李樹徳さん [1]


中学卒業後、軍官教導団へ
山西省寧武県出身の李さんは、中学校を卒業後、日華事変勃発を四カ月後に控えた1937(昭和12)年3月、山西軍に入隊した。李さんの入営先は山西省国民兵軍官教導団歩兵科第九団。士官候補生として入隊したこの時、李さんは二十歳の青年だった。国民兵軍官教導団は名前の通り、初級将校を養成することを目的とした部隊で、一団が約二千人ほど、十個団編成の部隊だった。部隊は当時忻県に駐留していた。

李樹徳さん。文史研究員の張全盛氏宅にて。筆者がお話をうかがって半年後に亡くなられた。80歳だった。(太原,1997年)

李樹徳さん。文史研究員の張全盛氏宅にて。筆者がお話をうかがって半年後に亡くなられた。80歳だった。(太原,1997年)

李さんが教導団に入隊して四カ月後の7月、北京郊外の廬溝橋で日中両軍の武力衝突が起き、戦争が勃発した。この時、李さんは日中開戦の報を聞いて「今こそ我々が命を懸けて戦わなくてはならない」と祖国防衛の理念に燃えたという。

日本軍の侵攻に中国軍は撤退に次ぐ撤退を余儀なくされた。忻口戦役を目前に控えた9月、忻県に駐屯していた第九団は、教育訓練を終了し、三個大隊総員二千人前後の山西抗日決死第二総隊に改編された(*1)。李さんも総隊の一員として実戦に参加することになったのだ。実際にはその後、部隊は戦火から移動し、訓練と遊撃体制の確立を行ったから、李さんの初陣は2年後を待たなくてはならなかった。

翌10月、部隊は太原失陥後を見据えた抗戦計画に基づき、山西省中・南部へと移動を開始。霍県と趙城県に移動した。そして部隊が隰県の泉子坪村に駐屯していたとき、李さんは共産党に入党した。

(*1)李さんが所属した国民兵軍官教導団は、大学専科以上の学生、各県村政協理員の軍事訓練のために、1936(昭和11)年秋に太原で組織された。一個団は三個連(中隊)から成る営(大隊)三個の計九個中隊で編成。翌1937(昭和12)年の段階で訓練は終了していなかったが、同年中に一部を山西青年抗敵決死隊と軍士団に改編した。このうち山西青年抗敵決死隊は、当初より中共の影響下にあり、のちの「晋西事件」中共の支配下に入る山西新軍の母体だった。詳しくはこちらのコラムを参照。

共産党への入党
李さんの教導団の同学に、仲のいい宋誠英さんがいた。宋さんは李さんより二歳年上。彼はこのときすでに中共に入党していた。宋さんは李さんに、しばしば中共の理念を語ったり、延安の解放日報社が発行している雑誌を渡してくれたりしていた。李さんは宋さんの熱意のこもった話や雑誌を通して、中共が主張する救国の理念に共鳴し、次第に入党を希望するようになっていた。

そして1938(昭和13)年旧暦の正月15日(太陽暦で2月14日)のことだった。その晩、李さんは宋さんに外に連れ出された。そして村はずれの農作物が集積されたところで宋さんは周りにだれも居ないのを確かめると、李さんに言った。「今日、君が入党するのを認める」と言う。李さんは内心うれしかったが、「私はまだ学習水準が低いから、資格はないのではないか」と聞いた。すると宋さんは「これから一生懸命勉強して、がんばるんだ」と言う。そして宋さんの言うとおりに、「自分は党に自ら望んで参加する。共産主義を生涯奉じ、党規を守ることを誓う」という意味の宣誓をした。宋さんは「君は今日から共産党員だ」と言ってくれた(*2)

