中国共産党の”抗日救国”


日華事変において、中共こそが救国を担ったという主張が長年にわたって流布されてきた。しかし、それは嘘である。そもそも中共指導部に、日本軍に対する抗戦意欲はなかった。中共の至上命題は大陸の覇権を握ることで抗日ではなかった。日本との戦争は国府を追放し、自らが権力を奪取する絶好のチャンスであった。対外的なアナウンスとして抗日を標榜しただけである。

中共のプロパガンダを真に受けて、国府に見切りを付けた元国府軍将兵や愛国学生が多数入党してきたが、中共が日本軍と真面目に戦う意志はゼロだった。下部党員で心情として抗日に燃えた者は多く、中共党員ではない中共シンパは率先して抗日を戦った。その事実と中共指導部が抗日を優先課題としていたか否かは別である。廬溝橋事件を中共の陰謀とする空想はあまり意味あることではない(中共自身がそれを仄めかしていた)。国家間の戦争はそう簡単に起こるものではない。日華事変は、偶発的に生じた廬溝橋事件をきっかけに、蒋介石が長年にわたって準備してきた対日戦を決意して主導したことによって引き起こされたものであり、中共はそれに乗じただけである。

八年間にわたる日中間の戦争で日本軍の矢面に立ったのは常に国府軍であった。中共はその指揮下にあったにも関わらず、根拠地建設を優先して積極的な作戦行動をとらなかった。そればかりか、命令に不服従の姿勢を示し、最終的には味方である国府軍を攻撃するまでにいたっている。敵軍が攻めてきたのに攻撃する意志がなかった国軍(一応、国府軍に編入されていた)というのは、世界でも中共ぐらいの特異な存在と言えるのではないか。図らずも毛沢東は1964年(昭和39年)に社会党の佐々木更三らと会見した際、「皇軍の力なしには我々が権力を奪うことは不可能だった」と吐露している。同様の趣旨の話は、ニクソンや田中角栄との会見でも披露されたと言われている。特に驚くことでも有り難がる話でもない。日華事変における中共の抗戦姿勢からすれば、当たり前の話である。

長城線で戦闘態勢をとる八路軍。手前の兵士は日本軍の軽機関銃をかまえている。このような勇ましい写真と、史料から明らかになる八路軍の姿には大きな乖離がある。 (写真出典:エドガー・スノー『抗日解放の中国』サイマル出版会,1986年)

長城線で戦闘態勢をとる八路軍。手前の兵士は日本軍の軽機関銃をかまえている。このような勇ましい写真と、史料から明らかになる八路軍の姿には大きな乖離がある。
(写真出典:エドガー・スノー『抗日解放の中国』サイマル出版会,1986年)

1936年(昭和11年)12月の西安事変、次いで翌年7月に勃発した日華事変で、中共は国府との間で停戦・合作にこぎ着けた。中共の有する兵力は国府軍第十八集団軍として正式に国軍に編入されることになった。日華事変で中共軍は、第二戦区司令長官である閻錫山の指揮の下、国軍の一部として正面戦場への出動を要請されたが断っている。対外的には事変勃発直後に「抗日救国十大綱領」なるものを発表して全国民に抗日を呼びかける一方、内部会議では正面戦場への参戦を否定し、根拠地建設を最優先することを決定していたからだ。中共軍は「独立自主」を旗印に日本軍の後方に展開したが、それは後方から脅威を与えることが目的ではなく、自らの支配地域を拡大することが目的だった。八年間に及ぶ抗日戦争において中共が誇ることができる戦例が「平型関」と「百団大戦」のたった二つしかない、しかも戦功と称しているその二つの戦いも実態はきわめてお粗末なものであった事実が、中共が軍事面でなんら寄与するところがなかったことを如実に示している。

忻口戦線における国府軍砲兵。忻口では約三週間にわたって激烈な闘いが繰り広げられたが、中共軍は"遊撃戦"と称して参戦しなかった。事変初期の国府軍の勇猛さは参戦した日本将兵の多くが記している。写真のおそらく野砲兵と見られる国府軍将兵は、ドイツ仕様の防毒面に機関短銃(米国式のThompson submachine gun)を装備している。攻撃する日本側と同じ程度に中国側の装備の充実度が高かった事実はあまり知られていない。(写真出典:楊克林, 曹紅編著『中国抗日戦争図誌』新大陸出版社有限公司,1992年)

