誇張された「平型関大捷」


中共が抗日戦争を語るときに必ず挙げるのが平型関における戦いだ。平型関では日中両軍が激戦を繰り広げたが、日本軍と戦ったのは国民政府軍(山西軍)であって、中共が参戦したのは一局面に過ぎない。しかも「抗戦初の勝利」と中共が自画自賛する戦いは、非武装に近い補給部隊を襲撃して物資を奪ったのが実情で、戦局に資するところもなかった。

嶮しい山岳地帯の峡間を進軍する板垣兵団の隊列(1937年,朝日新聞社)

嶮しい山岳地帯の峡間を進軍する板垣兵団の隊列(1937年,朝日新聞社)

平津地方を制圧し、中国軍の堅陣を突破して外長城線を越えた日本軍第五師団(兵団長は板垣征四郎中将、以下、板垣兵団)は、9月11日、河北省の蔚県を攻略して山西省に侵攻した。北支那方面軍の命令により、一個旅団を河北方面に転進させた板垣兵団は、残る一個旅団(旅団長は三浦少将、歩兵第二十一及び同四十二連隊が基幹、以下、三浦支隊)で、平型関の攻略を行うこととなった。

平型関は、山西省を守る第二戦区司令長官の閻錫山が、三線にわたる防衛線として計画した第一線目であり、峻険な地形を利用した強固な防衛陣地が内長城線に沿って構築されていた。そこに計五個師五万の兵力が配置された。中国側の正面戦場の布陣は、中央に第十五軍(劉茂恩)、右翼に第十七軍(高桂滋)、左翼に第三十三軍(孫楚)であった。これに対して三浦支隊は、歩兵第四十二連隊を後方に置いて、歩兵第二十一連隊を渾源から策応させるほかは、三個大隊に過ぎない支隊主力をもって霊丘から平型関正面への攻撃を行うことに決した。9月22日、支隊主力は平型関の正面に進出して攻撃を開始、以後七日間にわたって彼我の間で激戦が繰り広げられた。

戦況は容易に進展せず、戦線は膠着状態に陥った。9月25日、三浦支隊はようやく正面の一部を占領することが出来たが、敵の絶え間ない攻撃に損害が続出、後方も遮断され、弾薬残数が僅かとなり危機に陥った。支隊主力を救援すべく、歩兵第二十一連隊は戦線を離脱して南下、歩兵第四十二連隊も広霊を出発して救援に向かった。三日後の28日にようやく後方が確保され、翌29日、三浦支隊は全隊をあげて白昼総攻撃を決行したが失敗に終わった。このとき、板垣兵団救援のために南下した関東軍察哈爾派遣兵団(いわゆる東条兵団)が、平型関の後背に延びる内長城線を攻撃、うち歩兵第一連隊を基幹とする十川支隊は、北を守る第三十四軍(楊愛源)の防衛線を突破して、平型関守備軍の側背を脅かすに至った。30日、ようやく平型関正面の中国軍は撤退し、三浦支隊は内長城線を越えて大営鎮を占領、平型関を突破できた。この一週間の戦闘で日本軍は1500名以上の戦死傷者を出し、中国軍も数千人にのぼる戦死傷者を出した。

*  *  *

この平型関戦には中共軍も参加している。林彪率いる第百十五師だ。ただ、正面での戦闘には参戦していない。中共は平型関戦に先立つ9月21日に、前線司令部のある代県嶺口において、戦区司令官の閻錫山と中共軍の参戦について協議している。このとき閻錫山は、第百十五師の正面戦場への投入を打診したが、中共はこれを拒絶し、後方における独立行動を確約している。実は、中共はすでに8月22日から25日にかけて開催された洛川会議において、抗日を呼びかける「抗日救国十大綱領」を発表する一方で、中共軍の正面戦場への参戦を否定し、根拠地建設を最優先することを決定していたからである。「七分発展、三分抵抗」である。このような国家の危急に際して自らの勢力拡大を優先する方針は、「遊撃戦」という都合の良い言葉でオブラートに包まれた。閻錫山は妥協し、第百十五師は日本軍の後背を攻撃するため、平型関から出撃した。

9月25日、第百十五師は、平型関の北東約5キロの位置にある関溝村―小塞村に出没、日本軍の自動車隊と輜重隊を襲撃した。これが平型関における中共軍の唯一の参戦である。9月25日に三浦支隊主力の後方連絡線が遮断された原因がこれである。攻撃を受けたのは、負傷者の後送と補給品受領のために霊丘へ帰還途中の第六兵站自動車隊と、冬服や食糧・弾薬の輸送に従事していた歩兵第二十一連隊の行李隊で、ほぼ同じ時刻に数キロ離れた同じような隘路において襲撃を受けたのだった。歩兵第二十一連隊の戦友会誌『浜田聯隊史』は、被害現場に遭遇した将兵の回想を次のように掲載している。

再び前進を続けるうち、意外な光景にぶつかって一瞬足のすくむ思いがした…一〇〇台余りの自動車が無惨にも焼却され約二〇メートル間隔に残骸が転がっており、戦死体も新庄中佐を初め道路上にあるもの、あるいは運転台に焼けただれて横たわっているもの等無数にあり、まったく目を覆う惨状である。……焼けただれた自動車を一台一台片側に寄せ、戦死体の後片づけを終わるのに三時間もかかったろうか、やっとどうにか通行出来るようになり前進を始め峠にかかった。峠の上からふと谷間を見下すとまたまた輜重車輌隊の全滅か。輜重車人馬共に死体となり累々として道路を埋めているではないか。これこそ栗飯原部隊[歩兵第二十一連隊]の大行李及び山口、中島両大隊の大行李、小行李隊の地獄絵図さながらの悲惨な全滅の様相であった。
(歩二一会編『浜田聯隊史』1973年,105頁)