(*2)李さんの党籍と功績は戦後長い間認められず、貧しい生活を余儀なくされた。詳しくはこちらのコラムを参照。

黒龍関の戦い
入党後しばらくして中尉に任官していた李さんは、すでに総隊(団)から縦隊(旅)に拡充されていた第二縦隊が新たに編成した遊撃第五団に新米小隊長として配属された。第五団第三営第九連第一排長(日本式では遊撃第五連隊第三大隊第九中隊第一小隊長)が李さんの官職だった。そして翌1939(昭和14)年1月、十五人の部下を率いて初陣に望んだ。臨汾の西北約三十キロの黒龍関附近で、日本軍と銃火を交えたのだ。このとき戦った日本軍は、臨汾に駐屯していた第百八師団歩兵第百十七連隊に所属する二個大隊だった。この部隊は、臨汾から西南方面へ出撃した作戦を完了して帰還してくる際に、李さんの属する遊撃第五団の待ち伏せ攻撃を受けた(*3)

遊撃第五団は黒龍関に進出後、関の南北両側を見下ろす形で西山に陣取っていた。ここは射界が開けて見晴らしが良かったため、部隊はトーチカを設置し、塹壕を張って陣地を構築していた。李さんの排は陣地の前方に位置していた。十五人の部下のうち、三人は機関銃手で、残り十二人が小銃手。機関銃は中国製チェコ機関銃で、小銃は日本の三八式小銃をモデルにした六五歩槍。小隊長である李さんは「盒子槍」と呼ばれていた中国製モーゼル拳銃を手にしていた。

(*3)黒龍関での戦闘は、第一軍が閻錫山の帰順工作進展のために1938年(昭和13)年12月末より翌年1月初旬まで行った陽動作戦「吉県作戦(秘匿名:S号作戦)」の終わり頃に起きた。黒龍関附近を進撃したのは、第百八師団佐伯支隊の高樹喜一連隊長率いる歩兵第百十七連隊の二個大隊。高木隊は1月5日に大寧を出発、蒲県を経て、黒龍関で銃火を交えたのち、10日に臨汾に帰還した。黒龍関での戦闘は、日本側の戦闘要報にも記載されている。「佐伯支隊ハ…十日襄陵平地ヲ掃蕩シツツ臨汾ニ帰還集結ス 此間黒龍関原上附近南窰村牛王廟附近ニ於テ夫々相当有力ナル残存匪団ト交戦シ克ク之ノ敵ヲ掃蕩ス」とある。

攻撃開始
その日は薄曇りだった。まだ防寒用の外套が支給されていなかったから、陽が高く上がった午後一時過ぎになっても寒かった。突然、伝令が日本軍接近を伝えてきた。李さんは山の上から双眼鏡を使って様子を窺った。しばらくすると、日本軍が一列に隊列を組んでやってきた。作戦からの帰還でホッとしていたのか、日本軍は待ち伏せに気付いていない様子だった。李さんは双眼鏡を覗きながら内心ほくそえんだ。

日本軍の先頭が陣地から一キロの距離に近づいたとき、一斉攻撃の命令が下った。山の上に展開していた遊撃第五団は、一斉に射撃を開始した。山の上から日本軍に向けて銃弾が雨霰のごとく降り注いだ。

突然の攻撃に、日本軍は一時混乱に陥ったように見えた。しかし、すぐに体制を立て直し、大砲も使って応戦を始めた。一キロ離れた日本軍と中国軍の間で激しい戦闘が始まった。銃弾が飛び交い、砲弾が陣地に着弾する。うねりをあげて飛んできた砲弾が着弾すると、爆発音とともに地面と空気から激震が伝わってくる。

硝煙と土煙のなか、李さんの目にチラッと日本軍部隊の中に旗が立てられているのを見た。そこで李さんは全員に命令した。「他のところは射撃しなくていいから、あの辺りに向かって一斉射撃しろ」。一斉に射撃を始める。すると、銃弾による砂煙の中で、旗の周りに居た数人の日本兵が倒れたのが確認できた。