忻口戦線における国府軍砲兵。忻口では約三週間にわたって激烈な闘いが繰り広げられたが、中共軍は”遊撃戦”と称して参戦しなかった。事変初期の国府軍の勇猛さは参戦した日本将兵の多くが記している。写真のおそらく野砲兵と見られる国府軍将兵は、ドイツ仕様の防毒面に機関短銃(米国式のThompson submachine gun)を装備している。攻撃する日本側と同じ程度に中国側の装備の充実度が高かった事実はあまり知られていない。(写真出典:楊克林, 曹紅編著『中国抗日戦争図誌』新大陸出版社有限公司,1992年)

1937年(昭和12年)9月の平型関戦は、日本軍の侵攻を長城線で阻止すべく国府軍が五万人を動員して一週間にわたって激戦を繰り広げたもので、中共の参戦は一局面に過ぎない。中共はこの戦いにあって、林彪部隊が板垣兵団を攻撃撃破したと称しているが嘘である。実際には、非武装に近い輜重部隊を襲撃して物資の略奪を行っただけで、日本軍の補給路を扼止することもなく独断で撤退を行い、戦局に意味ある効果は何らもたらさなかった(→コラム:誇張された「平型関大捷」)。山西省北部に展開した林彪部隊に対し、省東部に展開した劉伯承部隊は、同様に日本軍の輜重部隊を襲撃し、やはり戦果を誇張している(→コラム:「七亘大捷」の実相)。1937年(昭和12年)における中共の作戦行動で目を引くのは、この種の物盗りだけである。

一方、1940年(昭和15年)9月の百団大戦は、第一次攻勢で鉄道や重要施設へのテロを敢行し、第二次攻勢では日本軍に正規戦を挑むなど積極姿勢だった。「大戦」と呼べるほどのものかどうかは別として、中共自らがイニシアティブを発揮して発動した軍事攻勢であることは間違いない。ただ、抗日戦を通じて唯一という点で特異事例である。戦果については平型関と同じく誇張しており、戦術的に負け戦であると同時に、その後の日本軍の積極的な討伐を招いたという点で戦略的にも失敗だった(→コラム:「百団大戦」の政治背景)。作戦を指揮した彭徳壊は自己批判を行っており、後年、毛はそれを根拠に彭を粛正している。真の理由が権力闘争にあったとしても、当時の中共の抗戦路線としては百団大戦が逸脱したものであったことは明らかだった。

そもそも百団大戦が中共自身の手によって企図されたとするのには疑問がある。百団大戦が発動された年、1940年(昭和15年)の年頭に、中共は赤化した共同軍の処遇をめぐって国府軍(山西軍)との間で大規模な武力衝突事件を引き起こしており(→コラム:犠牲救国同盟会と山西新軍)、その際に国府軍から多数の秘密党員や中共シンパが根拠地に流入することになった。党内バランスが崩れたことが容易に想像できる。毛澤東自身が後に百団大戦を「右翼分子による策動」と総括しているように(おそらく延安では悲惨な粛清の嵐が吹き荒れたであろう)、この戦いは、抗日思想の強い旧国府系軍人の主導で発動されたものと考えるべきである。

百団大戦であれほど衝撃を受けた日本軍が次に発動した大作戦(中原会戦)は、中共相手ではなく国府軍の壊滅を狙ったものだった。このことも中共が軍事面で日本軍に脅威を与える存在ではなかったことを示唆している。そして中原会戦では、国府軍十万が殲滅されたと言われ、ちりぢりになった国府軍を中共が機に乗じて武装解除し、急速に支配地域を拡大させる結果となった。華北で日本軍が中共対策に本腰を入れはじめたのは翌年の1941年(昭和16年)以降からであるが、現地軍が主張した中共本拠の延安占領は退けられたうえ(西安作戦から四川作戦に格上のうえ延安占領は破棄、のちに作戦自体が中止)、対米戦の関係もあって装備優秀師団は全て引き揚げ、華北には装備・機動力・士気ともに劣る三線級師団(旅団)が配置された。国府軍なき中共相手の治安維持にはそれで十分だったわけだ。