第六兵站自動車隊の編成を担当した第十四師団輜重隊の戦友会誌『宇都宮輜重史』によれば、自動車隊は二個中隊が攻撃を受け、隊長の新庄中佐以下戦死41名、負傷・生死不明約50名の損害を受けたという(165頁)。防衛研究所が保管する史料には、10月1日付で北支那方面軍が第六兵站自動車隊の欠員100名の補充を陸軍省に要請しており(方軍参三第一五八号電)、損害の数がおおよそ一致している。また、輜重行李隊については、『浜田聯隊史』によると、護衛小隊を含めて約110名のうち生還した者はたった5名に過ぎず、ほぼ全滅だったという(105-106頁)。行李隊に同行していた師団情報参謀の橋本中佐も戦死した。襲撃の一報は、退却した自動車隊の一部によって三浦支隊にもたらされたようだ。『山口歩兵第四十二連隊史』によれば、救援のため現場に急派された一個小隊も殲滅された(193頁)というから、合わせて約250名ほどの日本兵が殲滅されたことになる。行李隊の生還者による襲撃時の様子は以下の通りである。

二十五日はむし暑い日であった。護衛小隊が先行して行李が続き、汗だくだくで前進を続けた。
午前十時頃、道幅はやっとトラックが通れるくらい、両側は高さ一〇メートルくらい切り立った崖で、堀割状に続いている所へ入り込んだ。
長さ三〇〇メートルくらいの掘割に行李隊全部が入りこんだ途端、隊の前方と後方にいきなり頭上から手榴弾が投げ込まれた。まったくの不意討ちである。
三浦支隊が先行したことに安心し切って進んでいたので、びっくりすると同時に隊はすっかり混乱してしまった。まず前後の車と馬がやられ、中にはさまれた車輌は動きがとれない。そのうえ特務兵は銃も手榴弾もない。丁度折よく三浦支隊連絡のため乗用車できあわせていた師団の橋本参謀は高橋小隊[護衛小隊]を二つに分けて両側の上に登らせ、一方は橋本参謀、一方は高橋少尉が指揮して防戦に努めたが、敵は衆をたのんで、手榴弾を投擲して次から次へと攻撃してくる。多勢に無勢で力及ばず、小隊は全滅して一発の銃声もしなくなった。谷間は前後方とも敵に包囲され、人馬ともほとんど戦死という悲惨な状態で、午後三時頃には敵に向かう者は一人もなく、敵は凱歌をあげて、谷間の将校行李、衣服、食糧等を掠奪して行った。また夕方までに敵は何回もやってきては、戦死者の腕時計、その他目ぼしい貴重品はほとんど掠奪して行った。負傷した者で辛うじて生き残っていた者、戦死体の下に横たわっていて助かった者は僅か数名に過ぎず、ほとんど戦死という悲惨な状況であった。
(歩二一会編『浜田聯隊史』1973年,105-106頁)

『浜田聯隊史』の四年前に刊行された『広島師団史』には同様の回想談が掲載されており、同一人物による回想であることは明らかだ。ただ、『広島師団史』では、「阿鼻叫喚の断末魔の姿」「(中共軍兵士が日本兵の)遺体をあるいは射ち、あるいは刺して歩いた」などと記され、凄惨な雰囲気を伝えている。『浜田聯隊史』にそのような記述がないのは、戦死者の遺族に配慮したからか。

この戦闘について、中共は翌26日、南京政府や中央日報社宛に次のような戦勝報告を行ったという。

九月二五日、わが八路軍は晋北平型関で敵一万人余りと激戦を展開、何度も勇敢に突撃し、侵攻してきた敵をすべて撃滅し、平型関以北および辛荘、関沙、東跑池一帯などすべての陣地を奪取した。撃ち殺された敵兵の死体がいたる所に散らばり、敵兵の一部は捕虜となった。さらに鹵獲した自動車、戦車、銃砲や他の軍用品はすこぶる多く、目下整理中である。現在、残敵は小婁村まで敗走し、わが軍によって四方を包囲されている。八路軍参謀処 九月二六日
(謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』草思社,2006年,84頁)

下線を引いた部分が事実と異なる。すでに見たように、一万人の正規軍への攻撃ではなく、非武装に近い補給部隊への襲撃であり、戦果も著しく誇張されている。自動車は日本軍が自ら敵手に渡るのを防ぐために火を放ったので、鹵獲された車輌はなかった。もちろん戦車もなく、捕虜も一名もいなかった。ところが、この嘘に気づく者は当時いなかった。この報は「抗戦初の勝利」として瞬く間に全国に報じられ、中国民衆の多くが中共軍の活躍に溜飲を下げた。蒋介石すら中共に対して祝電を打っている。

『中国抗日戦争史録』に掲載されている機関銃を射撃する八路軍兵士の写真。いわゆる"平型関大捷"の写真として有名だが、崖下には家屋や田畑と思われる風景が広がっており疑わしい。白昼でしかも完全に現場を制圧できた戦闘だったにもかかわらず現場写真が公表されたことはなく、写真班が作戦に従軍していたとは考えづらい。ゆえにこの写真は平型関で撮影されたものではなく、崖下に向かって射撃する姿勢が雰囲気に合致しているために選ばれたイメージ写真だろう。

