李夜冰さん [2]


抗日学校への入学
1942(昭和17)年、十二歳になった李さんは、中共が運営する平東抗日高等学校に入学した。この学校は、中学生から高校生にあたる年齢の青少年を、将来の革命運動の指導者に育てるべく発足した学校だった。教員は、延安の抗日軍政大学の卒業生や中共軍の博学な人が務めていた。学生は全国各地からやってきていて、のちに多くの同学が党や政府の要職に就いた。

抗日学校在学中の李さん。学校が駐在していた村で自分の描いた絵を胸に抱えて(下の集合写真を拡大したもの)。

抗日学校在学中の李さん。学校が駐在していた村で自分の描いた絵を胸に抱えて(下の集合写真を拡大したもの)。

入校当時、李さんは十二歳で、学校で最年少だった。学校は、全寮制とも言うべき形で、常に中共の組織と共にあった。そのため、日本軍の攻撃をさけて転々と移動していた。厳しい生活環境のなか、最年少の李さんは多くの同学や教員の中でも大事にされ、異動先の住人達にもかわいがってもらったという。

学校での生活
中共政府とともにある学校は日本軍の攻撃をさけて常に移動しているため、校舎などもちろんない。駐留している村の農家が教室だった。農家の土間に板をひいて机代わりにし、地べたに座って授業を受けた。授業は、国語、算数、歴史、理科、音楽、そして李さんの得意な美術など、あらゆる科目の授業があった。

抗日学校の同級生とともに。学校が駐在していた村で撮影。

抗日学校の同級生とともに。学校が駐在していた村で撮影。

学校での一日は朝五~六時の起床から始まる。夏は一日三回、冬は二回の食事があった。例えば食事が二回の冬の場合は、起床から朝九時頃までは村の農作業の手伝い。その後、朝食をとった後に授業が始まる。昼の三時まで授業が行われ、その後夕食。夕食の後しばらく休息をとってまた農作業を夕方六時頃まで手伝い、その後に自習、そして就寝となる。ただ最年少の李さんは農作業を手伝うのが難しかったので、二人の女学生とともに食用となる雑草を取るのが主な仕事だった。

一年の内に帰郷できる時は、秋と春節(旧正月)の二回。また、春にも衣替えのための短い休みがあった。一方、夏は休みがなかった。そのため、これらの休みの時期以外はずっと学校とともに生活することになる。そして日本軍の攻撃と物流封鎖に見舞われていたその学校生活はとても厳しいものだった。

食料も含めすべての物が不足していた。主食はとうもろこしを潰して作った麺と、雑草が入った粟の粥だった。これがお腹一杯食べられれば幸せなほうだった。もちろん、授業の備品その他も不足していた。黒板に使うチョークは石を焼いて石灰を出し、それに紅、青、黄などの染料を混ぜて作った。学校の備品自体がこの状況だから、学生個人の勉強道具に満足なものはひとつもない。あるだけマシだった。李さんの手元にもちゃんとしたノートやペンなどはもちろんなかった。そのため、自作することになる。

当時李さんが自作してノート代わりに使用していたのは、留め金をはずした本の各ページを裏側にして綴じたもの。当時の本は一枚の紙に左右印刷し、それを中央で二つ折りして綴じたものが多かったから、留め金を外してばらせばページの裏側を白紙として使えたのだ。そこで李さんは、表の印刷された本の内容について自分で設問を設け、それを裏に書き込んでいく勉強方法をとった。このやり方で、勉強が非常にはかどったという。また、戦闘のあったあとにそこら辺に転がっている小銃の空薬蕎を拾って、それに穴を開けて手製のペンも作った。このペンは今でも自慢できるほどの出来映えだった。

