式会社や酒保(日本軍の需品販売所)で働かされる場合もあった。さらに、ある人たちは銃剣に追い立てられてどこかに連れて行かれたが、のちに彼らは城壁の角隅で軍用犬の訓練に供されて生きたまま喰い殺されたことが分かった。細菌兵器や化学兵器の実験に供されたり、あるいは日本兵の戯れで刺し殺された人もいた。

日本軍は、家畜用の餌で捕虜の生命を維持していた。一人あたり毎日たった三~五両(十六両で一斤五百グラム)の雑穀で、実際には毎日二回食事があることも希だった。喉の乾きは所内の汚い井戸水で癒すほかなく、このようなひどい待遇の上に過酷な労働が課せられた。そのため、捕虜は皆みるみるうちに痩せ細り、骨と皮だけになった。毎日、何人もが餓死、疲労死、病死し、彼らは小東門外の外堀に棄てられ、野犬や鳥の餌となった。外堀には白骨が累々とし、野犬が群れて大群となってた。何も知らない町の少女が近づき、野犬の餌食になったりもした。

[2]

1940年12月、日本軍は我々の抗日根拠地へ向けて大規模な「掃蕩」を仕掛けてきた。このとき私は第八分区の機関が駐在する山西省交城県中社村にいた。

夜明け前の黎明時、突然、中社村が日本軍に包囲された。その当時、私は財務科長の職にあったが、ちょうどひどい風邪にかかって高熱を出していたため、帳簿や金をまとめるのに手間取り、逃げようとしたときにはすでに日本兵が家の敷地内に入ってきてしまった。私は急いで後ろの壁を飛び越え、走って山麓へたどり着いた。そして山道を登ろうとしたちょうどそのとき、道は日本兵の機関銃で封鎖されてしまった。私の前を走っていた二人の同志は「ヒュッー、ヒュッー」と飛んできた機関銃の弾にあたってその場に崩れ落ちた。その瞬間、私は自分の肘がしびれる感覚を覚えた。見ると、たちまち着ていた綿衣から鮮血が滲み出てきた。私は最悪の状態に自分が置かれていることを悟らざるを得なかった。急いでその場で溝に文書と金を埋めた。そして埋め終わったそのときに日本軍に包囲され、不幸にも捕虜となってしまった。

その日の午前、日本兵は私の口から部隊の糧食や弾薬、それに武器の隠匿場所を聞き出そうと尋問をはじめた。私は拷問を受けたが、彼らは何も得ることはできなかった。午後も尋問は続けられた。彼らは縄を私の首にかけて小銃で殴った。気絶すると冷水を浴びせて目を醒まさせて殴打を繰り返す。しかし私は口を開かなかった。彼らはさながら狂った狼のようだった。しまいには焼けて真っ赤になった木炭を私の襟首のなかに詰め込んだ……。夜になって目覚めたとき、身体全身が痛み、力が入らず、首はやけどのためにひどく痛んだ。手で、焼けた襟の部分を、ついで皮膚にふれてみた。首は焼けただれた皮膚から滲み出てきた油のためにべとべとしていた。手をかすかな明かりに照らして見てみると、べっとりと血にまみれて赤黒く光った手がそこにあった……。

三日目に、日本軍はこの時の「掃蕩」戦の最中に捕虜となった私たちを集め、そのなかから重傷者を集団の右側に押し出した。全身血だらけの私も右の集団に入れられた。そのとき、突然ひとりの日本兵が私が肘に怪我をしていることに気づいた。私を前へと引っ張り、歩くのに何も支障がないことを確かめると、私を左側に押し戻した。そして私が戻った瞬間、機関銃の発砲音が鳴り響いた。右側にいた十数人の同志たちは倒れ、吹き出た鮮血が大地を紅く染めた。捕らえられた同志たちの約半数が、このようにして銃殺されたのだ。そして私たち軽傷の者は、太原の「工程隊」に送られることになった。私は捕虜となってから名前を劉違新と変え、記録係であると偽りの供述をした。このときから、私の収容所生活がはじまった。

[3]

1941年春のある日のこと。所内で日光浴をしていた私たちは、またもや収監されてきた捕虜の一群をながめていた。偶然にも、私はその一群のなかに良く知った顔を発見した。彼は閻軍の将校服を着ていた。私が彼を見たとき、彼もまた私を見た。互いの視線があったそのとき、私は彼の名を思い出した。李滋だった。

