李献瑞さん [1]


李献瑞さんの生い立ち
李献瑞さんは、民国14年=1925(大正14)年旧暦の11月11日、父である李成林さん(別名 李樹森、当時四十六歳)の四番目の子ども(三男)として、山西省太原市で生まれた。父の李成林さんは、母方の祖父の李臻さんとともに早くから辛亥革命に参加した著名な人物だった。当時は、陸軍老二団第一営長(大隊長)の職にあった。父の指揮する第一営には、後に抗日戦で名をとどろかせ、戦後は国防委員会副主席を務めた傅作義が排長(小隊長)として所属していたという。

李献瑞さんの父・李成林将軍。1940年(昭和15年)~1944年(昭和19年)の晩年の写真。辛亥革命に参加した国民政府の古参党員だった。

李献瑞さんの父・李成林将軍。1940年(昭和15年)~1944年(昭和19年)の晩年の写真。辛亥革命に参加した国民政府の古参党員だった。

当時、李さん一家の家は太原城内にあった。現在、旧市街にある山西省博物館第一部のそばの新城南街だ。家は立派で、余裕のある暮らしだった。隣には祖父母の李臻さん夫妻が住んでいた。祖父の李臻さんは当時六十歳前後で、中国同盟会の山西省における最も早くからの会員。清朝末に日本に留学した経験をもつインテリだった。当時は、山西省政府参事の職にあった政府高官だった。

李さんが三歳の時、実の母親が亡くなり、父は再婚した。隣に住んでいた祖父母は、実娘の最後に生まれた幼い李さんをことのほかかわいがった。母親が亡くなったショックからか、李さんの身体が弱くなったことも、祖父母が気をかける理由のひとつであった。

祖父母との生活と別れ
李さんは、父が天津租界のオーストリア第二区主任を務めていた関係で四歳から五歳の一時期を天津で過ごしたのち、太原に戻ってきて小学校に進学した。のちに李さんが六歳か七歳のとき、一家は同じ城内の一人巷というところに引っ越した。現在の太原市内柳口の北のあたりである。このとき李さんは、当時全国でも最高峰の教育水準を誇る山西実験小学校に通学していた。同じ太原城内だが、引越先から小学校に通うにはすこし遠い。李さんは、祖父母の家に住むことにした。祖父母はとても優しく、母親が亡くなってから体が弱くなった李さんに特に優しくしてくれた。隣近所の人たちに対してもとても親切で、評判がよかったという。祖父母との一緒の生活は、1936(昭和15)年の冬に夫妻が故郷の寧武へ帰るまで五年あまり続いた。

李献瑞さん。李さんの自宅にて。(太原,2001年)

李献瑞さん。李さんの自宅にて。(太原,2001年)

当時、小学生だった李さんは、教科書の中に記されている英国とのアヘン戦争やロシアの南下、日清戦争などによって、祖国が列強によって蝕まれてきた歴史を知った。父や祖父母は、オランダなどの”中国よりずっと小さい国”にまで祖国が蝕まれている現状を幼い李さんに聞かせた。祖国を憂う大人達の会話を聞くたびに、李さんは子供心にも「中国は将来必ず強くならなければならない」と感じた。

1936(昭和11)年の冬、祖父は閻錫山に暇乞いをして職を辞し、故郷の寧武へと帰ることになった。列車がなかったので、祖父母は家財を積んだトラックに乗って帰っていった。冷たい北風が吹くなか、「行かないで」とすがる李さんに、祖父母は「生活が苦しくなってきたから仕方がないんだよ」と諭した。まさかこれが祖父母との最後の別れになるとは、まだ当時小学生だった李さんに予想できるはずもなかった。

戦争の勃発
1937(昭和12)年7月、日中両軍の間で戦争が始まった。日本軍は破竹の勢いで華北東部を平定。ついで山西省に矛先を向けた。日本軍の山西侵攻に前後する8月の終わり、山西省の政府機関関係者に対する避難勧告がなされた。