催涙ガス
戦闘が始まって一時間ぐらいしたころ、急に李さんの排全員に異常が襲った。皆の眼が激痛に見舞われ、涙が止まらなくなった。あまりの激痛と涙で目も開けられない状況に陥ったのである。大砲を使って打ち込んだのか、それとも手榴弾のようなものを使って撒いたのか分からない。しかし、日本軍が風上から催涙ガスを用いたのだとすぐ気づいた。しかし、このとき李さんの部隊に防毒面は支給されていなかった。苦しいなか、藁をも掴む思いで地面に少し穴を掘り、小便と土を混ぜてそれを鼻に詰めたが何の効果もない。幸い風が少し強かったためにガスが拡散したのか、眼の激痛も二十分ほどで収まった(*4)

それから三~四時間ほどすると、陽が落ちて空が暗くなってきた。それに伴って、日本軍の方が臨汾に撤退を開始したようで、激しい戦闘も徐々に沈静化していった。暗くなって日本軍の撤退が確認されると、戦闘終了が宣言された。激しい銃砲撃、催涙ガス、それ以前、その後に李さんが経験した戦闘の中でも最も激しい戦闘だった。李さんの排だけで弾薬約六千発を使用していた。後に団の発表で、この戦闘における日本軍の損害は戦死傷二百人前後、対する第五団は戦死十数人という快勝だった(*5)

しかし、第五団の戦死者のうち、その内の二人が李さんの第一排に所属していた部下だった。ひとりは入隊して数年の古参兵で、もうひとりは入隊したての新兵だった。ともに銃弾ではなく砲弾にやられた。この時、ひとりは即死だったが、もうひとりは砲弾の破片を受けて負傷し、後方に搬送している途中に亡くなった。ふたりとも二十歳前後の好青年だった。

戦闘が終わって日本軍のいた場所に行ってみると飯盒が落ちていた。三つほど拾って排で使用することにした。中蓋のある二重構造で、食器として使えるほか、炊飯と副食の調理が一回でできた。非常に便利で李さんは感心したという。

(*4)このときの催涙ガスによる攻撃は、日本軍が事前に準備して行った攻撃だった。詳しくはこちらのコラムを参照。
(*5)日本側の史料によると、S号作戦全体での損害は、戦死六十七、戦傷百二十四だ。李さんが部隊上層部から聞いた戦果は、多少の誇張が含まれていたようだ。

「晋西事件」と武装蜂起
黒龍関の戦闘から一年後の1939(昭和15)年冬。閻錫山は中共影響下にある山西新軍の武力解体に乗り出した。「晋西事件」の発生だ。新軍解体の最初の矛先は、李さんの属する青年抗敵決死第二縦隊だった。閻軍は11月から第二縦隊支配下の中共拠点を急襲して中共党員を逮捕するとともに、第二縦隊を第一線に編入して抗命罪の適用を企図、12月には武力鎮圧に乗り出した。

晋西事件が発生したとき、李さんは陝西省宜川県の秋林の地にいた。蒋介石が廬山で初・中級将校を対象に行っていた集中訓練「廬山集訓」を真似て、前年11月から閻錫山が始めた「秋林集訓」を受けていたためだ。このとき秋林で集中訓練を受けていたのは、第二縦隊の初・中級将校の一部。閻錫山は晋西事件発生とともに、訓練中の第二縦隊将校全員を勾留したのち、彼等の懐柔に乗り出したという。全員の階級を特進させ、各機関の幹部に任命した。秋川に駐留していた第二縦隊幹部訓練隊は自然消滅した。中共シンパの薄一波将軍が手塩にかけて育てた第一縦隊に比べ、第二縦隊では中共の影響力も完全には浸透していなかったようだ。

中共との連絡も絶たれた李さんは、表面上は懐柔に応じて周囲に同調する姿勢をとりつつ、機が熟するのを待つことにした。李さんがふたたび党と連絡をとれるようになったのは、それから約二年後の1941(昭和16)年春、日本軍の捕虜として第一軍の収容所である「工程隊」に収容され、顔見知りの党員に出会ってからだった。

