歴史の闇に埋もれた陽高事件


陽高事件は、戦史研究者の秦郁彦氏が1987年に雑誌上で東條英機の戦争責任について論じたのをきっかけに知られるようになった(当該記事はのちに文藝春秋社より刊行された『現代史の争点』に収録されている)。陽高事件とは、1937年(昭和12年)9月、関東軍の察哈爾派遣兵団(兵団長は東條英機中将、以下、東條兵団)が山西省北部の町・陽高を占領した際に、非戦闘員を含む数百人を虐殺したとされる事件だ。国民政府も終戦直後に戦犯訴追のための調査を行ったが、東京裁判やBC級戦犯裁判でも訴追されることなく、歴史の闇に埋もれてしまうこととなった。

察哈爾作戦における東條英機兵団長(中央) (毎日新聞社,1937年)

察哈爾作戦における東條英機兵団長(中央) (毎日新聞社,1937年)

陽高事件と呼ばれるこの虐殺事件について、日中双方が述べる様相は大まかに一致している。戦後調査にあたった中共陽高県委党史研究室によれば、日本軍が陽高を占領した9月8日から翌9日にかけて、老幼問わず城内の男性500~600人が捕縛され、機銃掃射により殺害されたとしている。日本側の証言としては、まずは1963年に出版された畠山清行著『東京兵団Ⅰ』が挙げられる。本多旅団(混成第二旅団)に所属して陽高攻略にあたった歩兵第三連隊の湯浅連隊長の証言を紹介するかたちで、残敵掃蕩に名をかりた「男狩り」がされたとしている。男日照りとなった陽高では、その後、外省から男性を呼び入れて未亡人と集団結婚をさせた、という悲惨さだ。また、当時第四師団から動員され、湯浅部隊と同じ本多旅団に配属された野砲兵第四連隊の戦友会誌『野砲兵第四連隊並びに関連諸部隊史』も、事件について一章を割いて論じている。中国側の主張だけでなく、陽高攻略にあたった日本側関係者が認めているわけで、虐殺事件が起きたことは間違いない。

しかし、具体的な事件の経緯についてはよく分からない。というよりも、誰が虐殺を命令実行したのか、その犯人について、日本側の関係者の間では異なった主張がなされている。畠山本では、北から入城したという篠原旅団(混成第十五旅団)を実行犯として推測しているが、野四史では湯浅部隊であるとしている。そもそも野四史のように、戦友会として自らこのような不祥事を明らかにするのは珍しい。それもそのはず、野四史が陽高事件について論及したのは、事件について無関係であるにもかかわらず、終戦時に関係者が戦犯容疑で国府に拘引され迷惑千万だったからだ。野四史によれば、公文書である戦闘詳報がねつ造されていたというから話は穏やかではない。

秦氏の論もそうだが、この陽高事件は頑強な敵の抵抗によって多数の死傷者が発生したことで激高した現地部隊が敵がい心のあまり実行したものとしている。この点、本多旅団に所属する歩兵第一連隊が作成した陣中日誌「察哈爾作戦日誌」(複製)では、陽高攻略部隊は湯浅部隊とされている。9月13日付の電報(関参電第287号)では、10日までの間に判明した東條兵団による陽高攻略の死傷者数を「本多旅団戦死27(内将校1)、戦傷86(内将校5)」として、それ以外の篠原旅団などの損害は(ゼロとして)記載していない。ゆえに、死傷多数で激高云々が正しければ、それは陽高攻略を担った湯浅部隊にしか通用しない。

9月13日付の関参電第287号(アジア歴史資料センター Ref:C04012568700)

9月13日付の関参電第287号(アジア歴史資料センター Ref:C04012568700)。陽高攻略の死傷者数の報告が本多旅団についてのみ報告されていることは、篠原旅団は戦闘に参加していないことを意味する。この点で、畠山本や秦氏、それに『戦史叢書』が篠原旅団の参戦を記載しているのは誤りとなる。いずれも当時の戦闘詳報をもとに戦史を記述したはずで、野四史の史料ねつ造の主張は正しいことを傍証している。