八路軍の軍衣を身にまとった益子中隊長ら。右の佐々木少尉に括弧書きで「則界村にて戦死」とあるのは、ニヶ月後の南部太行作戦における国府軍との戦闘によるものである。(出典:第一軍司令部「益子中尉ノ戦闘経過ノ概要」1942年)

八路軍の軍衣を身にまとった益子中隊長ら。右の佐々木少尉に括弧書きで「則界村にて戦死」とあるのは、ニヶ月後の南部太行作戦における国府軍との戦闘によるものである。(出典:第一軍司令部「益子中尉ノ戦闘経過ノ概要」1942年)

中共軍との戦いがどのようなものだったか一例を挙げよう。日本軍の姿を見ると中共は逃げた、という回想は多くの出征兵士が書き残している。1942年(昭和17年)5月、山西省南東部の山中に盤踞する中共軍の覆滅を狙い発動された「晋冀豫辺区作戦」において、日本軍は”逃げる中共軍”を捕捉するために、中共に扮装した特殊部隊を敵地に潜入させる便衣作戦を実行した(→コラム:八路に扮した益子挺進隊)。この便衣作戦において、歩兵第二百二十三連隊の益子挺進隊は、中共軍司令部を捕捉し、副司令官の彭徳懐を負傷、参謀長の左権を戦死せしめた。左権は抗日戦において戦死した最高位の中共幹部である。単身敵中に潜入していった益子挺進隊の総員はたった百名ほどだったが、驚くべきことに損害わずかに軽傷者二名のみで遺棄死体293、捕虜165の戦果を挙げ、全員無事に帰還している。この事実は、同じ益子隊が二ヶ月後の「南部太行作戦」において国府軍と戦いを交えた時、すなわち、将校二名の戦死を含む総員の半数弱が戦死傷するという壊滅的打撃を蒙っている事実と比較することで、中共の戦意と実力がどの程度のものであったかを示唆することとなる。中共が主戦場と位置づけ、最も活発に活動したのは山西省だったが、その山西省でも軍事面ではこのような有様だったのだ。日本軍と真面目に戦った、戦い得たのは中共ではなく、国府軍だった。

昭和20年(1945年)8月、日本は敗北した。この時に山西省にあった兵力は非戦闘部隊を含めて六万人弱だった。数で見ると多いと感じるが、国府軍が組織的抵抗を行っていた最盛期に比べて兵力で四割も減少している。人口比で考えると、2006年末の増派前のイラク駐留米軍と比べても八割にとどまる。それでも終戦まで主要鉄道の途絶もなく、治安地域も多少の縮小はあっても未だ広大だった。中共に戦う意志がなかった何よりの証拠である。

ところが、現地に派兵された日本兵と参謀将校は口を揃えて、中共の”ゲリラ戦”すなわち「遊撃戦」によって日本軍が悩まされた、とりわけ太平洋戦争以降、終戦までの華北においては、と主張する。中共の主張を裏付ける実体験として重宝される。しかし事実とは言えない。人というのは自分の居場所を物差しにして考えるから、八路は強いとか危ないと言うだけである。参謀将校の場合は、自らの仕事がより重要であると主張したい官僚特有の顕示欲がこれに加わる。そもそも「共匪」「赤匪」という呼び名が如実に示しているように”武装強盗”が跋扈するから「危ない」と国軍部隊が言っても説得力がないばかりか恥であろう。華北駐留の日本軍で、中共軍に殲滅された中隊以上の部隊はなく(それも百団大戦における数例のみである)、栄養失調になった者もいなかった。少なくとも山西省管内の日本軍は終戦まで白米を食していた。それに対し、補給路を遮断されて餓死者が続出し、凄まじい空爆と艦砲射撃で全てを粉砕してから、ようやく強力な機甲力を随伴して上陸してくる米軍を相手にした太平洋戦線と比較すれば何をかいわんやである。

