『正論』遺棄化学兵器スクープのその後


昨年に執筆いたしました『正論』の遺棄化学兵器スクープを評した記事について読者の方からのご質問がございましたので、今年5月に公になった山形シベリア史料館での政府調査結果(中間報告)と満州における関東軍の兵器引継を中心に補足いたします。

拙稿では、山形のシベリア史料館にて発見された兵器引継書には、『正論』(著者の水間氏)が指摘するような化学兵器を示唆する内容はなく、その点で一連のスクープ記事は誤報の疑いが強いのではないか、という指摘をいたしました。

筆者としましては、そもそも、関東軍(満州)については支那派遣軍(中国大陸)と異なり、武装解除前に化学兵器を遺棄する時間的余裕はなかった、ゆえに原則としてソ連軍が接収したと見るべきである、との考えを前提に、処理すべき遺棄化学兵器の数も関東軍のものが膨大であることから、関東軍の引継ぎだけでも文書史料によって証明できれば、処理費用の負担もだいぶ軽減できるはずと考えています。そこで、政府が約束した山形のシベリア史料館における調査については、一納税者の立場としても期待してきたところです。

ところが、政府による調査でも、やはり化学兵器の引継ぎを示す形跡は見つからなかったようです。今年5月の内閣委員会における政府答弁では、シベリア史料館に現存する史料のうち、三分の一の調査を終了したものの、「化学兵器を中国等に引き渡した旨を示す記載はなかった」(塩崎官房長官発言)ことが明らかにされました。政府は引き続き、残り三分の二の調査を進めるとしています。その調査が完了するまでの間に、化学兵器の引継ぎを示す史料が見つかる可能性もないわけではありませんが、可能性としては低いのではないかと筆者は考えております。

さて、関東軍における兵器引継について、『正論』は化学兵器を除外する旨の約束がなく、全ての武器をソ連軍に引継ぎする旨の停戦協定が締結されていること(いわゆるワシレフスキー将軍名による武装解除命令書)を根拠に、化学兵器も引継ぎがなされたと見るべきであるとしています。この点、関東軍の兵器引継書に化学兵器の具体的記述がないことに対して『正論』は、従来の「代用弾」などの隠語という主張(隠語説)ではなく、品目の総数に含まれているという指摘をしています(総数説)。この総数説につきましては、例えば品目にあります「十四年式十高砲弾」とは口径105ミリの高射砲弾であり、その中に化学弾が含まれていることはあり得ません。ただし、他の品目、例えば口径75ミリの野山砲弾などについては、弾種についての詳しい記載がない以上、まったくないとも言い切れません。その点で、明白な誤りである従来の「隠語説」に比べれば、「総数説」はやや牽強付会のきらいはあるものの、完全な誤りであると断定はできません。

この点、政府は論拠を示さずに、支那派遣軍(中国大陸)については中国側への引継品目から化学兵器を除外する旨の指示が出たとしています。ところが公開されている史料では、そのような指示は確認できません。その点をもって政府(親中派議員や主管の外務省アジア局中国課)を陰謀視する向きがありますが、事実はむしろ逆と考えるべきでしょう。すなわち、たとえ引継品目から化学兵器を除外する旨の指示が公文書として存在したとしても、それを日中間の交渉において公にする必要はなく、むしろ非公開とすることが戦略としては望ましいわけです。これは余所に対しても類推されるという点で、満州における関東軍にとっても同じ意味を持ちます。その点で、このような『正論』の問題提起は、むしろ政府に対して手の内を明かすことを強いる結果ともなり得ます。

「総数説」に話を戻しますと、この「総数説」の論理は内輪における雑談としては通用しても、実際に国際司法の場において従来の取り決めを白紙に戻せるだけの法的対抗力は持ち得ません。やはり、台湾軍における兵器引継書のように、化学兵器の引継ぎを明示的に記した文書か、ソ連軍が日本軍に対して化学兵器を遺棄させたことを命じた文書が必要です。ところが、”化学兵器の記載がない兵器引継書”の原本は斉藤氏が日本に持ち帰っていますから、ロシアとしては引継書は”すべて”里帰りさせていると主張することが可能です。いわんや投降後の関東軍に化学兵器の遺棄を命じた文書が存在したとしても、それを開示することなどはあり得ないでしょう。もし、ロシアや中国が、遺棄化学兵器処理問題に対して以上のような認識を持ってあらかじめ行動していたとすれば、日本外交は完敗だったというほかありません。

