山西残留日本兵(14iBs) 安井清氏の回想談


安井清氏(2007年3月,岡山県の安井氏ご自宅にて)

安井清氏(2007年3月,岡山県の安井氏ご自宅にて)

――――本日はお時間を賜りありがとうございます。映画『蟻の兵隊』の公開などで、最近、若い人の間で山西残留事件が知られるようになりました。安井様が『公民館だより』に寄稿された手記で、元泉旅団の一員として残留されたと書かれているのを拝見して、ぜひお話を伺いたいとお邪魔させていただいた次第です。

そうですか。実は、元泉閣下のご息女(次女)からも『公民館だより』が縁となってお手紙を頂戴したことがあります。あとでご紹介しましょう。

実は私は、山西残留を含めて、戦争時代の話を誰にも話したことがないんです。家族にもほとんど話していません。私の場合、昭和19年(1944年)11月に出征して、実家に帰ってきたのが昭和22年(1947年)11月です。丸々三年間、出征していたことになります。

出征中は戦闘に参加し、同じ壕で仲間が傷つき、命を落としていった経験もあります。戦争も軍隊も嫌いです。私にとって戦地で過ごした三年間は、貴重な青春時代を無駄に捨てたようなものです。良い想い出ではありません。戦友会にも一度も参加したことがありません。

まずは私のプロフィールを簡単にご紹介しましょう。私は、大正13年(1924年)生まれ、82歳になります。岡山生まれの岡山育ちです。旧制中学卒業後、中央大学の予科に入学しました。戦時特例で修学年限が縮小され、昭和19年(1944年)、20歳で徴兵されました。東京から郷里岡山に戻り、岡山第四十八部隊に入営したのが同年11月1日、一週間後には現地で初年兵教育を受けるため、岡山を出発しました。

入営して感じたのは、支給される装具があまりにもみすぼらしく、まるで敗残兵のようだったことです。飯盒はなく、水筒は竹筒、軍靴の支給はなくて地下足袋でした。小銃は中学卒業以上の者にだけ支給され、初年兵全体で半分くらいしかありませんでした。

岡山から下関へ行き、そこから関釜連絡船で朝鮮の釜山へ。玄界灘では船が揺れ、多くの同年兵は根を上げていましたが、漁師の家に育った私は平気で、カレーライスを三杯も平らげました。一方で、朝鮮に渡って最初の宿営のときは食事に苦労しました。飯上げに呼ばれたものの、先ほど申した通り、飯盒も弁当箱も支給されていないので、食事の受け取りができない。仕方ないので、出征の際にもらった日の丸の寄せ書きで飯を受け取りました。米飯を寄せ書きに包んで内務班に持って帰ると、団子状になってしまっていて、より分けるのに苦労した思いがあります。

釜山からは列車に乗って、新義州を通過して満州に入り、南下して北京に至ってから、今度は西へ方角を変えて山西省に入りました。草木の少ない荒涼とした大地に、日本から遠く離れてしまったと、諦めに似た気持ちになりました。山西省では、楡次を通り、最終的に路安(現在の長治市)で下車しました。

私の配属先は、路安から五、六里の距離に駐屯していた守備隊です。路安からは徒歩行軍で向かいました。足にマメができたことを覚えています。こうして、塁兵団(独立歩兵第十四旅団)に配属となりました。旅団長は元泉馨閣下です。

守備隊では陣地の周囲に二重の壕を掘っており、夜間は徒歩巡回をしていましたが、治安は安定しており、敵の襲撃もありませんでした。

――――その守備隊で初年兵教育を受けたのですね。

そうです。三ヶ月間、初年兵教育を受けました。初年兵教育が終了してまもなく、部隊に出動命令が下りました。洛陽を攻撃するということで、黄河を超えて、河南省に進攻したのです。周囲に馬が多かった記憶があるので、おそらく私は重機関銃中隊に配属されていたと思います。黄河の河幅はとても広いですが、それ以上に驚いたのが、河の両岸一キロ近くが泥土で覆われていたことです。なんでも洪水時に泥を引き入れて耕地として利用するというような話でした。作戦中は、味方の飛行機は全く見えず、国府軍の飛行機ばかりが飛んできていました。