『中国抗日戦争史録』に掲載されている機関銃を射撃する八路軍兵士の写真。いわゆる”平型関大捷”の写真として有名だが、崖下には家屋や田畑と思われる風景が広がっており疑わしい。白昼でしかも完全に現場を制圧できた戦闘だったにもかかわらず現場写真が公表されたことはなく、写真班が作戦に従軍していたとは考えづらい。ゆえにこの写真は平型関で撮影されたものではなく、崖下に向かって射撃する姿勢が雰囲気に合致しているために選ばれたイメージ写真だろう。

当時の戦勝報告は、あまりにも嘘が多かったからか、その後の公式見解では若干トーンダウンしている。しかし、七十年を経た現在でも、誇張された戦果を誇示し続けていることに変わりはない。現在は、「日本軍兵士一千人余りを殲滅」と主張しているが、真実はすでに見たように、合わせて約250名ほどが殲滅されたに過ぎない。もっとも、1970年代までは「日本軍兵士三千人殲滅」としていた。戦利品についても同様に誇張されている。武装は護衛と救援の二個小隊と、自動車隊で特務兵二人につき一丁の割合で支給されていた騎銃ぐらいだから「小銃一千余丁」はあり得ない。

この点で興味深いのが、1942年(昭和17年)12月18日に太行区で開催された幹部会議における中共軍副司令官の彭徳懐の発言である。

平型関の戦闘は完全な伏撃戦であり、敵は事前に全く予期していなかった。ところが、結果的に我々は一人の日本兵も生捕りにすることはできず、破損のない小銃を百挺ほど鹵獲しただけであり、敵兵は武器を破壊し、傷兵は自決した。
(出典:彭徳懐「関於華北根拠地工作的報告」『共匪禍國史料彙編 第三冊』中華民國開國五十年文獻編纂委員會,1971年,350頁)

この叙述がある原史料は、中共中央華中局宣伝部が1943年(昭和18年)8月20日に出版した党内秘密刊行物『真理』第十四期であるという。資料集の発行が台湾政府によるものであることから、真偽の点で要検討とする研究者もあるが、報告全体の内容からしてねつ造の可能性は低い。鹵獲した小銃が百挺だったというこの彭徳懐の発言は、関溝村―小塞村における戦闘の実態、すなわち、取るに足らない戦果を”板垣兵団を撃破した”と誇張した事実を裏付けるものと言える。

*  *  *

とはいえ、三浦支隊の後方を遮断し、補給部隊を殲滅したことは間違いなく、たとえ戦果を誇張しているとしても、実際にどの程度の影響を戦局に与えたか評価せずして批判するのはフェアではないだろう。では、関溝村―小塞村での戦闘は、戦局にいかほどの影響を与えたのであろうか。

三浦支隊では、25日に後方遭難の報を受け、すぐに一個大隊(平岩大隊)を救援に向かわせているが、この救援隊は敵軍の妨害で救援にたどり着けなかったという。前述のように、『山口歩兵第四十二連隊史』も、平岩大隊の一個小隊が殲滅されたとしている。中共は、この救援隊の阻止も自らの戦功としているが、防衛大学教授の河野氏は、当時、この地には山西軍も多数出没しており、実際に中共軍が真面目に戦ったかどうかは怪しい、戦利品の搬出に全力を挙げていたのではないかと、疑義を呈している(河野論文)。この点、『宇都宮輜重史』では、当時の戦闘詳報を元に「当面の敵は殆ど20才以下の少年兵で勇敢」「戦法は蘇軍戦法に類似」「歩兵1Bnを以てしてもこの掃蕩に2日も要した」(164-165頁)としているが詳細は不明である。中共軍も真面目に戦った可能性はないわけではないが、歩兵第四十二連隊の先遣隊が26日の夜には霊丘から小塞村―関溝村を通って三浦支隊に連絡しているから、中共軍は翌日には現場から退却していたのは間違いない。同連隊は、附近に溢出した山西軍を撃破して、28日には支隊と板垣兵団の連絡線を回復した。

三浦支隊が苦戦したのは後方遮断ではなく、正面に陣取った山西軍の頑強な抵抗だった。四日間にわたって後方が遮断されていた間に、三浦支隊では戦死傷者が続出しており、食糧、弾薬ともに尽きかけていた。当時、隊付軍医として従軍していた豊田少尉は、すでに山砲弾も歩兵砲弾も一発もなく、28日中に増援が到着しなければ支隊全滅は免れぬ危機的状況にあったと回想する(『浜田連隊史』112頁)。ゆえに、後方遮断がより強力に行われていれば、三浦支隊を殲滅することが可能だった。28日の時点で、すでに北方陣地は関東軍の攻撃を受けており、平型関正面の脅威を払拭しても、中国軍の後背が脅かされたことに違いはないと思われるが、少なくとも山西攻略に固執する板垣兵団の企図を封じることは可能だったわけで、その点で戦局の転換点になった可能性はある。

ただ、もし中共軍が山西軍と協力して三浦支隊の後方遮断に全力を尽くしたなら、その損害は甚大なものになったことは間違いない。関溝村―小塞村において、中共軍は公式発表で600名に上る戦死傷者を出したとしている(以前は1000名の損害としていた)。非武装に近い補給部隊を相手に隘路の両岸という有利な地歩を占めていたにもかかわらず、敵を上回る大きな損害を蒙った。師団単位での作戦行動を取れる体制にあったものの、実際の戦力としては、正規軍の攻撃に耐え得る状態にはなかったのではないか。その点では、中共軍が平型関において単なる”物盗り”に終始したのは、自己をわきまえた賢明な処置であったと言える。