最も望ましいのは、政府による山形のシベリア史料館における調査で明確な文書史料が発見されることですが、おそらくそれは出てこないでしょう。正論の一連のスクープは誤報で終わることになるでしょうが、陰謀論に立脚する以上は糾弾キャンペーンを続けることができます。そのなかで遺棄化学兵器処理事業は「国際公約」として、当初の計画通り、粛々と進められていくものと思われます。

時あたかも遺棄化学兵器処理事業にかかわる不正事件(処理事業受注企業の特別背任容疑)が発覚し、司法のメスが入ろうとしています。国費で賄われている以上、不正は徹底的に糾し、情報を公開していくことが重要です。処理事業について政府は十分な説明責任を果たしてきませんでした。これを機会に、広く情報を公開し、国民の理解を得るよう努力していくことが望まれます。そして『正論』側も世間を不用に騒がす誤報ではなく、適正な報道で社会に資していくことを望みます。現地で命を懸けて化学兵器の発掘作業にあたっている自衛官がいることを忘れるべきではありません。

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000419.html

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4 thoughts on “『正論』遺棄化学兵器スクープのその後

  1. yama

    こじま様
    水間氏と正論編集部にとっては汚名返上というところかもしれません。産経新聞の記事でもウェブで見る限りでは、前回のような喜多氏の署名原稿(正論編集部で責任を持つ)ではないですから、社として、遺棄化学兵器処理事業を不当とするス
    タンスを明示したことになります。
    正論一月号についてはザッとしか目を通していませんが、相変わらず現状に何ら影響を及ぼすものではないものでした。今回発表された海軍の引継書は、結局、陸軍(関東軍や支那派遣軍)とは無関係だからです。思いますに、水間氏が執念をもって頑張れば頑張るほど、遺棄の傍証という結末に近づいている気がしてなりません。
    それと、記事では拙稿の「カ=火焔弾」との指摘が否定されていますが、私が入手した引継書のコピーには両方は併記されている例がありませんでした。本当に「カ」と「火焔弾」の両方が併記している引継書があるなら見てみたいものです。そもそも「カ=火焔弾」というのは史料による裏付けがあり、根拠のない憶測ではありません。

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  2. 通りすがり

    昨日の産経新聞のコラムで遺棄化学兵器処理問題についてふれていますよ。
    ▼中国での遺棄化学兵器処理事業をめぐる不正支出事件は、「わからない」ことだらけだ。問題の企業はこれまでも談合など不正の疑いがもたれ、何度も捜査対象になっている。それなのに処理事業について、国からの受注を独占してきた。
    ▼処理事業そのものがいかがわしい。終戦時、旧日本軍が化学兵器を中国側に引き渡したことを、はっきり示す文書も見つかっているにもかかわらず、向こうに言われるままに、数千億円もの税金をつぎ込もうとしている。政府は何かというと金がないと、社会保障費を削る言い訳ばかりしているというのに。

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  3. yama

    通りすがりさん
    当初、産経本社は迷っていたんです。2006年5月に最初の“スクープ記事”が出て以来、当初、新聞の本紙では全く報じられませんでした。正論でリリースする前に、水間氏が各社にネタを持ち込んで全て蹴られたことを本社の記者が人伝に聞いて知っていたのでしょう。本社としては勇み足との判断だったわけです。四ヶ月経って9月に台湾軍の件が出てきて、ようやく最初の本紙記事が出ました。ところが、それも担当編集の喜多氏の署名原稿です。ようするに、本紙には出してやるが誤報だった時の責任は正論編集部で取れというスタンスで、まだこの頃は慎重だったんですね。
    ところが2007年10月にPCIの詐欺事件が発覚して、ちょうど海軍の引継書が防研から出た、という話に飛びついてしまったんです。それ以来は、社として遺棄化学兵器問題を政府の陰謀とするスタンスに立脚しています。

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