自願残留か軍命か―山西残留問題の争点


1945年(昭和20年)8月、日本政府のポツダム宣言受諾による無条件降伏という形で、八年に及ぶ日中間の戦いも幕を閉じた。現地日本軍は武装解除、民間企業は接収され、日本国籍の軍人および民間人は日本に帰還することとなった。ところが、山西省では最終的に五千六百人に及ぶ邦人が残留し、その後四年間の熾烈な国共内戦に参加する前代未聞の事態が生じた。山西残留事件である。

1949年(昭和24年)4月、中共軍の総攻撃によって太原が陥落。その際に捕虜となったと残留日本人兵士とされる。

1949年(昭和24年)4月、中共軍の総攻撃によって太原が陥落。その際に捕虜となったと残留日本人兵士とされる。

当時、中国に残留を希望する邦人は珍しくなかった。戦前の人は現代人よりも遙かに海外雄飛に対する心の壁が低く、居残って良い生活を維持したいという人は多かった。山西残留が特異なのは、その規模もさることながら、実質的な国軍の留用が行われたこと、現地の居留民が邦人社会を維持したまま残留したことである。

中共の脅威にさらされていた閻錫山は、終戦を機に邦人残留を企図する。残留を承諾した邦人戦闘員に対し、全員に将校待遇、三階級の特進、給与の高額支給、営外居住と妻帯の自由等の便宜を図ることを約束した。非常に魅力的であり、商売人やサラリーマンのほか、末期の現地召集が終戦で解除された人、自ら離隊した元軍人などの民間人が先を争って山西軍に入隊した。当初、山西省で残留を希望する邦人は、居留民を含めて三万人に上ったという。

邦人戦闘員は、契約期間が二年間と取りきめされており、条件が厚遇されていたことで明らかなように実態としては「傭兵」だった。ただ傭兵では誰も残らないから、当時は残留の理念として日本復興の礎になるといった「義勇軍」が叫ばれた。参加した人の心情もおおむねそうだった。健闘も空しく、四年後には中共に敗れる結末を迎えることとなったが、これら自由意志で残留した者だけであれば、山西残留は特異なトピックとして、人によっては誇らしい歴史の一コマとして記憶されたはずだった。ところが実際は違った。一部の現役将兵が自己の意志を曲げて残留を余儀なくされたからだ。

そもそも民間人で組織された部隊は、統制と戦力の点で現役将兵によって組織された国軍部隊と比較にならない。閻錫山は復員列車を止めるなどの妨害を行い、一万人規模の軍主力の残留を要求した。復員輸送を円滑に進めるための捨て石的存在として、軍の一部が残留せねばならないとされた。山西に残留した邦人戦闘員二千六百人のうち、軍出身の現役組は約半数を占めている。そして彼ら現役組の一部は帰国後、軍に騙された、売軍されたと主張した。国を相手取って訴訟も起こした。こうして山西残留は国軍の一大不祥事として知られることになったのである。

山西残留問題の争点は、現役組の一部が主張するように、現地除隊の事実について知らされていなかった、残留は自願ではなく軍命による、という主張の適否である。この点、国は現役将兵であっても残留した者は全員現地で除隊の手続きが取られたとしている。ようするに「自願残留」という見解である。残留が自願であるとすれば、山西に残留していた四年間は軍役に参入されず、その間の戦闘行為についても公務認定がなされない。生還者にとっては恩給が欠格になる場合があり、また戦傷による障害年金も受け取れない。戦死者の遺族にとっては遺族年金が受けられないという生活上の不利益を蒙る重大な問題であった。そして何よりも不名誉であり、戦死者は靖国神社に合祀されないという精神的苦痛も大きかった。

この点、個別に恩給や年金、戦死者の靖国合祀が認められたケースはあるが、それは役所末端での温情や手違い的な対応であり、総じて国は認めない立場を堅持している。昨年末には恩給不支給を争った行政訴訟の最高裁判決が下され、司法の場でも自願残留との見方が示された。

(写真左)澄田睞四郎中将。終戦時、第一軍司令官。終戦数ヶ月後に戦犯指定を受け、中国側の管理下で軟禁状態に置かれた。しかし外出等の自由は保障されており、軍事顧問役として作戦面で中国側に協力したことは本人も認めている。1949年(昭和24年)に包囲下の太原を飛行機で脱出し、帰国。残留への積極的関与は否定している。		 (写真中央)元泉馨少将。終戦時、歩兵第十四旅団長。残留の積極論者。残留日本人部隊である暫編独立第十総隊長に就任。1948年(昭和23年)、晋中戦役にて戦傷し、自決した。		 (写真右)今村方策大佐。終戦時、独立混成第三旅団高級参謀。今村均大将の実弟。元泉将軍亡き後の暫編独立第十総隊長に就任。1949年(昭和24年)の太原陥落まで残留日本人部隊を率いた。中共軍に降伏後、服毒自決した。

(写真左)澄田睞四郎中将。終戦時、第一軍司令官。終戦数ヶ月後に戦犯指定を受け、中国側の管理下で軟禁状態に置かれた。しかし外出等の自由は保障されており、軍事顧問役として作戦面で中国側に協力したことは本人も認めている。1949年(昭和24年)に包囲下の太原を飛行機で脱出し、帰国。残留への積極的関与は否定している。
(写真中央)元泉馨少将。終戦時、歩兵第十四旅団長。残留の積極論者。残留日本人部隊である暫編独立第十総隊長に就任。1948年(昭和23年)、晋中戦役にて戦傷し、自決した。
(写真右)今村方策大佐。終戦時、独立混成第三旅団高級参謀。今村均大将の実弟。元泉将軍亡き後の暫編独立第十総隊長に就任。1949年(昭和24年)の太原陥落まで残留日本人部隊を率いた。中共軍に降伏後、服毒自決した。

1945年(昭和20年)末から翌年3月までに進められた「特務団」と呼ばれる残留部隊の編成、その後に異常を察知した南京の総軍司令部から参謀が派遣され、正式に編成中止が命じられてなお人員が山西軍に留用された経緯については複雑で分かりにくい。澄田軍司令官や山岡軍参謀長の言い分に沿った国の見解は自願残留であり、現役組は軍命があったから自願ではないという。残された文書史料は前者を示し、残留将兵の証言は後者で一致している。どちらが真実なのか。結論から言えば、双方ともに都合の良い部分しか言っていないのである。すなわち、真実は両者の言い分が交わる点にある。