この時、李さんは小学校の四年生を終え、中等部(日本の中学校に相当)に進学する事となっていた。同じく姉も小学校を卒業し、太原市内でも有数の平民中学校の試験に合格して9月から進学することとなっていた。しかし、太原からの避難によって進学をあきらめなくてはならなくなった。

李さん一家はまず、太原の南西約百キロの介休県に避難することにした。母(李さんにとっては義理の母)の実家が県内にあったからである。その後、当時、太原綏靖公署少将参事の職にあり、省内の匪賊討伐のために編成された隰県大麥郊特設保安隊の隊長を兼任していた父のもとへ行くことになった。介休県から西へ約百キロの隰県へと向かった。

隰県に到着した李さん一家は、父とともに辛亥革命に参加し、義兄弟の契りを結んでいた国民政府中央参事の王承斎さんの家へ一時避難した。そののち、王さんの紹介で隰県の西坡底村(*1)に避難した。この時点で、父も王さんも戦争が長期化するとは思っておらず、李さんも一時的な避難のつもりで、戦争が終結すればすぐにでも太原に戻れるものと思っていた。しかし、北では9月中旬に大同、11月初旬に忻口が陥落し、東では10月下旬から娘子関から日本軍の侵攻を受け、戦争終結は遠のくばかりか、山西そのものが日本軍に占領されてしまう形勢になってきてしまった。

戦火が近づき、一行はさらに南下することにして、李さん一家は、隰県からさらに西南に約三十キロのところにある大寧県曲娥鎮に避難することになった。曲娥鎮には王さんの実家があったからだ。この時、父と王さん一家、山西政法学院の馮倫院長一家も一緒に避難することになった。一行は日本軍を避けるため山道を歩くことにした。李さんの妹と弟(2人とも異母児)はまだ幼くて三十キロもの山道を歩けない。驢馬の上に篭を載せてその中に入れて出発した。十四歳の李さんは「徒歩組」に入れられた。もちろん最年少だ。冬の山道を三十キロ。小学生にとってそれは途方もない距離に感じた。

李さんは、丸太棒のように重くなった足を引きずりつつ歩き続けた。そして大寧県に近づくと、後ろから大砲の音が聞こえてきた。隰県の南の午城鎮で、中国軍と日本軍の大規模な戦闘が起きたのだ(*2)。一行は背中に砲声を聞きながらの避難行となった。

やっとのことで大寧県に到着した。李さん一行は、県城内にある「騾馬店」という騾馬や馬夫を泊める旅館に投宿した。すでに祖父母のいる寧武も、故郷の太原も日本軍の手におち、年は明けて1938(昭和13)年の3月になっていた。

(*1)各種史料では、閻錫山ら政府高官が滞在していた村の名前として西坡底が確認できる。ただし現在は隰県に「西坡底」という名前の村はない。
(*2)牛城鎮での戦闘は、古代から「兵家必争」の地と言われてきた靈石県南西部、汾西県との境にある韓信嶺で、衛立煌将軍の中央第十四集団軍と北支第二十師団・第百八師団が激突した戦闘。2月24日から激戦が十日以上続いた。

悲嘆にくれる父
大寧県に到着して数日後、外出していた父がはたから見ても分かるぐらい落ち込んで帰ってきた。理由を聞くと、親友の張培梅さんが自殺したという。

張さんは父とともに辛亥革命に参加し、義兄弟の契りを結んでいた親友。かつて父が天津租界第二区主任を務めていたのも、張さんが天津市長を務めていて、彼の補佐役として父を引っ張ってくれたからだ。書をたしなんでいて、家には父のために書いてくれた彼の書が何幅もあった。