第二縦隊は消滅し、所属将校は全員各地の部隊や諸機関に移動となった。李さんは中陽県に派遣され、県の民兵で組織された国民兵団団副(副連隊長)の任を受けた。階級は少校(少佐)に昇進した。副団長として中陽県に赴いた李さんは、さっそく党員としての活動を開始した。民兵ひとりひとりに中共思想を吹き込み、ある程度メンバーが集まった段階で武装蜂起によって一気に中共根拠地へと向かうことを画策したのだ。計画はほどなく実行に移された。1941(昭和16)年の春、李さんは偽装暴動を起こして、それに乗じて県公安局から武器を強奪した。数十丁の小銃を捕獲し、すぐさま晋西の中共根拠地へと向かった。しかし、根拠地へと向かう李さんらを閻軍が追撃してきた。やっとのことで閻軍の追撃を振り切り、汾陽から離石に通じる道を移動していたとき、今度は運悪く日本軍に遭遇してしまった。李さんは他のメンバーとともに捕らえられてしまった。

日本軍に捕まった李さんは、太原に移送された。そして当時第一軍に組織された「工程隊」に送られた。工程隊は、名前こそ捕虜による土木作業隊を意味するが、実際には内部の待遇は惨憺たるものだったという。支給される食事は「腐りかけの野菜汁」と毎日二百グラム前後の「カビの生えた高梁」。医務室は捕虜の国民党の軍医に担当させていたが、医薬品はなかった。毎日数人、最も多い日には約六十人の収容者が伝染病などで亡くなっていたという。

この収容所で、李さんはかつての上官で秘密工作員だった劉侵霄さんと出会う。そして彼と他の党員とともに地下活動を展開する。収容者を団結させて待遇向上を要求するとともに、収容者に対する政治教育を展開した。このときの工程隊の様子や李さんの活動については、劉侵霄さんの筆による回想録が詳しい(次ページで紹介)。

8月15日
1945(昭和20)年8月、工程隊での活動を経て、李さんは親日政府軍に参加していた。蔡雄飛が司令を務める山西省保安隊の司令部が太原にあり、そこの司令部に少校参謀として勤務していた。しかし実際には、李さんは中共の晋綏軍区政治部に属する地下工作員だった。山西軍での階級と同等の待遇を保障するという誘いに乗り、工程隊を出所して参謀として保安隊司令部に潜り込んだのだった。そして敵軍の情報を収集するとともに、中共の浸透活動に力を注いでいた。

8月15日、李さんは太原の司令部内で日本敗戦の報をラジオで聴いた。この時、司令部にいた下級将兵達は「やっと戦争が終わった」というようなほっとした顔をしていた。それに対して対照的だったのが同僚の将校達だった。彼らはこれから日本の手先となった「漢奸」として裁かれるのではないかと、心配そうな顔をしていたのが印象に残っている。

李さんは終戦後も中共党員として身分を明かすことなく、閻軍に復帰、とある部隊の団副(副連隊長)に着任した。一年後の1946(昭和21)年、李さんの部隊は、胡宋南が司令を務める国民党第一戦区に編入され、これに伴って李さんも部隊と共に西安に移駐した。李さんの秘密工作員としての活動は、新中国成立までその後3年間続いた。

1949(昭和24)年、新中国が成立し、李さんの秘密工作員としての活動も終わりを告げた。しかし戦前からの党籍と功績についての李さんの主張は認められることがなかった。李さんの党籍を証明できる人が皆亡くなっていたからだ。李さんは閻軍・偽軍(親日政府軍)に身をゆだねた者として、西安のとある工場の一工員に甘んじた。彼の名誉回復がなされたのは1987年まで待たなくてはならなかった(*6)

(*6)李さんの名誉回復についてはこちらのコラムを参照。

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初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000013.html