歩二一会編『浜田聯隊史』歩二一会,1973年
山口歩兵第四十二連隊史編纂委員会編『山口歩兵第四十二連隊史』1988年
沢田久一編『宇都宮輜重史』1973年
陸上自衛隊第13師団広島師団史研究委員会編『広島師団史』陸上自衛隊海田市駐とん部隊修親会,1969年
謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』草思社,2006年
八路軍総政治部宣伝部編『抗日戦争時期的中国人民解放軍』人民出版社,1953年
河野収「毛沢東戦略思想における勝利観の一考察―平型関の戦闘」1977年(『軍事史学』第13巻1号所収)

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000362.html

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8 thoughts on “誇張された「平型関大捷」

  1. 槍栗中尉

    台児荘も似たようなものですよね。日本軍に与えた損害の大きさなら上海の方がはるかに凄いんですがね。何事も政治ですねえ。

    Reply
  2. yama

    槍栗中尉さま
    いま、成瀬関次の『戦ふ日本刀』を読んでいます。成瀬はどうも台児荘戦で第十師団の陽動部隊に従軍していたようです。だいぶ誇張は含まれていると思いますが、事変初期の白兵戦は凄いですね。
    成瀬本を読んで、久しぶりに自宅にある刀を抜いて、刀身を押してみました(粘り強い硬さが良いそうです)。幹甲少尉だった祖父が三式軍装用に購入した新々刀ですが、なかなか悪くなさそうです。問題はなかごが抜けないことです(錆?)。恥ずかしながら、未だ銘すら見たことがありません。

