風陵渡の”ドラム缶” 黄河砲撃戦に出陣した二十八糎榴弾砲


山西省南部の省境を流れる黄河の南岸に位置する潼関は、古来より中原と漢中の連絡を扼す要地だった。この地では、昭和13年(1938年)の春に日本軍が北岸の風陵渡を占領して以来、日中両軍の睨み合いが続いていた。

南岸の中国軍にとっては、蘭州と連雲港を結ぶ重要路線である隴海鉄道を、嶮しい秦嶺山脈を背に守らねばならぬ要地であり、中央軍の一個師と重砲八門を有する砲兵隊を配備して守りを固めていた。一方の北岸に陣取った日本軍にとっては、ソ連の援蒋ルートを遮断し、西安と四川に攻め込む渡河地点として、やはり戦略上重要な要地であった。

日本軍の進出以降、同地では砲撃の応酬が繰り替えされ、いつしか風陵渡では、黄河を飛び交う彼我の重砲弾がドラム缶ほどの大きさに見えるからか、

ここは風陵 向かいは潼関 仲を取り持つ ドラム缶

と、串本節の替え歌が歌われていたほどだという。

昭和14年(1939年)11月3日、この地で殷殷たる砲声が鳴り響いた。日本軍の潼関砲撃作戦である。丸二日続いたこの砲撃で、南岸の鉄路、トンネル、停車場は完全に破壊され、隴海線は三ヶ月間の運行中断を余儀なくされた。

この潼関砲撃作戦には火砲二十二門が投入されたが、そのなかに日露戦争で活躍した口径280ミリの巨砲、二十八糎榴弾砲も二門が参戦している。二十八榴は、明治20年(1887年)に制式化された要塞砲で、昭和期には国内沿岸の各要塞で新式重砲と交換撤去が進んでいた旧式砲である。日華事変、太平洋戦争を通じて実際に二十八榴が戦場で活躍したのは、おそらくこの潼関砲撃戦が最初で最後だったろう。

風陵渡に構築された陣地に配備された二十八糎榴弾砲(出典:『野戦重砲兵第六聯隊第二中隊写真集』)

風陵渡に構築された陣地に配備された二十八糎榴弾砲(出典:『野戦重砲兵第六聯隊第二中隊写真集』)

二十八榴の参戦は、山西省南部を警備する第三十七師団の平田健吉中将の発案による。昭和14年(1939年)4月、初代師団長に就任した平田将軍は、それまで野戦重砲兵第二旅団長として同地で勤務しており、警備司令官としての再赴任だった。常々、潼関攻略を持論としていた平田将軍は、この機会に潼関の中国守備軍を叩くべく、上京した折り、省部に重砲の増加装備を意見具申している。当時、北支那方面軍で西安攻略が議論の俎上に上っていたこともあり、平田将軍の意向通り、第三十七師団へ野戦重砲兵一個大隊(十五糎榴弾砲十二門)の配属と、二十八榴二門、十糎加農砲二門の計十六門の重砲配備が実現した。臨時とはいえ野砲兵連隊が重砲を装備するのは珍事で、二十八榴が中国大陸に出征したのも唯一ではないか。

二門の二十八榴は、陸軍造兵廠と大阪兵器支廠から支給され、横須賀にある陸軍重砲兵学校から派遣された原一雄少佐を長とする臨時編成の「二十八榴指導班」により山西省まで運ばれた。砲は、風陵渡の北、趙村の東側にある山の地隙に建設した新設陣地に備え付けられた。潼関の停車場から射距離にして約3,300メートルの位置である。高さ十メートルまで四周に土嚢を積み上げた陣地内に、仮制式の鉄製砲床を設置して砲を備え付けたと思われる。二十八榴を攻城重砲として利用する方法は、前年に重砲兵学校において原少佐を主任として研究がなされており、陣地構築はその研究成果が活かされたという。

