占領地太原の都市計画


日華事変で華北の要地を占領した日本軍は現地で親日派政権を樹立し、内地から官僚や専門家を現地に派遣して、日本人の指導による新中国の建設を開始した。華北の内政における日系職員の関与は財政から文教、司法まであらゆる分野に及んでいたが、都市計画もその一つである。

占領地における土木事業は、当初、北支那方面軍特務部によって、道路建設と河川の修復という現実的必要性から開始された。同時に、戦災によって破壊された市街の復興と、治安回復に伴う人口増加(避難先からの現地人の帰郷と邦人の進出)に対応するインフラ整備を含めて、総合的な都市計画が必要とされるようになった。華北において都市計画が実際に始動したのは、1938年(昭和13年)3月、中華民國臨時政府(後の華北政務委員会)に土木行政を所管する建設総署が設立されてからである。都市計画を所管する都市局が研究と立案を担い、北京、天津、済南、太原の主要四都市には工程局が設立され、事業推進を担うこととなった。同年6月に都市局技術科長に着任した塩原三郎は、すでに北京については郊外新市街建設を含む都市計画の草案が方面軍特務部によって作成されていたと回想している。

華北において都市計画が必要とされたのは実に三十七都市に及ぶ。山西省では、省都である太原陽泉楡次、忻県、原平鎮、平遙、長治(路安)、臨汾運城の九都市について都市計画が必要とされ、うち、実際に建設総署が計画を立案したのは下線部の六都市である。このほかに実際のインフラ建設については、現地の特務機関などによる事業も少なからずあったと思われるが、後に述べるように上水道の建設以外には記録は残っておらず詳細は不明である。

太原については、北京や天津などの主要都市と同じく、新市街建設を含む総合計画が策定されている。1939年(昭和14年)2月から三度にわたる現地調査を経て、同年12月に策定された「太原都市計画大綱」では、事変前人口十六万人から計画人口五十万人に対応できる都市に向けて計画が定められた。

まず計画区域は、太原城の中心から東七キロ、西十三キロ、南十キロ、北十キロのおよそ四百平方キロメートルとし、うち市街地は、太原城を中心とした面積約四十平方キロメートルを対象とした。南の城外には新市街の建設を予定、汾河西方の鉄道沿線には新工業地帯を予定した。南部には民間飛行場の建設も予定している。市街地においては、土地利用形態の指定と建築用途規制を実施することで、居住地域と商業、工業地域の分離、緑地帯や風景美観地区の確保などを目指した。緑地帯は、東は石太線沿線外側に、西は汾河の内側河岸に設定している。

太原の都市計画図。「華北都市五カ年事業計画」掲載のものを基に作図。

太原の都市計画図。「華北都市五カ年事業計画」掲載のものを基に作図。

インフラについては、城内外の道路建設、上下水道の整備、公共施設として公園や運動場、墓地、火葬場、市場、屠場等の新設、防空壕など防護施設の建設を予定した。このうち道路については、旧城内の道路幅員が狭く自動車交通に不適なため、城内から各城門に向けて放射線状に幹線道路を建設することとし、仕様は歩車完全分離型の標準幅員三十メートル、車道は高速(自動車)と低速(馬車)とに車線を分け、歩道と車道の間には植樹帯を設けるとした。宅地割道路について幅員五メートル以上としている。上下水道については、水源を地表水および地下水に求め、工業用水と飲用水を供する計画とし、下水道は城内は合流式、城外は分流式の計画とした。合流式は埋設管が一本で済むためコストは安いが、降雨時に未処理の下水を放流するという点で衛生面での欠点があるという。降雨が極端に少ない太原ではあまり問題にならなかったのか。城外が分流式というのは主に日本人の居住を想定した新市街が対象の意味ではないか。