印象に残った二人の先生
このような苦しい学校生活のなか、李さんの印象に残る先生がふたりいた。ひとりは美術、音楽、自然の授業を受け持っていた三十歳前後の李秀明先生。李先生は、日本との戦争が始まってから救国の呼びかけに応じてタイから来た華僑で、若い頃に油絵の修得のために英国に留学した経験を持つインテリだった。先生は冬でも上着一着、足下は藁で作った草履という質素な服装で、熱心に李さんに絵を教えてくれた。李さんは画家になってからまず油絵から描き始めたのも秀明先生の影響だ。

また、主に文学を担当していた高記伍先生も印象深い。高先生は、軍から派遣されてきた三十歳前後の男性。生徒に文学を教えるだけではなく、民間の故事を脚本にしたり、抗日劇の脚本を書いたりもしていた。創造力豊かな先生の授業はとても楽しかった。先生は戦後、中国文学連絡協会の教官を務めた。

少年画家
幼少の頃から、暇さえあれば絵を描いていた李さんの才能は多くの人が認めていた。そのため、学校行事や移駐先の村での宣伝活動などに使う絵すべてを一手にまかされるなど、李さんはまさに少年画家として活動した。例えば、子ども祭りの際には、それまで駐在した村で描きためた村民一人一人の顔を描いたスケッチ数百枚が一度に展示されて好評を博した。絵や写真に縁のない貧しい山村の村人たちにとって、似顔絵はとても嬉しいものだったようだ。またあるときには生徒全員の分の手製のバッチづくりを指示された。厚紙に毛沢東や魯迅の顔、学校の校章などを描いてそれを切り取ったあと、裏にピンをつけて作ったことを憶えている。

暇さえあれば絵を描いていた李さんだが、勉強道具同様、絵を描くための道具もすべて自作しなければならなかった。スケッチの練習に使う鉛筆はなかった。鉛筆のかわりに木の枝の先を火であぶって炭化させ、それを鉛筆代わりにした。また水彩画を描くときに必要な筆と絵の具ももちろん手に入らない。これも自作。筆は木の枝に豚の毛を束ねて糸で縛った。絵の具は、赤、黄、茶色それぞれの色をした石を捜してきて、水につけながらこすって色を出した。八路軍の軍服を染めるのに石を使っていたのを真似たのだ。石をこすって出した色はずっと色が変わらなかった。さながら高級な岩絵の具だ。また白は石灰を水に溶いて使い、青は植物から、黒は鍋の裏につくすすとのりを混ぜて作った。

「後方支援」
五年あまりの学校生活の中で一番厳しかった時期は、1942(昭和17)年から翌年にかけての二年間だった。この時はほとんどの村で穀物をはじめとする食料が日本軍によって封鎖され、食糧事情が逼迫していたからだ(*1)。また、1944(昭和19)年になると日本軍の討伐が厳しくなり(*2)、李さんたち生徒も通常の授業や農作業の他に後方支援に従事するようになった。岩壁に抗日の宣伝文句を書いたり、手製の武器づくりにも参加した。李さんも石を使った地雷を作ったことがある。

石地雷は大きな石に穴をあけ、その中に爆薬を詰めたものだ。糸を引くと爆薬に点火する仕組みで、発火部分にはマッチからほぐした燐を使った。爆発させると石の破片が飛散して敵兵を傷つける。単純な構造だが案外効果があった。石だらけの山西の山奥で道ばたに裏側を下にして置いておくとどれが爆弾か分からない。ゲリラ活動にはもってこいだった。

(*1)これまで日中双方の戦争体験者の話でも、1942(昭和17)年を境に、日本軍による物流の封鎖が徹底されるようになったということが指摘されている。これは太平洋戦争の進展で、元々自給率の低い華北地域において自給体制の確立が急がれ、対敵経済封鎖の強化が重要視されるようになったからだ。
(*2)南京汪政権の対米英参戦問題を契機に、日本政府は対中政策の方針転換を打ち出した。これにともない、北支那方面軍も1943(昭和18)年から、これまでの軍・政・経の政策全般を総合的に立案する方針から、純粋に軍本来の任務に立ち返ることに方向を転換させた。懸案の中共対策については、同年9月以降に対共産ゲリラ専門の特殊部隊「北支那特別警備隊」を発足させて情報戦を駆使した掃討作戦を実施したほか、翌年1月開始の「一号作戦」に伴う兵力抽出を補うために、現地軍による積極的な討伐及び警備強化を図っている。