ただ、中共がいくら軍事面でほとんど貢献がなかったとしても、最後に大陸の覇権を握ったという点では間違いなく勝者である。敗者は勝者に遠慮する。勝者が自信満々に語る「遊撃戦」論に敗者が異議を唱えず一目置くことは不自然なことではない。

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000394.html

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7 thoughts on “中国共産党の”抗日救国”

  1. 中国山西大同 陈尚士

    yama先生您好:
    1,如果方便的话,请写一篇关于“通州事件”的文章,我想大多数中国人不知道这一事件的来龙去脉。
    2,另外,能不能写一篇日军占领大同时期的文章,我对这方面事情很感兴趣。
    3,我知道战时日军有一首歌、好像叫做“爱马进行曲”,您能告诉我歌词的内容吗?

    Reply
  2. yama

    陳先生
    このサイトは山西省と関係のある出来事を中心としていますので、通州事件を取りあげるつもりはありません。ただ、排日運動で多発した邦人に対するテロ(例えば太原事件)を取りあげることはあるかもしれません。
    それから、占領期の大同については、関東軍が無血占領した後、治安も安定していましたが、情報(資料)自体があまりないんです。というのも戦時中の所管は、大同は山西省ではなくて内蒙となり、軍では駐蒙軍(関東軍)、行政は晋北政府(蒙彊政府)の管轄となり、資料が随分と限られてきます。もし何かご存知でしたらお教えください。

    Reply
  3. yama

    愛馬進軍歌
    作詞:久保井 信夫
    作曲:新城 正一
    著作権:有(詞)、無信託(曲)
         有(コロムビアミュージック:曲)
    一、
    国を出てから幾月ぞ
    共に死ぬ気でこの馬を
    攻めて進んだ山や河
    取った手綱に血が通う
    二、
    昨日陥(お)としたトーチカで
    今日は仮寝(かりね)の高いびき
    馬よぐっすり眠れたか
    明日の戦(いくさ)は手強いぞ
    三、
    弾丸(たま)の雨降る濁流を
    お前頼りにのり切って
    任務(つとめ)果たしたあの時は
    泣いて秣(まぐさ)を食わしたぞ
    四、
    慰問袋のお守礼(まもり)を
    かけて戦うこの栗毛
    ちりにまみれた髯面(ひげづら)に
    なんでなつくか顔寄せて
    五、
    伊達には佩(と)らぬこの剣(つるぎ)
    真っ先駆けて突っ込めば
    何と脆(もろ)いぞ敵の陣
    馬よ嘶(いなな)け勝鬨だ
    六、
    お前の背(せな)に日の丸を
    立てて入城この凱歌
    兵に劣らぬ天晴れの
    勲(いさお)は永く忘れぬぞ

