李献瑞さん [3]


入社2週目の転職
1944(昭和19)年8月、太原日語専科学校を卒業した李さんは、学校の紹介で大手の山西産業株式会社に入社した。しかし李さんはそこを二週間もしないうちに辞めてしまう。仕事内容がとても退屈だったのと、同じ課の日本人社員の一人が李さんに対して露骨に嫌がらせをしたためだった。

会社を辞めようかどうか迷っていた時、李という同学の青年にあった。彼は、太原の西を流れる汾河に工場を建設中の華北窒素肥料股分有限公司に通訳として就職していた。彼は、工場内に設置された少年工養成所の教員として、十六歳前後の少年工に対して日本語などを教えていた。結婚のため、故郷の天津に帰郷したがっていた彼は、「私が紹介するから後任として華北窒素に入ってはどうか」と李さんに勧めてくれた。彼の話を聞く限り、条件なども悪くはなさそうだった。

「慈牙拘」
しかし、李さんは「通訳」として就職することだけはできなかった。なぜなら、当時日本語の通訳は中国人の間で「慈牙拘」(*1)と呼ばれて軽蔑され、憎まれていたからだ。民族の裏切り者という目で見られていた。生活のために日本語をつかうとは言え、愛国心を持つ李さんにとって「慈牙拘」の汚名だけは耐えられなかった。このときはまだ病気で静養していた老将軍である父にも申し訳がない。

李さんはとりあえず神田先生に相談することにした。在学中、李さんたち問題意識を持つ学生を露骨に苛めたS先生は、「学校が紹介したのにすぐ辞めるなんてダメじゃないか。神田先生だって許してくれるはずがない」と言う。しかし、李さんはどうしても通訳での採用だけは避けたいと神田先生に訴えた。神田先生は李さんの話をずっとだまって聞いてくれた。そして、聞き終わった後にしばらく考えてこう言ってくれた。「わかった。じゃあとりあえずその会社に行って一緒に話をしてみよう」。

数日後、李さんは神田先生とともに華北窒素へ向かった。建設中の工場内に設置された仮事務所に通され、庶務課の課長で平沢さんという人が応対してくれた。神田先生は平沢課長に、李さんを通訳としてではなく、課員として雇ってもらえないかと頼んだ。話が進むうちに平沢課長は神田先生と同じく東京帝大を卒業した同学だったことが分かった。打ち解けた雰囲気のなかで平沢課長は、李さんを庶務課で採用することを約束してくれた。

その後、正式に山西産業株式会社を辞め、華北窒素に就職した李さんは約束通りに庶務課に配属され、深緑色の制服を支給された。袖には黄色の帯が縫いつけられていた。赤は部長以上、青は日本人職員、黄色は中国人雇員だった。

(*1)「ci ya gou(ツーヤーゴウ)」と呼ぶ。直訳すると「牙を慈しむ犬」、転じて「戦う気のない負け犬」。この意味の中国語を、日本語読みの「つうやく」にかけた呼び名。

華北窒素勤務のはじまり
華北窒素肥料股イ分有限公司は、太原城から西へ四キロほどの汾河のほとりにある彭村に建設中の化学肥料工場だった。農業用肥料の硫安(硫酸アンモニア)の生産を予定しており、完成すれば化学肥料工場としては中国で最大の規模になると言われていた。北朝鮮の興南でも当時朝鮮最大の化学工場を建設した日本窒素が経営する日本資本の会社だった。そのため、多くの日本人技術者が派遣されて来ていた。この時点で、工場の大部分は建設中で準備段階だったが、すでに硫安製造の原料となる石膏の採掘は行われていた。当初は農業用肥料としての硫安生産を目標としていたが、のちに設備を整えて軍需用のダイナマイトの生産も計画していたという(*2)

庶務課に配属された李さんは、最初は靴の配給や机の貸し出しなどの仕事をしていた。その後、李さんを会社に誘った李が予定通り会社を辞めると、少年工に日本語を教えることのできる中国人職員がいなくなった。その役目は自然と李さんにまわってきた。李さんは少年工養成所に移動となった。

(*2)華北窒素についての詳細は、こちらのコラムを参照。

“愛国的”社内研修
養成所では十六歳前後の少年工十五人ほどに対して、日本語を中心に歴史や国語、日本式の礼儀などを教えていた。職員は李さんの他に中国人が一人と、日本人社員の三人。皆同じぐらいの年齢の若者だった。日本人はHという青年だった。なんでも庶務課の係長に彼の兄がいるそうで、そのためか仕事は結構いい加減にやっていた。彼はいつも「イヤー李さん、疲れたねえ」と言っては椅子で寝ていて、夜になると工場内にある日本人職員専用の倶楽部へいそいそと遊びに行っていた。しかし憎めない性格だった。