前述の電報による死傷者数をみれば、湯浅部隊の陽高攻略はそれなりの戦だったことが分かる。野四史では、湯浅部隊は暗闇の中で梯子を城壁にかけて突入し、城内では「真くらやみで何が何やら敵味方共にわからず手榴弾の投げ合ひ」をやる混戦のなか、城門を開いて部隊主力が入城したという。野四史が大砲を「一発も射撃していない」としていることが正しければ、陽高戦は砲撃による城壁の破壊・突入路の確保といった通常の手順とは異なり、強引な攻撃方法だったようだ。湯浅部隊は陽高以降も激戦を繰り返していくが、これが二二六事件の粛軍のために損な役回りばかりさせられた、ということは良く指摘される。

ただ、激戦の後に非武装の捕虜や敗残兵、場合によっては便衣兵と誤認された住民を激高した現地部隊が殺害するという論法は、南京事件の論争でも良く持ち出される言い訳だが、軍規でがんじがらめにされていた兵士にとって、逆襲される恐れのある無益な大量殺戮を自らの意志だけで実行できるかは疑問である。単に殺害するだけでなく、遺体の処理には費用(公金)もかかる。しかも現地は蒙彊の新秩序をこれから樹立しようとしている地だ。現地部隊の暴走云々で片づけられるほど、問題は単純とは思えない。ようするに、上級司令部の関与が疑われるわけだ。

このことを示唆するのが、兵団長だった東條英機が首相時代に語ったとされる回想話だ。秦氏が指摘するように、東條は1943年(昭和18年)2月3日の夕食時の閑談で秘書官に対し、察哈爾作戦において「不穏な支那人等は全部首をはねた」と述懐したとされている。秦氏はこのエピソードを取り上げ、東條は事件の存在を認識している以上、少なくとも監督責任は逃れ得ないとする。しかしそれだけではあるまい。

当時、東條兵団と作戦行動を共にしていた蒙古軍司令の李守信将軍は戦後の自述で、察哈爾作戦では各地で捕虜虐殺が頻発していたことを証言をしている。また、このホームページでも紹介しているように、寧武でも陽高とそっくりの「男狩り」が起きたようである(→「寧武県城で起きたとされる虐殺事件」参照)。さらに徳化特務機関に在職した葛西は、陽高の前に攻略された万全県でも住民殺戮が起きたと回想している(内蒙古アパカ会編『特務機関』)。中国側の主張によれば、万全、天鎮、陽高、朔県、寧武など、東條兵団の進撃路で虐殺事件は頻発している。そして、陽高を含めてこれらチャハルにおける虐殺事件が不祥事であれば関係者の処罰が行われたはずだが、その形跡は見られない。

この点に関連して興味深いエピソードがある。それは、万全での住民殺戮を記した葛西が披露する東條についての噂話である。無辜の民を殺害?したとされる兵士を、東條が「泣いて馬蜀を斬る」として死刑に処したというのだ。すなわち、東條兵団は軍紀厳正だったというのである。『徳王自伝』を翻訳した森久男氏は「本多兵団は張家口に入城したが、三日間の無礼講が許された」としているが、中国側の調査でもこの時期に張家口において不祥事は起きていない。やはり軍紀厳正だったわけで、一連の虐殺は無法ではなく、作戦行動だったことになる。そもそも東條は前職が関東軍憲兵司令官だ。その東條が兵団では中隊レベルの運用・指揮にまで指示を出したと言われている。軍紀厳正で口やかましい指揮を行った東條が、後に「不穏な支那人等は全部首をはねた」と述懐しているのである。ようするに、「捕虜は取らぬ方針」というような命令を下し、持ち前の執拗さで隷下部隊に徹底させたのではあるまいか。