この計画大綱は、満州における都市計画を参考としたもので、内地におけるそれと比較しても遜色のない立派な内容であった。国民政府下において都市計画はほとんどなきに等しかったゆえ、中国側は相当に瞠目させられたと思われる。ただ、計画自体は北京など他の主要都市におけるものと同じく、在来の都市形態を破壊するものではなかった。このときの青写真が、現在の太原市街の輪郭とほとんど変わらないことからも、無理のない計画であったことが伺える。

大綱に定められた事業内容、特にインフラ整備については、同年7月に建設総署が策定した「華北都市五カ年事業計画」で予算が計上されている。予算額は、一般会計で4590万円、特別会計で4670万円のおよそ一億円(現在の貨幣価値でおよそ2000億円)。太原については一般・特別計390万円の予算が計上された。総延長二百四十八キロの街路及び広場、面積十平方キロの市街地造成、給水人口二十五万人に対応する上水道、面積六平方キロの下水道と総延長十キロの排水路が整備されることとされた。そのほかに省内では、陽泉、楡次、原平鎮、臨汾、運城で計130万円の予算が割り振られている。主として道路建設や上下水道の整備が予定されたと思われる。太原では、第一年度(1939年)に街路及び広場の整備(一般会計)と市街地造成(特別会計)を開始、第二年度からは、下水道と防護施設の建設(一般)及び上水道建設(特別)を開始し、第三年度から排水路の整備(一般)を開始するとした。

ところが実際には全ての事業がスムーズに実施されたわけではなかった。1940年(昭和15年)5月に、興亜院は天津と北京西郊以外の都市計画事業を延期する方針とし、太原をはじめとする山西省における都市計画は中止を余儀なくされた。建設総署都市局の大森茂によると、太原における新市街の建設については二年後の1942年(昭和17年)に再び南北二箇所に建設する計画が立案されたらしい。しかし、特別会計による事業としては行われておらず、実際に着工もされなかったようである。『孤蓬万里』に寄せられている関係者の回想からみると、山西省を所管する太原工程局の管内では治安行動のための道路建設が最優先事項として実施されたようで、インフラ整備のための予算はほとんどが道路建設に回ったようである。

ただ、上水道の建設については、山西省を所管する第一軍と特務機関によって実施されたことが関係者の回想で明らかになっている。山西省における都市計画が中止を余儀なくされた1940年(昭和15年)頃に、太原はもとより省内の主要都市において、水道、浄化施設、堀抜井戸などの建設が行われ、現地住民に非常に感謝されたという。建設総署の計画と比較しても遜色ない規模で行われたのではないか。当時第一軍の参謀だった土田穣大佐によれば、「太原の晴れの開通式には近郷近在の住民や官吏達の注目の中で軍参謀長がスイッチを入れると、数十本の噴水が空高く噴き上って、民衆の中から思わず歓声が湧き上った」という。

上水道建設を軍が肩代わりした理由だが、土田大佐が明らかにしているように、軍の給水という作戦上の要請が第一にあった。同時に、太原では閻錫山の残した西北実業の工場群を中心とする工業都市としての発展が期待されており、衛生面だけでなく、工業用水としての水利用という面からも上水道の建設が望まれた。土田大佐の「対伯工作の手段の一環として利用せられた」との言葉がそれを裏付ける。

財源については、北京と山西の間での物価格差の調整金から捻出した「山西省物価対策資金」の一部を利用したという。資材についても、軍が管理する元西北実業の鋳造廠や機械廠の倉庫から搬出し、労働者の雇集には同じく製粉廠の小麦粉が役に立ったという。山西省おける上水道建設は、山西省ならではの必要性と特殊な環境によって実現できたものと言える。

中華民國臨時政府建設総署「華北都市五カ年事業計画」1939年
越沢明「日中戦争時における占領地都市計画について」(『都市計画』別冊,通号14,1979年所収)
工友会小史編集委員会『孤蓬万里 華北建設小史』1972年
塩原三郎『都市計画華北の点線』私家版,1971年
北支建設総署都市局「都市計画ニ関スル概況」(『区画整理』1940年1月号所収)
大森茂「北支都市計画の概要」(『区画整理』1943年12月号所収)
興晋会在華業績記録編集委員会『黄土の群像』1983年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000416.html