――――老河口作戦ですね。敵飛行場の覆滅が作戦の目的でした。

そうですか。私たちは下っ端の兵隊ですから、どんな作戦かは全く知りませんでした。ただ洛陽攻撃とだけ聞いていました。

作戦終了後、路安に戻ってくると、今度は旅団に満州移駐の内命が下りました。それが終戦間近の頃です。対戦車攻撃の訓練と満州への移動を準備している途中で終戦となりました。

――――終戦でいよいよ残留への動きが始まるわけですね。

そうです。終戦で、国府軍と中共軍の両方から残留の勧誘が来るようになりました。私たちは結局、政府軍、すなわち国府軍(山西軍)に入ったわけですが、中共軍にも相当数の日本人が参加したのではないかと思います。日本人部隊がありましたから。

――――中共軍にも日本人部隊があったのですか?

ええ。ありました。なぜ中共軍にも日本人がいることを知っているのかというと、我々の部隊が実際に戦いを交えたことがあったからです。

そもそも中共軍は国府軍に対しては積極的に攻撃を仕掛けますが、日本軍(残留日本人部隊)にはかなわないですから、衝突すれば向こうから引くわけです。ところがある日、どうしても粘り強く抵抗する中共軍がある。おかしいと思って密偵を送り込んで調べると日本人が指揮を執っていた。そこで、両軍で秘密裏に相談した結果、同じ日本人同士戦うのはよそうと、手打ちにしたことがあったからです。

数としては政府軍に入った日本人の方が遙かに多く、中共軍に参加した日本人は政府軍のそれと比べて百分の一ないし十分の一といった程度だったと思います。

――――残留の経緯についてお教えください。

終戦で満州への移動が中止になり、帰国のための復員準備を進めるという段階で、日本軍の何割かを残さなければ、鉄道も動かず、全員が復員できないという話になりました。ご存じの通り、当時は政府軍(国府軍)と中共軍とが対立していましたから、内戦の本格化を前にして、日本軍の力を借りようという動きが起きたわけです。

――――元泉旅団は山西省に駐留していた日本軍のなかでもいち早く残留部隊の編成が行われたようです。安井様の周囲では具体的にどのような話があったのですか。

まだ中国に来て長くない者を中心に残し、長男や兵役が長い者は帰国させようという話になりました。私の中隊では、三年、四年次の兵隊は先に復員させて、初年兵を中心に残すことになりました。そこで私も残留を余儀なくされたわけです。私たちの元泉旅団では、旅団長の元泉閣下も残留されました。政府軍に入隊してからは、作戦に参加することもありましたし、中国兵の教育にあたるなどしました。

――――いま、安井様は「政府軍への入隊」という言葉をお使いになられましたが、日本軍の一部ではなく、山西軍に参加すると明確に認識されていたのですか?

明確に認識していました。

――――日本軍を除隊して、山西軍に就職したと?

山西軍に雇用された身分、いわば傭兵であるという風に理解していました。

――――山西残留では、一部将兵を中心に、残留で現地除隊を承知しておらず、帰国後に恩給の対象から外れていることに憤り、軍に騙された、売軍されたとして訴訟を起こしたケースがあるなど、複雑な事情があります。

そうですか。そのような問題もあったのですか。私は知りませんでした。恩給の件で言えば、私は昭和19年(1944年)の招集で、政府軍時代の年数を入れても軍人恩給の対象にはならないのであまり関係がありません。それに、知っているのは自分の中隊だけで、他の部隊のことは全く分かりません。ただ、私の中隊では、日本軍のまま残留したというような認識は全くありませんでした。(恩給訴訟のような)騒ぎが戦後にあったことも、今日初めて知りました。

――――山西軍における給与など待遇面はどうでしたか。

政府軍に入隊した日本人は、全員、階級が上がり、私も一軒家と当番兵を与えられました。これは部隊が太原に移動してからです。給与は現物支給ではなく、金銭で支払われたはずです。街のレストランで飲食したこともありましたから。度数の高い白酒(パイチュウ)を注いだ椀に火を付けて遊んだのも、レストランで食事したときのことです。

――――武器や装具はどのような物を使用していましたか?