    Reply
  3. 中国山西大同  陳尚士

    被夸大的“平型关大捷”
    土八路译自日本网络http://shanxi.nekoyamada.com/
    中共在讲述抗日战争的时候,必定要举例的就是在平型关的战斗。在平型关日中两军展开了激战,与日军战斗的是国民政府军(阎锡山的山西军),中共参战的只不过是整体作战的一部分,而且,中共自夸为这是一次“在抗战初期取胜”的战斗,而事实上只是袭击了近乎非武装的补给部队,实际情况是夺取了物资,对战局并没有多大的影响。
    压制平津地区,突破中国军队的坚固阵地,越过外长城一线的日本第5师团(兵团长为板垣征四郎中将,以下简称板垣兵团)于9月11日攻下河北省的蔚县,向山西进攻。根据北支那方面的命令,板垣兵团让一个旅团在河北方面转进,以剩下的一个旅团(旅团长为三浦少将,以步兵第21联队和步兵第42联队作为骨干,以下简称三浦支队)实施了对平型关的攻略。
    第二战区司令长官阎锡山,计划以多达三道的防线来守卫山西,平型关是第一道防线,那是利用了险峻地形的坚固防卫阵地,它构筑于内长城一线,阎在那里配置了5 个师的5万兵力。中国方面正面战场的布置为:中央为刘茂恩的第15军,右翼为高桂滋的第17军,左翼为孙楚的第33军。与此相对的三浦支队,决定将第42联队(团)置于后方,让其从浑源策应步兵第21联队,以不足3个大队组成的支队主力,由灵丘实施对平型关的正面攻击。9月22日,支队主力进入平型关的正面,开始了攻击,在以后长达7天的时间里,彼此展开了激烈的战斗。
    战况进展得不顺利,战线陷入了胶着状态。9月25日三浦支队虽然好不容易占领了正面的一部分,但在敌人不间断的攻击下,不断出现伤亡,与后方的联系也被截断。为了援救支队主力,步兵第21联队脱离战线而南下,步兵第42联队也从广灵出发前去援救。三天后的28日,日军的后方终于得以确保,第二天是29日,三浦支队以全队之力断然实施了白天的总攻击,但还是以失败而告终。这时,为了援救板垣兵团而南下的关东军察哈尔派遣兵团(所谓的东条兵团)攻击延绵于平型关背后的内长城一线,以其步兵第一联队为骨干的十川支队,突破了守卫北侧的杨爱源的第34军,达到了威胁平型关守备军侧背的目的。30日,平型关正面的中国军队终于撤退,三浦支队越过内长城一线,占领了大营镇,突破了平型关。在这一周的战斗中,日军付出了1500人以上的伤亡代价,中国军队也付出了多达数千人的伤亡。
    * * * *
    在平型关战役中,中共军也参加了,那就是林彪率领的第115师,只是没有参加正面作战,中共早在平型关战役之前的9月21日,就于设在代县岭口的前线司令部,与战区司令长官阎锡山就中共军的参战问题进行了协商,中共保证在敌后独立行动。实际上,中共已经在8 月22日至25日召开的洛川会议上,就决定将根据地的建设放在最优先的地位,那就是“七分发展,三分抵抗”。值此国家危急之时,优先扩大自己势力的方针,被包裹在“游击战”这一合适的糖衣词汇里了。阎锡山妥协了,第115师为了攻击日军的后背,由平型关出击了。
    9 月25日,第115师出没于位于平型关东北约5公里的关沟村——小寨村一带(原文为小塞村,可能是笔误——译者注),袭击了日军的汽车队和辎重队,这是中共军在平型关的唯一参战。9 月25日,三浦支队主力的后方联络线被截断的原因就在于此。遭到攻击部队的是:为了往后方运送伤员和领取补给品而返回灵丘途中的第6兵站汽车队,以及从事冬服、粮食、弹药运输的第21联队的行李队。他们大致在同一时刻,在相隔数公里远的、同样为狭路的地段遭到了袭击。步兵第21联队的战友会志《滨田联队史》里,登载了在现场遇害的将士的回忆如下:
    “我们再继续前进的时候,遇到了意外的情景,在瞬间感到了举步维艰…… 100余辆被烧毁的汽车惨不忍睹,大约间隔20米远就有倒下的残骸,以新庄中佐为首的无数战死者的遗体倒在路上,也有的躺在烧毁的驾驶室里,他们的姿势全都是以手掩护着眼睛的惨状……我们把烧毁的汽车一辆一辆地弄到路边,收拾完战死者遗体竟用了3个多小时,我们想放设法、好不容易弄得道路能够通行了,开始前进、来到了岭上,立即从岭上俯视谷间,又一次看到了全军覆灭的辎重车辆队。辎重车与成为尸体的累累人马堵塞了道路。这正是栗饭原部队“步兵第21联队”的大行李部队,以及山口和中岛两个大队的大、小行李部队所遭到的、情景如同地狱般的、全军覆灭的悲惨情况。”
    按照担任组成第6兵站汽车队的第14师团辎重队的战友会志记载,据说汽车队的两个中队遭到了袭击,遭受的损失为:中队长新庄中佐以下41人战死,负伤、以及生死不明的约有50人。在防卫所保存的史料里,记载着北支那方面军10月1日签署的、向陆军省提出的、补充第6兵站汽车队100人缺员的申请(方面军参三第158号电),据此来看,损失的数目大体上是一致的。另外,关于辎重行李队,据《滨田联队史》称,在包括护卫小队在内的大约110人里,生还者只不过为5人,据说大体上是全员覆灭了,与行李队同行的师团情报参谋桥本中佐也战死了。遭袭的报告好像由退却的汽车队的一部通告给三浦支队了,据《山口步兵第42联队史》称,被派往现场援救的一个小队也被全歼了(193页)。所以加起大约有250名日本兵被歼灭。由行李队生还者报告的遭袭情况如下:
    25日这天的天气闷热,护卫小队先走在前边,行李队紧随其后,汗水淋漓不停地前进。上午10左右,道路进入了这样的地段,宽度勉强能够通过卡车,两侧是高约10米的悬崖,人马进入了深沟连绵的地方。
    当行李队完全进入长约300米的深沟时,队伍的先头和尾后突然遭到来自上方的手榴弹的攻击,完全是措不及防的突然袭击。