張さんは、戦争が始まってからは特設された第二戦区執法総監(日本の軍憲兵司令官にあたる)の任にあった。聞くところによると、日本軍が臨汾攻略に策応して閻錫山の退路遮断を目的に隰県、吉県へと侵攻してきた2月下旬、第十九軍の軍長である王靖国将軍は隰県で敗退し、独断退却した(このとき閻錫山は臨汾に所在)。このため、執法総監だった張さんは、敵前逃亡と抗命の罪で、王将軍を軍法に照らして厳重に処罰しようとした。しかし、閻錫山がこれを許さなかったため、行く末を悲嘆した張さんは、隰県の西坡底で大量の阿片を口から飲み込んで自殺を図ったのだという。当時山西省政府主席で親友の趙載文さんが急いで解毒剤を飲ませようとしたが、張さんは頑として飲もうとしない。手で口を無理矢理開かせて阿片を吐かせようとしたが、喉元まで上がってきてはまた飲み込むの繰り返し。急いで自動車に乗せて大寧県政府の前まで運んできたときはもう手遅れだったそうだ。

再び西坡底へ
その後、王さんの実家のある曲娥鎮に数日滞在したのち、李さん一家は隰県の西坡底に戻ることとなった。王さんと馮院長の両家族はさらに西へ黄河を越えて陝西省に入り、西安まで避難するという。同行してきた祖父の長男家族も、黄河を渡って甘粛省に避難するという。しかし、李さん一家十数人がこれ以上移動するのは経済的に困難だった。午城鎮の戦闘後、日本軍は臨汾のほうへ戻り、隰県に戻っても安心できるようだったので、父の部下がいる隰県に戻ることとなった。(*3)

大寧県を出発して、隰県の午城鎮付近を流れる听水河にさしかかった際、十数体ほどの死体や馬の死骸が河原に横たわっていた。午城鎮の戦闘に巻き込まれた遺体だった。なぜか死体はみな裸だった。李さんは、生まれて初めて見る多くの死体に、戦争の悲惨さを感じさせられた。

無事、隰県の西坡底に戻った李さんは、ここに数ヶ月滞在することになる。西坡底滞在中、李さんは毎日村の子どもたちと遊びながら、いろいろな抗日歌を憶えた。現在の中国国歌の基になった「義勇軍行進曲」や、廬溝橋事件時の中国第二十九軍の軍歌「大刀行進曲」などだ。また、満州の日本侵略を背景にした「放下イ尓的便子」などの抗日劇も見た。この時、隰県は抗日活動が盛んだったようだ。西坡底に戻ってしばらくすると、祖父の長男が避難先の甘粛省から手紙をよこしてきた。手紙には李さんの大好きな祖父母の死が記されていた。

(*3)李さんの父は辛亥革命に参加した偉勲のある人物だったが、閻政権では政治的に恵まれなかったようだ。経済的に疎開生活もままならず、やむなく太原に帰郷した原因もそこにある。詳しくはこちらのコラムを参照。

大好きな祖父母の死
二年前の冬、七十歳になった祖父は一切の公務から離れて慎ましい生活を送っていたが、翌年の1937(昭和12)年の日中開戦で寧武にも戦火が及んできた。10月2日、日本軍が寧武を占領。すると日本軍は5日から13日の間に、寧武県城内で虐殺事件を起こしたという(*4)。その時日本軍は住民のなかの男性を連れだし、県城の城門前に集めると、群衆に向かって機関銃を掃射したという。この時、祖父の李臻さんも城門前に連行されて射殺された。夫の死を知らされた祖母は悲嘆し、自宅にあった自家製の黒酢の大がめに頭から突っ込んで自殺してしまったという。

(*4)李さんの祖父も巻き込まれたと思われる寧武での事件についてはこちらのコラムを参照。

暇乞い
1938(昭和13)年の初夏、李さんの父は、軍・政府のすべての役職を辞め、太原に戻ることに決め、閻錫山に暇乞いをした。閻錫山からの許可が下りると、李さん一家はさっそく太原に戻ることとなった。しかし、この時、隰県には抗日運動の中核となる青年幹部を養成する民族革命大学があった。抗日活動の盛んな隰県ですっかり抗日愛国思想に感化された李さんは、父に「入学して抗日運動に参加したい」と懇願した。しかし父は、「君はまだ十四歳で小学生なのだからあきらめなさい」と言う。父の言葉に李さんも断念せざるを得なかった。