李さんは、少年工に対して、日本式の仕事の仕方を教える一方で、中国の歴史を中心として祖国に愛国心を持つように教えた。たとえ身体は日本企業で働いていても、心だけは中国人としての誇りを失ってはならない。李さん自身の信念からだ。もちろん、日本人職員にあらぬ誤解をされないように気をつけた。李さんの歴史の話を聞くとき、少年工たちの目は輝き、いきいきしてるようだった。

半年後、少年工たちへの社員研修も終了した。彼らは工務課のなかの事務、採掘、場内機関車の機関士などにそれぞれ配属された。しかし、配属当初は工務課の日本人職員の中に中国語が分かる者がいなかったために仕事がはかどらず、しばらく李さんが通訳として工務課に出向かなければならなかった。工場と石膏採掘場所の西山は四キロほど離れていたから、文字通り通訳に駆けずり回ることになった。

しかし、李さんは通訳だけはどうしてもいやだった。神田先生も李さんの気持ちを理解してくれて、李さんを通訳として使わないように再度会社に頼んでくれた。結局、少年工が仕事に慣れると、ようやく李さんは通訳業務から解放され、庶務課に戻れることになった。

工場での生活と日本人の思い出
工場の寄宿舎に住んでいた李さんは、毎週土曜日の午後五時に出るトラック便に乗って恋人の高さんに会いに行き、翌日の日曜日に午後のトラック便で戻るという日々を送っていた。そのため平日の夜は暇だった。自然と独身同士、Hと一緒に食事をしたりして過ごすことが多かった。彼は仕事はいいかげんだったが性格は良く、いつの間にか気のおける間柄になっていた。

その後Hが帰国し、李さんも庶務課へ復帰すると、倉園さんという人が係長としてやって来た。とても立派な人格の持ち主で、率直に物事を言う人だった。李さんはすぐ彼を好きになった。あるとき仕事が終わって一緒にいたとき、うち解けた雰囲気のなかで倉園さんが言った。「こんな御時世じゃ好きな洋服を着て街も歩けない。着て良いのは国防服だけ。やっぱり戦争はだめだねえ」。中国人である李さんにとって、数少ない本音で話ができる日本人のひとりだった。

また工務課の池田さんという人も印象深い。のちに彼は終戦後もしばらく太原に残って李さんと一緒に残務整理をすることになったが、最初に知り合ったきっかけはひょんなことだった。ある日、庶務課を訪れた彼は李さんに、郵便局で日本向けの送金手続きの期限がいつか聞いて欲しいという。李さんはとぼけて、「『キゲン』って何ですか?」と聞き返した。池田さんは訝しげに「君は日本語が分からないのか?」と聞く。それに対して李さんは「私は通訳できるほど日本語ができませんので」と答えた。李さんは普段から「通訳だけはいやだ」と公言していたから、その徹底振りを自分で皮肉った冗談には池田さんもおかしかったようだ。これ以降、二人は仲良くなった。

しかし、中には悪いのもいた。陸軍の予備役少尉だった工場警備隊のNは乱暴だった。一度、車庫のガソリンが紛失したときには李さんの知り合いの運転手が疑われ、三日間もの間、木棒で殴られて尋問された。結局なにもでなかったが、殴られた運転手はしばらく歩けないぐらいだった。

敗戦の雲行き
華北窒素は、最初のうちは器材が内地や朝鮮の興南工場から送られてきていたが、戦局の雲行きが怪しくなってくると器材の搬入も停まり、そのうち日本人技師も帰国していった。ただ、産出していた石膏だけはどんどん送られていった。軍にセメント用として卸していたようだ。

このころになると、太原付近の中共軍の活動も活発化してきていた。周辺の日系工場は軒並み攻撃を受けていた。しかし、なぜか華北窒素だけは攻撃されなかった。そんななか、華北窒素も一度だけ攻撃を受けたことがある。終戦直前の1945(昭和20)年の夏、太原に米軍の戦闘機が飛んできて、工場に爆弾を落とし、機銃掃射をする事件が起きたのだ。何でも工場の上空を通過したときに、警備隊の隊員が小銃を撃ち、それに対して戦闘機が旋回してきて機銃掃射をしていったという(*3)

このとき李さんは、空襲警報のサイレンを聞くや否や、仕事を全部放り出して、誰よりも早く真っ先に裏の農村へと逃げ込んだ。空襲があった時には裏の農村へ逃げ込もうと、脱出経路まであらかじめ考えていたのだ。「日本人なら逃げたら恥だが自分は中国人。中国とアメリカが団結して日本と戦っているのに、その友軍の空襲で死んだら無駄死だから」だ。

そんな李さんを見て、人格者の倉園さんは笑いながら言った。「李さんはよおく逃げるねえ」。しかし、倉園さんの言葉に、李さんはただ笑いを返すだけだった。信頼している倉園さんだけでなく、神田先生にも父が何者かを含めて一切秘密にしていた。日本人と中国人の間に信頼の情だけでは埋めることの出来ない大きな溝が戦争で出来たのだ。夏の暑い日、日本の無条件降伏はすぐそこに迫っていた。