日本軍の攻撃
日本軍の攻撃を想定して、夜間に避難訓練を行うこともしばしばだったが、残念ながら李さんの在学中、数人の同学が日本軍の攻撃によって捕虜になったり命を落とした。1942(昭和17)年のある時は、日本軍の攻撃で逃げ遅れた同学ふたりが龍鳳山で日本兵に捕まり、銃剣で刺されて亡くなった。また同じ年、学校が白城にいた際には、日本軍が八方向から学校周辺の村々を包囲し、逃げ遅れた二~三人の同学が日本軍に捕まってしまった。その内のひとり、当時十六歳前後だったある同学は、日本軍に捕らえられたあと娘子関に連行された。まだ若いといっても「小八路」だから皆で心配したが、幸いにも憲兵隊に送られるはずが日本軍の軍医が彼を引き取った。彼の優秀さに目をつけて、医学を勉強させたのだった。こうして生き延びた彼は、終戦の後、医者として村へ帰ってきた。彼は習った医学をのちの国共内戦で生かすことができた。怪我の功名と言えるかもしれない。

8月15日
1945(昭和20)年8月15日。強い日差しが暑い夏の晴れた日。この日も李さんたちは移駐先の村で、学校の先生達と軍の兵隊たちとともに村の農作業を手伝っていた。昼過ぎ、別の部隊の指揮本部から伝令がやってきた。日本が無条件降伏を受諾し、戦争が終結したという。この知らせを聞いた農作業中の兵士達が一斉に服と帽子を青空に投げた。八年間に及ぶ戦争が終わった喜びの声が、山西の広大な大地に響いた。

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000012.html

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One thought on “李夜冰さん [2]

