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生物戦研究から距離を置いた石井将軍の山西勤務

「七三一部隊」を中心とした非倫理的な人体実験で知られる日本軍の生物戦研究。そのキーパーソンである石井四郎将軍は、七三一部隊(関東軍防疫給水部)を離任した際、短い間だが山西省の第一軍に軍医部長として勤務している。山西での勤務は、彼が1932年(昭和7年)に陸軍軍医学校に防疫研究室を立ち上げて以来、生物戦研究から距離を置いた唯一の公職だった。

石井四郎将軍

石井四郎将軍

石井将軍は、京都帝大医学部を卒業し、微生物研究で博士号を取得、天覧にも召された濾水機の開発者の顔を持つ陸軍軍医だったが、熱意も実績も医学者のそれよりは行政官に近い人物だった。その実行力から”軍医団の辻正信”の異名を付けられたり、彼自身も軍医初の陸軍大将になることを公言して憚らなかったと言われている。

海外視察から帰国後、全くのゼロから陸軍内で生物戦研究を立ち上げ、世界最大のネットワークにまで広げた。1955年に恩師の葬儀に参列した石井将軍は戦前に324もの研究所を作ったと自負している。それまで経理部の所管だった給水に衛生部所管の「防疫給水」という制度を成立させており、軍、師団レベルにまで設置された各地の防疫給水部、それに民間への研究費助成も一研究所とカウントすれば、あながち誇張とは言えないかもしれない。

731部隊のボイラー跡とされる廃墟。黒龍江省ハルビン郊外平房。1995年。

731部隊のボイラー跡とされる廃墟。黒龍江省ハルビン郊外平房。1995年。

七三一部隊だけで年間予算が東京帝大と同規模という潤沢な資金と、内地では不可能な人体実験も行って生物戦の研究を行ったが、肝心の兵器としての性能は芳しくなかったようだ。少なくともノモンハンと中国戦線で計四回、細菌兵器を使用しているが、いずれも失敗に終わっている。特に1942年(昭和17年)夏の浙カン作戦(せ号作戦)では、日本軍に一万人以上の戦病者を出している。同年8月、石井将軍は山西省の第一軍軍医部長に転出し、七三一部隊長の任を離れた。

森村本などで当初この人事は汚職発覚による懲罰人事とされてきたが正しくない。汚職云々は根拠が定かではない。また、浙カン作戦の責任を取らされた、というのも説得力にかける。参本の井本熊男大佐が作成した業務日誌の中に、細菌兵器使用の後始末を石井将軍が行うように指示が出された旨記載していることが傍証として挙げられるが、石井将軍自身はノモンハンでの失敗で生物兵器の使用には消極的だったので、浙カン作戦での使用は参本の主導によると考えられるし、人事異動の方が作戦発動よりも先だから作戦失敗の責任を取らされたとは言えない。そして形式論でいけば赴任先の第一軍は関東軍に比べれば格下だが、職制では軍医部長は防疫給水部長よりも格上で、定期異動での人事と考えて差し支えない。任地の山西省は閻錫山との提携で戦地としての忙しさはなくのんびりとしていた。しかもそこでの勤務はたった一年で終わり、その後、軍医学校付で実質上は復帰している。

ただ、七三一部隊長の任の重要性(と役得)からすれば、それまで順風満風でいっていた石井将軍にストップがかかった、ということは言えそうだ。1942年(昭和17年)3月の段階で、七三一部隊の研究費の使途が明確でなく、他予算からの流用禁止、研究計画の提出など抜本的解決を図ることが陸軍省から関東軍宛に命じられており(陸亜密電第159号)、ずさんな経理が中央で問題になったことは間違いなさそうだ。さらに梅津関東軍参謀長は生物兵器の開発という点で石井将軍の能力に不信を抱いていたようで、七三一部隊長からの移動は、そこら辺の含みがあったと思われる。この時点ですでに生物兵器の開発と作戦での使用の主導権は石井将軍の手を離れていたのではないか。ともあれ、彼にとって山西勤務は、生物戦研究から一時距離を置くことになったようだ。

山西勤務時代の石井将軍だが、任期が一年だったこともあって、何をやっていたのかはあまり定かではない。赴任当初は浙カン作戦の後始末で飛び回っており、実務に着いたのは秋頃のようだ。路安陸軍病院に勤務していた湯浅軍医は、石井将軍による査閲を1943年(昭和18年)秋に受けたと著書『消せない記憶』の中で述べているが1942年(昭和17年)の間違いだろう。おそらく着任早々に隷下各部署を査閲したものと思われる。査閲では、衛兵に突然飛びかかったり、罹患して苦しむ患者を自ら演じたりと噂に違わぬ変人振りを発揮しており、人体実験の映像こそなかったものの、やはりここでも石井将軍お得意の八ミリフィルムを上映したという。

また、石井将軍が腕を振るい、省内の給水事情が劇的に改善された、というエピソードもいくつかの書籍で散見されるが、いずれも石井式濾水機の生みの親というプロフィールから生まれた噂話に過ぎないと思われる。石井将軍が赴任してきた前後で、太原をはじめ省内各地で軍医部と特務機関の主導による上水道建設が行われており、住民に非常に感謝されたのは事実だが、関係者の回想で石井将軍の名は出てこない。彼の関与はなさそうだ。

1943年(昭和18年)8月、石井将軍は山西省を離れて軍医学校付として内地に帰還、生物戦研究の第一線に復帰した。しかしその後も終戦の年まで目立った動きはない。後任の北野将軍の下で七三一部隊は新たに爆弾投下方式の撒毒方法を実用化したほか、流行性出血熱についても解明するなど成果が上がっている。石井将軍が七三一部隊長に復帰するのは、敗色濃くなった1945年(昭和20年)3月で、彼は着任早々、細菌の量産体制突入を宣言している。

近年公開された史料によれば、戦後、人体実験のデータを含む七三一部隊の研究成果を入手した米軍は、本国の研究機関で精査したが、科学的にはあまり価値がないと判断したという。また常石氏によれば、七三一部隊で最も意義のある研究は流行性出血熱と凍傷の研究ぐらいで、石井式濾水機も当時の宣伝文句のような細菌を濾過する能力はなかったという。そして先に見たように、1942年(昭和17年)の段階では、すでに生物戦の主導権は石井将軍の手を離れていたと思われ、悪魔像となった石井将軍も昭和陸軍という巨大な組織の一構成員に過ぎなかった感がある。凄惨で闇にあった七三一部隊の活動内容と、石井将軍一流のパフォーマンス(時に虚言)が、これまで内外ともに虚像を増幅してきたと言えそうだ。史料、証言等、ほぼ出尽くし感のあるいま、ようやく等身大の姿が見えてきたと言えそうだ。

常石敬一『消えた細菌戦部隊』筑摩書房,1993年
秦郁彦『昭和史の謎を追う(上)』文芸春秋,1999年
吉開那津子『消せない記憶―湯浅軍医生体解剖の記録』日中出版,1981年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000185.html