李献瑞さん [2]


太原での生活の再開
平遥から列車に乗って李さん一家は太原に無事到着した。しかし、一年ぶりに戻った一人巷の自宅は、親日新政府に接収され、日本人が住んでいた。昔ながらの四合院建築の李さんの家に、北側の部屋には滝井という商売人が、東側には鉄路局の技師と日本領事館のタイピストの夫婦が、西側にも日本人が住んでいた。

父は自宅を取り戻すべく、家の権利書を持って、太原市政府の斡旋科に何度も相談しにいった。父が市政府と折衝している間、李さん一家は現在の府西街のあたりにあった友人の印刷工場の裏手にある家に住まわせてもらった。何度も交渉した結果、結局西側に住んでいた日本人が引っ越し、一家は空いた南側と西側のふた部屋に”入居”することとなった(*1)

太原に戻った李さんは、市内の明原小学校に入学した。そして、1940(昭和15)年夏、十六歳になった李さんは小学校を卒業し、中学校に進学した。進学先は現在も山西省博物館第一部の北に残る太原中学校だ。

(*1)四合院建築は、四角形の「院子」と呼ばれる中庭を囲んで、北側に南面して「正房」ないし「上房」と呼ばれる母屋が、東側に西面した「東廂房」、西側に東面した「西廂房」、南側に母屋に向かいあった「倒座」ないし「前房」、以上の四棟で構成される。このうち、母屋がもっとも上等で、順に価値と家賃が下がる。すなわち、李さん一家は、自宅の最も上等な二棟をとられて、悪い二棟に十数人が押し込まれたことになる。

中学校生活

李献瑞さん。中学生の頃。

李献瑞さん。中学生の頃。


中学校では一~二人の日本人教師が配属されていて、日本語の授業がおこなわれていた(*2)。最初に李さんが習った日本語の教師は、早稲田大学を卒業した四十代中頃のHという教師だった。彼は予備役の将校だったようで、記念行事のあるときなどは陸軍少尉の襟章をつけた軍服を着用して学校に現れた。

中学校で李さんが好きだった科目は体育と音楽で、日本語に興味はなかった。Hは教科書の内容をただしゃべるだけで、授業も全くつまらないものだった。そのため李さんは日本語の授業中はまじめに講義を聞かず、冗談を言ったりしてクラスの皆をよく笑わせていた。

ある日、日本語の授業中、いつものように冗談半分に習いたての日本語をつかった。消しゴムを手に持って、「日本の消しゴムはとってもとってもワルイ」と言うと、皆どっと笑った。すると、「日本はとても悪い」と聞き間違えたHがかんかんになって怒りだした。「この野郎何を言ってるんだ!」と、持っていた木棒で李さんを何度も殴った。

また、あるときには、学校内での手紙のやりとりが抗日活動に間違われて、数人の生徒が憲兵隊に連行される事件も起きた。学校内で人気のある女学生に対して、数人の男子生徒がラブレターを出し、頻繁に手紙のやりとりをしていたのが誤解されたのだった。

(*2)日本語の授業は1940(昭和15)年9月の新学期から開始された。李さんの中学校入学と同時に始まったことになる。

神田先生との出会い
中学校に入学して一年が経ち、李さんは二年生に進学した。この時、李さんは、臨汾師範学校から転任してきた神田秀夫先生に出会う。東京帝国大学を卒業した神田先生は、戦後、武蔵大学の教授を務め、後に国文学者として大成される人だった(*3)

神田先生の授業は、教科書の内容をただしゃべるだけのHに比べて、とても丁寧だった。日本語の文法はもちろん、外来語の由来なども丁寧に説明してくれた。また、中国の故事などもよく引き合いに出し、興味の尽きない授業だった。神田先生は授業中、生徒に対してよく質問を出した。生徒が質問に答えられると、寡黙な神田先生は一言「よし」と言ってうなずく。神田先生の授業を受けて、李さんは日本語に興味を覚えた。

ちょうどそのころ、李さんの家庭の経済状況は悪化していた。中学校卒業後はすぐにでも仕事に就かなくてはならず、良い仕事に就くために日本語が必須だったのも手伝った。李さんは、以前とはうって変わり、冗談を言うこともなくまじめに授業を受けるようになった。そして神田先生が質問を出すときは真っ先に手を上げて答えるようになった。そのため、中学校を卒業する際、総合の成績では普通だったが、日本語と歴史と体育の三科目は非常に良い成績だったという。