山西青年抗敵決死隊第二縦隊第十七団で私が組織科長と一営指導員を兼任していたとき、彼は第九連長だった。1939年、第二戦区が決死第二縦隊の幹部を召集して陝西省の宜川秋林で集中訓練を行っていたとき「晋西事変」が発生、訓練中の人員全員が勾留され、そのなかに李滋がいた。党と彼との連絡は途絶えた。のちに彼が言うには、彼も連絡の取りようがなかったそうだ。

再会してからのち、私はすぐには彼に接近しなかったが、すぐに彼のほうが私たちに接近してきて、頻繁に将校用の食事から饅頭を盗んで我々八路軍のメンバーに渡してくれた。そのうち、彼はトイレに行く機会を利用して私を呼び出し、自ら「晋西事変」後の行動について教えてくれた。

彼によれば、閻錫山は勾留した幹部を買収し、全員を昇進させて官職に任命したという。彼も山西省中陽県の国民兵団の副団長を任命された。1941年の初め、彼は暴動を組織し、県公安局から数十丁もの小銃を奪うことに成功した。そして晋西北へと帰隊する途中に、彼らは閻軍の追撃に遭った。そして閻軍の追撃をかわしたものの、汾離公路で、またもや今度は日本軍の攻撃を受けて捕虜となってしまった。捕虜となった彼は、閻軍将校としての身分で通し、もともと共産党員で抗敵決死隊で職務を遂行していたことは露見していなかった。我々は彼とともに捕虜となった兵隊に事実関係を確認する調査を行い、彼が語ったことが真実であることを確認した。

李滋と再会してからまもなく、私と数人の同志は、二十数日間、晋南の飛行場建設にかり出された。この間、工程隊に残った同志は意外な収穫を得ることとなった。日本軍が捕虜隊長だった韓という将校を釈放したため、陳通訳は周という閻軍将校(彼は実際には抗敵決死第一縦隊の幹部で、長い年月が経ってしまい名は思い出せないが、周という姓だった)に適当な人物を推薦するように命じた。周同志は李滋を推薦した。彼は未だに身分が露見しておらず、しかも演技もうまいから、収容所から八路軍の捕虜を救出する工作に適していたからだ。しかし李滋は日本侵略者のために仕事を行うことに乗り気でなかった。これに対し周同志は、すべては革命を成就させるために必要な方便であると説き伏せ、最後に彼も同意した。そしてある日、陳通訳は李滋を呼んでこう言った。「あなたは閻錫山先生の部下だから、あなたを信頼して明日にでも隊長に任命します」。このようにして李滋は苦力隊長となったのだ。

工程隊に帰ってから話を聞いて、私はこれ以上ない有利な条件を勝ち得たと感じた。この時点で我々が把握している共産党員はすでに十数人に達していた。組織を結成する時期は熟した。秘密の討議を経て、我々は私と李滋、それに李一夫の三人を選出して秘密裏に党支部を結成した。私と李滋は片方が組織及び動員工作を受け持ち、もう片方が敵偽教育工作を受け持った。支部の成立後、我々は次のような工作方針を決定した。

一、我が党の抗日救国統一戦線の政策を宣伝し、共産党の影響力を拡大するとともに、閻軍捕虜の共産党に対する誤った認識を正す。

二、獄中闘争を展開して生活条件の改善を勝ち取り、同志を保護する。

三、獄中の捕虜と収容所の敵側人員を取り込んで利用することで有利な条件を創りだし、機を見て同志の出獄を勝ち取る。

このときから、私たちは互いに通じ合い、団結を緊密化するとともに、李滋が隊長の任にあるという有利な条件を利用することで獄中生活を生き抜き、闘争を堅持して出獄を勝ち取ることをかたく決意したのだった。

[4]

工程隊を警備する日本兵は中国語を解さず、しかも伝染病を怖れていたから、収監者にはめったに近づかなかった。そのため、日本兵に代わって通訳の陳財が収容所側と私たちとの連絡を取り持っていた。ゆえに、様々な物事の決定権はもちろん、実質的には収監者の生殺与奪の大権をも彼が握っていた。党支部は陳財の取り込みに重点を置くことに決定した。

陳財は福建省の出身で三十歳過ぎ、中肉中背で細面の顔に度の強い眼鏡をかけていた。彼の祖父は昔から台湾で商いを営んでおり、彼は祖父とともに台湾で成長した。日本が台湾を侵略した時、彼は高等中学校を卒業して日本語通訳となった。そして1939年に彼は日本侵略者とともに大陸へと帰国し、太原で家庭を築いた。嫁は河北省の女性だ。