    因为三浦支队作为先头部队已经走在了前面,所以行李队放心地向前推进。队伍在惊慌失措的同时彻底乱了阵脚,首先是前后的车马遭袭,被夹在中间的车辆动弹不得,再加上特务兵既无枪支又无手榴弹。恰好师团的参谋桥本,为了与三浦支队联络而来到这里,他把高桥的护卫小队分为两组,分别由参谋桥本和高桥少尉指挥,来努力防卫,可是小队连一枪未发就全员覆灭了。谷底的前后两端被敌人包围,人马差不多都处于战死的状态,下午3时再也没有一个人去抗击敌人了,敌人高唱凯歌,将谷底将士的行李、衣服、粮食掠去。另外,在傍晚之前,敌人又返回来几次,将战死者的手表以及其他值钱的贵重物品几乎都掠去了。负伤后未死,倒在战死者尸体下边,好不容易得以活命的仅不过为数人,几乎是全部战死的悲惨状况。
    (步21会编《滨田联队史》1973年 105,106页)
    在《滨田联队史》前4年刊登的《 广岛师团史》里,登载了同样的访谈回忆录,显然是同一人物的回忆,可只是在《广岛师团史》里记载着“阿鼻地狱般的叫唤,临终时的姿态”,“中共军的士兵将日本兵的遗体或枪击或穿刺后才离去”等,传达了凄惨的气氛。《滨田联队史》里没有这样的描述,是不是在考虑战死者遗族的情感呢?
    关于这次战斗,中共于第二天(26日),向南京政府以及中央日报进行了报告。
    “25日我八路军在晋北的平行关与一万余敌展开了激战,勇敢地进行了多次冲锋,将入侵之敌全歼。夺取了平型关以北的辛庄、关沙、东跑池一带的全部阵地,到处散落着被击毙敌兵的尸体,敌人的一部成为俘虏。还有缴获的汽车、坦克、枪炮以及其他军用品甚多,目前正在清理中。现在敌人败退到了小娄村,已被我军四面包围。 八路军参谋部9月26日”
    (谢幼田《抗日战争中,中国共产党干了些什么?》草思社 2006年 84页)
    上文的划线部分与事实不符,并不是对一万正规日军的攻击,而是袭击了近乎没有武装的补给部队,显然战果被夸大了。汽车是日军为了防止落入敌手而自己纵火烧毁的,所以没有缴获车辆。当然也没有坦克。可在当时并没有人注意到这种吹嘘,这一消息作为“抗战初期的胜利”,在瞬间被通报到全国,很多中国民众的郁愤得到了发泄,就连蒋介石也给中共发去了贺电。
    是不是在当时的战胜报告里,吹嘘的地方太多了呢?中共在以后的正式见解上,又进行了若干调整。但是即使在过了70年的今天,在炫耀被夸大的战果上仍没有改变。现在的主张是“歼灭日军1000余人”,可事实上像前述的那样,被歼的日军合起来也不过为250多人。不过,截至到70年代,仍定为“歼灭日军3000人”。关于战利品也同样被夸大,因为日军的武装只不过是护卫和援救这两个小队,还有汽车队的特务兵,是按每两个人一支步枪的比例发放的,所以不可能缴获1000余支步枪。在这一点上,意味深长的就是中共军的副司令官彭德怀,于1942年(昭和17年),在太行区根据地召开的干部会议上的发言。
    “平型关战斗完全是伏击战,敌人事先一点也没有预料到,可在战果方面,我们连一个日本兵也没有生擒,只是缴获了数百支没有破损的步枪而已,敌兵破坏了武器,伤兵自杀了。”
    (典出 彭德怀《关于华北根据地的工作报告》)
    具有这样叙述的原始史料,就是中共中央华中局宣传部,于1943年(昭和18年)8月20日出版的党内秘密刊物《真理》第14期,由于资料集的发行是来自台湾政府的,也有人要探究其真伪,可从整个报告的内容来看,捏造的可能性较小,可以说彭德怀发言所讲的缴获百余支步枪,旁证了关沟村——小寨村战斗的实际情况,也就是说,把不足以称道的战果夸大为“击败板垣兵团”这样的事实。
    * * * *
    尽管如此,中共军截断了三浦支队的后方,歼灭了补给部队的事实是肯定的。即使是夸大了战果,如果不去评价实际上对战局有多大程度的影响,而是一味地批评,也不是正大光明的吧!那么,关沟村——小寨村的战斗,对战局有怎样的影响呢?
    三浦支队接到了25日后方遭难的报告,就立即让一个大队(平岩大队)去救援,可是这支救援队伍由于敌军的阻击,并没有到达要救援的地方,就像前述的那样,《山口步兵第42联队史》也认为平岩大队的一个小队被歼灭了。中共把阻击救援部队的战功也作为自己的功劳了。可是防卫大学教授河野氏对此提出了质疑(河野论文),当时在这个地方有很多山西军(阎军)出没,中共军实际上是否认真地进行了战斗,值得怀疑,他们是不是举全力进行了战利品的搬运。关于这一点,在《宇都宫辎重史》里,当时的战斗详报虽然记载着“日军面临的敌人几乎都是20来岁的勇敢少年兵”,“战法类似苏军的战法”但详细情况还是不明了的。中共军并非没有认真地作战,而是第二天就从现场撤退了,这是肯定的。这个联队在附近击溃了杰出的山西军(阎军),28日支队与板垣兵团的联络线恢复了。
    三浦支队苦战之处,并不在其后方被截断这一点上,而是苦于占据阵地的山西军的顽强抵抗。在后方被截断的长达4天的期间内,三浦支队的伤亡者不断地出现,粮食和弹药即将用尽。当时作为随军军医而从军的丰田少尉回忆说,山炮炮弹和步兵炮弹连一发都没有了,增援部队如果不在28日到达的话,支队就处于不可避免的全军覆灭的危险境地(《滨田联队史》112页)。 所以说,如果被截断的后方再进一步加强的话,中国军队就有可能全歼三浦支队。在28日那个时间点上,中国军队的北方阵地已经受到关东军的攻击,即他们使扫平平型关正面的威胁,而中国军队的后背受到了威胁是被肯定了的。不过至少可以使板垣兵团执著于进攻山西的企图不能施展,在这一点上,有可能成为战局的扭转点。
    如果中共军与山西军合作,只要尽力截断三浦支队后方的话,那么,日军的损失肯定会更大的。在关沟村——小寨村之间的战斗中,中共军在正式的公告上说,付出了多达600人的伤亡(以前认为损失了1000人)。尽管中共军以近乎非武装的部队为对手,而且占据了地形峡窄的两侧高地,可还是蒙受了高于敌人的损失。中共军虽然采取了以师团为单位的作战行动,但从实际的作战能力来看,是不是还没有能够胜任对抗正规日军攻击的能力呢?在这一点上,中共军在平型关从头到尾始终进行了单纯的“抢夺物资”,可以说这是了解自己实力的明智选择。