  1. 山西大同陈尚士

    李夜冰先生的战争体验谈(二)
    土八路译自日本网络http://shanxi.nekoyam ada.com/
    进入抗日学校
    1942年(昭和12年),12岁的李先生进入了中共营运的平东抗日高等学校。这所学校是为了将适龄的青少年(从初中生到高中生)培养成将来革命运动的领导人而设立的学校。教员由延安抗日军政大学的毕业生以及中共军的博学人士担任。学生来自全国各地,好多同学后来担任了党和政府的要职。
    正在抗日学校学习的李先生,在学校所在的农村,
    他把自己划的画捧在胸前(这是将下面集体合影的一部分放大的)
    入学的时候,李先生才12岁,是学校里年纪最小的学生。学校的形式也可以说成是完全寄宿制,经常与中共的组织在一起,因此,为了躲避日军的攻击,转来转去居无定所。在严酷的环境中,年纪最小的李先生,即使在众多的同学以及教员当中,他也被倍加爱惜,据说也得到了所在地居民们的疼爱。
    在学校的生活
    与中共政府在一起的学校,因为要躲避日军的攻击就得经常转移,所以自然就没有校舍等。驻留在农村的农家就是教室。在农家的土地上铺好木板代替课桌,坐在地上听课。课程有语文、算术、历史、理科、音乐,还有李先生得意的美术等,所有的科目都开设。
    与抗日学校的同班同学在一起,拍摄于学校所在的农村
    在学校的一天生活,是从早晨5—6点起床开始的。吃饭,夏天是一天三顿,冬天是两顿。比如说在一天吃两顿饭的冬天,起床之后到上午9点左右,帮着干农村的农活,之后就吃早饭,接着就上课,上课一直到下午3点,之后吃晚饭。晚饭后稍事休息,再帮着干农活到傍晚6点左右,之后是自习,自习之后就寝睡觉。只是因为年纪最小的李先生难以帮着干农活,所以就他的主要工作就成了与两个女学生一起,采摘食用的野菜。
    一年之内,在能够回到家乡的时候,只有秋天和春节(旧历正月),另外,春季也有为了替换衣服而放的短假。另一方面,夏天没有暑假。因此,除了这些假期以外,就一直跟学校生活在一起。而且,学校遭到日军的攻击和物流封锁,生活当然是非常困苦的。
    包括食物之内,所有的物资都不充足。主食是将玉米粉碎后做成的面食和加入野菜的小米粥。要是这些东西能够吃饱的话,那也是非常幸运的了。当然,课堂的用品以及其他物品也都匮乏。用于黑板书写的粉笔,是煅烧石头,弄出石灰,再在石灰里加入红、兰、黄等染料而制成的。因为学校置办的用品本身就是这种状况,所以,满足学生个人的学习用具连一件也没有。只要是有就胜于无。李先生的手头当然也就没有像样的笔记本和画笔等,因此就自己制作。
    因为当时的书本,多是在一张纸上分为左右印刷,再在纸张的中间折叠后订缀而成,所以,如果拆除订装的书钉,将书页弄开,翻过背面就能够当做白纸使用。那时,李先生自己制作、代替笔记本而使用的,就是将这种摘除书钉后的每页书纸、翻过背面后再装订而成的笔记本。因此,李先生采取的学习方法是:就印刷在正面的书本的内容而言,他自己设置提问,再在背面将答案写上去。据说通过这种做法,学习有了很大的进展。另外,战斗发生之后,他就拾捡散落在那一带的步枪空弹壳,在空弹壳上钻开孔,人工制作钢笔也就做出来了。使在今天,那支笔即还是能够炫耀的杰作。
    留在脑海里的两个老师
    在这样的艰苦生活中,有两个老师给李先生留下了深刻的印象。一个是担任美术、音乐、自然课的30岁左右的李秀明老师。李老师是与日本的战争开始之后,响应救国的号召,从泰国归来的华侨,年轻的时候,为了学习油画而留学英国,是个具有经验的知识分子。李老师的衣着朴素,即使在冬天也仅穿一件上衣,脚下踏一双用稻草制作的草鞋,热心地教给当学生的李先生。李先生成为画家之后,首先是从油画开始画起的,这也是受了李秀明老师的影响。
    另外,主要担任文学课的高记伍老师留给李先生的印象也是深刻的。高老师是个由部队派遣来的30岁左右的男性,他不仅仅教学生们文学,还将民间故事或改编成剧本,或写成抗日剧目的剧本。创造力丰富的高老师的授课是非常快乐的。战后,高老师担任了中国文学联络协会的教官。
    少年画家