    Reply
  4. 中国山西大同 陈尚士

    “大刀进行曲”和“爱马进行曲”
    “大刀进行曲”这首歌最初的词句,是以二十九军在长城喜峰口夜袭日军的事迹鼓舞该部抗战,后来,随着它雄壮的旋律响彻全国军队和民众之中,“二十九军的弟兄们”便改为“全国武装的弟兄们”。抗战初期,提起二十九军的大刀队,在全国可谓如雷贯耳。二十九军大刀队名震天下,成了全民族抵御外侮的偶像。何香凝曾赋诗一首称赞:杀敌何须更渡海,数万倭奴引颈待。钢脚夜眼青龙刀,捷音传来齐喝彩。二十九军民族光,挞汝倭国军阀狂。国仇重重何日忘,誓到东京饮琼浆。
    大刀向鬼子们的头上砍去,
    全国武装的弟兄们,
    抗战的一天来到了,
    抗战的一天来到了!
    前面有东北的义勇军,
    后面有全国的老百姓,
    咱们中国军队勇敢前进!
    看准那敌人,把他消灭!把他消灭!
    冲啊!大刀向鬼子们的头上砍去!
    大刀向鬼子们的头上砍去,
    全国武装的弟兄们,
    抗战的一天来到了,
    抗战的一天来到了!
    前面有东北的义勇军,
    后面有全国的老百姓,
    咱们中国军队勇敢前进!
    看准那敌人,把他消灭!把他消灭!把他消灭!把他消灭!
    冲啊!大刀向鬼子们的头上砍去!杀!
    无独有偶,侵华的日军也用军歌来鼓舞士气,比较有名的就是“爱马进行曲”,土八路找到了日文歌曲的原词,可惜日文水平有限,不能对应地译成符合原旋律的歌词,只能意译如下,特附上日文原歌词,供懂日语的网友试译。
    愛馬進軍歌(爱马进行曲)
    (1) 国を出てから幾月ぞ 共に死ぬ気でこの馬を 攻めて進んだ山や河 取った手綱に血が通う
    (1)战马吆!我的坐骑,离开皇国数月矣,生死与共和你战斗在一起,前进在山川大地,双手紧收的缰绳里,涌动着你的热血和朝气。
    (2)昨日陥(お)としたトーチカで 今日は仮寝(かりね)の高いびき 馬よぐっすり眠れたか 明日の戦(いくさ)は手強いぞ
    (2)战马吆!我的坐骑,你可得以休息?在昨天攻取的碉堡里,今天我鼾声如雷得以片刻的歇息,明天再奔向战场,对手将是强劲之敌。
    (3)弾丸(たま)の雨降る濁流を お前頼りにのり切って 任務(つとめ)果たしたあの時は 泣いて秣(まぐさ)を食わしたぞ
    (3)战马吆!我的坐骑,全仗着你,我跨越深沟激流,冒着枪林弹雨,完成任务的时候,我喜极而泣,报答你的将是满槽的饲草充饥。
    (4)慰問袋のお守礼(まもり)を かけて戦うこの栗毛 ちりにまみれた髯面(ひげづら)に なんでなつくか顔寄せて
    (4)战马吆!枣红色的坐骑,我穿着慰问的护身衣,您浑身沾满了征尘流淌着汗滴,你为何如此与我亲昵?那是因为我的脸膛与你的鬃毛贴得更加紧密。
    (5)伊達には佩(と)らぬこの剣(つるぎ) 真っ先駆けて突っ込めば 何と脆(もろ)いぞ敵の陣 馬よ嘶(いなな)け勝鬨だ
    (5)战马吆!我的坐骑,佩带军刀不是为了豪爽阔气,驰骋沙场最先突入敌阵的就是你,脆弱的敌阵是多么不堪一击,战马吆你嘶鸣吧!这声音就是胜利的乐器。
    (6)お前の背(せな)に日の丸を 立てて入城この凱歌 兵に劣らぬ天晴れ 勲(いさお)は永く忘れぬぞ
    (6)战马要!我的坐骑,凯歌高奏入城时,你脊背插着太阳旗,战士们心境的灿烂,远胜过晴朗的天气,你的功劳将永远不能忘记。

    Reply
  5. 中国山西大同 陈尚士

    愛馬進軍歌(爱马进行曲)
    土八路日文水平有限,不能对应地译成符合原旋律的歌词,只能意译如下,特附上日文原歌词,供懂日语的网友试译。
    (1) 国を出てから幾月ぞ 共に死ぬ気でこの馬を 攻めて進んだ山や河 取った手綱に血が通う
    (1)战马吆!我的坐骑,离开皇国数月矣,生死与共和你战斗在一起,前进在山川大地,双手紧收的缰绳里,涌动着你的热血和朝气。
    (2)昨日陥(お)としたトーチカで 今日は仮寝(かりね)の高いびき 馬よぐっすり眠れたか 明日の戦(いくさ)は手強いぞ
    (2)战马吆!我的坐骑,你可得以休息?在昨天攻取的碉堡里,今天我鼾声如雷得以片刻的歇息,明天再奔向战场,对手将是强劲之敌。
    (3)弾丸(たま)の雨降る濁流を お前頼りにのり切って 任務(つとめ)果たしたあの時は 泣いて秣(まぐさ)を食わしたぞ
    (3)战马吆!我的坐骑,全依仗着你,我跨越深沟激流,冒着枪林弹雨,完成任务的时候,我喜极而泣,报答你的将是满槽的饲草充饥。
    (4)慰問袋のお守礼(まもり)を かけて戦うこの栗毛 ちりにまみれた髯面(ひげづら)に なんでなつくか顔寄せて
    (4)战马吆!枣红色的坐骑,我穿着慰问的护身衣,您浑身沾满了征尘流淌着汗滴,你为何如此与我亲昵?那是因为我的脸膛与你的鬃毛贴得更加紧密。
    (5)伊達には佩(と)らぬこの剣(つるぎ) 真っ先駆けて突っ込めば 何と脆(もろ)いぞ敵の陣 馬よ嘶(いなな)け勝鬨だ
    (5)战马吆!我的坐骑,佩带军刀不是为了豪爽阔气,驰骋沙场最先突入敌阵的就是你,脆弱的敌阵是多么不堪一击,战马吆你嘶鸣吧!这声音就是胜利的乐器。
    (6)お前の背(せな)に日の丸を 立てて入城この凱歌 兵に劣らぬ天晴れ 勲(いさお)は永く忘れぬぞ
    (6)战马吆!我的坐骑,凯歌高奏入城时,你脊背插着太阳旗,战士们心境的灿烂,远胜过晴朗的天气,你的功劳将永远不能忘记。