1956年(昭和31年)に作成された厚生省の報告書「山西軍参加者の行動の概況について」では、軍が終始残留をくい止めようとしたという。しかしそれは正しくない。積極論者との間で、軍事顧問団的な少数残留か居留民社会を含めた大規模残留かで意見は分かれたが、当初、軍首脳部は残留自体には前向きだった。1945年(昭和20年)9月5日に、「邦人ノ現地残留ニ関スル件」として出された通牒では、軍が代表して残留の折衝を行うゆえ、個人での契約を慎むように命じている(乙集参甲密第一六二号)。この折衝は、日本側から第一軍参謀の岩田清一少佐と山西省公署の城野宏顧問補佐官が、山西軍からは趙瑞代表が出席し、両者の間で邦人残留について種々取りきめが行われた五日間の謀議を指す。邦人戦闘員への厚遇もこの場で取りきめされた。城野の回想によれば、すべて澄田・山岡の了解を得ていたという。

1949年(昭和24年)4月の太原陥落時に撮影されたという残留日本人兵士たち。左から二番目の人物は、旧軍の軍衣に山西軍の軍帽をかぶっている。 右から二番目の眼鏡をかけた人物は城野宏と言われている。民間での残留運動の首謀者であった城野は、抑留から帰国後、講演家として名を成した。

1949年(昭和24年)4月の太原陥落時に撮影されたという残留日本人兵士たち。左から二番目の人物は、旧軍の軍衣に山西軍の軍帽をかぶっている。
右から二番目の眼鏡をかけた人物は城野宏と言われている。民間での残留運動の首謀者であった城野は、抑留から帰国後、講演家として名を成した。

そして第一軍の各兵団では、残留への参加勧誘が公私混同盛んに行われた。現地除隊した元軍人が山西軍の軍服を着て各兵団に現れて残留を勧誘するだけでなく、上官が部下に直接残留を口説く、兵団内に特務団編成室が設けられて要員の選抜が行われるなど、組織的関与を伺わせる光景が見られた。しかし、軍が特務団という名で編成を命じた明確な証拠は確認できない。この点、防衛庁に残っている史料では、各兵団に対して「鉄道修理工作部隊」の編成を命じているものがある。実はこれこそ、現役組が言うように、特務団の編成命令なのである。

ここに言う鉄道修理工作部隊とは、正式には「山西省鉄路公路修復槍修工程総隊」、一般に「工程隊」とか「護路隊」と呼ばれた鉄道保守を任務に掲げた部隊である。厚生省の報告書にあるように、確かに工程隊は、当初、民間人の部隊として編成された。そして軍では、1946年(昭和21年)2月2日に発令された乙集参電甲第一〇六号と同一〇七号、2月8日に発令された同一三一号と一三二号において、いずれも中国側の徴用令に基づいて各兵団に数千人規模、総数で一万一千人の編成を命じている。

厚生省の報告書では、いわゆる特務団と、ここで発令された工程隊とは別の組織としている。しかし、それは都合の良い解釈と断じて良い。そもそも工程隊の名称は、残留首謀者の永富の回想にあるように、「特務団として敗戦国の軍隊を残留させる事は国際法に抵触するので」鉄道保守の名目で残留させてはどうかと日本側から提案したところ閻が採用したというもので、実質上は軍民からなる特務団という理解であった。だから、現役組以外の民間人が揃って軍における特務団の発令時期を、工程隊の編成が発令された二月だと回想しているのである。

そもそも特務団というのは日本軍の組織ではなく、建前上はあくまで中国軍の組織だから、防衛庁に残る史料に特務団という名での編成命令がないことはなんらおかしなことではない。その上で軍における工程隊の発令では、その人員について「先ツ留用受諾者ヲ以テ充当シ不足スル場合ハ右以外人員ヲ以テ充ツルコトヲ得」(乙集参甲電第一〇七号)、「特務団留用受諾者(第一特務団ヲ除ク)ヲ主体トシテ編成セラレ度」(同一二二号)としているわけだから、形式上は工程隊であっても、実態は留用受諾者(文書に残らない形で残留を勧誘された)を中心にして編成された特務団であったわけだ。

ちなみに「第一特務団」とは、他兵団に先立って編成されていた独立歩兵第十四旅団の特務団である。旅団長の元泉将軍は残留積極論者だった。そして重要なのは、すでに2月7日の時点で元泉将軍は中国名の「元全福」を名乗っており、それが日本軍の公文書(独歩第十四旅参電第二八〇号)に記載されているという事実だ。五日後の2月12日には、第百十四師団の工程隊がその元泉指揮下に編入されており(一軍作命甲第二〇六号)、工程隊=特務団という図式を如実に示している。

そして、工程隊の編成命令だが、ここに現役組の将兵が現地除隊を聞いていない、騙された、売軍だと主張する契機が生じる。第百十四師団で編成業務にあたった百百少尉が国会における参考人質疑において証言したように、そもそも特務団要員に対しては、「復員書類上においては現地除隊にするように、実際は、特務団に派遣を命ず」とされていた。ところが2月5日の発令電報にあるように、「鉄道修理工作隊ノ編成人員ハ召集解除ノ形式ヲ採ルコトナシ」(乙集参甲電第一二二号)とされているのである。すなわち、当初、現地除隊が前提だった特務団要員であっても、工程隊にいる間は国軍兵士としての身分が保障されることになるわけだ。

これはどういうことかと言うと、前述のように特務団というのは日本軍の組織ではなく、建前上はあくまで中国軍の組織であるから、特務団として離隊する際は、所属中隊の人事功績係に出向いて現地除隊手続を済ませ、武器・装具を返却し、日本軍の駐屯地から空身で出発しなくてはならない。ところが、工程隊という正規の徴用部隊であればそのような処置なく、指揮官以下完全武装のまま(いわゆる「建制」のまま)離隊することになる。実際にそのように行われたから、独立混成第三旅団の元将兵がそれを軍命の証拠として声高に提示しているのである。しかも、特務団要員を受諾した時点で現地除隊を了解していない、告知されていないまま工程隊に編入されたなら、まったく離隊を意識し得ないケースもあり得る。