(*3)
神田秀夫先生は、1913(大正2)年12月生まれ。武蔵高校より東京帝国大学国文科を卒業、同大学院在学中に在外派遣に応じて中国大陸に渡り、臨汾師範学校、太原中学校、太原日語専科学校で教鞭に立った。李さんが、初めて神田先生の授業を受けたとき、先生は二十八歳の若さだった。1946(昭和21)年に帰国後、石田波郷、西東三鬼と現代俳句協会を設立し、俳句評論に筆をふるった。その後、古代文学研究者として一家をなす。俳句評論家、国文学者で武蔵大学教授を務めた。著書に全二十巻の『図説 日本の古典』(集英社)などがある。

太原日語専科学校への入学
1943(昭和18)年7月、李さんは太原中学校を卒業した。李さんは、高等中学校を受験したかったが、家の経済状況はそれを許さなかった。すぐにでも働きに出て家計を助けなければならないほど、経済的に苦しくなり始めていたのだ。しかし、どうしても勉強を続けたかった李さんは、ちょうどこの年の秋に開学する予定の太原日語専科学校で学びたいと親にうち明けた。神田先生が中学校からこの学校に移動され、実質上の責任者となっていたことも、この学校で勉強したいという気持に結びついた。すぐにでも働いてほしいという両親を「一年だけだから」と説き伏せた。そしてその年の9月、李さんは晴れて日語専科学校一期生として、修業一年の政経部に入学した(*4)

太原市内に今も残る太原日語専科学校の建物。西洋風の瀟洒なこの建物は、当時は二階建で戦後三階部分が増築されたという。現在は政治協商会議が使用している。(太原,2001年)

太原市内に今も残る太原日語専科学校の建物。西洋風の瀟洒なこの建物は、当時は二階建で戦後三階部分が増築されたという。現在は政治協商会議が使用している。(太原,2001年)

太原日語専科学校は修業一年の政経部と修業二年の師範部に別れており、学生は政経部十一人、師範部二十人の少数教育だった。全寮制で、宿舎費、食費、制服が支給された。李さんは日本の大学生が被るような学帽と学制服に憧れたが、制服は濃緑色の”国防服”でがっかりしたのを今でも憶えている。太原中学校からは李さんを含めて三人が入学した。神田先生は、開学と同時に学校の教務長の職に就かれた。他に太原中学校からは、北京出身の中文の羅先生が来ていた。

学校の一日は朝六時半に起床、朝食をとった後、授業が始まる。八時から十二時まで、すべて日本語で一時間半の授業が二限あり、途中三十分間の休み時間には、校舎の前の池の周りでラジオ体操を行った。昼食の後、二時からは学校内の清掃や菜園での農作業などといった活動が行われた。これは「勤労奉仕」と呼ばれた。のち、年末頃から二十四歳くらいの現役の陸軍少尉がやってきて、池の周りを隊列を組んで歩く「教練」をやらされるようになった(*5)

日本語の授業は学校を卒業後、二等通訳試験に合格できるぐらいのレベルを目指したものだった。神田先生以外に、日本人教員で李さんの記憶にあるのは、鹿児島県出身の四十歳ぐらいの青崎速先生、日本語の他に音楽も教えていた小川太郎先生などだった。青崎先生は厳格な性格だったが、授業外では学生を自宅に招いて可愛がってくれた。政経班は音楽の授業がないので、小川先生とはあまりおつきあいがなかったが、楽観的な性格の方で好印象を与える方だった。一方で二人の先生とは反対に、Sという教師は社会的関心事を持つ男子学生をいじめた。李さんも標的になった。

(*4)太原日語専科学校は、山西省公署教育庁と華北日語普及協会によって、現在の政治協商会議山西省委員会のある東緝虎営三号に設立された。李さんによれば、専科学校の建物は、その前は太原憲兵隊が使用していたため、憲兵隊にちなんだ怪談話も学生の間にあったという。ちなみに太原日語専科学校は、「山西省立高等日本語専門学校」が正式名称だったと指摘する人もいる。
(*5)山西省公署の規定により、各学校の教職員と生徒は、週一日、勤労奉仕を行うことが義務づけられていた。また、専科以上の学校は毎週三時間、中学校は二時間、小学校は一時間の教練が行われ、女子学生には毎週二時間の救護訓練が行われていた。学校の成績も、各教科に教練の成績を足して平均して計算されるようになっていたという。

神田先生とのお付き合いと奥さんとの出会い
神田先生は、太原中学から入学した李さんたち三人の学生を可愛がってくれた。よく太原中学組の三人を日本人が経営する市内の喫茶店に連れていってくれた。コーヒーや、焼き五目めしなどに舌鼓をうった。学校の食事は、最初の頃は一週間のうちに小麦の饅頭が二回ぐらい出ていたのが、しばらくすると土曜の昼一回だけになり、あとは高梁麺などになっていた。だから外食はとてもうれしかった。