(*3)彭村の工場から西に四キロほどの西山では華北窒素が石膏を採掘していたが、その西山を含む山地一帯は中共ゲリラの勢力下にあった。しかし華北窒素だけは襲撃されたことはなかったという。そもそも華北窒素は自給自足体制の確立を目的に建設されていた。そのため、それまで流通していた「トンあたり千円」の英国製硫安に比べ、現地民は喜んで買うだろうトンあたり三百円の硫安の製造・販売を計画していた華北窒素は、「華北の土地に有益だと、八路軍は襲撃してこなかった」という。また、共産党員として中国に渡っていた野坂参三は、華北窒素の社員が八路軍と仲良くなり、日本軍の情報の提供を受けるかわりに決して襲撃しない約束が成立していたという興味深い逸話を紹介しているが真偽のほどは分からない。ともあれ、終戦間近の米軍機の空襲は、それまで攻撃を受けたことがなかっただけに、被害がほとんどなかったにも関わらず関係者の間でも印象が強いようだ。

終戦後の残務整理
8月15日。日差しがまぶしい夏のある日。工場で勤務するすべての職員が広場に集まり、天皇の玉音放送を聞いた。すべての動きが止まった静かな工場内で、詔勅を朗読する天皇の声だけがラジオから響いてくる。雑音がひどくて聞き取りづらかったが、雰囲気で終戦の詔勅ということだけは分かった。皆黙りこくって、静まり返っていた。日本人職員のなかには涙を流している者もいた。そんななか、李さんは感慨無量の気持ちだった。祖国中国がやっと他国に蝕まれずに、米英ソの列強と肩を並べるときがきたのだと思った。また、1938(昭和13)年以降、第二戦区で軍務に服していた二兄の応瑞さんにもやっと会えると思うと嬉しかった。

それからしばらく、李さんは工場の残務整理に追われた。日本人職員の帰国や閻錫山軍による接収に備えるためだった。しかし、日本人の多くは動けないので人手が足りなくて忙しい。そんななか、工務課の池田さんは今まで通りここで石膏の採掘を続けたいという。何でもここで産出する石膏は純度が95%というまれにみる高品質で、工場をつぶすのが惜しいという(*4)。池田さんの技術屋としての熱い思いに、李さんも心を動かされた。忙しいなか、池田さんとともに報告書を作成し、それを閻錫山軍の接収責任者に送った。しかし何の音沙汰もなく、そのうち国共両軍の戦闘も始まってしまい、池田さんもやむなく帰国することになった。太原を出発するとき、池田さんは李さんに愛用のアコーディオンをプレゼントしてくれた。

閻錫山軍が進駐して来る前、撤退してきた日本軍部隊が工場に来たことがあった。彼らは工場内で簡単な舞台を作って歌舞伎をやった。帰国を待つ兵隊や職員への慰問の意味もあったようだ。李さんも招待されて鑑賞した。初めて接する日本の伝統芸能に大いに興味をそそられたという。

しばらく経つと、太原在住日本人の日僑収容所への収容が始まった。神田先生も収容されたが、戦後の食糧事情の悪化で所内の食事が悪かった。そこで、李さんが外に連れ出して食事をごちそうしたり、帰国の時にも餅を渡したりした。やがて神田先生は、他の日本人とともに列車で天津へ向かい、そこから船で日本へ帰国されていった。

工場では閻錫山軍から将校が数人派遣されてきて、接収作業が始まった。しかし、ここで石膏の採掘を続けたいという池田さんの情熱も虚しく、接収された工場の備品や物資の多くは闇市へ流され、すべて軍人の”条子”(布きれ)、”房子”(家)、”車子”(自動車)に化けてしまった。腐敗したその姿を見て、李さんは今後あらゆる政治活動に参加しないと心に決めたという。

(*4)硫安の製造に必要な石膏(硫酸カルシウム)のなかに、通常カルシウムは32~40%、硫酸分は30~55%含まれる。国内産の石膏の品位(硫酸分)は大体30~38%程度。ゆえに95%(硫酸分は55%前後)という数字はその高品位さを良く表している。

新中国の成立
第二次世界大戦が終わって二年後の1947(昭和22)年、李さんは高さんと結婚し、北京へ移った。その後、国共内戦が本格化すると太原に帰郷できなくなってしまった。生活基盤のない北京での苦しい生活がはじまった。夫婦で力を合わせ、中古自転車の販売など、あらゆる商いをした。その後1949(昭和24)年1月、中共軍によって北京が無血開城されると、李さんは華北大学に進学し、中共の活動に参加することになった。すぐに西安の中共中央委員会西北局に派遣された。粗末な軍服で、毎日の食事は小米(粟粥)だけだった。西北局での勤務は、1951(昭和26)年3月まで続いた。

西北局での勤務は苦しかったが、李さんはそこで共産党というものをはじめて知った。とりわけ、西北局の局長だった彭徳懐将軍の清廉さに強い印象を受けたという。こんなエピソードがある。