    李先生从幼小的时候起,只要有空他就画画,他的才能得到很多人的认可。为此,学校进行活动以及在移驻地的村庄用于宣传活动的绘画等,就全都委派给他一个人来做,李先生的确作为少年画家进行了活动。比如,儿童节的时候,他节前就在所驻的村庄,将每个村民面孔都画了下来,将集攒起来的数百张写生画一度展出后博得了的好评。这对于与绘画以及写真无缘的贫困山村的村民来说,肖像画似乎是让他们非常高兴的东西吧。另外,李先生还记得以往的事情,有时候接到指示,给全体学生每个人制作一个徽章,他就在厚纸上画上毛泽东、鲁迅的头像以及学校的校章,将那些图案剪下后,再在其背后装上别针而使用。
    李先生只要有闲暇的时间就绘画,与学习工具一样,用于绘画的工具也必须全部自己制作。没有用于写生练习的铅笔,代替铅笔的就是将树枝煅烤使之炭化,用它来做铅笔。此外,画水彩画的时候,必需的画笔和颜料当然到不了手,这些东西也是自己制作。画笔是将猪毛捆扎在一起后绑在树枝上,颜料是将能够弄出红、黄、茶色等各种颜色的石头收集起来,一边浇水一边研磨而弄出颜色来。这是模仿印染八路军军服时使用了石头的例子。研磨石头而弄出来的颜色,其色调一直都不变,仿佛是高级的岩石颜料。另外,白色是将石灰溶于水中来使用,绿色取自植物,黑色是将附在锅底的煤黑与浆糊混合起来而制作的。
    “后方支援”
    在五年多的学校生活中,最严峻的时期是从1942年(昭和17年)到翌年的这两年间。因为这一时期,几乎所有的村庄都被日军的封锁,以五谷为主的粮食情况非常困窘(注1)。另外,到了1944年(昭和19年),日军的讨伐变得严峻起来了(注2),李先生他们那些学生,除了上课干农活外,也从事起了后方支援的工作。在岩壁上书写宣传抗日的标语啦,还参加武器的人工制作,李先生也曾经使用石头制作了地雷。
    石头地雷就是在大石头上钻孔,在那里边填充炸药的地雷。是一种安装上导线就能够点燃炸药的装置。发火部分使用了从火柴上剥下来的磷,一旦让它爆炸,飞溅的石头碎片就能杀伤敌人。尽管构造简单,却有意想不到的效果。在全是石头的山西的深山里,在路旁以内侧为主事先放置在那里,谁也不清楚哪个是炸弹。游击活动的时候,它是合适的理想的武器。
    (注1)到目前为止,据中日双方的战争体验者讲,他们都指出这样的事实,即以1942年(昭和17年)为界,由日军进行的物流封锁变得彻底了。这是因为由于太平洋战争的进展,在原本自给率就很低的华北地区,急切需要确立自给体制,强化对敌经济封锁被看的重要起来了的缘故。
    (注2)以南京汪精卫政权的对美英参战问题为契机,日本政府打出了新牌,转变了对华的政策方针,伴随着这种转变,北支那方面军也从1943年起,由此前的综合性地筹划军·政·经全部政策的方针,转变为纯粹返回到军队本来的任务这一方向。关于作为悬案的对中共的政策,同年9月以后,成立了对付共产游击队的专门特殊部队“北支那特别警备队”,除了实施运用情报的扫荡作战外,随着翌年1月开始的“一号作战” 为了补充抽出的兵力,谋求由当地部队进行积极的讨伐以及警备的强化。
    日军的攻击
    假想日军来攻击,他们也常常在夜间进行避难的训练,可遗憾的是,就在李先生在校期间,有几个同学由于日军的攻击或者被俘,或者丧命。1942年(昭和17年)的某个时候,由于日军的攻击,逃跑迟缓的两个同学在龙风山被日本兵逮住后,被用刺刀刺死了。另外,那一年学校在白城的时候,日军从八个方向包围学校周边的村庄,逃跑迟缓的两三个同学不幸被日军逮住了,其中的一个同学当时16岁左右,被日军逮住后带到了娘子关。虽说是年纪尚轻,但因为是“小八路”,大家都很担心,可是,幸运的是他被送到了宪兵队,日军的军医将他领走,着眼于他的优秀,就让他学习了医学。他将学到的医学,能够在后来的国共内战中发挥了作用。这也可以说成是侥幸的成功。
    8月15日
    1945年(昭和20年)8月15日,那是一个日光强烈的盛夏晴天。这一天,李先生他们在驻扎的村子里,与学校的老师们、部队的战士们一起,帮着干农村的农活。过了中午,由别的部队的指挥部传来了命令,说是日本承诺了无条件投降,战争结束了。听到这一通知的正在干农活的战士们一齐将衣服和帽子抛向了空中,结束了长达8年的战争之后的欢呼声,响彻了广阔的山西大地。
    全文译完

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