また、神田先生のご夫人にもよく自宅に招いていただいた。神田夫人は李さんたちを自宅に招くと、よく日本のもちやダンゴなどを食べさせてくれた。李さんは卒業後、在学中のお返しとして、頻繁に新鮮な卵を持っていったあげた。食料事情が急速に悪化していたときだから大変喜ばれた思い出がある。しかし残念ながらご夫人は、終戦を前にした1945(昭和20)年の5月か6月に肺病で亡くなられてしまった。

また、青崎先生もよく学生を自分の宿舎に招いて食事などをごちそうされていた。青崎先生には三人の幼い娘さんがおり、女子学生がまだ赤ん坊の娘さんを抱いて学校の庭を散歩している風景も頻繁に見られた。

奥さんの高飛龍さん。戦後しばらくして太原で撮影したもの。日語専科学校で知り合った二人は交際を続けて戦後めでたくゴールインした。

奥さんの高飛龍さん。戦後しばらくして太原で撮影したもの。日語専科学校で知り合った二人は交際を続けて戦後めでたくゴールインした。

ところで、李さんとよく一緒に神田家を訪問したのが、師範部に在学する高飛龍さんだった。彼女は太原女子師範中学を卒業して、妹の高鳳龍さんとともに師範部に進学していた。李さんより一歳年上だった。李さんは次第にこの女性に惹かれていく。神田夫人も、李さんに「二人はいつ結婚するのか?」と聞いてくる。のちに1947(昭和22)年、ふたりはめでたく結婚することになる。

社会への旅立ちと父の死
学校で学んだ一年間もあっという間に終わった。1944(昭和19)年8月、学校を卒業した李さんは社会にでた。ちょうどこの年の秋に父が亡くなった。六十六歳だった。隠居の身だったが、閻錫山の連絡役として活動していた。亡くなる半年前にも閻錫山と会っており、この際に中将に任じられていた。ちょうどこのとき、二兄の李応瑞さんは第二戦区司令長官部で、伝書鳩を扱う特殊通信隊の隊長として勤務していた。長い間離ればなれだった二兄の李応瑞さんが父に会えたのは幸いだった。病気になってからは太原で静養しており、二度ほど病院に行って注射を受けた。その後、どんどん病状が悪化して亡くなってしまった。多くの人は特務に毒を注射されたのだという。死後、国民政府より参事に列せられた(*6)。すでに日本の敗戦は一年後に迫っていた。

(*6)李さんの父は辛亥革命に参加した偉勲のある人物だったが、閻政権では政治的に恵まれなかったようだ。詳しくはこちらのコラムを参照。

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初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000009.html

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One thought on “李献瑞さん [2]