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  4. 中国山西大同  陳尚士

    抗日战争初期的1937年9月中旬,中国第二战区为保卫山西,阻止日本侵略军南下进犯太原,在晋东北内长城平型关一线组织了山西境内的首次大规模的平型关战役。战役期间的9月25日,八路军115师为配合正面防守的国民党军队,在平型关东侧灵丘县乔沟一带伏击日军后续部队,歼敌千余人,缴获大批军用物资,取得了八路军出师抗日的首战大捷。
    几十年来,涉及平型关抗战的著作和文章,多把八路军的平型关大捷和第二战区的平型关战役混为一谈,有的还明确写道:“平型关大捷就是平型关战役”。其实,历史上的平型关大捷与平型关战役并不是一回事。
    关于平型关大捷
    平型关大捷,是八路军出师华北抗日前线第一仗,也是平型关战役中战斗最惨烈,战果最辉煌,影响最深远的一次重要战斗。根据中共中央军委和八路军总部部署,先期东渡黄河的115师在师长林彪、副师长聂荣臻的率领下,于1937年9月19日至22日进抵灵丘县上寨、下关地区,隐蔽待机。22日凌晨,日军第5师团第21旅团向平型关一线中国守军阵地发动进攻,平型关战役正式展开。
    23日,八路军总部命令115师立即向平型关、灵丘间运动,相机侧击进攻平型关之敌。该日上午,115师在上寨村北小学校召开作战会议和连以上干部动员会,决定由杨得志685团、李天佑686团、张绍东687团在平型关东侧约10华里长的乔沟峡谷古道,分段伏击歼灭敌人。陈锦华688团作师预备队。杨成武独立团和骑兵营负责阻击广灵、涞源方向增援平型关的敌人。24日午夜,115师主力冒雨向设伏地区开进。25日晨7时,从灵丘城开来的日军后续部队进入乔沟伏击区域,115师各团同时向日军发动猛烈攻击。在我军出其不意的打击下,日军汽车、马车被炸翻,道路堵塞,敌人慌乱反击。我军各部冲下公路将敌军分割数段,展开白刃格斗。日军在两名中佐军官指挥下,进行反扑。经过4个多小时的拼杀,沟内大部分敌人被歼,而争夺老爷庙高地的战斗成了这次伏击战的焦点。686团副团长杨勇、3营长邓克明,带领战士们向先期占领老爷庙高地的四五百名敌人猛烈进攻,以一个尉官队为骨干的日军疯狂反击,6架日军飞机也前来助战,战斗十分惨烈。140余人的3营9连大部分牺牲,生还的十几人也都负了伤。杨勇、邓克明也身负重伤,仍在指挥战斗。在685团、687团配合下,经过3个多小时的血战,老爷庙高地终被我军牢牢控制,该地区敌人全部被歼,取得乔沟伏击战的完全胜利。
    八路军平型关之战,歼敌1000余人,击毁敌汽车100余辆、马车200余辆,缴获九二式迫击炮1门,步枪1000余支、机枪20余挺、掷弹筒20余个、炮弹3000余发、战马53匹、日币30余万元,以及一大批其它军用物资,仅军大衣就够115师1.5万人每人1件。与此同时,独立团在驿马岭击溃了从涞源增援平型关的日军近两个联队,歼灭敌人300余人,创造了抗战初期中国军队以少胜多的模范战例。
    八路军平型关首战大捷,是抗日战争全面爆发以来中国军队的第一个大胜仗,也是在抗日战场上中国军队第一次主动向日军发动攻击并取得全胜的战斗。卢沟桥事变以来,国民党军队屡战屡败,大片国土被日军蹂躏践踏,无数百姓惨遭杀害。在这民族危亡之际,八路军首战大捷的喜讯当晚通过无线电波传出后,震惊中外,举国欢腾。26日,毛泽东致电祝贺我军取得的第一个大胜利,朱德、彭德怀专程从五台总部到115师驻地灵丘冉庄祝贺,并帮助总结平型关战斗经验。蒋介石也两次致电祝贺嘉勉。全国各军政要员、各党派、团体纷纷祝贺,国内外煤体争先报道八路军胜利的消息。骄横的日军在平型关遭受了意想不到的打击。在东京大本营也引起了极大震惊。八路军平型关大捷打破了日军“不可战胜”的神话,大大振奋了中华民族的士气,鼓舞了全国人民团结抗战的信心,提高共产党八路军的声威,对华北战局和全国抗战形势产生了深远影响,在中央党史、中国抗日战争史和解放军战史上写下了光辉的一页。“首战平型关,威名天下扬”,平型关大捷写进了《八路军军歌》。
    关于平型关战役
    平型关战役,是全面抗战开始后华北战场上的第一个大战役,也是第二次国共合作后国共两党军队首次团结对日作战。
    1937年9月中旬,日军侵占晋北重镇大同及广灵、浑源等县城后,敌第5师团的进攻矛头指向内长城战略 要隘平型关,企图突破平型关后与雁门关外的敌察哈尔兵团会合,南下太原进而占领山西全省。为保卫山西,9月18日,二战区司令长官阎锡山在雁门关下的太和岭口召开军事会议,制定平型关作战方案。在此前后,在山西前线的中共中央代表周恩来和八路军领导人朱德、彭德怀,先后三次会见阎锡山,商谈八路军入晋作战、后勤供应及平型关作战方略,周恩来还应阎之邀起草了第二战区作战方针。
    平型关战役初定的作战计划是:以逐次抵抗的方式诱敌深入到平型关西侧的繁峙县砂河以西地区,然后截断平型关要隘,集中兵力从五台山、恒山南北两面发动钳击,会歼日军于滹沱河上游的大营––––砂河间盆地内。其兵力重点部署在平型关、团城口、茹越口、雁门关、阳方口等主要防线上,阎锡山将内长城防线划分:右地区总司令杨爱源、副总司令孙楚,部署第33军、17军、15军,以平型关、团城口为重点;左地区总司令员傅作义,部署第61军、34军、19军、35军,以茹越口、雁门关为重点;预备军为八路军及第71师、72师。八路军第115师在平型关东侧灵丘地区相机配合,侧击进攻平型关之敌。
    第二战区平型关战役部署兵力8万余人,战线长达200余公里。第二战区司令长官行营设在雁门关下的太和岭口,阎锡山坐镇指挥。战役前线指挥部设在平型关以西15公里的大营镇,总指挥为第6集团军总司令(副总司令孙楚代行)。
    日军在平型关一线先后投入兵力约2万余人,第5师团主力万余人从灵丘、浑源进攻平型关,察哈尔兵团万余人从恒山西侧助攻策应。
    9月20日,日军侵占了应县和灵丘两座县城。当日,第5师团长板垣征四郎下达了进攻平型关的命令。21日傍晚,日军第21旅团主力侵入平型关地区。午夜,5000余日军配以坦克、装甲车各20辆,向平型关、东跑池、团城口一线阵地发动猛烈进攻,历时旬日的平型关战役正式展开。守军第17军和第33军独立第8旅据守工事进行反击,战斗异常激烈,阵地数次易于敌手,又失而复得,双方伤之惨重。为确保平型关防线,23日,阎锡山急令傅作义率预备军增援,并调第71师、72师、新编第2师加强平型关防线。同时要求八路军配合作战。朱德、彭德怀遂命115师立即向平型关、灵丘间出动,机动侧击进攻平型关之敌。
    9月24日,傅作义率两个旅到达平型关前线。该日,日军增兵5000余人,分别向平型关一线各阵地发动进攻,东、西跑池及1886.4高地陷于敌手。傅作义、杨爱源与115师联络参谋商定,于25日拂晓守军第71师和115师合击团城口之敌,巩固平型关北侧防线。
    24日深夜,八路军115师冒雨设伏于平型关东侧乔沟一线。25日拂晓,日军第21旅团步骑兵千余人及运送军用物资的两个辎重中队开始进入乔沟峡谷古道。7时许,115师伏击战打响。激战7个多小时,乔沟内日军被全部歼灭。为扩大战果,第343旅主力又乘胜向东跑池之敌追击,将该地区之敌压缩包围。但守军未按预定计划出击,致使日军2000余人向团城口方向突围逃窜,失去了消灭更多敌人的良机。
    正值傅作仪指挥部队向平型关之敌反攻之际,敌第5师团主力转攻团城口、鹞子涧阵地。守军第17军前沿部队因连续激战了昼夜,伤亡2600余人,多次请求阎锡山、孙楚支援未果,一气之下竟退出要隘团城口阵地,致使东西跑池以北约2公里长的防线主要阵地被敌抢占,给平型关防线造成极大被动。鉴于杨爱源、孙楚协调指挥不力,阎锡山命傅作仪前往大营全权指挥平型关作战。傅作仪组织守军第71师、独立第8旅、第72师进行反攻,夺回鹞子涧高地,并将敌军压缩于东西跑池沟内,才稳住了平型关防线阵脚。
    26日,阎锡山决定放弃砂河地区决战计划,集中兵力在平型关外歼灭敌军。日军第42联队由蔚县增援平型关。27日,日军步、炮、空协同向迷回村一带阵地全面进攻。守军第71师214旅3个团向六郎城、鹞子涧日军发动反击,第434团与敌奋力拼杀,因突入太深而陷敌包围,团长程继贤与千余名官兵壮烈牺牲。29日,敌军又以两个联队的兵力向守军阵地发动进攻,敌我双方激战呈胶着状态,日军终未突平型关防线,守军也无法全歼敌于平型关外。
    为策应进攻平型关的第5师团,日军察哈尔兵团独立混成第15旅团于28日猛攻平型关西北要隘茹越口阵地,守军3个团前往支援也未能阻止日军攻势,茹越口阵地被敌占领。29日敌人由茹越口南下进攻繁峙县北侧的铁甲岭阵地,守军第203旅奋力抵抗,旅长梁鉴堂及1400余名官兵全部阵亡,铁甲岭阵地失守,该部日军又于30日日军攻陷平型关以西65公里的繁峙县城。
    繁峙县城失陷威胁到平型关守军的侧后,30日晚,第二战区在东山底村召开紧急会议,由于缺乏决战决胜的信心,阎锡山下令放弃平型关阵地,全线撤退至忻口一线,至此平型关战役结束。
    在平型关战役中,八路军115师将士浴血奋战,取得了具有重大军事和政治意义的辉煌胜利。正面防守的国民党军队,在战役中虽然暴露出其战略战术上存在的缺陷,以及晋绥军与中央军内部协调配合上的问题,但由于广大官兵的奋力抵抗给日军以沉重打击,迟滞了日军攻占太原的进程,赢得了集结力量部署忻口防线的时间。在战役中,守军先后有上万名官兵为国捐躯,其中旅长1名、团长代理团长4名、营连长数十名。