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  6. 中国 山西 大同 陈尚士

    坚持敌后抗战的中共
    土八路译自日本网络http://shanxi.nekoyam ada.com/
    在日中事变中,正是中共挑起救国的重任,这一主张多年来一直广为流传散布。不过,那是谎言。最初中共的领导层并没有对日军的抗战热情。中共的至上命题是掌握大陆的霸权,而不是抗日。(中国)与日本的战争,是中共驱逐国民政府,自己夺政权的绝好机会。只是作为对外的宣传,才标榜抗日而已。
    正真接受中共的宣传,而对于国民政府绝望的原国民政府军的将士以及爱国学生的好多人都加入到了中共,可是,当时中共没有与日军认真地作战的意志。好多下层党员内心洋溢着抗日的热情,不是中共党员的中共同情者率先进行了抗日。这些事实以及中共领导层,是否将抗日作为了优先的课题呢?要另当别论。将卢沟桥事件当做中共的阴谋的假想,并不具有什么意义的(中共本身也暗示了这一点)。国家之间的战争并不会就那么简单地爆发。日中事变,是以偶发的卢沟桥事件为契机,是由准备多年的蒋介石下决心对日作战而主导的事件引发的,中共只是利用了这一机会而已。
    这长达8年的日中战争中,处于日军锋面的常常是国民政府军。尽管中共处于国民政府的指挥之下,但他优先于根据地的建设,因而没有采取积极的作战行动。不仅如此,还展示了其不服从命令的姿态,最终甚至发展到了攻击友方的国民政府军。所谓对于敌人的进攻没有反击意志的国民政府军 (姑且被编入了国民政府军的军队) ,可以说,即使在全世界,再也没有以中共这种特殊形式的存在了。谁也没有料到毛泽东在1964年(昭和39年)会见日本社会党的佐佐木更三等人时,会吐露了这样的话语“没有皇军的协力,我们夺取政权是不可能的” 。据说同样宗旨的谈话,即使在与尼克松以及田中角荣会见的时候,也披露了。这话既不令人吃惊,也不令人感到稀奇,从日中事变时中共的抗战姿态来看,那是理所当然的话语。
    这是在长城一线采取战斗态势的八路军,近前的这个士兵使用的是日军的轻机关枪。这么勇猛的照片与史料清晰的八路军的姿态相比,是具有很大的反差的照片。(出典:爱德华•斯诺《抗日解放的中国》萨伊马儿出版社1986年)
    由于1936年(昭和11年)12月的西安事变,紧接着的第二年7月爆发的卢沟桥事变,中共在与国民政府之间努力做到了停战和合作,中共拥有的兵力被正式编入了国民政府军的第18集团军。由于卢沟桥事变,中共军在第二战区司令长官阎锡山的指挥下,作为国民政府军的一部分,虽然请求要到正面战场作战,但被拒绝了。在对外方面,就在事变爆发之后,中共发表了“抗日救国十大纲领”的文告,呼吁全国人民抗日。而另一方面,在内部会议上,否定了在正面战场的参战的主张,决定了要优先建设根据地。中共军以“独立自主”为旗帜,在日军的后方展开了工作。其目的也不是从后方给敌人以威胁,而是扩大自己支配的区域。在长达8年的抗日战争中,中共能够引以自豪的战例,仅仅是“平型关”和“百团大战”,除了这两个以外,就再也没有可表的了。而且称作战功的那两场战役的实际情况也是不够精彩的,如实地显示了在军事方面起不到任何作用的事实。
    这是在忻口战线的国民政府军的炮兵。日中在忻口展开了达达约三周的激烈战斗,可是称作游击战中共军却没有参战。好多参战的日军将士事记载了事变初期国民政府军的勇猛,(照片出典:杨克林曹洪编著《中国抗日战争图志》新大陆出版社有限公司,1992年)