この点、中国側との折衝で取りきめられて全残留将兵に提示がされた雇用条件について、城野の回想ではその第一条に現地除隊を挙げているが、他の帰還者の回想ではその一条が抜けている。これは、公務認定を求める立場にないことを認識している自願者の回想でも同様であり、恩給訴訟対策で意図的に歩調を合わせたとは思えない。ようするに、一部の残留将兵、すなわち「特務団留用受諾者」に対しては、現地除隊の条件が隠蔽されたケースがあったことを示唆する。

その上で、再度、防衛庁に残る史料を見ると、軍としては残留希望者への現地除隊の徹底、さらに三月末に特務団の解散が命じられ、正式に邦人の残留が不可となってからは、再三にわたって原隊への復帰を促している。例えば、3月4日付の命令では、軍は隷下各兵団に対して「鉄道総隊留用受諾者ニシテ既ニ申請済ノモノハ 除隊(招集解除)ヲ認可セラレタルニ付 各兵団部隊ノ実情ニ応ジ 適宜実施相成度」と指示している(乙集参甲電第一九二号)。ゆえに、除隊手続をせぬまま中国側に走った将兵については、中国側に不採用を要請しているわけだ(3月4日付の乙集参甲電第一二七号)。そして、大同に残留していた第四独立警備隊に対しては、「従来ノ状況ニ拘ルコトナク頭ヲ切リ換ヘ…固遁ナル態度改メ…全員帰還ヲ本則トシ 処理セラレ度 依命」とまで述べて残留中止を命じている(4月22日付の乙集参甲電第四〇〇号)。残留を翻して原隊に復帰した者について、所属長の判断で現地除隊処置を取り消すことを許可する旨の通牒もしている(4月16日付の乙集参甲電第三五七号)。

しかしながら、軍隊というのはそう単純ではない。きわめて杓子定規な世界である。実際に所属長からの告知や事務手続がなければ、たとえ噂話程度で耳にしていたとしても、それは判断材料にはなり得ないという世界である。残留将兵の証言にあるように、特務団はご破算になったという説明と共に、中国軍服の着用(被服の交換)も確かに行われたが、各部隊の責任者は「諸君は中国兵の格好をしていても国軍兵士である」と督励していた。そして、前出のように3月4日付で現地除隊手続を命じてはいるものの、すでに本隊と分かれて行動中の特務団内部において、改めて現地除隊の趣旨徹底と事務手続がとられたとは思えない。余計なことをして将兵を動揺させる必要はないからだ。そして、4月15日付の乙集参甲電第三五一号では、残留者に対して現地除隊または逃亡兵の処置をとるよう各兵団に命じているが、発令先の本隊はすでに山西省を出発して復員途上にあった可能性が高く、肝心の特務団へは命令が届いていない可能性すらあるわけだ。

このように見ると、工程隊(=特務団)の編成過程、またその後の解散が命じられて以降に、残留将兵に対して現地除隊を明確に意識させず、自由意志ではなくて軍に残留を命ぜられたと錯誤を起こさせるに十分な状況が生じていたと言える。それでは、現役組の主張が正しいのかとなると、話はそう単純ではない。

三月末に正式に特務団(=工程隊)の編成中止が命じられた後、残留希望者は、第一軍の復員に合わせてどっと減り、最終的に復員が完了した時点の1946年(昭和21年)5月に残った者は二千六百人だった。独立混成第三旅団の阿部は、「本当に帰りたいものは帰れといわれ…とにかく帰ろうと相談一致、最後の列車に乗」ったと回想している。厚生省の報告書は「中には、部隊が天津に到着した後、漸くこれに追及して収容された者もある」とする。そして軍の復員が完了してから1949年(昭和24年)4月の太原陥落までの間にも数次にわたる帰国輸送の機会があり、残留将兵の六割にもあたる千六百人が帰国している。このとき帰国する機会を得た独混三旅の本間は「帰国希望の申し込みをし結果を待った。(昭和二十三年)九月一日附で…一般民間技術者として帰国する希望が叶えられた」と回想している。

このように、手続的には申請に基づく許可ではあるものの、とりあえずは去就の自由が確保されていた。乱暴な言い方をすれば、帰ろうと思えば帰れたわけだ。ゆえに、最後まで居残った残留将兵に限って言えば、彼らが自願でないと主張しても一般論として説得力はないことになる。

この点、所属した部隊によっては、帰国を持ち出すと熱烈な残留主義者の上官に竹刀で殴られたという証言があったり、実際に帰国が叶えられずに自殺した例もあったというから、強要のケースは確かに存在した。また、作戦に出陣していて申請自体が出来なかった、負傷療養中で帰国の機会を失ったという人もいたようだ。このような人を自願残留と決めつけるのは酷だろう。一方で「すでに戦死した仲間に申し訳ない」「他に帰るべき人を優先して自分は遠慮した」という理由で残留を継続したという人も多く、心情としては理解できるが、この場合は法的には自由意志とされて仕方ないかもしれない。

このように状況は様々であり、各人を精査した上でケースバイケースで判断すべきだろう。この点、厚生省は1956年(昭和31年)の報告書作成に際してそのような精査を行ったとしており、同年の国会における答弁でも、その後の申し出によって救済が必要と判断されるならば個別に応じたいとしている。そして、厚生省の調査方法に対して恣意的だったとの批判は聞かれない。調査官に対して自願の回答をするように山岡が各人に頼んでいたとする暴露証言もあるが、全体として報告書の結論を覆すのは困難ではないか。

前出の竹刀で殴られた云々といった残留を強要されたケースを想定しよう。公務認定の前提は、現役軍人という公務員の不法行為が成立するか否かである。ところが、残留部隊の責任者の多くは現地除隊または革職されている。彼らの活動が私人による行為であると解せば、国の責任を問うことはできない。そもそも使用者責任という点では中国政府であり、日本における公務認定の主張はお門違いという解釈すらあり得る。ゆえに突き詰めると、残留とは無関係とされる澄田や山岡らの関与があったか否かを明らかにせねばならない。国と司法の見解は、あくまでも彼らの国会証言に沿ったもので否である。

