太原陥落に起きた集団自決事件「太原五百完人」


1949年(昭和24年)4月24日早朝、中共軍は太原城への総攻撃を開始した。一千門に及ぶ火砲による砲撃で、堅牢な太原城壁にも突破口が開かれた。総隊司令部でこの時の様子を見ていた残留日本兵の永富博道は「正面に見える大きな東華門は破壊され、解放軍が林立した赤旗をなびかせながら大喚声をあげて太原城内に進撃してきた」と回想する。その日のうちに中共軍は城内掃討を完了、戦闘終結を宣言した。華北の要衝、太原の陥落である。

太原陥落で中共軍に捕らわれた山西軍首脳

太原陥落で中共軍に捕らわれた山西軍首脳。右から二番目が王靖国。隣は孫楚か。(1949年)

陥落時、孫楚や王靖国をはじめとする守備軍司令部は公署地下室で、今村方策ら残留日本人部隊は総隊司令部(旧軍司令部)で、それぞれ中共軍に投降した。ところが、彼ら軍人組の投降に対し、公署地下室など市内数カ所で、多数の政府関係者が自決するという近代中国で前代未聞の出来事が起きた。「太原五百完人」である。

自決したのは、省政府代理主席兼特種警憲指揮処長である梁敦厚(化之)、梁の妻で閻の親族である閻慧卿をはじめとする政府関係者である。梁と閻は服毒自決し、衛兵の手で遺体にガソリンで火を付けられ、敵手に陥るのを防いだと言われる。また、特警処では中級以上の幹部に金塊を支給、各人に一度帰宅を許した後に再集合し、互いに銃を撃ち合って自決に及んだという。公署以外の城内各地でも特警関係者を中心に自決者が続出した。自決者の中には、本人のみならず家族も共に自決した例があり、その中には中国人の警察署長と結婚した日本人妻もいたという。国民政府によれば、自決を含め、陥落に際して投降せずに殉死した者の数は五百六人にも及ぶ。

国民政府は、太原での殉死者を慰霊する「太原五百完人成仁招魂塚」の建設を議決、台湾に逃避した閻錫山は、1950年(昭和25年)8月、三十万台湾元を支出して、戦前に台湾神宮が置かれた台北市北郊の圓山の麓に招魂塚を建立した。招魂塚の壁面には、五百六人全員の氏名・官職・出身地が刻印され、霊廟を設けて祭壇を祀り、死者の霊を慰めた。

台北市に今も残る招魂塚。(台北市,2006年)

台北市に今も残る招魂塚。(台北市,2006年)

招魂塚には梁敦厚を筆頭に五百六人の名が刻まれている。

招魂塚には梁敦厚を筆頭に五百六人の名が刻まれている。

園内に建立された「五百完人成仁記念碑」。奥の朱色の建物は祭壇を祀った霊廟のようである。

園内に建立された「五百完人成仁記念碑」。奥の朱色の建物は祭壇を祀った霊廟のようである。

「太原五百完人」については、中共関係者から異論が出されている。占領直後に中共軍は公署地下室における自決者の報告書を作成しており、1983年にその報告書と台湾で発行された人名録をもとに精査した山西省政協文史委の隆存善は、自決者は四十六人に過ぎず、「太原五百完人」は志気向上のために捏造された”神話”であると断定した。

中共が確認できたとする四十六人はいずれも地下室で集団自決した幹部である。国府は城内における狭義の自決者を三百余人としており、この公式見解を裏付ける日本残留兵の回想もある。中共側は、五百六人の中には架空の人物も含まれるとするが、そもそも党中央委員会や監察院、立法府による審査を経ている以上、架空の死者を計上することはあり得まい。非投降など掃討戦で犠牲になった戦死者を含めて殉死者五百六人とする国府の主張に偽りはなかろう。