  1. 中国山西大同 陈尚士

    李献瑞先生(二)
    土八路译自日本网络
    http://shanxi.nekoyamada.com/
    重新开始了在太原的生活
    李先生一家从平遥乘上火车,平安地到达了太原,可是回到阔别了一年的一人巷一看,自家的宅院已被亲日的新政府接收了。李先生家的房舍一如原样,四合院建筑,正房住着一户叫做泷井的商人,东厢房住着铁路局的技师和日本领事馆的打字员夫妇,西厢房也住着日本人。
    李先生的父亲为了收回自家的住宅,带着房屋的产权证,到太原市政府的调解科商谈了几次,就在其父与市政府交涉期间,李先生一家住在了现在位于府西街附近的、他朋友印刷厂后边的房子里。几次交涉的结果,最后决定住在西厢房的日本人搬出,他们一家住进空着的南庭和两间西厢房(*1)。
    回到太原的李先生,进入市内的明原小学就读,就这样到了1945年(昭和15年)夏,16岁的李先生小学毕业,升入了中学,这所中学就是现在还存留于山西省博物馆第一部北侧的太原中学。
    (*1)四合院是由四栋建筑构成,包围着四角形的、被称为“院子”的里院。坐北朝南的主屋叫“正房”或“上房”,坐东朝西的叫“东厢房”,坐西朝东的叫“西厢房”,坐南朝北、与主屋相对的叫“倒坐”或“前房”。在这里边,正房最上等,往下的价值和房租渐次下跌。也就是说,李先生一家最上等两栋房舍被夺去了,十数口人被塞入最差的两栋里。(“译者注—译者为山西大同人,大同对四栋房子的称呼分别为:正房、东厢房、西厢房、南庭”。)
    中学生活
    中学校里配备着1—2名日语教师,进行日语教学。最初教李先生日语的教师是毕业于早稻田大学的、年纪在四十五、六岁的一个叫做H的教师,他好像是预备役的军官,在有纪念活动的时候,他总是穿着佩戴有陆军少尉领章的军服出现在学校。
    在中学,李先生喜欢的是科目是体育和音乐,对日语不感兴趣,H先生讲授的只是教科书内容,讲授的内容全是些枯燥无味的东西,因此,在上日语课时,李先生不太认真听讲,总是讲些玩笑之类的话语,经常逗得全班同学发笑。
    有一天,上日语课时,就像平常一样,李先生半开玩笑地应用了日语,他将橡皮拿在手里说,“日本的橡皮很坏很坏!”同学们哄堂大笑,而把这句话错听成“日本很坏!”的H先生勃然大怒,他手持的木棍,“你这小子在胡说什么?!”将李先生痛打了一顿。
    另外,某些时候,在学校内进行的书信交流也被误认为抗日活动,以致发生了几个学生被带到宪兵队的事件。在学校里,有几个男生给人气旺的女生发出了求爱书,被误解的原因就是由于频繁地交流书信造成的。
    (*2)讲授日语课始于1940年(昭和15年)9月的新学期,就在李先生进入中学的同时,开设了日语课。
    与神田先生的相遇
    进入中学过了一年,李先生就升为二年级学生了,这时,李先生遇到了从临汾师范学校调来的神田秀夫老师。毕业于东京帝国大学的神田老师,战后在武蔵大学任教,作为国文学者,他取得了巨大的成就(*3)。
    与只教授教科书内容的H老师相比,神田老师的课教得很认真,日语的语法自不待言,就连外来语的由来也作了详细的讲解。另外,还拿出中国的典故等加以引证,那是趣味无穷的讲课,神田老师在授课时,经常向学生们提出问题,学生回答问题后,沉默寡言的神田先生点头首肯,说一句“很好!”听了神田先生的讲课,李先生觉得日语很有趣味。
    正好在那个时候,李先生的家庭经济状况恶化了。中学毕业后,不尽快就业是不行的,要找到一份好的工作,必须会日语也很重要的因素之一。李先生与以前相比,判若两人,变得再也不开玩笑,而是认真地听课了,而且,神田先生提出问题的时候,他最先举手回答。因此,中学毕业的时候,虽然综合成绩一般,可据说日语、历史和体育这三科的成绩非常优秀。
    (*3)神田秀夫老师生于1913年(大正2年),起步于武蔵高中,毕业于东京帝国大学国文系。在该大学就读研究生期间,响应对外派遣的号召,来到中国大陆,当初,李先生受业时,神田老师还年轻,时年28岁。1946年(昭和21年)回国后,与石田波乡、西东三鬼成立了现代俳句协会,挥笔于俳句的评论。之后,作为古代文学研究者,自成一家。他以俳句评论家、国文学者执教于武蔵大学。著作有20卷的《图说日本古典》(集英社)等。
    就读于太原日语专科学校
    1934年(昭和18年7月),李先生完成了太原初等中学的学业,他想考取高等中学,可是家里的经济状况不允许,经济上已经开始困难起来了,到了必须尽快出去工作以补家计的境地。可是无论如何还想继续学习的李先生,恰好遇到太原日语专科学校准备在同年秋季开学,于是他坦率地向父母说出了自己想在该校读书的愿望。神田老师也调到了这所学校,成了实际负责人,这也拴住了他想在这所学校学习的心。“因为只有一年”他就这样说服了希望他尽快工作的双亲。就这样,李先生于那一年的9月,作为日语专科学校一期生,高高兴兴地入学,就读于修业一年的政经部(*4)。