澄田は戦犯容疑者として軟禁されていて無関係と主張しているが、相当の食わせ者と見てよい。現地で山西軍の顧問役に就任し、帰国後は旧軍人の台湾密航を画策している。いずれも澄田自身が回顧録で認めている事実だ。一方の山岡の残留の名目は戦犯世話部であったが、総員五十九名から成るこの世話部は残留推進者の隠れ蓑だっとされる。岩田は連絡業務担当、総隊長を務めた今村方策大佐と特務団戦車隊長を務めた赤星久行少佐は戦犯裁判の「証人」という名目だった。これらは史料で裏付けられる。その上で当時の関係者の証言によれば、澄田は山西軍の作戦立案に関与し、山岡は参謀として戦場に出陣もしたという。一時、残留日本人部隊長に担がれたものの、のらりくらりとかわした三浦三郎中将(憲兵出身、終戦時、第百十四師団長)は、厚生省引揚援護局のヒアリングに対して次のように述べている。

「澄田軍司令官の意図は不明なれども、山岡参謀長は其の結果として、屡々閻錫山の意図を師団に対し通告且勧誘の為、軍隷下部隊に連絡に出張せり」
「河本代作氏を始め元泉少将、今村中佐、岩田参謀、更に山岡軍参謀長(連絡部長の名に於て)等残留を決意し…」

中国側の圧力はもちろんあっただろうが、残留に終始反対していたというのは嘘で、積極的に関与していたと断じて良い。

ただ、日本政府が澄田や山岡の関与を認め、残留将兵の公務認定を行ったとすると、中国側の強要があったにせよ、現役軍人という公務員による行為という点で、ポツダム宣言違反を認めることとなる。厚生省の報告書が作成された1956年(昭和31年)時点で我が国はまだ主権を回復しておらず、国の責任を認める政治的判断はあり得なかった。そして、国際法上の国家責任という観点から言えば、中共を政府承認している以上、残留邦人が中共軍に加えた人的・物的損害は、現在でもその責任を問われ得る。

この点、日本の司法による事実認定は、このような政治的事情により左右されることはない。微妙なところだが、傭兵的実態があったことを考慮すると、「自願残留」という結論は司法判断としては致し方なかろう。心情としては、後遺障害を負った者や戦死者の遺族へは、特別立法による救済を目指すべきではないかとは思う。

補記:
11月21日付で厚生労働省社会援護局業務課調査室から得た回答によれば、戦死者の遺族に対しては、特例的に公務死亡に基づく援護措置を講じているとのことです。詳しくは、 「山西省日本兵残留問題についての厚生労働省の回答」をご覧ください。(2006.12.18)

「第一軍来簡文書綴」1946年(防衛研究所図書館所蔵)
「第一軍発翰文書綴」1946年(防衛研究所図書館所蔵)
「第一軍発信電報綴」1946年(防衛研究所図書館所蔵)
「第一軍受信電報綴」1946年(防衛研究所図書館所蔵)
第一軍司令部「作命及訓示綴」1946年(防衛研究所図書館所蔵)
厚生省引揚援護局史料室「第百十四師団の復員史資料」1956年(防衛研究所図書館所蔵)
厚生省引揚援護局未帰還調査部「山西軍参加者の行動の概況について」1956年
衆議院議事録「山西地区残留同胞の現地復員処理に関する件」1956年
造部隊記念事業実行委員会編『遥かなる山西』(第一編)1974年・(第二編)1976年
中央档案館・中国第二歴史档案館・吉林省社会科学院編『河本大作与日軍山西「残留」』中華書局,1995年
城野宏『祖国復興に戦った男たち』おりじん書房,1978年
澄田睞四郎『私のあしあと』私家版,1980年
永富博道『白狼の爪痕―山西残留秘史』新風書房,1996年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000252.html

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3 thoughts on “自願残留か軍命か―山西残留問題の争点

  1. What's New Pussycat!?

    映画「蟻の兵隊」はなぜプロパガンダへ堕ちたのか

    映画を見ていくつかの疑問が私の中で残った。それは決して後味のよいものではなく、濁りというか嫌なにおいのする澱のように、沈殿していたのだが、あるところをよみ、よう…

