内モンゴルで試みられた国軍初の空挺作戦


航空機を利用して兵力を敵地に投入する空中挺進作戦。その構想は第一次大戦で生まれ、戦間期には各国で研究が行われたが、実際に戦場で試したのは日本軍が初めてだ。昭和12年(1937年)8月に関東軍が内モンゴルで行った作戦がそれにあたる。独立守備隊から抽出編成した堤支隊を張北に急派、拠点を設定して敵を牽制し、兵団主力の進出を援護するものだった。兵力の規模は約二個大隊と小規模、展開の仕方も陸路との併用で、空路は落下傘降下はなく空輸と地味だった。しかし、機械化部隊に空挺を組み合わせた空地一体型の機動作戦という国軍初の試みにしては首尾良く行われ、敵に対して効果的だった点で特筆される。

事変発生当時、内モンゴルには日本軍の勢力下にある内蒙軍(李守信将軍麾下の騎兵四個師が主力)と特務機関が存在するだけで、兵力二十万と見積もられた中国軍の本格進攻を拒止する態勢にはなかった。中国側にとっては平綏線の鉄道輸送で兵力の集中が容易であり、東進して多倫―承徳方面を脅かすことで平津地方の日本軍を包囲することが可能だった。参謀本部は中国軍を刺激することを恐れ、関東軍の度重なる意見具申を拒否し、多倫以西への進出を固く禁じていたが、中央軍の北上で中国側の開戦意志が間違いないとなると、8月9日、臨参命第72号で察哈爾作戦を命じた。関東軍は内示段階の8月7日の時点で、いち早く堤支隊に張北への進出を命令、一部は航空機による空輸を行い、8月10日には張北に一応の集結を完了した。8月2日に天津を出発して約一週間で張北展開という早さであった。

堤支隊の装甲車

堤支隊の装甲車

堤支隊は、満州駐留の第三独立守備隊から歩兵二個中隊を基幹に白城子で編成された。支隊長は堤不來貴中佐(24期)。機関銃、歩兵砲、工兵、装甲自動車の各中隊を編合し、軽装甲車4両、トラック58両、自動二輪4両の計66両の車輌を有する機械化集成部隊だった。後に歩兵二個中隊が増員されており、張北での戦闘参加時の人員は844名を数えた。支隊は対ソ防諜のため、いったん鉄道輸送でチチハル、ハルビンまで北上、その後、南下し、7月31日に天津着。翌々日の8月2日に多倫へ出発するが、途中、中国側の妨害で列車が転覆したため、急遽、承徳で受領した車輌で多倫を経て張北へ、およそ450キロもの未踏の地を走破することとなった。特務機関員による事前の地理偵察の甲斐もあって、8月8日には先頭部隊が張北に到着、翌9日には遅れていた装甲車も到着し、一台の落伍もなく集結している。熱河作戦の経験が活かされた迅速な機動進駐だ。

陸路による本隊の移動とともに、航空機による空輸が併行して行われた。まず、多倫警備のため残置していた歩兵一個中隊を張北に急派するため、満洲航空株式会社の所有機で動員編成された臨時軽爆撃隊(隊長は同社所属の石川航空兵少佐)に対し、8月9日払暁より全16機全力を以て多倫―張北間の空輸を命じた。空輸に供されたのは、主に6人乗りのスーパーユニバーサル機。武器弾薬と共に完全武装の兵士を6名ずつ乗せて、同日19時までに張北への空輸を完了した。次いで、関東軍は同日中にスーパー機6機に奉天飛行場への集結を命令。翌10日より増員部隊の空輸を開始した。堤支隊の戦闘詳報によれば、10日は独立守備隊からの64名、12日は歩兵第四連隊から抽出された大泉支隊(一個大隊)の45名と独守87名、13日には独守180名を張北に空輸している。

満洲航空のスーパーユニバーサル機。非常に安定した飛行性能を持つ機体で、作戦間の事故もなかった。主翼は木製、鋼鉄の骨組みに張布貼りという軽量な機体で、敵の対空砲火には無力だった。

満洲航空のスーパーユニバーサル機。非常に安定した飛行性能を持つ機体で、作戦間の事故もなかった。主翼は木製、鋼鉄の骨組みに張布貼りという軽量な機体で、敵の対空砲火には無力だった。