私たちは工程隊に入る際、陳通訳が自ら投降した者は殴っても、捕虜となった者は殴らないと聞いていた。とりわけ、銃を持ちながら投降した者には厳しかった。彼は「おまえみたいな腰抜けは、銃を持っていてもここに逃げてきたんだから、生き延びるためなら明日にでも大砲すら持って来るんだろう」と罵った。彼を観察して、私たちは八路軍捕虜に対する彼の態度がほかの看守たちよりも良いことが分かった。むしろ多少親切でさえある。また、彼は訓話の際にしょっちゅう「 我々中国人は……でなければならない」という言い方をした。のちに私たちは彼の妻が抗日的であることを知った。このような情況から、我たちは陳財が未だ中華民族としての自尊心を失っておらず、我々のために服務させ得ると判断した。そこで李滋は隊長という利点を活かして、彼と密接な関係を築くことに務めた。

陳財は親族全員を養っている上に、ヘビースモーカーの悪癖があるため、いつも金に困っていた。そして彼は喫煙の症状がでると、いつも李滋から金を借りていた。彼を取り込むため、我々はいつも金を与え続けた。しかし、その金は一体どこから手にいれたのか?。三日間考え続けて、ようやくよいアイデアが浮かんだのだ。

当時、捕虜となった蒋軍の将校のうち何人かは「法幣」を持っていた。当時、太原城内では、百元の法幣を傀儡政権の発行した三十元の「連合票」と交換することが広く行われていた。しかも工程隊の日本兵は誰かが法幣を持っているのを発見したら、没収するのみならず、罪に問うていた。そこで李滋と彼らが相談して、法幣を手放したい人のために「連合票」との交換をしてやることになった。法幣を持っている人はとても喜んで、すぐに多額の法幣が出てきた。

話をもとに戻して、どのように換金の問題を解決したかを説明しよう。医師の陳躍庭は元閻軍第三十五軍の中校医官で、捕虜として工程隊に入ってから医師として採用された人間だ。彼は太原城内の「浦江会館」に家を持ち、毎日そこから出勤していたから、外で何かをするには都合が良かった。彼に接触すると、李滋は彼が国の行く末に強い関心を持っていることを感じた。あるときなど八路軍の情況を聞いてきたぐらいだ。ある日のこと、彼は李滋に言った。「あなたは私に嘘をついているでしょう。劉さんはけして八路軍のなかで上士なんかじゃない。彼はとても落ち着いていて才能があるから、間違いなく将校だ」。「それは君の考えすぎだよ」。李滋はごまかした。しかし陳躍庭はさらにこう続けた。「私はすでに君たちに注目していたよ。あなたと劉さんが何を必要としているか私は分かっている。これからは私を他人扱いせずに、何か必要なことがあれば遠慮せずに言って下さい。私の気持ちは抗日です。私は日本人に自分には息子も娘もいないと言っているが、実は一番上の息子は八路軍で大隊長をやっている。絶対に秘密にしといて下さい」。陳躍庭の姿勢は我々にとって非常に嬉しかった。法幣の換金問題はこのように彼の協力によって解決したのだ。

我々は換金してきた連合票のうち、法幣百元につき二十元を蒋軍の軍官たちに渡し、残り十元を得た。これが陳財を買収するための金の出所だ。陳財も金の出所を聞くことはなく、ただ「借金」して煙草を吸い続けた。金はあたかも縄の如く陳財を束縛し、李滋は彼の一番懇意な友人となった。

あるとき、陳財は李滋に対して胸のうちを語った。「日本人は多くの台湾人民を虐殺した。私は怒りを抑えて、そんな日本人のために働いて飯にありついている。君を抗日的だと思うから私の本心を言えば、私は日本人が早いところ消え失せてくれないのがとても残念なのだ。中国人は弱いから、戦局がどのように発展していくのか、まったくもって分からない。とても心苦しい……」。李滋は陳財の気持ちを党支部に報告した。支部は迅速に救出工作を展開するため、私も陳財工作に関与することに決定した。

そこで李滋は陳財の面前でうわさをつくった。彼が中隊長のときに私は記録係で仲が良く、のちに私は八路軍に参加した等々。陳財は意気込んで言った。「君の友人なら、私は尽力するよ」。果たせるかな、陳財は私に親切にするようになった。私のほうもこの機会を借りて彼に近づいた。関係がより密接になってから、私は彼に毛主席の『持久戦論』の考え方を話して聞かせ、彼が自らの祖国、自らの民族と人民の力量について正しく認識する手助けをした。これらの話はとても新鮮に聞こえたらしく、彼は自ら問題を提示したり、我々に対して更に説明を求めたりするようになった。宣伝は彼の思想に変化をもたらした。ある日、彼は私にこのような大謀大計は誰が生み出したのかを聞いてきた。私は彼に共産党の領袖である毛沢東先生であると告げた。彼は感慨深そうに言った。「このように抗日戦を戦えばどうして負けようか!」。熱いうちに鉄を叩くが如く、我々は彼も持っているはずの「抗日救国は中国人全員の責務である」との民族の気概を啓発した。