    Reply
  2. 中国山西大同陈尚士

    日军残留山西问题的争论焦点—–是自愿残留?还是执行命令的残留?
    土八路译自日本网络http://shanxi.nekoyam ada.com/
    1945年(昭和20年)8月,日本政府以接受波茨坦公告、无条件投降的形式,拉上了长达8年的日中之间的战争帷幕。结果是当地的日军被解除武装,民间的企业被接收,日籍军人以及民间人士被遣送回国。但是在山西省,最后却有多达5600人的日本人残留下来,在其后的四年间,参加了激烈的国共内战,造成了前所未闻的事态,这就是日军残留山西事件。
    1949年(昭和24年)4月,由于中共军的总攻击,太原陷落了。
    这是当时被当作俘虏的、残留的日本人士兵 。
    当时,希望留在中国的日本人并不稀少。与现代人相比,战前的人们对于海外雄飞的心理障碍要低得多,想留下不走,维持良好生活的人们多的很,残留山西的特别不同之处,就在于不仅其规模宏大,而且实质上实施了国家军队的留用,当地的侨民就是那么维持着日本人的社会而残留下来的。
    置身于中共威胁之中的阎锡山,利用战争结束的机会,企图使日本人留下。对于答应留下的日本战斗人员,全部按将校对待,特别晋升三级,支付高额的工资,约定了允许(他们)营外居住和娶妻成家,满足他们方便自由的要求及谋划等。这是非常有吸引力的政策,除了商人和职员以外,晚期在当地征召的、因战争结束而被解除武装的人,自己离开部队的原军人,以及民间人士等,都争先恐后地加入了阎锡山的山西军。当初希望留在山西省的日本人,包括侨民在内,据说有3万人之多。
    日本的战斗人员,其合同期限被定为两年,就像条件明显优厚的待遇那样,以实际情况来看,这就是“雇佣兵”。 但是,如果说成是“雇佣兵”的话,那么谁也不会残留,所以,当时作为残留的理念,就把(残留这件事)说成是要成为日本复兴的基础,叫做“义勇军”,当时留在了残留行列人们的心情大致是这样的。拼命奋斗也是枉然的,4年后,迎来了败给中共的结局,但是,如果这些人仅仅以是自己的意志而残留的话,那么,残留山西作为特别的话题,就要因人而定,就应该作为引以自豪的、历史上的一步棋子而加以记忆。可是实际上与事实不符,因为一部分现役将士是扭曲了自己的意志,万不得已而残留的。
    说起来由民间人士组成的部队,在统一控制和战斗力这方面,没法跟由现役将士组成的国军部队相比。阎锡山妨碍、阻止日本复原列车的运行,要求残留一万人规模的主力军队。(第一军)为了顺利推进复原人员的运输,作为暂时投入棋子的现实存在,认为不残留一部分军队是不行的。在残留于山西的2600名日本战斗人员里,军人出身的现役组部分约占半数。而且他们现役组的一部分军人在回国后主张:他们被军队欺骗了,被军队出卖了。甚至发起了以国家为对手的诉讼。这样一来,残留山西就作为国军的一大不幸事件而广为人知。
    残留山西问题的争论焦点,就像一部分现役组军人所主张的那样,关于在当地就地退伍的事实并没有让他们知道,那样的残留并非自愿,而是执行了军队命令的残留,这样的主张是否合适呢。在这一点上,国家认为:即使是现役将士,全部残留者都在当地办理了退伍手续,总而言之,是“自愿残留”的见解。如果把残留作为自愿的话,那么残留在山西的4年间,就不能算作服了军役,有关在此期间的战斗行为也不能认定为公务。这对于生还者来说,有时领取养老金就变得不够资格,另外也领不到在战场上造成的伤残年金。对于战死者的遗族来说,不能领取遗族年金,造成了在生活上不能蒙受利益的重大问题。而且,比什么都重要的是,没有荣誉,战死者没有被合祭于靖国神社,这在精神方面的痛苦也是巨大的。
    在这一点上,也有个别案例被认可了养老金和年金的领取、个别战死者被合祭于靖国神社的情形,但那也是官署底层的温情以及错误性的调和,总得说来,国家坚持不承认的立场。去年年底,争论不支付养老金的行政诉讼,最高法院给予了裁定,即使在司法场所也展示了自愿残留的看法。
    澄田睞四郎中将
    战争结束时,任第一军司令官。战后数个月,被指定为战犯,在中国方面的管理下,被置于软禁的状态。但是还保障其外出的自由等。他本人也承认作为阎锡山的军事顾问脚色,在作战方面协助了中国方面的阎锡山。1949年(昭和24年)乘飞机离开了被包围之中的太原,回国了。否定了其对于残留的积极参与。
    元泉馨少将
    战争结束时,任步兵第14旅团长。残留的积极倡导者。就任由残留日本人组成的、暂编独立地10总队的队长。在晋中战役受伤后自杀。
    今村方策大佐
    战争结束时,任独立混成第3旅团高级参谋。今村均大将的亲弟弟。元全罄将军死亡后,就任暂编独立地10总队的队长。直到1949年(昭和20年)太原陷落,一直率领残留的日本人部队。向中共军投降后,服毒自杀。
    从1945年末(昭和20年)开始,到第二年的3月以前,开展了称作“特别勤务团”的残留部队的组建,其后,南京的总司令部察知了异常情况,派遣来参谋,正式命令停止组编(残留部队),另外,关于被阎的山西军留用的人员,因其情况非常复杂,是难以弄明白的。按照第一军司令官澄田以及军参谋长山冈的意见的国家见解,是自愿残留,而现役组(的官兵)说,因为有军命所以不是自愿残留。留下来的文书史料展示了前者,残留官兵的证言一致为后者。哪方面是真实的呢?从结论上来说,双方都是只说了适合于自己、方便于自己的部分。也就是说,真实就在于双方主张的交汇点上。
    在1956年(昭和31年)厚生省制作的保告书—-《关于参加山西军队人员的行动概况》里,说军队始终进行了残留事件的阻止。但那个报告不正确。在积极倡导残留者之间,又分为两种意见,即残留是军事顾问团性质的少数残留呢?还是包括侨民社会在内的大规模残留?而当初第一军首脑部对于残留本身持积极态度。1945年(昭和20年)9月5日,在作为《关于日本人残留于当地一事》而发出的通牒里就有吩咐,因为军队作为代表进行残留的交涉,希望以个人名义的契约签订要慎重(乙集参甲密第162号)。这一谈判交涉指的是:日本方面派出了第一军少佐参谋岩田清一和山西省公署顾问辅助官城野宏,山西军方面的代表有赵瑞出席了会议,双方就日本人残留问题进行了广泛地磋商,谋划了5 天。给予日本战斗人员的优厚待遇,也是在这个会议上磋商的。据城野宏回忆,据说这一切都得到了澄田和山冈的理解。