日本軍時代の物を使用していました。元泉旅団の復員では、野戦倉庫が残留部隊のためにそのまま残されました。ただ、武器はいったん全て返却しました。数ヶ月くらい素手だった時があります。その後、また改めて武器が支給されました。

――――日本軍としての武装解除だったと思われますね。ところで安井様は元泉将軍とも面識がおありだったそうですね。

ええ。部隊が太原に移動した後、元泉閣下の知遇を得ました。私は学生時代から囲碁をやっておって腕には自信がありました。その囲碁で元泉閣下からお声がかかったんです。二ヶ月か一ヶ月に一度、閣下に呼ばれて、城内にある閣下のご自宅で囲碁を打つことになりました。

元泉閣下は政府軍の中将(旧軍時代は少将)でしたが、居宅自体は特に華奢でもなく、普通の居宅でした。もちろん、私たちよりかは良いですが。私たちの中隊は太原城外の一、二里離れた所にありますから、毎回、馬か何かに乗って、元泉邸にお邪魔するわけです。一度、面倒なので「足が痛いから行けません」と断ったら、将官旗を付けた自動車を廻していただいたことがあります。城門を通過するときに、政府軍の衛兵が捧げ銃をするのが愉快でした。

――――元泉将軍は俳句を研究されたりと、軍人離れした風流な方だったようですね。

そのようですね。元泉閣下のほかに良く囲碁のお相手をした人に、残留部隊の幕僚で少将だった林(リン)さんという人がいました。私の家の斜め向かいに住まれていて、その方とも良く碁を打ちました。

――――リン少将というのは中国人ですか?

いえ、日本人です。ただ、日本名は聞いていません。当時の残留兵の間では、相手が中国名で名乗れば、それ以上は何も聞かないのが不文律でしたから。どうもリンさんは、終戦前から山西軍に参加されていたようです。捕虜になったのか、自ら志願したのか分かりません。

――――当時は様々な境遇の人が残留されていたのですね。山西省では元泉旅団以外にも各兵団で残留部隊が組織されました。

他に残留部隊があることは知っていましたが、私は自分の中隊以外の残留兵に会ったことはないんです。太原には私たちの中隊しかいませんでしたし。山西公司(サンセイコンス)の職員など民間人は相当残っていたようで、街中で見かけることはありました。

――――河本大作氏が社長を勤めた山西産業株式会社ですね。当時、山西省では山西産業の社員の方を中心に、数千人もの方が残留しました。

そうですか。そんなに多くの民間人が残留したんですか。

――――安井様は昭和22年(1947年)に帰国されたのですね。

そうです。昭和22年(1947年)の10月に向こうを出発して、この岡山の実家の門をくぐったのが11月1日ですから、ちょうど出征から丸三年で帰ってきたことになります。

――――具体的にはどのような経緯で帰国されたのですか?

昭和22年(1947年)の夏に、帰国輸送の話が出まして、希望者は名乗り出よということになりました。私はもともと軍隊も戦争も嫌いでしたし、大学も途中で辞めさせられて兵隊にとられたわけですから、帰国できるなら帰国したいと考えていました。そこで、元泉閣下と幕僚のリン少将に帰国希望を伝え、二人から帰国の許可を得ました。

――――手続としては申請に基づく許可ですが、去就の自由は確保されていたわけですね。

そうです。少なくとも私の周囲では、帰国するしないは自由でした。

――――他の残留部隊では、帰国を申し出ると圧力をかけられたというような事例もあったようですが…

私の中隊ではそのような圧力はありませんでした。ただ、元泉閣下から慰留はされました。囲碁の相手がいないと困るからでしょう(笑)。そこで私は、予科の途中で召集されたので帰国して大学を卒業したい、卒業したら必ず帰ってきますからと約束して、元泉閣下も了承されました。結局、大学には先に復員していた同学が全員卒業すると聞かされて復学する気がなくなり戻りませんでしたが。

――――太原から北京までは空路ですよね?