しかし、彼は自分は無能で、すでに八路軍に仇をなした以上、再び事をなそうとしても前途もなにもないと言う。そこで私は支部の精神に則って彼と公開談判を行った。その大まかな内容は、八路軍の同志を保護し、釈放・帰隊の条件をつくれば、戦争に勝利してのち、彼の家族全員の安全と仕事を保証するというものだ。共産党は抗日を是とする人々すべてと一致団結するからだと。このとき、彼は私の話をとても厳粛に聞いていて、外に出て二人の衛兵を呼んで門外に立哨させていたことを良く覚えている。

話をしたのち、彼は数日の間、我々の前に姿を現さなかった。そのため、彼が命を惜しみ死を怖れるあまり何か失敗をしでかしてすべて露見してしまうのではないかととても心配した。しかし、数日後、日本軍もなんら動きを見せず、我々は或いはまだ成功するかもしれぬとの希望を抱くようになった。ようやくして陳財は姿を現し、我々を呼んでこっそりと聞いた。「劉さんの話は本当ですか?」。李滋は「劉さんの話は彼が勝手に言っていることじゃなくて八路軍の政策です。私は宣伝のチラシで見たことがある」と答えた。すると陳財は「本当にそうなら、我々は徐々に進めていきましょう。けして他の者に知られてはならない。私には家族がいるから」と言う。これに対して李滋は「もし漏れたら遠慮せずに私を差し出せばいい」と胸を張った。こうして陳財は我々の「捕虜」となった。そしてこのときから、我々の工作活動はひとつの新しい局面を迎えることとなった。

例えば、炊事場の人員はすべて国民党の捕虜で、我々は食事の際いつも叩かれ侮辱されて、少しの飯と冷水しか摂ることができなかった。李滋が人員の交代を持ち出すと、陳財は二つ返事で了解した。そして、小隊長、班長、炊事員のすべてを我々のメンバー(その中には未だ本当の身分が露見していない閻軍の将校も数人いた)に交代させたのだ。それからというもの、我々の同志の獄中での生活条件は画期的に改善された。侮辱されることもなくなり、熱いお湯も摂れるようになった。

夏になり、いよいよ暑くなってくると、病死する者が日増しに増えていった。私は李滋がトイレに行くのを見ると彼に近づき、道すがら小さな声で「何か良い方法を考えなければいけない。我々の同志が戦場で死なずにここで病死するなどあまりにも無念だよ」とささやいた。すると彼はもはや収容所側に対して公開で抗議する以外に方法はないと考え、自らを危険にさらすことになる任務を承認するよう要請してきた。私も別の良い方法が思いつかなかったため、やむなく同意するほかなかった。

李滋は「日本人は捕虜を虐待している。食事もろくに与えず、ひどい衛生条件で伝染病も深刻だ。これは明らかに国際法に違反している。隊長の李滋が彼らとの面談を要求する」との噂があると陳財から日本側に伝えさせることにした。陳財は目を大きく見開いて「君は首を斬られても良いのか?」と聞く。李滋は死をも賭さない態度を示した。そして翌日、松本大佐が李滋と会うこととなった。陳財は一緒に向かう道すがら、咬んで含めるように言った。「くれぐれも慎重に」。

部屋の中には松本が一人だけでいた。彼は李滋が部屋に入って来たのを見るや否や、彼がまだ腰を落ち着かせないうちに詰問してきた。「日本人が国際法に違反している云々の話は誰が言ったのだ」。これに対して李滋は「部屋の検査が終わって灯りが消えて真っ暗になったときに聞こえたので、誰が言ったのかは分からない」と答えた。すると松本は「君はその話を正しいと思うかね」と聞く。李滋は答えた。「正しいと思う」。松本は李滋にその訳を問うた。李滋はこう言った。「自分は山西第二戦区司令部で訓練を受けていたときに、捕虜となった日本人が自分たちより衣食住が良かったのを見た。彼らは厳しく管理されなかったし、彼らもまた逃げようとしなかった。彼らが言うには『逃げ出してもまた戦争にかり出されて死ぬしかないからここが一番だ』と言っていた。しかも八路軍はもっと生活条件が違うのに捕虜は更に優遇されていて、けして虐待はされないそうです。閣下は訓話の際、常に我々に対して『中日親善』と言います。しかし、人がみな餓死して病死して、何が親善ですか?」。