    这是1949年(昭和24年) 4月,太原陷落时被拍摄的、残留的日本人士兵们。
    左起第二个人,穿着旧日军的军服,却戴着山西军的军帽。
    右起第二个戴眼镜的人,被说成是城野宏。
    城野宏是民间残留运动的首谋者,从他被拘留到回国以后,以演说家而成名。
    就这样在第一军的各个兵团里,公私混同在一起,积极地进行了加入残留行列的劝说工作。不仅仅是当地退伍的原军人穿着山西军的军服,出现在各兵团劝说残留,而且长官直接对部下亲口做说服的工作,在兵团内设立了“特别勤务团组建室”,进行要员的选拔工作等,能够看到组织上参与的情景。但是,不能够确认军队是以“特别勤务团”的名义,命令组建队伍的明确证据。在保留于防卫厅的史料里,保留着对各兵团下达的组建“铁道修理工作部队” 的命令文件。实际上,这些文件正像现役组军人所说的那样,那就是组建特别勤务团的命令。
    这里所说的“铁道修理工作部队”,就是挂着执行保护铁路任务牌子的部队,正式的称呼是“山西省铁路公路修复抢修工程总队”,一般情况下简称为“工程队”或“护路队”。就像厚生省的报告书报告的那样,工程队当初的确作为民间人士的队伍而组建了,而且,在军队于1946年(昭和21年)2月2日下达的乙集参电甲第106号和107号、2月8日下达的131号和132号里,无论哪个命令,都是基于中国方面的征用令,而下达的组编命令,每个兵团数千人,总数一万一千人。
    在厚生省的报告书里,所谓的“特别勤务团”和由此发布命令组成的“工程队”认为是有区别的组织。但是,那也可以判断为有利于自己(政府)方便的解释。就像残留首谋者永富回忆的那样,当初“工程队”这一名称,“如果作为‘特别勤务团’的话,那么就是让战败国的军队残留,这与国际法是相抵触的”,所以以保护铁道的名义,使之留下如何?没想到阎锡山当时采用了由日本方面提出的这一建议。实质上,这支队伍可以理解为由军民两方组成的特别勤务团。所以,现役组以外的民间人士汇聚起来,将军队的特别勤务团的发布命令日期,回忆成发布命令组建工程队的2月了。
    当初之所以叫做特别勤务团,是因为它不是日军的组织,而原则上说到底是中国军队的组织,在保存于防卫厅的史料里,没有以特别勤务团这样的名称来组建队伍的命令,这一点也不奇怪。而且,在军队发布的组建工程队命令上,就其参与人员而言,应该“首先以留用承诺者充当,在不足的情况下,可以以上述以外的人员充实”( 乙集参电甲第107号)、“特别勤务团想以留用承诺者(第一特别勤务团除外)为主体来组建”( 乙集参电甲第122号),所以,即使形式上是工程队,而实际上还是以留用承诺者为中心而组建的特别勤务团(以不在文书上留下痕迹的形式劝诱残留)。
    顺便是一下,所谓的“第一特别勤务团”,就是独立步兵第14旅团先于其他兵团组建的特别勤务团。旅团长元泉罄将军是残留的积极倡导者,而且,重要的是在2月7 日这个时间点上,元泉罄将军已经改成了中国式的姓名“元全福”,这是事实,记载于日军的公文里(独步第14旅团参电第280号)。五天以后的2月12日,第114师团的工程队,也被编入了元泉罄指挥之下队伍(第一军作命甲第206号),如实地显示了这样一个图式:工程队=特别勤务团。
    而且,虽说是组建工程队的命令,可现役组的官兵并没有听到“就地退伍”这一说法,这就出现了他们认为的是被欺骗、被出卖的机会。就像在第114师团担任组建业务的百百少尉,在国会质疑参考人时所作的证言那样,对于最初的特别勤务团的要员,“在复员的文件上,要做到就地退伍,实际上却被委派到了特别勤务团”。可是,就像2月5日发布命令的电文那样,被看作“铁道修理工作队的组成人员,没有采用取消征召的形式”。也就是说,当初即使把就地退伍作为前提的特别勤务团要员,他们在工程队的期间,作为国军士兵的身份当然是被保留的。
    要说这是怎么一回事呢?就像前述的那样,所谓的特别勤务团,并不是日军的组织,原则上说到底也是中国军队的组织,所以,作为特别勤务团的成员,在其离队的时候,就前往中队的人事功绩股,办理了就地退伍的手续、退还武器装备、不空着身子离开日军驻屯地是不行的。而如果是工程队这样正规的征用部队的话,就不用进行那样的处置了。指挥官以下的人员就那么全副武装地退伍(所谓成“建制”地离开队伍)。因为就那么实际进行了,所以,原独立混成第三旅团的官兵,就把这个作为军队的命令而高调地提示了。而且,他们并不了解,就在他们答应作为特别勤务团的要员的时候,就已经就地退伍了,就那么在没有被告知的情况下,编入了工程队,也有可能完全没有得到退伍意识的情形。
    在与中国方面的交涉中,这一点就已经被定了下来,就提示给全体残留官兵的雇佣条件而言,在城野宏的回忆里,第一条就举出了就地退伍,可在其他归还者的回忆里,却缺少了那一条。这即使在某些自愿者的回忆里也是同样的,即不站在要求公务认定立场的那些人,这并不能认为在养老金诉讼对策上,在其意图方面步调是一致的。总而言之,显示了这样一种情形,即对部分残留官兵,也就是对“特别勤务团留用承诺者”隐瞒了就地退伍的条件。
    在这个基础上,再一次看看保留在防卫厅的史料,作为军队的立场,对于希望残留者,要彻底做到就地退伍,进而在3月末,命令解散特别勤务团,在日本人不可能正式残留之后,再三督促他们归复原部队。例如:在3月4日下达的命令里,军队对于隶属的各个兵团作了指示,“作为铁道总队的留用承诺者,申请手续已经办理完毕的人,因为已经被认定退伍(解除征召),要按照各兵团部队的实际情况,希望适当实施”( 乙集参甲电第192号)。所以,关于不办理退伍手续就那么跑到中国方面去的官兵,应该要求中国方面不予留用。而且对残留于大同的第4独立警备队甚至还陈述了“不要拘泥于以前的情况,要更换脑筋……改变固有的态度……希望把全员归还作为原则去处理,尊命传达”,命令中止残留(4月22日的乙集参甲电第400号)。关于推翻残留的主意而返回原部队的人,也有主旨如下的通牒,即根据其所属长官的判断,允许取消就地退伍的处置(4月16日的乙集参甲电第357号)。