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One thought on “占領地太原の都市計画

  1. 陈尚士

    日军占领地太原的都市规划
    土八路译自日本网络http://shanxi.nekoyam ada.com/
    因日中事变而占领华北要地的日军,在当地建立亲日派政权,从日本内地将官员和专家派遣到当地,开始了由日本人指导的新中国的建设。日系职员在华北内政的参与,从财政到文教、司法涉及到所有的领域,都市的规划也是其中之一。
    当初,占领地的土木建筑事业,通过北支那方面军的特别事务部,从其现实方面的必要性(考虑),开始了道路的建设和河川的修复。同时,因战火而毁坏的街市的复兴、以及伴随着治安恢复的人口增加(当地人从避难地的回归、以及日本人的到来),包括与之对应的、完善这些基础设施建设对策在内的,综合性的都市规划变为当务之急。在华北,都市规划实际开始的时间,是始于1938年(昭和13年)3月、中华民国临时政府(后来的华北政务委员会)设立了管理土木行政的建设总署之后。管辖都市规划的都市局承担研究和立案,北京、天津、济南和太原这四个主要都市设立了工程局,承担建设事业的推进。同年6月,上任了都市局技术科长的盐原三郎回忆说,关于北京,包括在郊外建设新街市的都市规划草案,已经由方面军的特别事务部完成了制作。
    在华北,都市规划被列为必需的多达37个城市。在山西省,关于省城太原、阳泉、榆次 忻县、原平镇、平遥、长治(路安)、临汾、运城这九个城市的都市规划被列为必要,这里边,建设总署实际上立案规划的是划有下线的那六个城市。一般认为,实际上关于基础设施建设,除此以外,通过当地的特别事务机关而进行的业绩也不少,不过,就像我在后边将要叙述的那样,除了上水道建设,并没有留下其他记录,详细情况不明。
    与北京、天津等主要城市一样,对于太原也制定了包括新街市在内的综合规划。1939年(昭和14年)2月,经过多达到三次的实地调查,在同年12月制定的《太原都市规划大纲》里,制定了规划,由事变前的16万人口,向能够适应50万人口居住的都市发展。
    首先,由太原城的中心算起,把向东7公里、向西13公里、向南10公里、向北10公里的大约400平方公里,作为了规划地域,这里边的街市区是把以太原城为中心的、面积约40平方公里的区域作为对象。在南边的城外,预定建设新街市,在汾河西边的铁道沿线,预定建设新工业地带,在南部还预定建设民间飞机场。在街市区,通过实施指定的土地利用形态和规定建筑的用途,来达到居住区域、商业区域和工业区域的分离,确保绿化地带以及风景美化区等的实现。东部的绿化地带设定在石太线沿线的外侧,西部绿化带设定在汾河内侧的河岸。
    这是太原的都市规划图 是以登载于“华北都市五年事业规划”的内容为基础制图
    关于基础设施,预定建设城内外的道路,预定配备上下水道,预定建设作为公共设施的公园以及运动场、墓地、火葬场、市场,新设屠宰场,预定建设防空壕等防护设施。关于里边的道路建设,旧城内的道路宽度狭窄,不能适应汽车交通,所以决定由城内向各个城门放射线状地修建干线道路,设计了完全分离式的、标准宽度为30米的车道,车道分为高速(汽车)和低速(马车)的车道。步道和车道之间设置植树林带。关于分割住宅地的道路的宽度,规定在5米以上。关于上下水道,规划从地表水和地下水寻求水源,作为供给工业用水和饮用水的水源。下水道的规划,城内采取合流式、城外采取分流式。因为合流式埋设一根水管就可解决问题,虽然造价低,但在下雨时,在排放未处理的下水方面,据说在卫生上还存在着缺点。是不是(考虑)在降雨极其稀少的太原,是不会成为一个大的问题吧。所谓城外的分流式,是不是意味着在设想日本人居住的新街市,为其主要对象的呢?