空輸中の事故や敵の攻撃による損害もなく、無事に張北で集結を完了した堤支隊は、県城および飛行場の確保にあたるとともに、張北の東約90キロの平定堡への大泉支隊の展開に協力、張北―平定堡のラインで兵団本隊(混成第二旅団)の進出を援護した。大泉支隊の一部は、飛行機で下りてすぐに堤支隊のトラックで平定堡に進出するという慌ただしさで、参加将兵の苦労がしのばれる。その間、西方に布陣した内蒙軍は、中国軍主力の圧迫を抑えつつ逐次後退し、康保―張北のラインが完成した。18日、張北を守備する堤支隊と内蒙軍は、精鋭で知られる中国軍騎兵第七師(門炳岳)の攻撃を受けたが、協同して激戦の末にこれを撃退し、ここに張北を橋頭堡とした体制が確立した。これ以降、関東軍は張北―平定堡のラインより南下し、長城線を越えて張家口を攻略することとなる。9月9日、堤支隊は混成第二旅団との連名で、平綏分断とその後の戦闘での活躍を評されて感状を授与された。

内蒙軍の騎兵隊。堤支隊の成功の裏には設立間もない内蒙軍の活躍があった。

内蒙軍の騎兵隊。堤支隊の成功の裏には設立間もない内蒙軍の活躍があった。

一週間の空挺作戦で展開した兵員はおよそ五百名。数としては多くないが、迅速な橋頭堡の設定により敵の第一撃を撃退することに成功し、敵に脅威を与えて兵団主力の進出まで同地を確保する任務を全うできた。当時、作戦に関与した松井大尉は、空挺作戦は事前に検討されていたわけではなく、関東軍司令部内において交わされた議論が徐々に構想としてまとまって作戦に結実したとする。ただ、空地一体型の機動作戦の発想自体がゼロから生まれたわけではない。1935年(昭和10年)に隣国ソ連で行われたキエフ機動演習では、落下傘降下と機械化部隊を統合した敵地強襲の様子が目の前で展開されて、日本を含む列国武官らの肝を抜いた経緯があり、作戦参謀の頭に強く印象づけられていたことは間違いない。すでに熱河作戦で機械化部隊の運用と兵員空輸に豊富な経験を積んでいた関東軍にとっては、チャレンジというほどに困難ではなく、実戦で試行するのに良い機会だったと言える。

堤支隊戦闘詳報第一号「天津及張北附近ノ戦闘詳報」1937年,防衛研究所所蔵
堤支隊戦闘詳報第二号「張北ニ於ケル軍ノ集中、援護及同地附近戦闘詳報」1937年,防衛研究所所蔵
防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書86 支那事変陸軍作戦(1)』朝雲新聞社,1975年
松井忠雄『内蒙三国志』原書房,1966年
満洲航空史話編纂委員会『満洲航空史話』同誌編纂委員会,1972年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000361.html

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One thought on “内モンゴルで試みられた国軍初の空挺作戦