    但是,军队这一组织并不是那么单纯简单的,它是一个规定及其死板的世界,实际上如果没有来自所属长官的告知以及事务上的手续,即使听到了街谈巷议的传闻,那也不可能成为判断的材料。就像留用官兵的证言那样,特别勤务团随着“重敲锣鼓重开戏”这样的解释说明,也确实地进行了服装的更换(换成了中国山西军的军服),可各个部队的负责人却鼓励部下说:“诸位即使打扮成中国兵的样子,也还是国军士兵”。这样一来,就像3月4日命令的那样,虽然命令就地办理退伍手续,(他们)已经与(日本的)大部队分开了,但在行动中的特别勤务团内部,并没有意识到彻底的就地退伍和事务手续已经被办理。因为(上级)没有必要作多余的事情,来动摇官兵们残留(的决定)。而且,在4月15日的乙集参甲电第351号里,虽然命令各兵团对于残留者要进行就地退伍或逃兵的处置,但发布命令之处的总部,很有可能已经离开了山西省,踏上了复原日本的归途,对于重要的特别勤务团来说,没有接到这一命令的可能性是有的。
    这样看来,工程队(=特别勤务团)的组建过程,及其后来的解散命令下达之后,并没有让残留官兵明确地意识到就地退伍,他们并不是以自己的自由意志而残留的,而是遵照军队的命令残留的,可以说在造成错误的这件事上,产生了十分严重的事态。那么,现役组的主张一旦成为正确的话,事情就不那么简单了。
    3月底,中止组建特别勤务团的命令正式下达之后,与第一军的复原人员对比,希望残留的人员锐减, 在复原最终完毕的1946年(昭和21年)5月这个时间点上,留下来的人员为2600人 。独立混成第3旅团的阿部回忆是,“(长官说)实在想回国的人就回去!……(我和大伙)商量的结果是一致的,说什么也要回去,于是登上了最后回国的列车”。厚生省的报告书认为,“(复原的)部队到达天津后,那里边还有好不容易追赶上来的、被收容了的人们”。就这样,在部队的复原工作完毕以后,一直到1949年(昭和24年)4月太原沦陷为止,这一期间还有数次运输回国的机会,相当于残留官兵六成的1600人回国了。独混3旅的本间得到这一时期的回国机会,他的回忆是,“申请了回国的愿望,等到了结果。(昭和23年)9月1日,……作为一般的民间技术人员实现了回国的愿望”。
    就这样,虽然是基于手续上的申请,但还是优先确保了去留的自由。说句不负责任的话,如果想回国应该是能够过去的。所以,仅就留下不走,残留到最后的官兵而言,即使他们主张不是自愿的,而作为一般的看法,也是没有说服力的。
    在这一点上,根据所属的部队不同而证言有别,有的证言说,一谈起回国,就被强烈主张残留的长官用竹刀殴打,实际上也有回国愿望达不到满足而自杀的例子,强迫残留的情况的确是存在的。另外还有些人出征作战,本身就做不到回国的申请,还有人因负伤而正在治疗修养,失去了回国的机会。把这样的人定为自愿残留,太残酷了吧!另一方面,还有好多人是以这样的理由继续残留的,“对不起已经战死的伙伴” “让其他应该回国的人优先回国,自己谢绝了回国的机会”,作为他们的心情是能够理解的,但这种情况在法律上被作为了自己的意志,这也许是毫无办法的。
    这类情况多种多样,五花八门,在仔细调查了每个人的基础上,应该根据不同的情况,分别判断吧。这一点在厚生省1956年(昭和31年)制成报告书的时候,就认为进行了那样的仔细调查,即使在同年国会的答辩上,也认为根据其后的申请,若被判断为有必要救济的话,愿意个别地接受审理。就这样,对于厚生省的调查方法,没有听到认为有随意性之嫌的批判声音。就像对调查官回答说是自愿的那样,也有作为山冈(军参谋长)肯求每个人(回忆过去)的揭露证言,可要推翻作为整个报告书的结论,还是很困难的。
    我们设想一下前面所说的、被竹刀殴打等等被强迫残留的情况吧!公务认定的前提是,所谓的现役军人的公务员之不法行为是否成立。可是,好多残留部队的领导人已经就地退伍或者被革职了,他们的活动如果能被解释成个人的私自行为的话,那么就不能追究国家的责任。当初在使用者这一点上,责任在中国的阎锡山政府,在日本认定公务的主张,可能有仅仅是门派不同的解释,所以,左思右想追根到底,还是要弄明白所谓的残留,被认为没有关系的澄田和山冈(军司令官和参谋长)他们究竟是否参与了此事。国家和司法的见解,说到底是按照他们在国会上所作的证言行事的,是持否定态度的。
    澄田作为战犯嫌疑人处于被软禁的状态,虽然主张残留事件与自己无关,但还是可以把他看成一个骗子。他在当地就任了山西军的顾问一职,回国后又策划了旧军人密航台湾一事。这都是澄田本人在回忆录里承认的事实。另一方面,山冈残留的借口虽然是战犯援助部,可由59人组成的援助部,被认为是残留推进者的隐身之物,岩田负责联络业务,担任总队长的今村方策大佐和担任特别勤务团坦克队长的赤星久行少佐,借口是审判战犯的“证人”。这些内容通过史料被证实了。在此基础上,根据当时当事人的证言,据说澄田参与了山西军作战筹划,山冈作为参谋还出征于战场。三浦三郎中将(宪兵出身,战争结束时担任114师团长),虽然某个时期被推戴为残留日本人部队的队长,但他无所事事,极力躲避,他在厚生省回国援助局的听证会上,作了如下的陈述:
    “虽然不清楚军司令官澄田的意图,但山冈参谋长经常将阎锡山的意图作为其结果向师团通告,而且,他为了规劝(残留),出差于第一军隶下的各部队,去做联络工作”
    “以河本大作氏为首,元泉少将、今村大佐、岩田参谋,进而山冈参谋长等人决心残留……”
    「当然,这里边也有中国方面(阎)的压力吧,但是,所谓的自始自终反对残留却是谎言,可以判断,他们都积极地参与了残留工作。
    而日本政府只承认澄田以及山冈的参与,如果一进行残留官兵的公务认定,那么即使有中国方面(阎)的强迫,而以现役军人—-这样的公务员所进行的行为这一点来看,也就等于承认(日本)违反了波茨坦公告。在厚生省的报告书被制成的1956年(昭和31年)这个时间点上,我国还没有恢复主权,不可能有承认国家责任的政治上的判断。而且,从国际法上的国家责任这一观点来看,既然承认中共政府,那么,加入中共军的残留日本人,即使现在也能够追究其人和物这两方面的损失。
    这一点,由日本司法进行的事实认定,不会被这类政治上的情况所左右,尽管有微妙之处,但一考虑到雇佣兵性质的实际情况,作为司法判断,下定“自愿残留”这样的结论也是没有办法的吧(无奈之举)。作为心情而言,我觉得对于背负着后遗伤害的人以及战死者的遗族,要通过特别立法来救济,应该以此作为目标。
    补记:
    据11月21日从厚生劳动省社会援救局业务科调查室得到的答复来看,对于战死者的遗族,据说采取了基于特例性公务死亡的援救措施。详情请浏览“厚生劳动省关于日本兵残留山西省问题的答复”(2006.12.18)