そもそも察哈爾作戦の目的は、乱暴な言い方をすれば、漢人に入植されたチャハルに山西を付けて蒙古人に明け渡そうというものだった。そして作戦は進撃に次ぐ進撃で兵站線が確保されず、各隊では慢性的な物資不足に悩まされたという。参加将兵が、一ヶ月もの間、飯を腹いっぱいに食べる機会がなかったと回想している例があるように、捕虜に支給する糧食はなく、警備に割く余剰人員もなかった。作戦自体が中央を無視して独断で行われたも同然であり、関東軍自体が早晩満州に引き揚げなくてはならなかった。その上で、作戦が行われた土地は、事変勃発時、中国全土で最も抗戦意欲の高い土地柄だった。陽高事件を記した畠山本でも、万全での殺戮を記した葛西も、共に軍民一体となって日本軍を攻撃したことが事件の要因となったと述べている。このような条件がそろえば、一罰百戒的に”不穏な支那人(漢人)”を減らそう、という安易な考えにとらわれても不思議ではない。

そして、中国側の調査報告によれば、チャハルで起きた虐殺事件の多くは第一線部隊の攻略数日後に入城してきた警備隊によって引き起こされている。ところが、陽高の場合は攻略翌朝に事件が起きており、第一線部隊による虐殺だったことは間違いない。しかも、チャハルで頻発していた虐殺事件について、唯一、陽高についてのみ当事者(しかも部隊長)の証言があることは重く見なければならない。ようするに、湯浅部隊の将兵は勇敢に戦った挙げ句、兵団司令部の命令で住民虐殺という汚れ仕事をさせられたのである。しかも、それは、兵団司令部→本多旅団長→湯浅連隊長→各中隊長という正規の命令系統によらないものだったのではないか。湯浅連隊長は全てを知っていたはずで、事件そのものについては明らかにしたが、(実行部隊を含めた)真相については口を閉ざした。部下を想ってのことだろう。

冒頭で触れたように、東京裁判やBC級戦犯裁判で陽高事件が訴追されることはなかった。陽高以外で起きた他の虐殺事件も同様である。民間人のゲリラ活動や敗残兵の平服への便衣は国際法上保護されず、処刑はグレーゾーンではあるが、それでも当時、復仇に血道を挙げていた国府が見逃すはずがなく、チャハルで起きたすべての虐殺事件が立件できなかったというのはあまりにも不自然である。その上で、畠山本と野四史によれば、終戦時、国府は湯浅部隊と野四の責任者を戦犯嫌疑で拘束して取り調べを行ったが、本多旅団長の上申書で拘引がすんなり解かれたという。そもそも本多旅団長に対して戦犯嫌疑がかけられなかった点を考えれば、やはり虐殺は正規の命令系統によらずに、兵団司令部が現場に対して命じたとしか考えられない。そして、最終的に訴追がなされなかったのは、秦氏が指摘するように、唯一と言って良い東京裁判の検察側証人だった田中隆吉が参謀として東條兵団に勤務していたことが関係していると思われる。

秦郁彦「東条英機の戦争責任」(『諸君』1987年8月号)
畠山清行『東京兵団Ⅰ』光風社,1963年
『野砲兵第四聯隊並びに関連諸部隊史』信太山砲四会,1982年
伊藤隆ほか編『東條内閣総理大臣機密記録』東京大学出版会,1990年
李乗新ほか主編『侵華日軍暴行総録』河北人民出版社,1995年
内蒙古アパカ会・岡村秀太郎共編『特務機関』国書刊行会,1990年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000130.html

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5 thoughts on “歴史の闇に埋もれた陽高事件

  1. 屋根の上のミケ

    陽高事件をキーワードに貴ブログにやってきました。
    事件の事は、東京裁判で東条英機が訴追されなかったという程度には、おぼろげながら知っていましたが、貴ブログで、さらに知識を明確にすることが出来ました。
    秦郁彦先生が、お調べになり、世に紹介された事件だということは、貴ブログで初めて知りました。
    貴ブログのお陰で、大変、勉強になりました。
    どうも、ありがとうございました。