隰県を出発するに際し、父の部下たちが「あなたは暇をもらったとはいえ高級幹部なのだから日本軍に見つかったら何をされるか分からない」と、日本軍の配備状況や安全な避難路などを検討してくれた。一家はひとまず太原南西約百キロの汾陽に向かい、そこから様子を見てから太原に戻ることとなった。

汾陽は天主教の発行する許可書がないと入城が許されなかった。そのため、県城内の教会で牧師を務めている父の友人に事前に連絡をとった。そして李さん一家が到着すると、城外まで許可書を持って来てもらった。牧師は李さん家族に向かって、「城内に入るときは必ず日本兵におじぎをして、何か聞かれても自分が対応するからしゃべらないように」と言った。李さんの姉は日本兵の暴行を恐れ、顔を炭で汚して老婆のような格好をしていた。

入城のため、城門までやってくると、城門には日本兵が小銃をもって立っていた。李さんは初めて見る日本兵に緊張しながらぎこちなくおじぎをして、無事城門を通過した。

教会に着いて一同皆ほっと一安心した時、牧師が李さんに向かってこう言った。

「私が一番心配したのは君だよ。なぜなら君は誰が見ても小八路(シャオパールー)のようだからね」。

太原への帰郷
太原に向けて出発するまで、李さん一家は、二カ月か三カ月の間、この天主堂に寝泊まりさせてもらった。

李さんは汾陽にいる間、何回か一人で外出した。外出の際は父たちが「隰県で歌っていた抗日歌はもちろん、今までどこにいたか何をしていたかも絶対に話してはいけない」と言う。地元の住民に李さん一家の素性がすぐばれてしまうからだ。ついつい口ずさんでしまう抗日歌をぐっと抑えて外出する。外に出て町の様子を見た感じでは、日本軍が占領した当初に避難していた人たちも徐々に戻り始め、混乱も収まりつつあるように見受けられた。

この間、父は太原にいる友人などに手紙を出して太原市内の情報を集めていた。また、太原入城の際には良民証が必要だったため、牧師を通じて入手した。良民証を入手すると、いよいよ太原に戻ることとなった。まず平遥に向かい、そこから列車に乗って太原に戻ることになった。

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初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000008.html