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  3. 中国山西大同 陈尚士

    这张照片是日本老兵送给我的—-也说日军残留山西
    作者:土八路
    这张照片大约拍摄于抗日战争结束时的1945年8月15日前后。这是日本华北派遣军、第一军隶下的独立混成第三旅团参谋部的合影。中排左起第四的那个士兵叫石川八郎,当年26岁,做勤务工作。大约七、八年前他将这张照片送给了我,同时还送给我一本《终战后残留在山西的原第一军特务团实录》(译者注—所谓的“特务团”并不搞间谍活动,而是阎锡山留用的日本人部队)。中排右起第一人是汉语翻译。前排中间戴白手套的那个人叫今村方策,他当时是第三旅团的高级参谋,后来升任受阎锡山指挥的残留日军(10总队)的司令。1949年4月24日太原解放后,他被徐向前将军俘虏的当天便服毒自杀。现在台北还有个“五百完人庙”,是阎锡山逃到台湾后修建的,旨在纪念为保卫太原而战死和自杀成仁的阎军官兵,那里边有个叫做“晋树德”的人,正是这个日本人今村方策。
    列位网友看官,您也许觉得奇怪,日军投降后不是都被遣送回国了吗?阎锡山的军队里怎么会有日本人呢?这件事还得从头说起。
    抗战胜利前夕,日本华北派遣军第一军占领着山西,隶下骨干兵团为第114师团、独立混成第3旅团、独立步兵第10旅团、独立步兵第14旅团、第五独立警备队等。驻扎的兵力约有五、六万人。
    1945年8月15日,中国人民经过八年的溶血奋战,在美苏的积极配合下,终于迎来了日寇的无条件投降,在近代史上第一次取得了反抗外国入侵的伟大胜利。在这种形势下,日军第一军的首脑们,为了逃避战犯罪责,继续为日本帝国效劳,打算将山西作为根据地,利用山西的丰富资源来复兴日本。而山西的土皇帝阎锡山,为维护其山西王的霸主地位,也极需要利用日军的物资装备和较强的战斗力来阻止徐向前的攻势。于是,阎日双方互相勾结,一拍即合,把2600多名官兵全副武装地编入了阎锡山的军队,与解放军打内战。另外还诱使一万余日侨残留在山西。国共内战爆发后,这些日俘充当了阎的炮灰,极大地阻扰了山西的解放进程。特别是在晋中战役和解放太原的战役中,使解放军蒙受了巨大的损失。
    日阎双方通过协定,对于留用的日本人,给与了非常优厚的条件待遇。保留其日本军人的军籍,以原军衔为基础,一律再晋升3级,他们作为教官可以打阎军士兵的耳光,可以娶妻(包括中国妇女)住在军营之外,并且有阎军的士兵作为勤务兵为之服务,工资每月1000日元左右(这是准尉的工资。当时日本的大学生毕业生的工资为30日元,大学校长的工资为50多日元)。可以定期回国探亲,可以往日本寄钱,留用期为两年,主要工作是训练阎军的官兵,他们一律改穿阎军的服装,使用的姓名也改成了中国式的姓名。
    尽管条件如此优厚,但大多数日军官兵并不愿残留,因为在日本国内,他们也是具有父母的,有的甚至拖家带口,他们也是人,同样也有思乡之情。残留下来的人多数是被迫无奈的,或者是被长官指定的,或者是被作通了“政治思想”工作的,或者是新兵刚入伍的,或者是家中兄弟姊妹较多的,残留下来的大多数是上述这样的一些人。
    也有不愿残留而被迫导致自杀的士兵。还有远在日本国内的、翘首企盼儿子早归、终不得见其子踪影而万念俱焚后而上吊自杀的母亲。当然了,也有积极报名申请残留,上报天皇浩恩的狂热的武士道官兵,但这些人毕竟是少数。
    最为可悲的是,就在太原被围、残留日军垮台前夕,他们的长官(原澄田军长)竞丢弃危在旦夕的官兵,乘飞机逃回了日本,并大言不惭地欺骗他们说,要回日本招募30万日本义勇军,来与中共军决战。1946 年4月24日黎明,解放军以排山倒海之势攻入城内,在直至太原解放的4年间,有550名日本残留军人战死,其他的被俘,被俘的日军官兵被收监入狱。通过劳动改造,陆续被释放回国,最迟的一批也于1963年9月被释放。
    可以断言,日军残留下来,完全是执行了第一军的命令和长官的指示。然而战后,对这一严重违反波茨坦宣言的阴谋,日本政府一直保持沉默。残留军人被视为自愿留下加入阎军的雇佣兵,回国后他们也一直遭受歧视和不公。他们的军长澄田也竞然在国会上作证言,说他们是“私下自愿残留” 的、是“逃离部队后才留下” 的。因此战死和负伤的官兵不能被国家认定为因公致死致残,同样其他幸存的老兵也得不到抚恤救济,这样就致使他们的生活陷于极其悲惨的境地。 “我们是为何被留下来的?”这一疑问多年来一直困扰着奥村和一老兵。为了让“残留”真相大白于天下,他四处取证,并和7位战友再一次把日本政府告上了法庭,要求承认是国家行为并予以补偿。虽然他们从1956年起,就与日本政府打起了官司,可一直到现在还没有胜诉。为此,著名的导演池谷薰于2005年,以残留老兵奥村和一为背景,拍摄了一部电影纪录片《蚂蚁兵》,很好地描写了残留山西的梗概和主人公奥村先生的前半生。
    关于日军残留山西,我有老兵们的大量回忆记录,如果网友们感兴趣的话,我将陆续译出发表,今天就聊到这里吧。

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