陳財が李滋の話を訳し終わるや否や松本の顔色がみるみるうちに土気色に変わった。彼は声を張り上げた。「おまえはなぜ犯人に替わって話しているのだ!?」。しかし李滋は動じない。「私は誰かにかわって話をしているのではない。国際法に照らしてあるべきことを述べたまでです。私には父母もなく、妻も子もいない。殺されても恨むものはいない。しかしあなた方がこのようにしている限り良いことはひとつもない。また同じように騒ぎが起きるでしょう……」。

すると松本は「いったい何を改善するのだ!おまえたちの要求は何だ?」と聞いてきた。そこで李滋は毎日一人あたり一斤の糧食と安全な飲み水を確保することを提示した。松本は山西派遣軍司令部に問い合わせてみる旨同意した。

数日後、要求は受け入れられ、伝染病は徐々に収束していった。この闘争に我々は勝利したのだ。

これらの変化が生じてから、我々の同志たちはみな組織行動を意識するようになり、それとなく党の組織に接触を図るようになった。相互の連絡を経て我々の組織は拡大し、党支部の周囲に活動小組が組織された。我々はこれらの基礎の上に出獄工作を展開した。

ところで、日本侵略軍は国際社会を欺き、批判を免れるために、定期的に重病者を釈放していた。我々はこの機会を利用して、医師の陳躍庭にニセの病歴を提出させ、さらに陳財の批准を経て、数人の同志の解放を得ることが出来た。我々がこの方法で救出した同志の数は四十数人に上る。彼らはみな釈放通知書を手にスムーズに帰隊することができた。第一回目に八人の同志が釈放された際には、我々は党の上級組織との連絡任務を晋綏解放区の民運科長である景涛に委ねた。我々は獄中闘争を進める一方で、上層部の指示を待っていたのである。

遠く使役にかり出されていった人で生きて帰ってこれた人はとても少なく、なおさら日本へ連れて行かれた人などは誰も帰ってこなかった。ある日、陳財が李滋にこっそりと「明日、日本人が五百人を苦力として日本へ移送します」と伝えてきた。李滋は急いで私と李一夫を探して対策を練った。我々は陳財に圧力をかけて、彼に何か良い方法を考えさせることに決めた。そしてこっそり陳財を医務室に呼び出すと、厳粛な面もちで彼に対し「何があっても我々の同志を日本に送ることはできない」と伝えた。陳財はとても困った様子で考えあぐねた末にこう答えた。「明日、私は自分の前の隊列から並んだ順で五百人を指名していきます。あなた方は皆に良く連絡をとって、東側の後ろに並ぶようにしてください。私は西側から点呼を行っていきます」。

翌日、一千四百人が後院の広場に集合し、陳財が点呼を開始した。我々の同志約四百名は、計画に従って東側の最後尾数列に並んだ。指名された五百人はトラックに押し込まれて連れて行かれ、我々の同志は安全だった。我々はこの方法を二回用いて、同志を保護することができた。

またある日のこと、陳財は我々に細菌実験に供するために五十人前後の健康な者が選ばれて東北に送られる計画を教えてくれた。そこで我々は陳躍庭にニセの病歴を書かせて、二十人前後の八路軍幹部を重病者房に移して難を逃れたこともあった。

あるとき、私は新しく移送されてきた捕虜の中に第八分区の郭中楚ら七名の無線機密要員を発見した。正直に言って怖れの念を禁じ得なかった。「彼らの中にもし万が一気骨のない者がいたら、革命に重大な影響を与えてしまう」と思ったからだ。そこで李滋を通して彼らに対する対策についての了解を得ることにした。彼らの態度はとても良かったので身分は露見しなかったが、党支部は一旦何者かがこの七人の同志を告発すれば、彼ら自身が悲惨な試練を経験するだけでなく、我が軍の通信秘密への重大な脅威となることと考え、彼らの出獄を危急の任務とした。そこで次の重病捕虜釈放の機会を利用して、我々は彼ら全員を出獄させることにした。幸いにもうまく出獄させることができた。

ところで、先ほど登場した景涛同志は、出獄後に不幸にも戦闘中に捕虜となって再び工程隊に送られてきた。このとき、幸いにも彼の素性は日本側に露見していなかった。というのも工程隊の規則では再び捕虜として送られてきた者は軍用犬によって咬み殺されることになっていたからだ。景涛の立場は非常に危険な状態にあったため、李滋たちは彼の出獄に全力を傾けた。李滋たちの努力で、彼は十日もしないうちに出獄でき、帰隊することができた。