    1937年(昭和12年)9月的平型关战役,是国民政府军为了在长城一线阻止日军的进攻,而动员了5万人展开的长达一周的激烈战斗。中共的参战不过是在局部,中共在这次战斗中,称林彪的部队击溃了板垣兵团就是谎言。实际上,是袭击了近乎非非武装的辎重部队,仅仅进行了物资掠夺,连日军的补给线都没有扼制就擅自撤退,没有对战局带来任何有意义的战果(相关博文被夸大的“平型关大捷”)。相对于在山西省北部展开的林彪部队而言,展开于省东部的刘伯承部队,也同样袭击了日军的辎重部队,依然是夸大了战果(相关博文“七亘大捷”的真相 )。在1937年(昭和12年),中共的作战行动吸引人目光的,仅仅就是这种夺取物资的行动而已。
    另一方面,1940年(昭和15年)9月的百团大战,在第一次攻势中,中共断然实施了对铁道以及重要设施的破坏,在第二次攻势中,采取了向日军发动正规战之类的积极姿态。但能否称为“大战”程度的战役,则另当别论。这是中共自己发挥主导权,而发动的军事攻势,在这一点上是肯定的。只是在整个抗日战争期间,这是唯一的亮点,是特异的事例。关于其战果,与平型关一样被夸大了,在战术上是败仗,同时,从后来招致的日军积极的讨伐这一点上来看,在战略上也是失败的(相关博文百团大战”的政治背景)。指挥作战的彭德怀进行了自我批评,到了晚年,毛根据这个肃整了彭。即使认为真正的理由在于权力斗争,但作为当时中共的抗战路线,百团大战是背离其路线的产物,这是明确无误的。
    当初百团大战是依靠中共自身能力而策划的吗?对此存有疑问。发动百团大战的那一年,是1940年的年初,中共围绕着赤化了的同盟军的处境,在与国民政府军(山西阎锡山军)之间,引发了大规模的武力冲突事件(相关博文西),那个时候,很多秘密的党员以及中共的同情者都进入了根据地,党内的平衡被打破了,这是能够轻而易举想像到的。就像毛泽东本人后来将百团大战概括为“由右翼分子策动的”那样(在延安,悲惨的肃整风暴大概刮得很猛吧),这个战役应该考虑为,是由抗日思想强烈的原国民政府系的旧军人来主导发动的吧。
    在百团大战中受到那种程度冲击的日军,在下一次发动的大规模作战中(中原会战),不以中共为对手,而是把国民政府军作为目标的作战。这一战役也显示了中共在军事方面,不存在对日军的威胁。而且,在中原会战中,据说国民政府军被歼灭了10万,中共乘机解除了成为散沙的国民政府军的武装。结果使其支配的地域迅速地扩大。在华北,日军开始认真对付中共的时间,是起于第二年的1941年(昭和16年)之后,当地的日军占领中共大本营延安的主张,在被推后的基础上(在由西安作战升格为四川作战的情况下,占领延安的计划被毁弃,后来这些作战的本身被中止了),因对美作战的关系,装备优良的师团被全部撤出,而配置了装备、机动性、士气都低劣的三线级别师团(旅团)。对于对手不是国民政府军的中共,维持治安依靠这些部队就足够了。
    这是身穿八路军军服的日军益子中队长,右边的是佐佐木少尉,括号里写着“战死于则界村”,这是源自两个月后,与在太行南部作战的国民政府军交战时的照片。(典出:第一军司令部“益子中尉战斗经过之概要”1942年)