そうです。すでに鉄道は寸断されていましたから。帰国者は全員、太原で飛行機に乗って豊台の飛行場まで空輸されて、そこから列車で太沽まで出ました。

――――そこから船で日本に。

引揚船で佐世保まで。太沽で乗船したとき、船内に「進駐軍の命により」云々という貼り紙を見て、「進駐軍」って何ぞや?と思ったのを覚えています。

帰国に際しては持ち物の制限が厳しくて、一人一個だったと思います。私は毛布一枚だけしか持って帰りませんでしたが、なかには商才のある人も居て、その人はライターの石を一万個、トランクの下に詰め込んで日本まで持って帰り、それを佐世保で下船したときに売ったんです。一個、五円だかで。当時、帰国者には厚生省から五千円の見舞金が出たんですが、その人はライターの石を売ったお金と合わせて、五万五千円を手にしていました。当時、会社員の月給が千円ぐらいでしたから大金ですよ。とても感心した覚えがあります。

――――いつの時代も商才のある人はいますね。安井様は帰国後、残留部隊の消息についてはお聞きになられましたか?

私が帰国してから、山西では共産軍との大きな戦いが起きて、残留部隊も三分の一は壊滅し、三分の一は中共の捕虜に、残りは太行山脈に退却したと、当時の新聞報道で知りました。

――――1948年(昭和23年)夏の晋中戦役ですね。このときに元泉将軍も自決されました。

元泉閣下は、本当は隠れていたところを敵に見つかって射殺されたらしいですね。

――――えっ?自決されたんじゃないんですか?

ええ。元泉閣下のご息女からの手紙か電話でお聞きしました。残留部隊が壊滅して元泉閣下はとある村に退却して隠れていたのですが、そこで中国人に見つかって射殺されたという話です。

――――ご息女からのお手紙にも書かれている「小常村」ですね。伝記や関係者の証言では、元泉将軍は小常村で至近距離に落ちた砲弾により負傷し、副官に命じて拳銃自決したとされています。

射殺の話は、元泉閣下のご子息が戦後にその村を訪問したときに聞いたそうです。その村の村長が元泉閣下を射殺した張本人だそうで、その時の功績で村長になれたということでした。

――――事実であれば驚きです。ただ本当のところは分かりませんね。村長は単に自決遺体を見つけて手柄とした可能性もありますし、反対に日本側が元泉将軍の名誉のために捕虜ではなく自決としたのかもしれません。

そういったこともあるかもしれません。

――――本日は貴重なお話をお聞かせいただいてありがとうございました。

補遺:
山西残留事件については、「オーラルヒストリー企画」(http://www.ohproject.com/)のホームページに掲載されている山下正男氏(終戦時、安井氏と同じ14iBs所属)の回想談で詳しく解説されています。興味がある方はぜひご一読ください。