再び重病捕虜釈放の機会がめぐってきたとき、李滋は私にこの機会に出獄することを説得してきた。正直な話、誰だってあのようなひどい所には一秒でも長く居たくはないし、何とか生きて出獄し帰隊したいと願うものだ。以前、私が晋南飛行場での使役から帰ってきてまもなくの頃、古い戦友の誼から、李滋は早くも隊長の身分を利用して私の釈放を実現しようとしてくれた。しかしあの時は闘争も開始されたばかりで、李滋の表向きの身分では工作を行うにも不便で、いわんや出獄工作などできようもなかった。同志たちも私のことは知っているものの李滋のことは誰も知らなかったから、私が出獄した後に工作が中断されてしまうことを心配した。そのため、私は残留を決意したのだった。そしていま、すでに数人の同志は出獄に成功したものの、未だ多数の同志たちが収容所から脱出できずにいる。しかもすでに私はいくつかの方面で人員工作の基礎づくりを開始しており、未だ私が必要とされていた。私は再び李滋の好意を断った。李滋もやむなく、「再び次の機会まで待つのも良いが、そういつまでも長く居てはいけない。ここでは常に危険にさらされているのだから!」と言った。

[5]

国民党軍は敗北を続け、多くの捕虜が工程隊に送られてきた。我々がこれら捕虜の分析を行った結果、高級将校のなかに若干の頑固文子がいるものの、一般の将兵のほとんどは無理矢理に戦争に動員された気の毒な人たちだった。そこで彼らに対し、我々は団結して教育任務にあたることとなった。党支部は我が党の抗日民族統一戦線の戦略思想に基づき、獄中における秘密宣伝活動の展開を実施することに決定したのだ。その主な内容は、毛沢東同志の『持久戦論』の偉大な思想や、我が党の抗日民族統一戦線の政策、そして八路軍の素晴らしい伝統や姿勢などである。

宣伝を通して、彼らは我々の党と軍隊が真に抗日的で貧しい人々を解放するために活動していると、頭のなかから誤った観念を消した。そして彼らを啓発して、困難を脱した後には積極的に抗日に参加すべきと激励した。李滋は点呼の前後を利用して、日本人がいない数分の間に抗日救国を訴えた。その他の同志たちは、友人や同郷の誼、世間話などの方法を利用して宣伝に務めた。今までこのような道理を聞いたことがなかった彼らの耳にはこれらの話が新鮮に聞こえ、心に強く印象づけられたようだ。ある人はこっそりと我々の同志のもとを尋ねて多くの質問などをした。彼らは徐々に我々を尊敬するようになり、我々に接近するようになった。

そこで我々は彼ら中隊や小隊幹部のなかで気骨のある苦労人をリーダーとして育て、到来するであろう機会に叛乱を起こして八路軍に投奔する準備を行った。あるとき、日本軍は一千人に上る収監者を撫順の炭鉱に移送したが、山海関を越える前に予め我々が予定していた叛乱に成功した。さらに日本軍が一千五百人を唐山に移送したときにも成功した。このときは秦皇島に向かう途中で予め連絡してあった方法で行動を開始した。さきに数人が縄を解いておき、監視兵が結んでいないただの縄を持っている状態にしておいて、かけ声の合図とともに一斉に一千人が四方八方に駆けだしたのだ。日本軍はたった二百人を捕らえただけだった。逃げ切った多くの者が、我々が育てたリーダーに率いられて八路軍根拠地へと逃れた。移送にあたった傀儡軍の兵士たちが工程隊に帰ってきて言った。「八路軍の計略に引っかかった。みな逃げてしまった」と。

また、我々は頑固分子に対しても教育の機会を放棄しなかった。例えば、李滋と同部屋にいた五十歳代の県長がそれだ。名を陳漢英といい、日本の早稲田大学に留学して日本語が話せた。彼の故郷は決死第一縦隊の活動地区だった。そのため、彼は共産党を恨んでいた。我々は彼が日本鬼子に密告するのを強く警戒していた。しかしのちに李滋は彼の言葉から、彼が偏見に基づいて共産党を恨んでいること、また亡国の奴を是としない民族の自尊心から日本人への恨みの念を持っていることが分かった。救国という点から出発すれば、彼に対しても話をすることができるかもしれない。そこで私は李滋の同郷の者であるとして李滋の部屋で世間話をして時間を過ごしつつ、折を見ては八路軍の抗日活動について話をした。ほどなくして、彼と私たちは仲良くなってきた。