    这个规划大纲是参考了满洲都市规划而设计的,即使与(日本)内地的那些城市相比,内容也十分完善,毫不逊色。在国民政府的统治下,都市规划几乎等于零,所以,中国方面认为这是让他们瞠目结舌的规划。不过,规划的本身与北京等其他主要城市的规划相同,并不破坏固有的城市形态。这个时候的蓝图,几乎与现在的太原街市相同,从这里边就能够看出,是一个很合适的规划。
    规划在大纲里的实业内容,特别是关于基础设施的配备,同年7月,以建设总署制定的“华北都市五年事业规划”列入了预算。预算的金额,一般预算为4590万日元,特别预算为4670日元,总共大约为1亿日元(以现在的货币价值计算,大约为2000亿日元)。就太原而言,列入的一般预算和特殊预算为390万日元。决定了要建成全长248公里的大街和广场、以及面积为10平方公里的街市区(特别预算),要建成给水人口适应25万的上水道、面积为6平方公里的下水道和总长10公里的排水道。除此以外,在山西省内的阳泉、榆次、原平镇、临汾、运城、还分配了总计130万日元的预算。一般认为,主要是准备用于道路的建设(一般预算)和上下水道的完备等。在太原,决定第一年度(1939年)开始街道及广场的修整(一般预算)和建成街市区(特殊预算),从第二年度起,开始下水道、防护设施(一般预算)以及上水道(特殊预算)的建设。第三年度开始修整排水道(一般预算)。
    可是,实业实际上并没有全部顺利地实施。1940年(昭和15年)5月,兴亚院采取了延期天津和北京西郊以外的都市规划事业业的方针,不得不中止以太原为首的山西省的都市规划,据建设总署都市局的大森茂讲,关于太原新街市的建设,在两年后的1942年(昭和17年),好像再次立案,计划在南北的两个地方进行建设。但是,作为经过特别预算的事业,并没有实施,实际上好像连开工都没有进行。从寄予“孤蓬万里”的当事者的回忆来看,在管辖山西省的太原工程局所管辖的范围内,作为治安而进行的道路建设,作为最优先的项目好像实施了,作为基础设施所进行的预算,好像几乎都转移到道路建设上去了。
    不过,关于上水道的建设,由管辖山西省的第一军和特别事务机关实施了,这件事通过当事者的回忆变得明确起来了。在山西省的都市规划不得不中止的1940年(昭和15年)的那会儿,在省内的主要都市,太原进行了水道、净化设施、以及自流井的建设,不用说,(这些举措)受到了当地居民的非常感谢。这是不是以与建设总署的规划相比,也毫不逊色的规模来进行建设的呢?据当时第一军的参谋土田穰大佐讲,“在太原隆重的开通仪式上,在居于近乡的居民以及官吏们的注目中,军参谋长一按开关,数十条喷泉喷上了高空,民众中不由地涌动出了欢呼的声浪”。
    军队接过上水道建设的理由,就像土田大佐所阐明的那样,军队的供水,这一作战上的要求是处于第一位的。同时,以阎锡山在太原留下的西北实业的众多工厂为中心,期待着作为工业都市的发展,不仅仅在卫生方面,从作为工业用水的、水的利用方面来看,也要求上水道的建设。土田大佐的“作为对伯工作手段的一环,利用了它(译者注:所谓的对伯工作,就是对阎锡山的劝降工作)”的这句话,佐证了这一点。
    关于财源,在北京和山西之间存在着物价差,从其调整金里筹措出来了“山西物价对策资金”,据说利用了其中的一部分。关于材料,也是从军队管理的原西北实业的铸造厂以及机械厂的仓库里搬出,在工人的雇用征集方面,据说面粉厂的白面起到了作用。可以说山西省的上水道建设,只有依靠山西省的特殊环境和它的必要性,才得以实现。

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