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  1. 中国山西大同 陈尚士

    李献瑞先生(一)
    土八路译自日本网络
    http://shanxi.nekoyamada.com/
    李献瑞先生出生于政府高官之家,其祖父和父亲参加了辛亥革命。芦沟桥事变爆发后,他们离开了太原,后撤疏散于介休、隰县、大宁县。同年秋,日军占领宁武之际,其祖父母遭受了死亡的惨剧。1938年秋(昭和13年),其父辞退要职,举家从疏散地返乡,回到了太原。可是,自家的住宅已被傀儡政府接受了。初中毕业后,他在太原日语专科学校学习日语,后来就职于日本投资的华北氮肥股份有限公司,一直到战争结束。
    李献瑞先生的生平
    李献瑞先生于民国14年(1925年、大正14年)旧历11月11日,出生于山西省太原市,他是其父李成林先生(别名李树森、当时46岁)的第四个孩子(三儿子)。其父李成林与其母方的祖父李臻,早年一起参加了辛亥革命,都是著名的人物。其父当时担任陆军老2团第1营的营长(大队长),所指挥的第1营,在后来的抗战中,名噪一时。据说,战后担任国防委员会副主席的傅作义,当时作为排长(小队长)就隶属于其父麾下。
    当时,李先生一家住在太原城内,就是现在位于旧市街的、山西省博物馆第一部旁边的新城南街,他们家房子华丽,过着富裕的生活。与之相邻而居的是其祖父母李臻夫妇。祖父李臻,当时60来岁,是山西省最早加入中国同盟会的会员,是清末具有留学日本经历的知识分子,是当时就职于山西省政府参事的政府高官。
    李先生3岁时,自己的生母去世了,父亲再婚。住在隔壁的祖父母,格外疼爱自己女儿最后生下的幼小的孩子,是不是因为李先生母亲去世的打击呢?就连李先生身体变弱这件事,也成了祖父母担心的理由之一。
    告别了与祖父母的一起生活
    由于李先生父亲担任天津租界奥地利第2区主任这层关系,他在4—5岁这一期间是在天津度过的。后来回到了太原,进入小学读书。在李先生6—7岁的时候,全家搬到了本城一个叫做“一人巷”的地方居住,就在现在的太原市内柳口北侧一带。这个时期的李先生在山西实验小学校读书,当时,即使在全国,该校也是以教育水平最高而自豪的学校。尽管在本太原城内,可是从搬家后的新居跑校,路程还是有些远,李先生决定住在祖父母家里。祖父母非常慈祥,特别对死去母亲的体弱的李先生关爱有加。祖父母对左邻右舍也特别亲切,据说誉满街巷。李先生与祖父母的共同生活持续了5年多,一直到1936年(昭和15年)冬,祖父母夫妇二人回归故乡宁武时为止。
    当时还是小学生的李先生,知道了记载于教科书中的、与英国进行的鸦片战争;知道了俄罗斯南下;知道了由于甲午战争等造成的、祖国一直被列强侵蚀的历史。父亲和祖父母告诉幼小的李先生,祖国被荷兰等比中国小得多的小国侵蚀的现状,李先生每当听到大人们谈话时的忧国忧民,在其幼小的心灵里就感到了“中国将来一定要变得强大!”。
    1936年冬(昭和11年),祖父向阎锡山请假辞职,决定回归故乡宁武。因为那时没有火车,祖父母是乘坐在装满家财的卡车上回去的。在寒冷的北风中,李先生纠缠着祖父母“别走!”,祖父母对他晓谕以理:“光景难过起来了,没办法呀!”当时还是小学生的李先生,万万也没有想到这是与祖父母的最后诀别。
    战争的爆发
    1937年7月(昭和12年),中日两军之间开始了战争,日军以破竹之势平定了华北东部,接着把矛头指向了山西省,在日军相继进攻山西的8月底,山西省政府对工作人员发布了避难劝告书。
    这时,李先生已经完成了小学四年的学业,进入了高小部(相当于日本的初中)。他姐姐也小学毕业了,他姐姐通过考试,从9月起就要进入平民中学读书,这所学校在太原市内也是屈指可数的,可是由于要离开太原去避难,也不得不打消了继续学习深造的念头。