ある日、タイミングよく彼が重い腸チフスに罹った。工程隊の規則では、重い伝染病患者は全員、特号病房に移されて死を待ち、その後遺体は城外の壕に棄てられて野犬に喰われることになっていた。そこで李滋は彼に陳躍庭を通じて「軽度の風邪」と書いてやり、もとの部屋に居られるようにした上で、心を込めて看病をした。陳漢英の病状が好転して、私が彼を見舞ったとき、彼は「私を助けてくれてありがとう。もしあなた達が助けてくれなければ、今ごろ私は野犬のえさになっていたよ」と言った。そしてその夜、陳漢英は眠れずにこっそりと李滋に話しかけた。「劉さんは文武両道で情にも厚い。きっと八路では将校だ」。李滋はごまかして言った。「私は記録係だった彼と一緒だったんだよ」。すると陳漢英はごろりと身体を転がして身を起こすと話しはじめた。「李さん、私に隠し事はやめてください。彼の言葉は私の息子とそっくりだ。私は日本人に息子も娘もいないといたが、それは息子が共産党で仕事をしているからです。あいつは薄一波とともに行ってしまい、聞くところによれば何かの指導員とやらをやっているらしい。一度家に帰ってきたとき、私は息子を共産党に行かせまいとした。結局私たちは仲違いをして、親子の縁を切ったのです。それ以来、息子には会っていません。息子とあなた達は同じくらいの年齢だ。息子が私に話した内容は、劉さんが話した内容と全く一緒でした。あなた達と一緒に病と戦ったとき、私は初めて共産党の人の話の道理がよく分かったのです。これからはこの老いぼれでも何かのご用があれば、犬馬の微力を尽くさせてもらいたいのです」。

陳漢英は病気が癒えたのちに釈放された。工程隊は彼を偽山西省政府に紹介し、彼は文水、交城、清源、汾陽の四県専員を任ぜられた。この四つの県は我々第八分区の活動地域だ。陳漢英は我々の要求に従って八路軍と密通し、八路軍の物資の輸送を隠蔽して日本人を騙した。聞くところによれば、のちに彼は李滋を捜し出して彼に会ったが、そのとき彼は、自分が八路軍のために働いていること、息子の共産党への参加を支持していること、そして日本人のために仕事をすることなど望んでいないこと、これらを行方知れずの息子に伝えるため、李滋に息子を捜して出して連絡をとる労を承けて欲しいと泣きながら頼んだという。

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1941年の夏が終わる頃のある日、突然日本人通訳の高橋が松本のもとに李滋を呼び出した。そして不意打ちの「談判」を行った。松本は彼に対し、葉挺と連絡しているのか否か、共産党と如何なる関係を持っているのかを問いただし、何者かが彼を告発したのだと言った。このとき、李滋は機転を効かせて松本をごまかした。しかしこの厳重な警告は、我々の行動が日本側に監視されていること、間違いなく密告者がいることを意味した。

我々は心の底から一同一緒に収容所を離れたかったが、李滋だけが獄中工作を停止させることができた。そのため、我々は李滋の処置にすべてを委ねる以外なかった。私は先に脱出し、李滋が後陣を固めることとなった。このとき、タイミングの良いことに、ちょうど陳財が太原城内で小売業を営むために、驢馬を手に入れてそれを扱える人を自分の農地の小作人として雇いたいと考えていた。そこで私は陳財の小作人という名目で収容所を脱出した。そして私は獄中党支部の上層部との連絡任務を任されたのだった(前に連絡は取れたが、このときはまた連絡が中断していた)。

出獄の際、李滋はもう二度と見送ることはないであろう私を大門の入口まで送ってくれた。大門の薄暗い洞内に日本兵の銃剣が冷たくひかる。大門を出たあとに振り返ると、彼の剛毅な目とかすかにうなずく仕草が私の目に映った。そして陳財は私を見送りに大南門まで来て汾河橋を渡ると、私が向かうべき根拠地の方向を教えてくれた後、収容所へと帰って行った。

陳財と別れた私は、飛ぶように西の山々を越えていった……。三日三晩歩き続け、ようやく交城山会立村の第八分区司令部所在地に到着した。帰ってきた根拠地はまるで暖かいわが家のようだった。そして私は分区党委員会に状況を報告すると病に倒れてしまった。