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000396.html

3 thoughts on “山西残留日本兵(14iBs) 安井清氏の回想談

  1. 中国山西大同陈尚士

    日本兵回忆残留山西—-安井清先生访谈录
    土八路译自日本网络http://shanxi.nekoyam ada.com/
    安井清先生
    (2007年3月,在冈山县安井先生的自家住宅)
    记者: 今天承蒙您给与了宝贵时间,谢谢。最近因电影《蚂蚁兵》的公开上映等,在年轻人中间,才得以知晓(日军)残留山西事件。我通过安井先生寄给《公民馆消息》的手稿,拜读了您写的作为元泉旅团的一员而残留山西的内容,我打搅先生的缘由,就是说什么也想请教于先生,谈谈您的往事。
    安井:是吗?实际上我也通过元泉阁下的闺女(次女)那里,与《公民馆消息》接上了关系,收到书信的,下边就给你说说这方面的事情。
    说实在的,包括残留山西在内的,有关战争时代的故事我没有跟任何人讲过。跟家里人也几乎没有谈过。我的情况是,昭和19年(1944年)出征,回到家里的时候已经是昭和22年(1947年)11月了,整整出征了三年。
    在出征期间,我也了参加了战斗、经历了同一战壕里的战友受伤、丧命的过程。我对战争和军队都是讨厌的。对于我来说,在战地度过三年的时光,是将宝贵的青春时代徒劳无益地抛弃了的时期,这一期间的回忆并不是美好的,战友会的聚会,我连一次也没有参加过。
    首先,简单介绍一下我个人的轮廓,我生于大正13年(1924年),今年82岁了。生在冈山长在冈山。旧制中学毕业后,进入了中央大学的预科。因为是战争时期,修学年限被特例缩短,昭和19年(1944年)20岁时应征参军,我从东京回到家乡冈山,于同年11月加入了冈山的第48部队,一周后为了接受新兵的培训教育,离开了冈山。
    入伍之后我所感受到的,就是配发的武装用具过于寒酸,简直就像残兵败卒似的。没有饭盒,水壶是竹筒,也不配发军靴,而是穿着日本式的布袜下地。步枪只发给中学以上毕业的人,整个新兵的半数左右是没有武器的。
    我们从冈山去下关,在下关登上关釜之间的航船,奔向了朝鲜的釜山。在玄界滩,轮船晃荡得厉害,好多同年兵翻肠吐胃,而在渔夫家长大的我却毫不在乎,竟吃光了三碗米饭。另一方面,到了朝鲜,在最初宿营的时候,吃饭却费了不少周折。尽管招呼着开饭了,可就像我前边所说的那样,因为并没有配发给我们饭盒和食具,所以没法进行用餐。没办法,只能用出征时领到的太阳旗取饭,将米饭包在太阳旗里带回内务班时,米饭已经变成块状物,我记得又费了很大的周折才进一步将其分开。
    从釜山乘上火车,经过新义州进入了满洲,再南下到达北京,之后向西变换方位,这才进入了山西省。在草木稀少的荒凉大地,一旦远离了日本,心境就如同死去一般。在山西省,经过榆次最终在路安(现在的长治市)下了车。
    我被分配的地方是距路安五、六里的一个驻屯守备队。从路安徒步行军奔向了那里,就这样,我被分配置到独立步兵第14旅团(垒兵团),旅团长是元泉馨阁下。
    在守备队阵地周围,我们挖出了两道战壕,夜间徒步巡逻,不过,这里的治安稳定,敌人也没有来袭击。
    记者:你是在那个守备队接受了新兵教育的吧?!
    安井:是的,接受了三个月的新兵教育。新兵教育结束之后不久,就向部队下达了出动的名令。据说是攻击洛阳,我们渡过了黄河,向河南省进攻。我记得周围有很多马匹,所以我想我大概是被配置在重机关枪中队了。黄河的河面很宽,而比河面更让我吃惊的是,在河的两岸近一公里(的河床上)覆盖着泥土,据说发洪水时,将采用这些泥土作为耕地而加以利用。作战时完全看不见自己的飞机,飞来的全是国民政府军的飞机。
    记者:那是老河口作战吧!作战的目的是毁灭敌人的机场 。