    ( 这是现在留存于太原市内的太原日语专科学校的建物。
    具有潇洒的西洋风情的这座建筑,当时是二层建筑,战后加盖了第三层。
    现在政治协商会议还在使用着。太原2001年)
    太原日语专科学校分为修业一年的政经部和修业二年的师范部,政经部有11个学生,师范部有20个学生,都是小班教学,学生全部住校,还供给宿舍费、伙食费、学生服。李先生憧憬日本大学生穿戴的那些帽子和制服,可该校的制服是浓绿色的“国防服”,直到今天李先生还记得当时失望的心情。包括李先生在内,有三个学生来自太原中学。神田老师在开学的同时,就任学校的教务长,另外,学校还从太原中学调来了北京籍的中文老师罗先生。
    学校一天的生活,是早晨6点半起床,吃过早饭后,8点开始上课,12点放学。有两节为时90分钟的课程全部用日语讲授,中间是30分钟的休息时间,在校舍前边的水池周围做广播体操。午饭后,从2点开始,进行学校内的卫生清扫,以及在菜园进行农事活动,这个被叫做“奉献勤劳”。后来在年末的时候,一个看上去年纪大约24岁的陆军少尉来到了学校,在水池的周围组合队列,进行了徒步的“军事训练”(*5)。
    日语学习的目标是,学校毕业后,要能够达到二等翻译考试合格之类的水平,在李先生的记忆里,除了神田老师,日本人教员还有40岁左右的、鹿儿岛籍的青琦速老师,还有除了教日语、也教音乐的小川太郎老师等。青琦老师虽然性格严厉,可是课后却把学生请到自家,疼爱有加。政经班没有音乐课,所以李先生与小川老师没有太多的交往,不过小川老师以其乐观的性格给他留下了良好的印象。另一方面,与这两位老师相反,一个叫做S的教师欺负关心社会事务的男学生,李先生也首当其冲。
    (*4)太原日语专科学校经过山西省公署教育厅和华北日语普及协会的批准,设立于现在的政治协商会议所在地东辑虎营3号。据李先生讲,因为此前太原宪兵队使用过专科学校的建筑物,同宪兵队有关的鬼怪故事也在学生中间流传,顺便说一句,也有人指出,太原日语专科学校的正式名称是,“山西省立高等日本语专门学校”。
    (*5)根据山西省公署的规定,各学校的教职员工和学生,每周一天的奉献勤劳活动被定为义务。另外,据说专科以上的学校,每周军训3个小时,中学军训2个小时,小学军训1个小时,对于女学生每周进行2个小时的救护训练。学校的成绩也是在各科目加上军训的成绩后,再平均计算。
    与神田老师的交往、与夫人的相遇
    神田老师很疼爱由太原中学入学的李先生他们三个学生,经常带着他们三个人去市内日本人经营的饭馆,喝点咖啡,吃点什锦烧烤什么的,香得他们直吧嗒嘴巴。起初学校的伙食每周还能吃到两顿小麦馒头,可过了不久,就只能周六中午吃一顿,再往后就吃高粱面等饭食了。所以,去外边吃饭是件很高兴的事。
    另外,神田老师也让夫人经常把他们请到自家的住宅招待,他们一来,神田夫人就让他们饱餐一顿粘糕以及丸子等食品。李先生毕业后,作为在校时的答谢,频繁地给神田老师送去新鲜的鸡蛋。由于那时食品情况急剧恶化,他回忆起那些往事来,非常高兴。可遗憾的是,神田夫人就在战争结束前的1945年(昭和20年)5月或6月因肺病而去世了。
    另外,青琦先生也经常把学生请到自己的宿舍,招待以饭食。青琦先生有三个幼小的女儿,女学生还抱着他幼小的女儿在学校的操场上散步,这样的风景能够频繁地看见的。
    (这是李先生的夫人高飞龙女士,是战后吧就拍摄于太原的照片
    在日语专科学校相识的两个人,继续交往在战后顺利地结婚了。)
    另外,经常与李先生一起去拜访神田家的同学,是在师范部就读的高飞龙女士,她于太原女子中学毕业之后,与妹妹高凤龙女士一起进入师范部就读。高飞龙女士比李先生年长一岁,这个女性逐渐地喜欢起来李先生。神田夫人也向李先生问起:”你们两人什么时候结婚?”,在后来的1947年(昭和22年),两个人幸运地完婚了。
    动身走向社会与父亲之死
    在校学习的一年时间,转眼之间就结束了。1944年(昭和19年)8月,学校毕业的李先生走向了社会。正好在那年的秋天里,李先生的父亲去世了,享年66岁,其父虽然是隐退之身,但作为阎锡山的联络官还是进行了活动,就在死前的半年,还与阎锡山会面,那时其父被委以中将之衔,恰好在那个时候,李先生的二哥李应瑞先生,作为使用信鸽的特殊通信队之队长,供职于第二战区司令长官部。长期分散的二哥李献应先生,能够见到父亲是幸运的。其父生病后,就在太原静养,曾有两次去医院接受了注射,终因病情不断恶化而不幸去世。据好多人说,其父是被特务注射了毒药而死去的。去世后,国民政府将其父列入参事之行列(*6),这已经是临近日本战败之后一年的事情了。
    (*6)李先生的父亲虽然是参加辛亥革命建立了丰功伟绩的人物,可是在阎锡山政权里,在政治上好像没有被惠顾。详情请参照其他文章。
    (未完待续)

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