数日後、晋綏軍区から指示がきた。その内容は、工作資金を使って陳財の商売を買収し、我が軍の太原解放に向けた準備工作を行う連絡点にすること、同時に収容所内の党支部は闘争を継続し、李滋同志は偽りの身分を利用して所内の内通工作を進め、釈放を勝ち取った際には傀儡軍内部で内通工作を実施せよとのことだった。また上層部は、私を太原に潜入させて李滋と陳財の工作にあたらせる旨を決定した。証明書など何も持たずに太原に入城することは非常に危険であり、少しでも間違いがあれば生命も保証されない。しかし、状況をよく熟知しているのは私しかいなかったから、私が行く以外に任務を達成させることはできなかった。虎口を脱したばかりで病に伏せていた私は、幹部たちに必ず任務を達成する強い決意を伝え、敵工科長の段士楷を連れて再び虎穴に入っていったのだった。

私たち二人は、まず太原郊外に行って李成牛を訪ね、彼に陳財を呼んで来させた。李成牛は小作人として陳財に雇われた貧しい農民で、よく収容所に入って糞尿を回収していたから李滋を見かけることができた。のちに李成牛は我が党と収容所の党支部との連絡を担うようになった。

陳財がやってくると、私と段さんは彼と商売について話をし、我々と合作することを要求した。陳財は未だ中国人としての誇りを失っておらず、二つ返事で要求を引き受け、抗日活動への貢献を望んだ。段さんは彼に資金を渡し、私はここに残って彼と共に「商売」をすることとなった。最後に段さんは陳財に、私の安全を保証すること、できるだけ早く私の証明書を手に入れること、そして李滋の救出工作を継続することを要求した。陳財はすべてについてひとつひとつ約束を確認した。その晩、段さんは李成牛の家に泊まり、翌日に根拠地へと帰っていった。

その後、陳財と城内に入ったあと、彼はいくつか方法を考えたものの私の証明書は発行できなかった。そこで仕方なく彼の家にしばらく住むことになった。彼は毎晩収容所から帰ってくると私を外に連れて行って「商売」をした。陳財にならって私も変装をした。シルクの長衣と西洋帽、平らな眼鏡を身につけ、人力車に乗って出入りした。人々は私をどこかの屋号を持っている商売人だと思っていただろう。検問に遭遇しても、陳財が一緒にいる限り、日本軍にも何もとがめられなかった。

ある日、私と李滋は陳財の家で再会することができた。李滋はとても喜んでいたのを憶えている。彼は早く収容所から離れて隊に戻り、同志とともに戦うことを望んだ。しかし私は上層部の指示を彼に伝えた。すると彼は全くためらうことなく、「再び情況が困難になった現在、私も今の任務を堅持して、同志を救うことで革命事業に尽力したい」と決意を表した。私たち二人は、互いに目頭を熱くして、かたく手を握りあった。

陳財の協力のもとに活動も一ヶ月が経過し、ようやく家と収入源を確保することができた。このとき、上層部から李一夫同志を速やかに収容所から救出すべしとの指示がきた。当時、李一夫同志はまだ飛行場で使役をさせられていた。そこで陳財は日本軍の軍服を着て、自動車を運転して飛行場まで行き、用事があると言って李一夫を苦力の一群から呼び出した。日本軍の衛兵もいったい何の訳があるのか全く分からないうちに、李一夫同志は車に乗り、車は陳財の運転で厳戒態勢の飛行場を離れた。そして私と李一夫は陳財の運転で城外の李成牛宅に無事到着した。李成牛の父は軽食を出してくれ、その上親戚を装って大黒山の麓まで送ってくれた。

私と李一夫は第八分区に到着すると、党委員会に報告を行った。数日後、晋綏軍区から私たち二人に軍区への状況報告に来るよう指示があった。そのため、私たち二人は第百二十師司令部に出頭し、甘泗淇主任と程鐘部長(敵工部)に詳細な報告を行った。甘主任は喜んで「ご苦労さま!。同志たちの活動は革命に大きく貢献するものだよ」と言い、特別に鶏を一羽買って私たちを招待してくれた。その後、この工作の連絡は第百二十師の指導の下に行われることが決定され、私も部隊に復帰することとなった。

(筆者の劉侵霄は現在内蒙古軍区顧問を務める。文中に登場する李滋は、現在名前を李樹徳といい、西安八府荘機制煤球廠に勤務。景涛は現在北京化工部勤務。また段士楷は現在軍事委員会空軍後勤部勤務。本文章は一部を李樹徳の回想筆記に拠っている)

山西省文史研究館編『文史研究』(第一期)1986年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000014.html