    安井:是吗?我们是地位低下的士兵,所以完全不知道是什么样的作战,仅仅听说是攻击洛阳。
    作战结束后,我们一返回到路安,旅团就接到了移驻满洲的内部命令。那时已经是距离战争结束近在咫尺的时候了。就在训练对坦克的攻击和准备向满洲移动的途中,迎来了战争的结束。
    记者:因为战争结束,向残留方向转变的活动就将要开始了吧?
    安井:是的,因为(中日之间)的战争结束了,这就形成了国民政府军和中共军这两方都来做劝诱(日军)残留的态势。结果是我们加入了国民政府军(阎锡山的山西军),而在中共军里,我想也有相当数量的日本人参加了,因为有日本人组成的部队。
    记者:中共军里边也有日本人组成的部队吗?
    安井:嗯,有的。若要问我为什么知道中共军里边也有日本人?这是因为我们的部队与中共军的日本人部队实际打过仗。
    当初,中共军虽然对国民政府军发动了积极的攻势,但是敌不过残留的日本人部队,所以如果发生冲突,总是对方退却。可是有一天,不管怎么说,还是遇到了一支顽强抵抗的中共军,我们感到奇怪,就派遣出密探侦察,一打听原来是日本人指挥的。于是,两军在暗地里密谈,商谈的结果达成了协议,在相同的日本人之间发生战斗时就要停止。
    作为数量而言,日本人加入国民政府军这一方的人数摇摇领先,与此相比,我认为参加了中共军的日本人,其程度仅为加入国民政府军的百分之一乃至十分之一。
    记者:请告诉我残留的原委。
    安井:由于战争结束了,我们就停止了向满洲的移动,在为推进复原回国而做准备的这一阶段,形成了这么一种态势,即如果日军不残留下几成部队,铁路也就不能动弹,全体军人就不能复原。就像你所知道的那样,当时国民政府军与中共军对立起来了,在内战正式化之前,引发了要借用日军军力的动向。
    记者:在驻留山西省的日军里,好像元泉旅团也是最早进行残留部队组编的部队,在安井先生的周围,具体发生了什么样的事情?
    安井:事情是这样的,残留是以来到中国时间还不长的人为中心而展开的,要让长子以及服兵役时间长的人回国。在我们的中队里,决定让当了三年或四年的士兵先期复原,而以当年的新兵为中心进行残留。因此,我也不得不残留下来。在我们的元泉旅团,旅团长元泉阁下也留下不走了。我加入了中国政府军之后,也经常参加作战,还承担对中国兵的教育培训等工作。
    记者:现在安井先生使用“参加了政府军”这样的词汇,可这不是日军的一部分,而是加入阎锡山的山西军,这一点您明确地认识到了吗?
    安井:对此我有明确的认识。
    记者:认识到是从日军退伍之后,再到山西军就职的吗?
    安井:我是这样理解的,就其身份来说是被山西军雇用的,在某种意义上说,就是雇佣兵。
    记者:在残留山西的问题上,以一部分官兵为中心,并不知道他们是以就地退伍的条件而残留的,回国后对他们没有成为享受养老金的对象而感到愤怒,遂以被军队欺骗、被出卖为情由,提起了诉讼等。这里边的情况很复杂。
    安井:是吗?还产生了那样的问题?我并不知道这些。就养老金这件事而言,我是1944年(昭和19年)应招的,即使算上山西军时代的年数,也不会成为军人养老的对象,所以没有太大的关系。只是在我们的中队,完全没有这样的认识,即,是以日军的状态就那么残留下来的。战后发生了(像养老金诉讼那样的)骚动也是我今天才初次知道的。
    记者:在山西军就职的薪金等待遇方面,这怎样一种情况呢?
    安井:对于加入中国政府军的日本人,(阎锡山将)其军衔全部晋升,给我也配发了一所独院和勤务兵,这是部队转移到太原之后的事情了。工钱并不是以实物支付的,而应该是以金钱支付的,因为我们经常上街在餐馆吃喝。将度数很高的白酒倒在碗里,点着火玩耍,也是在餐馆吃饭时发生的事情。
    记者:武器以及武装用具,使用的是些什么样东西?