あるとき、局で管理している作物の生産で豊作のために計画よりも多く収益が上がったときがあった。このとき、生産課と総務課の課長が相談しあい、彭将軍の健康のために食事の材料を良くした。良くしたといっても、もともと小米(粟粥)だけだったものに、なにがしかの野菜の漬け物などを加えたに過ぎない。しかし食事を変えたその日、彭将軍はふたりを執務室に呼びつけた。彭将軍は、ふたりに対して食事の材料を変えたことの訳を聞いたのち、こう言ったという。

「君たちの気持ちはとてもありがたい。しかし、私の生活費は人民大衆の懐から出ている金だ。無駄遣いをしては申し訳ない。たとえそれが微々たる差であってもだ。今日からまた元の食事に戻して下さい」

このとき李さんは総務課に勤務していたが、彭将軍の執務室から帰ってきた総務課長の張課長が皆を集め、感激した面もちで詳しく話してくれた。腐敗した閻政権の姿を見て政治に幻滅していた李さんも、この話を聞いて”彭老総”(彭総司令)への尊敬の念が強まったという。

その後、太原に戻った李さんは体育関連の仕事に就いた。しかし時間のあるときには、太原戦犯管理所に収容されていた日本人戦犯の供述調書の翻訳なども頼まれた。供述の内容は忘れてしまったが、河本大作夫人の弟にあたる人の調書を翻訳した記憶があるという。

1970(昭和45)年、文化大革命のとき、日本語通訳をしていたことを糾弾され、労働改造という名の強制労働に送られることになった。現在の長治市のあたりの農村に送られることになった。通訳として働いたのではないという李さんの訴えも聞き入られることはなかった。もう生きて家族と会えることはないだろうと覚悟を決め、最後の記念にと家族全員で写真を撮った。悲壮な覚悟をぐっと心の奥底に押し込み、自然な表情でカメラのフラッシュを浴びた。その写真を懐に、李さんは労改先の農村へと向かった。

李献瑞さん夫妻と息子たち。文革で農村へ送られる前に最後の記念にと家族全員で撮影したときのもの。太原で1970年に撮影。

李献瑞さん夫妻と息子たち。文革で農村へ送られる前に最後の記念にと家族全員で撮影したときのもの。太原で1970年に撮影。

労改先の生活環境はひどいものだった。そこでの一番のごちそうは農民が食べないトウモロコシだった。「トウモロコシは家畜の餌」だったからだ。毎日、高梁麺や緑豆の粥、ひどいときには粟の皮の粥などで、しかも太原での配給量の半分にも満たない量だった。空腹を我慢しながらの慣れない農作業。農村での「労働矯正」は五年にも及んだ。

1976(昭和51)年、ようやく生きて太原に帰ってきた李さんの耳に入ってきたのは、四年前に国交回復をした日本との民間交流の興隆だった。日本語版の「人民中国」やラジオ放送を使って一生懸命に勉強をはじめた。忘れかけていた日本語が徐々に蘇ってくるのを感じた。

李献瑞さん夫妻。1980年代に太原で撮影した写真。

李献瑞さん夫妻。1980年代に太原で撮影した写真。

1984(昭和59)年、六十歳の初老を迎えた李さんは、自転車競技の交流代表団の責任者として初めて日本を訪問した。日本のとある博物館で、唐代に中国から日本に渡った一級文物が国宝として大切に保管されているのを見た李さんは、「一衣帯水」の両国関係を自らの人生と重ねあわせて深い感慨を憶えた。そして、三十年ぶりに李さんを待っていたのは、尊敬する神田秀夫先生だった。

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000010.html

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3 thoughts on “李献瑞さん [3]

