黄樵松将軍の塑像


太原近郊の牛駝塞烈士陵園にて。1994年。

太原近郊の牛駝塞烈士陵園にて。1994年。

国府軍第三十軍の軍長代理の任にあった黄樵松将軍は、牛駝塞戦役を前にした1948年(昭和23年)夏、己に大勢を知り中共への内応を画策したが、隷下の第二十七師の戴師長に察知され逮捕された。南京に送致された黄は処刑された。中共は黄の功績をたたえ、牛駝塞烈士陵園に塑像を建立している。
国共内戦も終盤にさしかかると、国府軍将帥の中から「起義」という名による投降や寝返りが相次いだ。山西軍参謀長の趙承綬は晋中戦役で捕虜となったのち、山西軍に対して起義を働きかけた。終戦直後に日本軍側と残留について協議した趙端ら多くの山西軍高官が太原陥落までの間に起義している。
日本人が最後まで投降しない信頼できる戦士であるとは、日本人を残留させた閻錫山が自身で語った話だ。大和魂と呼ぶべきか、内戦馴れした中国人に対してウブであったというべきか。どちらにせよ、閻の望み通り、今村方策司令以下、残留将兵の多くは断固として閻錫山と運命をともにすることを決していた。しかし一方で、中国事情に明るい民間人側では、そう単純ではなかったようだ。民間人残留の首謀者である永富博道は、自著『白狼の爪痕』のなかで、中共への投降を考慮していたことをうち明けている。城野宏と永富との間では、残留日本人の生命を守るため、引き時を見計らって永富に一任することになっていたという。

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000230.html

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