    安井:使用了日军时代的东西,元泉旅团在复原的时候,将野战仓库原封不动地给留给残留部队了。只是武器全部一次性地上交了。大约有数个月的时间我们是赤手空拳。再往后又重新配发了武器。
    记者:一般认为那是作为日军的武装解除吧。另外,听说安井先生也与元泉将军相识?
    安井:,唉,是的。部队转移到太原以后,我得到了元泉阁下的知遇之恩。我从学生时代起就下围棋,相信自己在技能方面还是有两下子的。因为这个围棋缘故,我常常被元泉阁下召唤。每两个月或一个月被阁下召唤一次,在阁下城里的自家住宅下围棋。
    元泉阁下是阎政府军的中将(旧军时代的少将),但寓所本身并不特别风雅奢侈,是一座普通的寓所。当然要比我们的住宅好得多。因为我们的中队在太原城外一、二里远的地方,我每次骑马或乘坐其它交通工具,来打扰元泉的官邸。因为太麻烦,有一次我拒绝说:‘不能去了,因为我腿痛’,没想到他派了插着将官旗帜的汽车来接我,通过城门的时候,阎政府军的卫兵致以举枪礼,这让我非常高兴。
    记者:听说元泉将军还研究俳句等,这好像是一个远离军人的风流雅士吧?
    安井:似乎是那样的吧。除了元泉阁下,经常与我下围棋的人,还有残留部队的幕僚、少将林先生。他住在我家的斜对面,我和他也经常下围棋。
    记者:这个叫林少将的是个中国人吗?
    安井:不是,他是日本人,只是没听到他的日本名字。在当时的残留兵之间,对方以中国名字自报姓名,除此以外什么也不问,这是一条不成文的潜规则。我总觉得林先生在战争结束前,就好像参加了山西军,他是被俘虏的呢?还是志愿加入的呢?这我就不清楚了。
    记者:当时具有各式各样处境的人都残留下来了,在山西省,除了元泉旅团以外,其它各兵团也都组织了残留部队。
    安井:还有其它残留部队,这个我也知道,不过,我没有与自己中队以外的残留兵见过面。因为在太原,除了我们中队就再也没有其它残留部队了。山西公司的职员,他们好像残留了相当多的民间人士等,常常在街上就能看到。
    记者:是河本大作先生任社长的山西产业株式会社吧,当时在山西省,以山西产业的职员为中心,多达数千人残留下来了。
    安井:是吗?残留下那么多的民间人士?
    记者:安井先生是昭和22年(1947年)回国的吧?
    安井:是的,昭和22年(1947年)的10月从那边出发,进了冈山的自己家门的时候,已经是11月1日了,所以从出征算起,整整过了三年才回来的。
    记者:具体是因什么样的原委而回国的呢?
    安井:昭和22年(1947年)的夏天,出现了回国运输的业务,呈现出了这样的态势,即愿意回国者请自己报名!我原本就讨厌军队、讨厌战争,再说硬让我大学途中辍学当了兵,所以我考虑如果能回去,还是愿意回国。于是我就向元泉阁下和幕僚林少将转达了回国的愿望,并且得到了他们二人的许可,回国了。
    记者:作为手续虽然是基于申请的许可,但去留的自由应该是被确保的吧。
    安井:是的,至少在我的周围回国与不回国都是自由选择的。
    记者:据说在其它残留部队,一提出回国的申请,就被施加以压力,好像有类似的事例,可是……
    安井:在我们中队是没有那样压力的。只是元泉阁下进行了挽留。大概是一旦没有了围棋的对手,他会苦闷吧!(笑)我是在大学预科的途中被征召的,所以想回国完成大学的学业,毕业后一定还会回来的。我与他约定这些内容后,元泉阁下也就明白了。其结果是,我听说先期复原的全部同学,他们将要毕业,所以我就变得没心思复学,因而也就没有返校。
    记者:从太原到北京是乘坐飞机的吧?!
    安井:是的,因为铁路已被多处截断,回国者全部在太原机场登机,被空运到丰台机场,然后再乘列车到达大沽。
    记者:在大沽那里再乘船回日本?
    安井:乘回国船到佐世保下船。在大沽乘船的时候,在船上我看见“遵照进驻军的命令”等等之类的标语,我记得我当时在考虑着所谓的“进驻军”,究竟是什么呢?