  1. 中国山西大同 陈尚士

    李献瑞先生(三)
    土八路译自日本网络
    http://shanxi.nekoyamada.com/
    工作后的第二周就辞职了
    1944年(昭和19年)8月,在太原日语专科学校毕业的李先生,通过学校的介绍,进入了山西产业株式会社,可是李先生在那里还没到工作两周就辞职了,原因是工作内容很单调,在加上本科的一个日本人职员对李先生露骨地说讥诮话。
    就在他迷茫于是否辞职的时候,遇到了一个姓李的同学,这位同学作为翻译,就职于华北氮肥股份有限公司,该公司正在流经太原西侧的汾河边建设工厂,这位同学作为设置于工厂里的少年工人培训所的教员,对16岁左右的少年工人,进行日语培训等。因为他要结婚,想回到家乡天津,于是就向李先生进言:“我来介绍你进入华北氮肥厂接我的班,怎么样?”听他同学说,条件待遇等似乎还不错。
    龇牙狗
    然而,李先生并没有仅仅作为“翻译”去就职,为什么呢?因为当时在中国人中间,日语翻译被称作“龇牙狗”而加以轻蔑、加以憎恨,翻译被视为民族的背叛者加以对待。虽说是为了生活而使用日语,可对于具有爱国心的李先生来说,仅仅是“龇牙狗”这个坏名声就不能忍受,再说这个时候也对不起还在因病静养的老将军—自己的父亲。
    李先生决定先找神田老师商量。在校时,S老师就对李先生他们那些具有思想问题的学生进行了露骨地刁难,S老师对他说,“什么?学校介绍的工作,你却要立即辞掉,那怎么可以呢?即便是神田老师也不会允许你这样做的!”可李先生无论如何也想避开作为翻译的录用,他向神田老师倾诉了自己的想法。神田老师一直默默地倾听着李先生的申诉,而且听完之后,思考了片刻,就这样对李先生说:“明白了,那么咱们先去那个公司走一趟,一起商量商量吧!”
    数天后,李先生跟神田老师一起去了华北氮肥厂,工厂正在建设中,他们直接到达了设立于厂内的临时办公室,接待他们的是一个叫做平泽先生的总务科长,神田老师向平泽科长请求,不要把李先生作为翻译来雇佣,能不能把他作为科员雇佣,就在谈话进行期间,李先生明白了,原来平泽科长和神田老师都是毕业于东京帝大的同学,在融洽的气氛中,平泽科长约定将李先生录用于总务课。
    后来,李先生正式辞掉了山西产业株式会社的工作,来到华北氮肥厂就职,就像约定的那样,他被安排在总务课,发给了深绿色的制服,制服的袖子上缝着黄色的带子。红色的是部长以上的管理人员,蓝色的是日本人职员,黄色的是中国人雇员。
    (*1)“眦牙狗”读作zi ya gou (ツーャーゴー),直译就是“喜爱张口露出牙齿的狗”,转译为“没有战斗意志的败犬”在“つうやく”的日语读音上,配上这样意义的汉语,就是“翻译”的通称。
    开始了在华北氮肥厂的工作
    华北氮肥股份有限公司,就是正在建设中的化肥厂,它在太原以西约4公里的汾河边的彭村。据说计划生产农用肥料硫铵(硫酸氨),如果完成的话,将成为中国最大的化肥厂。在北朝鲜的兴安,“日本氮肥”还建设了当时朝鲜最大的化肥厂,它是经营日本资本的公司,为此,派遣来很多日本技术人员。在这一时期,虽然大部分工厂处于建设中的准备阶段,但是已经开始采掘制造硫铵的原料—石膏。当初,虽然把作为农用肥的硫铵生产作为目标,但是后来调整了设备,据说也计划生产军用炸药(*2)。
    被分配在总务课的李先生,最初做些发放鞋袜以及外借桌椅板凳的工作,后来,那位邀李先生来这家公司的、姓李的日语老师如约辞职,这样一来就没有能够教少年工人日语的中国职员了,这项任务自然而然地落到李先生头上,李先生调到了少年工人培训所。
    (*2)关于华北氮肥的详细资料,请参阅其他文章。
    “爱国的”厂内研修
    培训所里有十五、六个16岁左右的少年工人,李先生对他们以日语为中心,进行了历史以及国语的教授,还进行了日本式礼仪的培训等。职员除李先生外,还有一个中国人和三个日本人,他们都是年龄相当的年轻人。日本人里有个叫做H的青年,听说他有个长兄在总务课当股长,也许是这个原因吧,他无论干什么工作都是马马虎虎的,他总是说“唉!小李,我累了!”就躺在椅子上。一到晚上,他就急急忙忙地奔向工厂内的、日本人职员专用的俱乐部玩耍。不过,他的性格并不惹人憎恨。
    对于少年工人,李先生一方面教他们日本式的工作方法,另一方面以中国的历史为中心展开教育,希望他们对祖国具有爱国心,即使身在日本企业干活,唯有作为中国人而自豪的一颗心不可丢失,因为这就是李先生自身的信念。当然,在李先生讲授历史故事的时候,少年工人们的眼睛里炯炯有神,似乎生气勃勃。
    半年后,对少年工人的职员培训也结束了,这些工人分别被分配到工务科里边的事务岗位、采掘岗位、以及厂里机车的司机等岗位上。然而,当初在工务科的里,因为没有懂中国话的日本人职员,所以不能开展工作,因此李先生必须暂时作为翻译前往工务科。工厂与石膏采掘场所在地的西山,大约相隔4公里,因此就像文字所说的那样,李先生作为翻译奔波于两地。
    但是,不管怎样,李先生只是讨厌翻译,神田老师也理解李先生的心情,他再次向这家公司请求,希望不要把李先生作为翻译使用。最后,少年工人熟悉了工作后,李先生好不容易从翻译的业务里解放出来,回到了总务课。