殉死者の多くは特警関係者で、彼らは包囲下の太原で苛烈な弾圧取締を行ったとされる。”解放後”の仕返しを恐れたと思われるが、自決者には晋劇役者など純粋な民間人もいる上、職務上の責任から家族をも道連れにする道理はない。やはり、中国人にとって異質の自決の道を選ばせるほど、彼らが閻錫山に心酔していたことは間違いあるまい。閻を階級の敵とする中共にとっては受け入れがたいものであろう。

李茂盛・雒春普・楊建中『閻錫山全伝(下)』当代中国出版社,1997年
永富博道『白狼の爪痕―山西残留秘史』新風書房,1996年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000358.html

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2 thoughts on “太原陥落に起きた集団自決事件「太原五百完人」

  1. 中国山西大同  陳尚士

     
    < 太原陷落时发生的集体自杀事件(太原五百完人
    土八路译自日本网络
    1949年(昭和20年)4月24日早晨,中共军开始向太原发起总攻击,由于多达千门火炮的攻击,坚固的太原城墙也被撕开了缺口,残留的日本兵永田博道当时在总队司令部,他回忆当时的情景为“解放军一边挥动着林立的红旗,一边高声呐喊着攻入太原城内”。就在当天,中共军就完成了城内的扫荡,宣告了战斗的结束。这一天是华北要冲太原陷落的日子 .
    陷落时,以孙楚和王靖国等人为首的守备军司令部在公署的地下室,以今村方策等为首的日本人残留部队在总队司令部(旧日军司令部),各自向中共军投降了。可是与他们这些军人的投降相反,多数的政府工作人员,在公署的地下室以及市内的数个地方,进行了自杀,发生了近代中国前所未闻的“五百完人”事件。
    自杀的人是以梁敦厚(化之)与其妻子阎慧卿为首的政府工作人员。梁敦厚是省政府代理主席兼特种警宪处长,阎慧卿是阎锡山的族亲。据说梁和阎服毒自杀后,又让卫兵在遗体上浇上汽油,付之一炬,以防遗体落入敌人之手。另外,据说梁在特警处将金条发给中级以上干部,容许他们回家一次后再来集合,然后互相开枪射击达到了自杀的目的。在公署以外的城内各地,也不断出现夫妇一起自杀的特警人员。在自杀的人里边,不仅仅本人自杀,也有与家族人一起自杀的例子。据说那里边就有中国的警察署长和与之结婚的日本妻子。据国民政府统计,包括自杀的,在陷落之际,不投降而殉死者的人数多达506人。
    国民政府决定建立旨在悼念太原殉死者的“太原五百完人成仁招魂塚”。逃跑到台湾的阎锡山于1950年(昭和25年)8月支出30万元台币,在战前设置于的台湾神宫,即台北市北郊的圆山山麓修建了招魂塚。在招魂塚的壁面,全部刻下了506人的姓名、官职、籍贯,设立灵庙,在祭坛上祭祀,安慰死者灵魂。
    关于太原五百完人,中共方面持有异议,中共占领太原后,提交了在公署地下室自杀者的报告书。山西省政协文史委的隆存善,于1983年将那份报告书与发行于台湾的人名录放在一起,精查细对,他断定自杀者不超过46人,“太原五百完人”是为了提高士气而捏造的“神话”。
    假定中共能够确认的46人都是在地下室集体自杀的干部,国民政府把在城内狭义的自杀者设定为300人,残留日本兵的回忆也旁证见解了这个公式。中共方面认定506人里边,包括了虚构的人物,可是,既然最初经历了由(国民党)中央委员会、检察院、立法府的审查,那么把虚构的死者计算在内是不可能的吧!包括在扫荡战中不投降而牺牲的战死者在内,国民政府设定殉死者为506人的主张,是不会有假的吧!
    殉死者多为特警人员,他们被认为在包围下的太原,进行了激烈的镇压管束,他们感到了“解放后”被报复的恐惧,不过,自杀者还有晋剧之类的纯粹民间人士,从职务上的责任来看,没有把家属作为同伙的道理。对于中国人而言,越是让他们选择本质不同的自杀道路,他们就越会醉心于阎锡山,这是不会有错的,对于把阎作为阶级敌人的中共来说,这是难以接受的吧!

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