    Reply
  2. yama

    屋根の上のミケ様
    4~5年前に陽高ではなく別件でチャハル関係の史料を防衛研究所で閲覧請求したとき、篠原旅団の史料は全て公開されているのに、兵団本部や本多旅団の史料は全て非公開(目録自体がなく、端末検索で史料の存在と非公開が分かったという次第)だったのを奇異に感じたことがあります。
    秦郁彦氏が事件への東條の関与を主張する根拠は、秘書官の日記(言行録)だけで、これは氏にしてはちょっと珍しいことです(根拠が弱い)。あまりこういったことを推論で述べるのは良くありませんが、氏は防研時代に事件を裏付ける史料、例えば、非公開になっている兵団本部や本多旅団の戦闘詳報等を閲覧しているのではないでしょうか。もしそれを表に出せないというのであれば、守秘義務違反を問われるからなのかもしれません。ただ、秦氏のやり方からすると、それぐらいでひるむ人ではありませんので、何か別の事情があるのかもしれません。
    私は当初、チャハルでの虐殺事件は陽高だけで、他の場所での事件は、中国側が敗残兵処理を誇張しているのだと思っていました。ところが陽高の前に万全で虐殺が起きたという葛西証言があるわけで、他の断片をつなぎ合わせると、本稿のような結論になります。書評で触れていますが、隆吉の部下の松井が、著書でチャハル作戦について全く触れていないのも、事件への当て付けとしか感じられません(筆を止めた張北の次は万全です)。
    陽高事件は、東條擁護論への疑問と同時に、東京裁判の信頼性についても疑問を投げかけるものと言えましょう。