    工厂的生活和对日本人的回忆
    住在工厂集体宿舍的李先生,过着这样的日子,他每周星期六下午五点,乘坐开出的卡车班车,去和恋人高女士相会,第二天再乘坐卡车班车返回,因此,平日的夜晚就有闲暇的时间,自然是有好多时候是跟单身同事H一起吃饭度过的。H虽然工作马马虎虎,但性格却很好,也不知在什么时候,两人的关系变得拘谨起来了。
    后来,H回国了,李先生也回到了总务课,一个叫苍园先生的人作为股长也来到总务课,这个人的人格很好,说话办事直率,李先生很快就喜欢上他了,有时下班后两人在一起的时候,在没有隔阂的气氛中,仓园先生说了这样的话,“这世道不能穿上喜欢的西服逛街,可以穿的仅仅是国防服,这些都是可恨的战争造成的”对于作为中国人的李先生而言,他是为数不多的能讲真心话的日本人之一。
    另外,工务科一个叫池田先生的人也给李先生留下了深刻的印象,后来,战争结束后,池田还在太原呆了一段时间,他和李先生一起,处理善后事宜。而他们最初的相识,是缘于一件意想不到的事情。据说,有一天池田来到总务课,想问一问在邮局向日本寄钱手续的期限是多久?李先生假装不知,反问道:“期限是什么?”池田先生感到纳闷,问道:“你不懂日语吗?”李先生对此的回答是,“我的日语还达不到翻译的水平”。因为李先生平时就公开讲“只厌恶翻译”,对于他自己讽刺其彻底情形的这个玩笑,池田先生好像也感到很滑稽。打那以后,两个人成了好朋友。
    但是日本人里边也有可恶的,作为陆军预备役少尉、工厂警备队里的一个N先生就很蛮横,有一次车库丢失了汽油的时候,李先生熟悉的一个司机被怀疑上了,在长达三天的时间里,这个人遭到了棍棒的殴打而被加以审问。结果什么也没有问出来,以致被殴打的司机很长时间都不能走路。
    战败的形势
    华北氮肥厂在最初阶段,它的器材是由日本内地或朝鲜的兴南工厂运送过来的,战场的形势变得糟糕时,器材的输送就停了下来,不久日本人技师也回国去了,只是生产出来的石膏,源源不断地被送了进来。好像还卸下了军用水泥。
    到了这一时期,太原附近的中共军的活动也活跃期起来了,周边的日系工厂全都遭到了攻击,但是不知为什么,只有华北氮肥厂没有遭到攻击。在这段时间里,虽说华北氮肥厂也遭到过攻击,也仅仅是一次而已。那是在战争就要结束之前的1945年(昭和20年)的夏天,美军的飞机飞到了太原,向工厂扔了炸弹,发生了机关枪扫射的事件。据说无论什么东西,在经过工厂上空的时候,警备队的队员都用步枪射击,对此,美国的战斗机盘旋回来,用机关枪进行了还击(*3)。
    这个时候的李先生,一听到空袭警报的警笛,就放下全部的工作,他跑得比谁都快,最先逃向后边的农村。空袭发生时,要想逃向后边的农村,就的事先考虑好出逃的路线,“若是日本人逃跑的话,那是可耻的,可自己是中国人,中国和美国团结起来,与日本进行战斗,自己若是死于友军的空袭,那就死得毫无价值,所以要逃跑”。看着李先生的这种行为,人格高尚的仓园先生边笑边说“小李逃得很利索呀!”而李先生对于仓园先生的言论,也仅仅是报以一笑而已。李先生不光对值得信赖的仓园先生无话不谈,对神田老师也是如此,包括李先生的父亲是什么人这些秘密在内,他们都严加保守,决不外泄。在日本人和中国人之间,光凭信赖的情谊是不能够弥补由于战争造成的巨大隔阂的。在夏日的暑天里,日本的无条件投降已迫近眼前。
    (*3)华北氮肥公司在距彭村约4公里远的西山,开采石膏,可是包括西山在内的那一带山地,却处于中共游击队的势力范围内,但是,据说只有华北氮肥厂没有遭到袭击。说起华北氮肥厂,他是以确立的自给自足体制为目的而建设的,因此,与此前流通的“每顿一千日元”的英国制造的硫铵相比,华北氮肥厂计划制造、出售当地居民喜欢购买的、每顿三百日元的硫铵。据说华北氮肥“有益于华北的土地,八路军是不会来袭击的”。另外,作为共产党员而来到中国的野坂参三介绍了这样的奇闻逸事,他说华北氮肥厂的职员与八路军的关系良好,八路军以接受他们提供的日军情报为条件,达成了决不袭击的协定。不过,还不清楚这一奇闻的真伪程度。不管怎么说,临近战争结束时的美军飞机的空袭,除了那一次就再也没有了,尽管几乎没有遭到损失,但在当事者中间,好像留下了深刻的印象。
    战争结束后,处理工厂的善后事宜
    8月15日,那是一个光芒耀眼的日子,在工厂工作的全部职员集中在广场,倾听天皇的玉音广播,在一切活动停下来的静静的工厂内,只从广播里传来朗读诏敕的天皇的声音。尽管杂音很大难以听清,但在那种气氛中,还是听明白了战争结束这一事实,大家都沉默不语,会场变得雅雀无声,在日本人职员里边,有人泪流满面,在那里边,李先生内心里感慨无量。他觉得中华祖国终于不受他国的侵略,与美英苏列强并肩的时候来到了。另外,自1938年(昭和13年)以后,他就再也没有与在第二战区服役的二哥李应瑞相会,他一想到终于能够见面了,欣喜之情自不待言。