    李先生一家先是决定去太原西南约100公里的介休县避难,因为母亲的娘家在县城里(对于李先生来说是义母)。当时,李先生的父亲任职于太原绥靖公署少将参事,还兼任隰县大麦郊特设保安队的队长(这是为了讨伐省内土匪而编成的),后来又决定去父亲那里避难,于是从介休出发,向西奔向100公里远的隰县。
    到达了隰县的李先生一家,暂时在王承斋先生家避难,王承斋为国民政府中央参事,曾经与李先生的父亲一起参加了辛亥革命,是换过贴子的结拜弟兄。后来经王先生的介绍,又去隰县的西坡底村(*1)避难。这一时期,李先生的父亲以及王先生都没有想到战争会长期化,李先生本人也做的是暂时避难的打算,认为战争一结束,或许马上就能返回太原。然而在北线,大同于9月中旬陷落,忻口于11月上旬陷落;在东线,从10月下旬起,就受到来自娘子关日军的攻击,不但战争的结束遥遥无期,而且形势发展到了整个山西将被日军占领的境地。
    战火在逼近,他们一家决定继续南下,一行人决定去隰县西南约30公里处的一个叫做大宁县曲娥镇的地方避难,因为王先生的父母住在曲娥镇。一行人为了躲避日军,决定行走山道。李先生的妹妹和弟弟(这两人为同父异母姊妹)还年幼,走不了远达30公里的山道,于是就把他们放入篓中,驮在驴背上出发了。14岁的李先生被编入了“徒步组”,当然它的年纪最小,大冬天行走在30公里远的山道上,对一个小学生来说,感觉到那是走不完的路程。
    李先生一边拖着像两条像木棒似的沉重的双腿,一边不停地行进。就这样一接近大宁县,就听到了由后边传来的大炮声。在隰县南边的午城镇,中国军队与日军发生了大规模的战斗(*2),一行人一边听着背后的炮声,一边行走在避难的路上。
    李先生一行好不容易到达了大宁县,投宿于县城内一个叫做“骡马店”的、留住骡马以及马夫的旅馆,他祖父母所在的宁武以及故乡太原已经陷落于日军之手。过了大年就是1938年(昭和13年)的3月了。
    (*1)在各种史料里,作为阎锡山等政府高官逗留的村庄的名称,是能够确认“西坡底”这个村子的。但是,现在隰县没有叫“西坡底”名称的村子。
    (*2)发生在午城镇的战斗,从2月24日起,激战持续了10天以上。位于灵石县西南、与汾西县接壤的韩信岭,从古代起就一直被称作“兵家必争”之地,卫立煌将军的中央第14集团军与日军北支那第20师团、第108师团,在此发生了激烈的战斗。
    日夜悲叹的父亲
    到达大宁县数日后,外出的父亲回来了,从外观就能看出父亲心情沮丧,一问理由,说是他的亲密朋友张培梅先生自杀了。
    张培梅先生与其父亲一起参加了辛亥革命,是换过帖子的结拜弟兄。其父以前担任天津租界第二区主任,也是因为张先生担任天津市长,作为市长的辅佐官而拉拢提携的。张先生爱好字画,李先生家里就有几幅张先生为其父亲制作的字画。
    战争开始后,张先生就任特设的第二战区执法总监(相当于日军的宪兵司令官)。据说,日军策应攻略临汾,以截断阎锡山退路为目的,在向隰县、吉县进攻的2月下旬,身为19军军长的王靖国将军败退于隰县,王是擅自退却的,为此,身为执法总监的张培梅先生,要以临阵逃跑和抗命之罪,将王将军对照于军法,以与严惩。因为阎锡山不容许张这样做,悲叹(军队)前途的张先生,在隰县的西坡底吞下了大量的鸦片,企图自杀。当时张先生的亲密朋友、山西省政府主席赵戴文急忙让他喝解毒剂,张先生断然拒绝,宁死不从,尽管用手强行扳开其嘴巴,使其吐出鸦片,可当鸦片上升到喉咙时,他又再度咽下,反复了多次。等到急忙乘上汽车,运到大宁县政府前面时,据说救治为时已晚。
    再次奔向西坡底
    李先生一家在曲娥镇的王先生父母家逗留了数日之后,决定返回隰县的西坡底。据说王先生和冯院长这两家人要继续向西,渡过黄河,进入陕西省,去西安避难。据说同行而来的李先生的大叔一家(祖父的长子),也要渡过黄河去甘肃省避难。可是李先生一家十数口人再往远走的话,在经济上是困难的。午城镇战斗后,日军返回了临汾方面,李先生他们即使返回隰县也是安全放心的,所以他们要返回父亲部下所在的隰县。(*3)