    Reply
  3. 中国山西大同 陈尚士

    被掩埋于历史尘埃中的(山西)阳高事件
    土八路译自日本网络
    http://shanxi.nekoyamada.com/
    战史研究者秦郁彦氏,于1987年在杂志上就东条英机的战争责任问题进行了讨论,以此为契机,我才知道了阳高事件(该文章后来由文艺春秋社刊行,收录于《现代史的争论点》)。所谓的阳高事件,就是1937年9月,关东军察哈尔派遣兵团(兵团长为东条英机中将,以下简称东条兵团)在占领了山西省北部县城阳高后,包括非战斗人员在内的数百名中国人,被该部队屠杀这一事件。国民政府也在战后为了起诉战犯进行了调查,可是在东京审判以及BC级战犯的审判上,这一事件并没有被(检察官)提起公诉,因而埋没于历史的尘埃中了。
    在察哈尔作战的东条英机兵团长(正中央)(每日新闻社,1937年)
    关于被称为阳高屠杀的这一事件,日中双方描述的情况大致说来是相同的,根据承担战后调查的中共阳高县委党史研究室的资料,认为日军从占领阳高的9月8日起,到第二天的9月9日,不问老幼,逮住捆绑了城内的男性500—600人,这些人统统被机枪扫射杀害。作为日本方面的证言,首先能够举例的,就是1963年出版的畠山清行所著的《东京兵团》。根据介绍的隶属于本多兵团、担任进攻阳高的步兵第三联队长汤浅的证言情形,认为日军托名于扫荡残敌,进行了“搜查拘捕男子”的行动。在男人变为稀少的阳高,后来出现了这样的惨状,即(大量)引进外省男人与寡妇进行集体结婚。另外,在当时从第四师团动员的、与汤浅部队一样隶属于本多旅团的野炮第四联队的战友会志—-《野炮第四联队及相关各部队史》里,(以下简称《野四史》)也就这一事件分出一章,进行了论述。这一事件不仅仅是中国方面的主张,承担进攻阳高的日本方面的当事者也不否认,发生了屠杀事件是确切无疑的。
    但是,关于事件的具体经过还不太清楚,是谁下的命令、是谁执行屠杀的呢?关于这些战争罪犯,在日本方面的当事者之间,是具有不同主张的。在畠山清行的书本里,把由北边入城的蓧原旅团(混成第15旅团)作为实施罪犯的对象而加以推测,而在《野四史》里,则认为是汤浅部队干的。像《野四史》那样,作为战友会自己把不吉祥的事件加以澄清,毕竟是极为罕见的。罕见归罕见,《野四史》就阳高事件论及的内容,尽管与这一(屠杀)事件没有关系,而战争结束时,当事者以战犯嫌疑人身份,被国民政府逮捕,还是遇到了重重麻烦。据《野四史》讲,因为作为(日军)公文的“战斗详报”是虚构的,所以那些事情并不可靠、并不恰当。
    秦郁彦氏的论述也是这样的,不过,秦氏认为,这一阳高事件是由于敌人的顽强抵抗,致使现场攻击的部队产生了众多伤亡者,这是日军出于对敌人的愤恨而实施的报复。这一点在隶属于本多旅团的步兵第1联队制作的阵中日志“察哈尔作战日志”里,也认为汤浅部队是攻略阳高的部队。在落款为9月13日的电报上(关参电第287号),在截至于10日的这一段时间里,明确地记录了由东条兵团进攻阳高而导致的伤亡人数,“本多旅团战死27人(内含将校1人),战伤86人(内含将校5人)”除此以外,并没有记载筱原旅团等的损失(损失为零)。所以说,因伤亡众多而群情激愤的说法如果正确的话,那么除了担任攻略阳高的汤浅部队外,说其他部队制造了这一事件是讲不通的。
    (日期为9月13日的关参电287号这个攻略阳高的伤亡人数的报告,仅仅是关于本多旅团的报告,这就意味着筱原旅团没有参加战斗,在这一点上,畠山本以及秦氏,还有《战史丛书》记载的筱原旅团的参战就成为错误。不管怎么说,当时的战斗详报应该同时也记录了战史,这就旁证了《野四史》是捏造的这一主张是正确的。)
    从前述电报的伤亡人数来看,就能明白,攻略阳高的汤浅部队是恰如其分地进行了战斗。在《野四史》里,说汤浅部队在黑暗中登着梯子突入了城墙,在城内“一片漆黑中,敌我都双方弄不清谁是谁,而相互投掷手榴弹”,就在这样的混战中,打开了城门,主力部队才得以攻入了城里。《野四史》认为,大炮“连一发也没有发射”,如果这件事确切的话,那么,阳高之战就与通常的战法不同,它好像不是依靠炮击破毁城墙,来确保突入的路线,而是采取了强行的攻城战法。虽然浅汤部队在阳高作战之后,又反复进行了激烈的战斗,但因为226事件的军队整肃,硬让这支部队一味地干赔本的任务,这样的做法常常遭到指责。
    只是激战后,由于场合的不同,群情激愤的日军,把居民们被误认为成非武装的俘虏、残兵败将、以及便衣部队而加以杀害,这样的推理方式,在南京事件的争辩中,也是被常常拿出来的说辞。可对于被军纪束缚的士兵来说,仅凭自己的意志就能够实施有可能遭到反击的、无益的大量杀戮吗?这是个疑问。不单单是屠杀,遗体的处理也需要费用(公款)。而且,当地是今后要树立的蒙疆新秩序之地,这个问题,不能够简单地认为是现场部队在情急之下做出的杀戮行为。总而言之,应该怀疑这件事与上级司令部有关。