    打那儿起没过多久,李先生就忙于处理工厂的善后事宜,因为要预先做好日本人职员的回国和阎锡山军队接收的准备工作,可是因为很多日本人走不了,所以人手不足而工作繁忙。那里边,工务科的池田先生说,直到今天我还想继续在这里开采石膏,不管怎么说,这里出产的石膏纯度在95%,这是罕见的高品质。他说糟蹋工厂很可惜(*4)。。李先生也被技术人员池田先生的热情所感动,在百忙中,他与池田先生一起写成报告书,交给了阎锡山军的接收负责人。然而没有任何回音。不久,国共两军的战斗就开始了,万不得已,池田先生也决定要回国,离开太原的时候,池田先生把自己爱用的手风琴作为礼品送给了李先生。
    在阎锡山军进驻工厂之前,撤退下来的日军部队先期来到了工厂,厂方在工厂内搭建了一个简单的舞台,表演了歌舞伎,好像也含有这样一种意思,即表达对等待回国的士兵以及职员的慰问,李先生也被加以招待,进行了观赏。据说初次接触的日本传统艺能,引起了李先生的极大兴趣。
    没过多久,就开始把住在太原的日本人收容到了日侨收容所,神田老师也被收容了,由于战后粮食状况的恶化,收容所里的伙食也恶化了,为此,李先生将神田老师带到外边款待以饭食,回国的时候还送给他粘糕等。不久,神田老师就和其他日本人一起,乘上列车奔向了天津,在天津再乘船回归了日本。
    在工厂,阎锡山派遣来几个军官,开始了接收工作,不过,还想在这里继续开采石膏的池田先生的热情也化作泡影了,被接收的工厂设备以及很多物资流入了黑市,全部化作军人的“条子”“房子”“车子”,看见腐败的那种情形,李先生决心今后不参加所有的政治活动。
    (*4)在制造硫胺的必需材料—石膏里,通常含有钙质32-40%,含有硫酸成分30-55%。日本国内生产石膏的品位(硫酸成分)大体在30-38%左右,所以95%这个数字,就很好地表达了其产品的品位之高。
    新中国的成立
    第二次世界大战结束后,过了两年的1947年(昭和22年),李先生和高女士结婚去了北京,再往后,国共内战正式打响,使得他们不能返回家乡太原了。于是在没有生活基础的北京,开始了艰苦的生活。夫妇二人同心协力,贩卖半新不旧的自行车,进行了各种各样的生意买卖。在往后,北京城被中共军和平打开,李先生进入了华北大学,参加了中共的活动,他很快被派遣到了西安的中共中央委员会西北局,他身穿粗糙的军服,每天的伙食仅仅是小米粥而已。他在西北局的工作,一直持续到1951年(昭和26年)3月。
    李先生在西北局的工作是艰苦的,但在那里首次知道了共产党这个组织,特别是西北局局长彭德怀将军的廉洁程度,给他留下了强烈的印象。有这样一个小故事:
    西北局管理的作物生产,其收益有时候因丰收而比计划多了出来,在这种情况下,生产科和总务科的科长就商量,为了彭德怀将军的健康,将伙食的材料弄得好一点,虽说是要弄好,也不过就是在原本为小米粥的碗里,仅仅加上些蔬菜的腌制品而已,可是就在改变伙食后的那一天,彭德怀将两位科长叫到了办公室,彭将军听完改变伙食的理由后,就这样对两位说:
    “我非常感谢你们的好意,但是,我的生活费来自人民大众的腰包,如果浪费就实在对不起他们,这些浪费那怕是微不足道的也不行,请从今天开始,恢复原来的伙食!”
    这个时候李先生在总务科工作,从彭将军办公室回来的张总务科长,把大家召集起来,以感激的神情详细地讲给大伙听。看见过阎政权腐败情形而幻灭于政治的李先生,听了这些话后,对“彭老总”的敬仰之情更加强烈了。
    后来,回到太原的李先生就职于体育部门,但是,在闲暇的时候,他就被委派到了收容日本人战犯的太原战犯管理所,做战犯供述记录的翻译工作,供述的内容虽然忘光了,不过,他还记得翻译过河本大作夫人的弟弟所供述的记录。
    1970年(昭和45年),文化大革命的时候,他做过日语翻译的事情遭到弹劾,最后决定以劳动改造的名义,送他到农村强制劳动,就是现在的长治市那一带。李先生过去并不是作为翻译而工作的,可没有人能听进去他的这些申述。他做好了再也不能活着与家人见面的思想准备,与全家人合影作为最后的留念,他把悲壮的思想准备暗暗地埋在心底,以自然的表情迎接照相机闪光灯的照射。李先生把那张照片揣在怀里,奔向了农村。
    。李献瑞夫妇和孩子们,文革时李先生被送往农村之前,这是作为 最后的纪念而全家拍摄的照片 1970年摄于太原)
    劳改地方的生活环境很艰苦,在那里最好吃的东西就是农民不吃的玉米,因为那个时候“玉米是家畜的饲料”(译者注:译者是大同人,那个时候的大同农民连玉米也吃不饱)。每天吃的是高粱面以及绿豆粥等,而且数量连太原配给量的一半都达不到,还要一边忍受着饥饿,一边从事不习惯的农事作业,在农村的“劳动矫正”长达5年。
    1976年(昭和51年)好不容易活着回到太原的李先生,听到的是四年前恢复邦交的日本与中国的民间交流很兴旺,他利用日文版的《人民中国》以及收音机的广播,拼命地开始学习日语,他感到将要遗忘的日语又渐渐地复苏了。
    李献瑞夫妇1980年摄于太原
    1984年(昭和59年),迎来60岁初老的李先生,作为自行车比赛的交流代表团之负责人,首次访问日本,在日本的某个博物馆,看到了唐代由中国传去的一级文物、被作为国宝而加以珍视保管,他将“一衣带水”的两国关系与自己的人生反复对照,觉得感慨无限,而且,等待李先生的,是时隔30年的他所敬仰的神田秀夫老师。