    他们从大宁县出发,在到达了流经隰县午城镇附近的听水河时,看见有十数具尸体以及死亡的马匹横躺在河滩上,那是卷入了午城镇战斗的遗体,死者为什么都是赤身裸体呢?这么多的尸体,是李先生有生以来头一次看到的,这迫使他感到了战争的悲惨。
    李先生平安无事地返回了西坡底,他要在这里滞留数个月,在西坡底逗留期间,李先生每天一边跟村子里孩子们玩耍,一边学会了各种各样的抗日歌曲。歌曲有成为现在中国国歌基调的“义勇军进行曲”,有芦沟桥事变时,中国第29军的军歌“大刀进行曲”等。另外,还观看了以日本侵略满洲为背景的“放下你的鞭子”等抗日剧目。这时,隰县的抗日活动好像很活跃,很积极。回到西坡底没有多久,李先生的大叔从避难地的甘肃省寄来了书信,信中记述了特别喜爱李先生的祖父母的死讯。
    (*3)李先生的父亲在参加了辛亥革命,是那时立下大功劳的人物,可是他在阎锡山的政权里,政治上似乎并没有得到实惠,疏散避难时,经济上也不如意,不得已而返乡于太原的原因也在于此,详细情况参照其他文章。
    可爱的祖父母之死
    两年前的冬天,年已70岁的祖父,远离一切公务,过着朴实的生活。在第二年,即1937年(昭和12年),日中开战,战火也波及到宁武,10月2日,日军占领了宁武,接着,日军在5日到13日这一期间,在宁武县城内制造了屠杀事件。(*4)据说当时日军将居民中的男性带走,集中在县城的城门前,用机关枪向群众扫射。当时祖父李臻也被带到城门前射杀了。知道到了丈夫死讯的祖母,悲叹不已,头朝下栽入自家制作黑醋的大缸里自杀了。
    (*4)一般认为李先生祖父也被卷入了宁武事件,关于这件事,请参阅其他文章。
    请假
    1938年(昭和13年)初夏,李先生的父亲决定辞去军队和政府里的一切职务,返回太原,于是向阎锡山请了假。来自阎锡山的准许一下来,很快就决定了李先生一家返回太原。不过,这时的隰县成立了培养青年干部的民族革命大学,成了抗日运动的中心,在抗日活动高涨的隰县,完全被抗日爱国思想感化了的李先生,向父亲恳求说“我想上这所大学,参加抗日运动!”可他父亲说“你才14岁,还是个小学生,打消这个念头吧!”由于父亲的劝说,李先生也不得不死了这个心。
    离开隰县的时候,父亲的部下有些担心,“虽说您请了假,可因为您是高级干部,如果被日军发现了,不知会遭到怎样的处置?”于是商讨了日军的配备情况以及安全的避难路线,决定的方案是,暂且去距太原西南约100公里的汾阳,在那里观察情况,然后再返回太原。
    如果没有天主教颁发的许可证,日本兵是不容许进入汾阳城的。为此,其父事先与其父亲的朋友—-在县城教会里担任牧师的一个人取得了联系,而且,李先生一家一到达汾阳城外,就让他把许可证送来。牧师嘱咐李先生家人,“进城的时候,一定要给日本兵鞠躬行礼,不管对方问什么,由我来对付,你们不要多言!”李先生的姐姐害怕日本兵的暴性,就用炭灰污黑了脸,打扮成了老妇人的样子。
    为了进城,他们来到了城门下,城门下站着手持步枪日本兵,李先生初次见到日本兵,心里发慌,紧张得很,一边笨拙生硬地行礼,一边平安地通过了城门。
    到达教会后,大家都长出了一口气,略为放下心来的时候,牧师对李先生说:“我最担心的是你呀!为什么呢?因为无论谁看,你都像个小八路!”
    回归家乡太原
    李先生一家在向太原进发之前,一直在这个天主教堂住了两个月或三个月之久。
    李先生在汾阳期间,有几次一个人外出,外出的时候,父亲对他说;“在隰县唱的抗日歌曲自不必说,就连以前在哪儿、干什么也绝对不能讲!”李先生一家的来历很快就暴露于当地的居民,李先生猛然收住不知不觉地低声哼出的抗日歌曲才外出,到了外边看到了街景,让他感受到的是,当初日军占领时,外出避难的人们也开始不断地返回,混乱的状况正在好转。
    前些时候,父亲给太原的朋友去信,收集太原市内的情报,在进入太原城市时,必须要有良民证,为此又通过牧师弄到了证件,一拿到良民证,进而决定要回太原了,他们先奔向平遥,在那里乘上火车返回了太原。

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