    启示了这一看法的,是被作为回忆记录的、当时身为兵团长的东条英机在其首相时代的言论。就像秦郁彦氏所指出的那样,东条于1943年(昭和18年)2月3日,在晚饭时的闲谈中追述往事,在谈到察哈尔作战时,他对秘书说:“把不稳定的支那人等,全部砍了头”。秦氏提取了这个小故事,认为东条既然认识到了存在的事件,至少他逃脱不了监督的责任,然而仅仅凭这些还是不足以说明问题的吧!
    当时,与东条兵团并肩作战的蒙古军司令李守信将军,在其战后的自述里留下了证言,察哈尔作战时,在各地频繁地发生了屠杀俘虏事件。另外,就像这个网站介绍的那样,在宁武也发生了与阳高一模一样的“搜查拘捕男子”事件。还有在德化特务机关供职的葛西,他回忆说,在阳高之前就被日军攻略的万全县,也发生了屠杀居民的事件。按照中国方面的说法,在东条兵团进击的沿途,如万全、天镇、阳高、朔县、宁武等地,都频繁地发生了屠杀事件。而包括阳高在内,发生在察哈尔的这些屠杀事件,既然是不吉利的事件,按理就应对当事者进行处罚,可是却看不到其踪迹。
    有个小故事与这一点有着意味深长的联系。那就是记录了日军在万全杀戮居民的葛西,由他所披露了有关东条的逸闻。对于被认为是杀害了无辜居民的日本士兵,东条以“挥泪斩马谡”的姿态,将他们处以了死刑。也就是说东条兵团的军纪是严明的。尽管翻译了《德王自传》的森久男氏认为“本多兵团虽然进入了张家口,却容许(士兵)不拘小节开怀畅饮三天”,然而即使中国方面的调查,在这一期间,张家口并没有发生不吉祥的事件。这还是军纪严明的缘故,发生的一系列杀戮行为,不是目无法纪的粗暴,而是归结为作战行为。说起东条这个人,他的前职是关东军宪兵司令官。据说这个东条,在兵团里发出的指示,甚至要深入贯彻、灵活指挥到中队那一级的层面。军纪严明而好唠唠叨叨指挥的东条,在他后来追述往事时,说出了“把不稳定的支那人等全部砍了头”。总而言之,是他下达了“原则上不必负担俘虏”之类的命令,是以他天生执拗的秉性,让其属下的部队贯彻执行到底的吧!
    粗暴地讲,察哈尔作战的最初目的,就是要把迁入了汉人的察哈尔,再附加上山西,一并让给蒙古人。而战争状态为,进攻之后接着又是进攻,因而兵站补给线得不到确保,据说各个部队都为物资的渐渐缺乏而感到烦恼。参战的将士在长达一个月的时间里,没有吃饱肚子的机会,就像回忆的事例那样,既没有多余的粮食支付给俘虏,又不能分出多余的军人用于警备。(关东军)作战的本身就形同于无视中央的独断专行,关东军本身早晚是要撤回满洲的。再加上作战所处的地区,它在中日事变爆发时,是全中国抗战意志最强的地方。记述了阳高事件的畠山本以及记述了万全杀戮的葛西,在他们的记述中都认为,促成阳高事件的主要原因,是(中国方面的)军民同心协力攻击了日军。如果这些条件具备了的话,那么,要杀一儆百地减少“不稳定的中国人”,从而采取了这样简单的思维,也不见得不可思议。
    而据中国方面的调查报告,很多发生在察哈尔的屠杀事件,是在第一线部队攻占数日之后,由来到城里的警备队干的。可是,阳高的情况是,在攻占后的第二天早晨,由第一线部队实施了屠杀,这件事肯定没错。而且,关于在察哈尔频发的屠杀事件中,唯有就阳高的当事人(而且是部队的长官)的证言,是必须看重的。总而言之,汤浅部队的将士勇敢战斗的结局,是按照兵团司令部的命令,硬让他们干了屠杀居民这一肮脏勾当的。而且,这一事件是不是按照这样的正规命令系统下达的:兵团司令部——本多旅团长——汤浅联队长——各个中队长。汤浅联队长应该是完全知道这个秘密的,关于事件的本身虽然已经弄明白了,而对于(包括实施部队)的真相他却闭口不言。他是在为部下着想吧!
    就像我在文章开头谈及的那样,在东京审判以及BC级审判上,阳高事件并没有被提起公诉,在阳高以外发生的其他屠杀事件也没有被起诉。民间人士的游击活动以及穿上平民服装的残兵败将,他们在国际法上是不受保护的,对他们处以刑罚是否合法,尚无定论。不过,尽管如此,当时执意复仇的国民政府是不会遗漏(阳高事件)的,而发生在察哈尔的所有屠杀事件,却不能立案,这显得很不自然。另外,据畠山本和《野四史》的记载,战争结束时,国民政府以战犯嫌疑者,将汤浅部队和“野四”的责任人拘禁,尽管进行了调查,但由于本多旅团长上呈了述状,据说禁闭就顺利地被解除了。毕竟没有对本多旅团长作为战犯嫌疑人处置,如果从这一点考虑的话,屠杀事件就不是按照正规的命令系统来实施的,只能考虑为兵团司令部针对当时的情况而下的命令。而(阳高事件)最终没有被提起公诉,这就像秦氏指出的那样,可以说成是唯一的、作为东京审判检察一方的证人是田中隆一,田中作为参谋曾在东条兵团工作过,一般认为与这层关系有关。