潼関砲撃作戦では、二十八榴の砲弾三百発(いずれも重量200キログラム以上ある堅鉄破甲榴弾)が用意され、うち二八七発が発射された。二十八榴は砲の自重が三〇トンもある。発射ごとに地盤が緩んで砲座が次第に沈下し、風圧と震動によって四周の土嚢が崩れるために、四〇~五〇発ごとに補修を要したというからその威力が想像される。二日間の砲撃で発射された砲弾は、二十八榴のものを合わせて大小およそ4434発に達した。既述の通り、隴海線を遮断する目的を達して作戦は終了した。

その後、原少佐以下の臨時指導班は解散、二門の二十八榴は、野砲兵第三十七連隊第二大隊に設置された臨時重砲兵中隊に運用が委ねられた。昭和15年(1940年)8月、第三十七師団の編成改正(野砲兵から山砲兵)に伴い、臨時重砲兵中隊は復員を命じられ、二門の二十八榴はおよそ一年間と短い従軍を終えて風陵渡を後にした。

風陵渡における二十八榴の評価だが、それなりに効果は認められたと思われる。潼関砲撃作戦に先立つ半年前に、第二十師団が火砲二十四門をもって実施した第一次砲撃と比較しても中国側に甚大な損害を与えている。二十八榴の配備後、中国側は日本軍の砲撃を避けるため、わざわざ南側の嶮しい山中に細々と通る駄馬路を開削、迂回鉄路を建設して隴海線の復旧にあたっているのを見ても効果があったと言える。ただ、砲弾の重量で見た場合、1トン半トラック一台で輸送できる数が六、七発程度と、補給面で相当の負担があったことは予想される。時期的には西安作戦が一時断念された中での復員だった。

藤田豊『春訪れし大黄河―第三十七師団晋南警備戦記』第三十七師団戦記出版会,1981年
陸軍重砲兵学校史編纂委員会『陸軍重砲兵学校史』私家版,2001年
軸丸勇『野戦重砲兵第六聯隊第二中隊写真集』私家版,1986年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000420.html

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One thought on “風陵渡の”ドラム缶” 黄河砲撃戦に出陣した二十八糎榴弾砲