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  2. 匿名

    李献瑞先生是我的叔叔,我是他的小侄子,也就是他的二哥的小儿子,我为有这样好的一个三叔,感到自豪,三叔在我很小的时候,就给我留下了慈祥而又威严的印象……在我小的时候,家里很苦,一家六口住在一间地下室里,三叔每次出差到北京,总是到我家里来,给我家带来一些山西老家的醋和杂粮,虽然很少,但也足已让我爸爸妈妈和我们兄弟姐妹好好的吃上一顿“过年的盛宴”了;三叔家有我好几个哥哥,大哥小瑞、二哥二瑞、三哥和我相差不多,那时爸爸也要我叫他三瑞哥哥,还有两个弟弟,一个是四瑞,一个是五瑞,四瑞小的时候得了肾炎不幸夭折,可让我三妈伤心了好久好久;五瑞由于一直没有见过,只是听说很仁义,一直到了三叔晚年的时候,我们兄弟姐妹回太原看望三叔时才见面,见面后才知道三叔一直是五瑞弟弟和五瑞媳妇照顾着……大哥小瑞年轻时正值文化大革命期间,来过北京到我家,身着一身那个年代年轻人最时髦帅气的“将校呢”,精神得很,满口的山西老家口音,让我望着他好出奇,后来不知过了多少年,我家从东城搬到了西城阜成门一带,一间小小的平房,有一天。小瑞哥哥带着他的女朋友,我未来的小蔚嫂子来到我家,未来的嫂子长得特别漂亮,圆圆的大眼睛水汪汪的,亮晶晶的,身上穿的衣服都是自己裁缝的,合身可体又很花样,还有一个夜莺般的嗓子,当时我家有一个手风琴,小瑞哥哥拉起手风琴,嫂子放歌一首,把胡同里的老老少少都招到了我家窗下,大家都想看看这位漂亮的姑娘,更羡慕她的长相和美丽漂亮的衣着,那是我都为我的小瑞哥哥感到神气十足……二瑞哥哥据说是体委信鸽协会的“领导”,他所领导的鸽子,经常拿到北京来放飞,然后还让我带他到鸽子市场去看有没有更好的鸽子再买回太原,但是,听说二瑞哥哥一心迷住了信鸽养殖,好大的年龄都还没有结婚……三瑞哥哥小的时候经常和三叔一起来北京,听说他的身体也不很好,每次来北京一方面看看中医太夫,一方面到我家来玩玩,我们睡在一张床上,他那胖胖的样子很招我们喜欢,后来大了,因为工作忙起来了,我们的来往也就少多了……前年,我和我的哥哥姐姐们一起去了老家太原,看望三叔他老人家,那是的三叔已经是高寿了,身患重病,听说我们来看他,他激动地流下了眼泪,他还颤颤巍巍的主持了李家一大家子的父老兄弟们的聚会,我们兄弟还一起买了一辆轮椅留给了三叔,三叔在改革开放以后有一次来到北京,还用出国人员购买免税电器的指标,给我买了一台索尼的随身听,那件东西是我有生以来最珍贵的东西,不在于它的本身价值,而更重要的是:那是三叔给我留下的永远珍贵的东西,至今那个随身听都不能再使用了,但是我,仍然把它留在我的“展柜”里,让他永远伴着我,就好像三叔就在我的身旁。(待续)

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  3. yama

    你好。
    我在山西留学时承蒙了李老师的关照。我至今非常感谢。
    他是很诚实很温柔,他是人情味魅力的知识分子。
    我想李老师是绝对爱国人,但关于历史话在中国由于政治上关怀不容易谈事实,他对我意在言外教了史实和中国社会的问题。
    我的历史观是李老师的影响下形成了。

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