  1. 中国山西大同陈尚士

    日军在内蒙古尝试的空降作战
    土八路译自日本网络http://shanxi.nekoyam ada.com/
    利用飞机将兵力投入到敌占区的空中挺进作战这一构想,产生于第一次世界大战,在战争期间虽然各国进行了研究,但实际在战场进行首次尝试的是日军。昭和12年(1937年)8月,关东军在内蒙古进行作战,就是这种尝试。由独立警备队抽调(人员)组成的堤支队被紧急派往张北,设立了据点,牵制敌人,掩护兵团主力的推进。派遣兵力的规模约两个大队的小规模,展开的方式也是与陆路并进,空路并没有使用降落伞降落,而是采取了保守的空运方式。但是,机械化部队组合了空降的空地一体型的机动作战,作为日军的初次尝试,首尾兼顾,在对敌凑效这一点上,还 是被大书特书了。
    中日事变爆发的那个时候,存在于内蒙古的、在日军势力之下的,仅有李守信将军麾下的四个主力骑兵师和特务机关,对于估计为20万兵力的中国军队的正式进攻,并没有抗拒的姿态。对于中国方面而言,由于平绥线的铁路运输易于集中兵力,东进则通过威胁多伦—承德,有可能包围平津地区的日军。参谋本部担心刺激中国军队,否决了关东军呈报的重复了多次的意见,坚决禁止向多伦以西进攻,不过,由于(蒋介石的)中央军北上,中国方面的战斗意志一旦确认无误后,8月9日,(日本关东军)就以临参命第72号,下达了察哈尔作战的命令。关东军在秘密指示阶段的8月7日那个时点,就迅速地命令堤支队向张北进攻,一部分通过飞机进行空运,8月10日,就在张北大致完成了集结。其速度是很快的,8月2日从天津出发,大约用了一周的时间就在张北展开了。
    堤支队的装甲车
    堤支队是以留驻满洲的第三独立守备队的两个步兵中队为骨干,在白城子组编的,堤不来贵中佐担任支队长。它组合了机关枪、步兵炮、工兵、装甲汽车等中队,轻装甲车4辆,卡车58辆,两轮摩托4辆,是共计拥有66辆车辆的机械化集成部队。后来又增加了两个步兵中队,在张北参加战斗时的人员数到了844名。堤支队为了防止苏联间谍的侦知,采用铁路运输,一次北上到达齐齐哈尔、哈尔滨,然后南下,7月31日到达天津。两天后的8月2日向多伦出发,可是,由于中国方面的阻扰,途中列车颠覆,在承德急忙用领受的车辆经过多伦奔向张北,跑完了大约450公里的人类足迹未涉之地。由特务机关人员事先进行的地理侦察,也是很有价值、很起作用的,8月8日先头部队到达张北,第二天的9日,迟来的装甲车也赶到了,没有一辆掉队而集结完毕。这是发挥热河作战经验的迅速机动的进驻。
    在总队经过陆路移动的同时,由飞机进行的空运也同时展开。首先,为了警备多伦,将留置的一个步兵中队赶忙派往张北,为此,动员满洲航空株式会社的所有飞机,编成了临时轻轰炸队,(队长为同社所属的石川航空兵少佐),命令其从8月9日拂晓起,全力以共有的16架飞机,进行了多伦—张北之间的空运。提供空运的飞机是主要是乘坐6个人的超级通用飞机(译者注:不知译的对不对,原文是“スーパーユニバーサル機”),每一架次都是武器弹药随着全副武装的6名士兵一起运载,在当天晚上的7时以前,完成了向张北的空运。紧接着关东军在同一天命令6架超级通用飞机飞往奉天(沈阳)机场集结。从第二天的10日起,开始空运增援部队。按堤支队的战斗祥报讲,10日,来自独立守备队的64人、12日,由步兵第四联队抽出的大泉支队(一个大队)的45人和独立守备队的87人、13日独立守备队的180人都空运到了张北。
    这是满洲的超级通用飞机。机体具有非常稳定的飞行性能,作战期间也不发生事故。主翼是木制的,机体的重量轻,在钢铁骨架上装帖帆布,对于敌人的防空炮火是无能为力的。
    堤支队在空运中没有发生事故,也没有因敌人的攻击而导致的损失,平安无事地在张北完成了集结。在担当确保县城以及机场的重任的同时,还协助大泉支队向张北东侧约90公里的平定堡展开,在张北—平定堡一线,掩护兵团总队(混成第二旅团)的进展。大泉支队的一部,下了飞机之后,立即乘坐堤支队的卡车,向平定堡推进,由于慌乱,掩饰了参战将士的疲劳。在此期间,布阵于西边的内蒙军,一边阻挡中国军队主力的压迫,一边依次后撤,康保—张北一线的阵容就此完成了。18日守备张北的堤支队和内蒙军,虽然受到了以精锐称著的中国骑兵第七师(门炳岳)的攻击,但由于齐心协力,激战的结果击退了敌人,在这里确立了以张北为桥头堡的体制。从此以后,关东军由张北—平定堡一线南下,完成了越过长城一线向张家口攻略的部署。9月9日,堤支队与混成第二旅团联名,分割平绥铁路,在其后战斗中的积极活动受到了好评,其战功受到了嘉奖。
    这是内蒙军的骑兵。在堤支队成功的背后,有成立不久的内蒙军在活动。
    通过一周时间的空运作战,展开的兵员大约为500人,作为人数来说虽然不多,但通过迅速地建立桥头堡,成功地击退了敌人的第一次攻击,给敌人以威胁,直到兵团主力的挺进为止,圆满地完成了确保该地的任务。当时参与作战的松井大尉认为,空运作战事先并没有研讨,而是作为关东军内部交换的意见,渐渐地被归纳为构想,进而在作战中结出的果实。不过,空地一体型的机动作战构想的本身,并不是从零产生出来的。1935年(昭和10年)在临国苏联进行的キエフ机动演习中,展示了统合着降落伞降落和机械化部队的强袭敌占区的情况,包括日本在内的各国武官为之惊魂动魄,毫无疑问,这一经历给作战参谋的头脑中留下了深刻的印象。对于马上曾在热河作战中运用机械化部队的、在兵员空运上积累了丰富经验的关东军来说,并没有具有挑战性程度的困难,可以说这是在实战中,进行试验的一个绝好机会。

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