  1. 中国山西大同 陈尚士

    风陵渡的“圆筒”—-参加黄河炮击战的28厘米榴弹炮
    土八路译自日本网络
    http://shanxi.nekoyamada.com/
    位于黄河岸南、流经山西省南部省境的潼关,自古以来,就是控制中原与汉中联系的要地。昭和13年(1938年)春,日军占领北岸的风陵渡以后,中日两军在这个地方隔岸对峙。
    对于南岸的中国军队来说,陇海铁路是作为连接兰州和连云港的重要线路,这里是必须背依险峻的秦岭山脉而固守的要地,配备着中央军的一个师和拥有8门重炮的炮兵部队固守。另一方面,对于占据了北岸的日军来说,切断苏联援蒋的运输线,作为进攻西安和四川的渡河地点,在战略上,这里也是重要的地方。
    日军入侵以后,在当地进行了反复的炮击报复,不知不觉地在风陵渡就能够看到交织于黄河上空的、敌我双方的重型炮弹,也许是因为炮弹大小有圆筒那么粗的缘故吧,于是就有了曲同词不同的歌子曾被传唱开来:“这边是风陵渡,对面为潼关,调停关系的,就是圆筒”。
    昭和14年(1939年) 11月3日,在这个地方响起了隆隆的炮声,这是日军对潼关的炮击作战。整整持续了两天的炮击,南岸的铁路、隧道、火车站被完全破坏了,陇海线不得不中断运行3个月。
    这次潼关作战投入了22门火炮,在那些火炮里边,有曾经活跃于日俄战争的口径为280毫米的巨炮,还有两门28厘米的榴弹炮也参加了作战。28厘米的榴弹炮是明治20年(1887年)规定了样式的要塞炮,到了昭和时代,日本国内沿岸的各个要塞都换上了新式重炮,这种炮是更新换代撤下来的旧式炮。在日中事变和太平洋战争中,这种28厘米榴弹炮实际上活跃于战场的时候,大概仅限于这次潼关炮击战,既是第一次,也是最后一次吧。
    配备于构筑在风陵渡 阵地的28厘米的榴弹炮
    (典出:野战重炮兵第六联队第二中队写真集)
    28厘米榴弹炮的参战,是由警备山西省南部的第37师团的平田健吉中将提出来的。昭和14年(1939年)4月,就任了第一任师团长的平田将军,此前,他作为野战重炮兵第二旅团长,在当地供职,师团长是他作为警备司令官的升迁赴任。平日一贯主张进攻潼关的平田将军,利用进京这一机会,向陆军省提出了增加重炮装备的意见,目的是要打击潼关的中国守备军。当时,北支那方面军也曾经将进攻西安的计划提出来加以讨论,按照平田将军的意愿,第37师团配备了一个大队的野战重炮(15厘米榴弹炮12门),外加28厘米榴弹炮两门、10厘米加农炮两门,实现了总共装备了16门重炮的愿望。虽说是临时性的,但野战炮兵联队装备重炮却是稀奇的事情,28厘米榴弹炮出征于中国大陆也是唯一的一次。
    构筑阵地时的作业情况 炮击潼关作战后,视察炮阵现场的军司令官一行
    (典出:野战重炮兵第六联队第二中队写真集)
    两门28厘米榴弹炮,由陆军兵工厂和大阪兵器支厂供给的,由位于横须贺的陆军重炮学校派遣来原一雄少佐,通过以他为首临时组编的“28厘米榴弹炮指导班”,重炮被运到了山西省。重炮被配置于风临渡北侧、赵村东侧的山间新建的阵地上,它处于距火车站约3300米距离的射击位置上。一般认为,重炮是在四周筑起高达10米的沙袋阵地内,设置了临时制式的铁制炮座而架设起来的。据说作为攻城的重炮,28厘米的榴弹炮的使用方法,原一雄少佐作为主任,曾于一年前在重炮兵学校加以了研究,构筑的阵地是其研究成果的发挥。
    潼关炮击作战时,准备了28厘米榴弹炮的炮弹300发,(重量都在200公斤以上的穿甲弹),其中的287颗被发射了。28厘米榴弹炮的自重达30吨,每发射一次,地基就会松弛,炮座会逐渐下沉,由于气压和震动,四周的沙袋就会崩塌,所以当发了40—50发的时候,就需要维修,可以想象其威力有多大。两天发射出去的炮弹,连28厘米榴弹炮也算上,大小炮弹约有4434发之多。如上所述,达到了切断陇海线的目的,完成了作战任务。
    炮击作战之后,以原一雄为首的临时指导班解散了,两门28厘米的榴弹炮委托给了设置于野战炮兵第37联队第2大队的临时重炮兵中队使用。昭和15年(1940年)8月,伴随着第37师团的整编(由野战炮转向山战炮),临时重炮兵中队接到复原的命令,两门28厘米榴弹炮结束了大约一年间的短暂从军,离开了风陵渡。
    关于28厘米榴弹炮在风陵渡的评价,一般认为,其效果被恰如其分地认可了。早在潼关作战的半年前,第20师团就以24门火炮实施了第一次炮击,即使与那次炮击相比,也给了中国方面以巨大的创伤。配备了28厘米榴弹炮以后,中国方面为了避开日军的炮击,特意在南侧险峻的山中,开凿了能够勉强通过骡马的羊肠小道。建设了迂回铁路,即使看到其陇海线恢复了通车,也可以说发挥了破坏作用。只是以炮弹的重量来看待的话,一辆一吨半的卡车,能够运输的炮弹数量仅为六、七发,能够想象到,在补给方面的困难是相当大的。在某一时期,即暂时不考虑西安作战的时候,这种大炮退役了。

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