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  4. 山西省阳高县 孤影无情箭

    1937年9月9日,日军占领阳高,制造了南瓮城惨案。一座文明古城受到严重摧残。
      阳高县城的东南角,在1937年9月9日晚上零点钟,侵华日军就是从这个城墙口攻入阳高城的。
      此前,阎锡山61军414团600多名士兵与日军展开激战后未能及时疏散群众,弃城逃走,更可悲的是有个叫孙存仁的市民曾经迎接过张作霖的军队,捞了个专管粮草、税款的支应局局长,从中发了大财,这次日军打进来,他又故伎重演,上街大喊大叫,组织群众张灯举旗,欢迎日本兵,他从东街、南街窜到西大街,带领聚集的人群到了十字街,日军核枪实弹,杀气腾腾,不准人们动弹,到下午4点钟的时候,日军把妇女、老幼挑出来,把青壮年男子押向南大街,屠杀开始了。
      阳高县城的南大街,在1937年9月9日下午的4点钟,日军就是在这里制造了骇人听闻的南瓮城惨案。
      日本人来到南瓮城以后,已经把机枪、步枪布置好了,开枪就是个打。
      这里曾经是一座关帝庙,日本人以领取良民证为借口又进行了三天的集中大屠杀。
      反正是进你家搜出青壮年,就驱赶到这儿,驱赶到这儿不是机枪扫,就是屠杀,整个儿就屠杀,大部分在这儿,究竟屠杀100还是多少闹不清。
      此外,南街一家商店18个男人被逼赶到一大粪坑边,先用刺刀捅死,然后推倒土墙把18人全部压在下面,南街小书铺一个青年被日军砍下头来,扔进煮饭的锅里,至于对妇女、少女奸污蹂躏更是难以言状。
      日本人在南瓮城屠杀男人以后,在白色恐怖笼罩下,当时阳高城好像青天白日也看似灰色的,女人们感觉到没法儿活了,怕的不行,所以感觉到活不如死,结果带上孩子先把孩子扔下去然后她栽下去,有的一口井十几个人跳下,究竟几个井多少人大概死了一百多个人。
      在日军惨绝人寰的血腥屠杀中,善良无辜的人们就这样一群群一个个的倒下去了,鲜血模糊了人们的面孔,鲜血映红了家乡的土地,一座阳高县城简直变成了死城。这次日军共血腥屠杀无辜同胞1000余人,也是日军铁骑踏上黄土高原后欠下山西人民的第一笔血债。
      1997年在日寇入侵阳高制造的南瓮城惨案60周年之际,阳高县委、县政府在惨案遗址建起了“耻”字碑,这些都成为本县的爱国主义教育基地,并被省、市确定为德育教育基地。

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  5. 中国山西大同陈尚士(土八路)

    水聚云集2010-03-27 21:32:13[回复] [删除] [举报]
    小日本到底是什么意思
    博主回复:2010-03-28 04:03:02[删除]
    您说的对,我们中国人对于阳高事件,一概笼统地认为是日军干的,但究竟是那支部队干的,就不加细究了。但日本人认真,非要弄个一清二楚。
    换句话说,作者要究明是究竟哪支部队干了这件事。由于我们对日军的编制、番号不熟悉,所以就如坠雾里云中。
    土八路2010-03-28 04:14:02[回复] [删除] [举报]
    也就是说,以前被作为嫌疑者的野战炮兵第四联队,可能有误,它的“战斗详报”是被(自己人)捏造的。日军部队的名称我觉得很混乱,有时冠以长官的姓氏,有时又数字称呼,所以中国人看后还是弄不清楚。

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