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  5. maru

    始めまして
    >実は、中共はすでに8月22日から25日にかけて開催された洛川会議において、抗日を呼びかける「抗日救国十大綱領」を発表する一方で、中共軍の正面戦場への参戦を否定し、根拠地建設を最優先することを決定していたからである。「七分発展、三分抵抗」である。
    ここの「七分発展、三分抵抗」のソースは何でしょうか?蒋介石が中国共産党を非難するときにこれに類することを指摘していたようですが、共産党側の資料にも同様の記載があるのでしょうか?

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  6. yama

    maruさま
    「七分発展、三分抵抗」という文言で記述された文書史料があるか否か(正式な用語かどうか)、私は知りません。ただ、結構メジャーな言葉ですから、当時の党内報なんかでは使われていたのではないでしょうか。
    大陸では洛川会議の趣旨について公開が進んでいるそうですので、用語について言及している文献や論文があるかもしれません。CNKIで「洛川会议」と検索すると結構ヒットします。
    言い出しっぺは毛沢東ではないでしょうか。参考文献にも掲げている謝幼田の著書には、1937年9月の八路軍出征時に、70%が勢力伸張、20%が妥協、10%が抗日戦である旨を毛沢東が指示した、それは八路軍を脱走した党支部書記が公表したもの、とあります(P66)。ソースは台湾の梅良眉1972だそうです。孫引きで原著確認もしていないので雑談程度ですが、ご参考まで。

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  7. 匿名

    軍事は政治と思ってないとか、政治と関係なしに成立する
    ものがあるとおもってるのが日本人のウブさだねえ。
    だから中国に負けちゃうんだよ、政治も軍事も経済も。

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