    与中共的战斗是些什么样的战斗呢?举一个例子吧。中共一看见日军的踪影就逃跑了,好多出征的将士都写下了这样的回忆。1942年,(昭和17年)5月,以消灭盘踞在山西省东南部山中的中共军为目的,在发动的“晋冀豫边区作战”中,日军为了捕捉“逃跑的中共军”而实施了便衣作战,让装扮成八路军的特殊部队潜入了敌占区(相关博文装扮成八路军的日本益子挺身队(特攻队)),在这次便衣作战中,步兵第223联队的益子挺进队,捕捉中共军的司令部,使副司令官彭德怀负伤,参谋长左权阵亡。左权是抗日战争中战死的职位最高的中共干部。轻装潜入到敌占区的益子挺进队,尽管总数仅有100来人,可让人吃惊的是他们损失轻微,仅有两名轻伤者,而取得了毙敌293名,俘虏165人的战果。这支益子挺进队,在两个月后的“太行南部作战”中,与国民政府军交战时,也就是说,包括两名战死的将校之内,占总数的近一半人员阵亡或负伤,与日军蒙受毁灭性的打击相比,中共的战斗意志和实力,其低下到这么程度呢?通过这一事实就能得到启示。中共位于主战场,其最活跃的活动地方就在山西,可即使就在这个山西省,在其军事方面,也就是这般光景。与日军真正作战的、能够作战的军队,不是中共,而是国民政府军。
    昭和20年(1945年)8月,日本战败了。这个时候,日军在山西省的兵力,包括非战斗的部队在内,不足6万人。一看数字就感到人员很多,可与国民政府军进行有组织抵抗的最盛时期相比,日军的兵力已减少了四成之多。如果以人口比来考虑的话,即使与2006年底的、增兵之前的驻伊拉克美军相比,也限止在八成。尽管如此,直到战争结束,主要铁路也没有停运,尽管治安地域略有缩小,可还是广阔的。中共没有战斗意志,这是比什么都重要的证据。
    然而,派遣到当地的日本兵和参谋将校,他们异口同声的看法是,日军被中共的“游击战”所烦恼,特别是在太平洋战争以后、战争结束以前的华北。这些证言作为佐证中共主张的实际体验而受到重视。不过,这不能说成是事实。因为人这种动物,是以自己的居所为尺度来考虑问题的,所以他们仅仅是说八路强大、八路危险之类话语而已。如果是参谋将校的话,他们想要主张的,是说自己的工作更为重要,官僚特有的显示欲也掺和在这上边了。就像当初如实揭示了“共匪”“赤匪”这类称呼那样,因为“武装强盗”为非作歹,所以即使国民政府军说“危险”,岂止是没有说服力,而且还羞耻吧。驻华北的日军,并没有中队以上的部队遭到中共军歼灭的例子(被歼灭的数例,也仅仅是在百团大战中发生的),也没有人营养失调,至少山西省管辖内的日军,直到战争结束,还一直吃大米。与此相对,美军补给线被截断、不断出现饿死者、被猛烈的空袭和舰炮攻击而打垮了一切之后,才好不容易随着强有力的装甲车而登上岸来,太平洋战线的日军就是与这些美军作为对手的,如果与此相比,那么,山西的日军就是些什么也没干的“有惊人才干的人”。
    不过,即使认为中共在军事方面几乎没有多少贡献,可最后还是掌握了大陆的霸权,在这一点上,肯定是胜利者。失败者回避胜利者。在胜利者满怀信心地大讲“游击战”的时候,失败者也不提出异议,而是留下目光,这并不是一件别扭的事情

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  7. 张泽辰

    有人知道一首叫“决死队”的日本军歌吗?
    讲的是日俄战争中77勇士分乘五艘军舰前去堵塞旅顺港的事。
    有人知道歌词吗?

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