    回国之际,严格限制所带的物品,我记得一个人准带一件。我只带回来一块毛毯,可里边居然有个善于经商的人,他带了一万个打火石,塞在皮箱的底下带回了日本,在佐世保下了船以后,就把那些东西卖掉了。一个打火石赚5日元。当时,厚生省给每位回国者5千日元的慰问金,而那个人把卖掉打火石钱算上,到手的钱就是5万5千日元。因为当时一个公司的职员的月薪是1千日元左右,所以说是一笔数目很大的现金,我记得很佩服他。
    记者:什么时代也有具有商业头脑的人呀,安井先生回国后,关于残留部队的消息,您听到些什么?
    安井:我回国后,在山西(的残留军)与中共军发生了大规模的战斗,残留部队也毁灭了三分之一,还有三分之一成为中共军的俘虏,剩下的退却到了太行山脉里了,我是通过当时的新闻报道才知道这些的。
    记者:那是1948年(昭和23年)夏季的晋中战役吧,这个时候元泉将军也自杀了。
    安井:实际情况是,元泉阁下隐蔽的地方被敌人发现了,他好像是被射杀的吧。
    记者:哎?是自杀的嘛?!
    安井:是的,我是通过元泉阁下的闺女的来信或电话得知的。残留部队溃灭之后,虽然元泉阁下退却到某个村子里隐蔽起来了,但他所在的地方被中国人发现了,据说是被射杀的。
    记者:就是他闺女在来信里也写的那个“小常村”吧,据传记以及当事人的证言,一般认为,元泉将军在小常村被落在极近距离的炮弹炸伤,他命令副官用手枪杀死了自己。
    安井:射杀的传说,据说是元泉阁下的儿子,在战后访问那个村子的时候听到的。据说那个村子的村长就是射杀元泉阁下的罪魁祸首,据说他是因为那时的功绩而当上了村长。
    记者:如果是事实的话,的确让人吃惊。只是还不清楚本来的正实面目。村长只是发现了自杀的遗体,作为邀功请赏的可能性还是有的。相反,也许日本方面为了元泉将军的名誉,设定了不做俘虏而采取了自杀的行为。
    安井:也许也有那样的事情吧。
    记者:今天您让我听到了珍贵的故事,谢谢。
    补遗:
    关于残留山西的事件,在“オーラルヒストリー企画” (http://www.ohproject.com/)的网页上,登载着山下正男先生的回忆访谈录,解说得很详细。敬请有兴趣的同志一阅。

    Reply
  2. 陈尚士

    yamaさん
    前略。久しぶりですね、お元気ですか。
    私のブロックにお載せしたご作品は、纏まてから既に本に印刷されたのです。前もってお知らせもしないで申し訳御座いません。
    私の友人の中尾美恵さんが帰国日本人で、先日日本の東京から中国東北に帰ってきたのです。私はその本を東北にいた中尾さんに何冊も郵送してあげました。後のことは中尾さんからyamaさんに渡すよう頼んでおりました。
    中尾さんの電話は***********です。早速中尾さんとご連絡になったほうがいいと思います。
    山西では日中戦争の古い戦場もたくさん残してあるので、yamaさんが一日も早く大同旅行を実施なさるようお願いします。その時になるとご案内いたします。草々ではまた。
    中国山西大同 陳尚士
    2015年8月15日

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    1. yama Post author

      陳先生
      お久しぶりです。本を上梓されたとのことで、お知らせいただき、ありがとうございます。
      機会を得て拝読させていただきます。
      大同はずいぶん前に訪れたことがあります。まだ雲崗石窟が世界遺産に登録される前で、前庭に大きな駐車場が整備されていない頃です。
      あの頃はまだ「遺跡」の雰囲気がありましたね。

      Reply

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