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  1. 陈尚士

    李树德先生(1)
    土八路译自日本网络http://shanxi.nekoyam ada.com/
    1939年(昭和14年)冬,李树德率领一个小队,参加了发生在临汾市郊外的黑龙关战斗。加入中共后,在“晋西事件”中,他在中阳县策划伪装暴动,在奔向中共根据地的途中被日军捕获,收容在太原俘虏收容所的“工程队”里。
    释放后,他隐瞒了作为中共党员的身份,而作为将校隶属于亲日政府军的司令部,战争结束后,他参加了阎锡山军。
    中学毕业后,投身于军官教导团
    李先生出生于山西省宁武县,中学毕业后,当兵入伍,参加了阎锡山军,时值1937年3月,四个月后就面临了日中事变的爆发(7•7卢沟桥事变)。李先生入伍所去的地方,就是山西省国民兵军官教导团步兵科第9团。李先生作为士官候补生,入伍的时候,他是一个22岁的青年。国民兵军官教导团就像它的名称那样,是以培养初级将校为目的的部队,一个团大约有2000人,这是一支由10个团组编的部队,部队当时驻扎在忻县。
    这是李树德先生,摄于文史研究员张全盛先生的住宅。
    他在笔者拜访谈话之后,过了半年就死去了,终年80岁。(太原,1997年)
    李先生在教导团入伍,四个月后的7月,在北京郊外的卢沟桥,日中两国的军队发生了武装冲突,战争爆发了。这个时候,李先生听到日中开战的报道后,在保卫祖国的理念上,据说燃起了“现在我们必须拼命地战斗”的意识。
    面对日军的进攻,中国军队不得不连连退却。在忻口战役迫在眼前的9月,驻扎于忻县的第9团,结束了教育训练,三个大队被改编为总员约2000人左右的山西抗日决死第二总队(注1)。李先生也作为总队的一员,参加了实战。实际上,打那儿以后,部队就从火线上转移了,因为确立了游击体制和进行训练,所以李先生初次临阵必需要等到两年以后。
    第二年10月,基于太原失陷后看准的抗战计划,部队开始向山西省中、南部转移,到达了霍县、赵城县。就这样部队驻扎于隰县的泉子坪村的时候,李先生加入了中国共产党。
    (注1)李先生所属的国民兵军官教导团,是为了对大学专科以上的学生、以及各县村政的协理员进行军事训练,而于1936年(昭和11年)秋,在太原组织的。由三个连(中队)组成一个营,由三个营(大队)组成一个团,一个团是由九个连(中队)组成的。在第二年的1937年(昭和12年),虽然那个时期的训练还没有结束,但就在那一年里,已将其一部分编入了山西青年抗敌决死队和军士团。其中的山西青年抗敌决死队,从一开始就在中共的影响之下,在后来的 “晋西事件”中,成为中共左右下的山西新军的基础,。详细情况请参照“牺牲救国同盟会和山西新军”这篇文章。
    加入共产党
    在的教导团里,李先生有个关系很好的同学叫宋诚英。宋先生比李先生年长两岁,宋先生这个时候已经加入了中国共产党。宋先生经常对李先生讲述中共的理念,或者将延安解放日报社发行的杂志送给李先生。通过宋先生充满热情的谈话以及杂志,李先生对于中共主张的救国理念产生了共鸣,逐渐地有了入党的愿望。就这样就有了发生在1938年(昭和13年)农历正月十五(阳历是2月14日)的事情。那天晚上,李先生被宋先生带到了外边,在村庄外边的一个收集了农作物秸秆的地方,确认四周没有人后,宋先生对李先生说, “今天就批准你入党”,李先生虽然内心高兴,可还是问道:“我学习的水平还很低,还不够资格吧”。于是,宋先生鼓励他“从今往后,要努力学习,加劲干吧”,并且,就像宋先生所讲的那样,进行了这样意义的宣誓: “我自愿加入共产党,终身信奉共产主义,发誓遵守党章” 。宋先生对他说:“从今天起,你就是一个共产党员了” (注2)
    (注2)李先生的党籍和功绩,在战后长期不被认可,不得不过着贫困的生活,详情请参阅“党籍证明的有无仲裁了其后的人生”这一篇文章。
    黑龙关的战斗
    入党后不久,李先生就以中尉军衔的身份的担任了官职,这时部队已经由总队(团)扩充为纵队(旅),在第二纵队新组编了游击第五团,他被配属在该团,担任了新的排长(小队长)。李先生的官职,就是第五团第三营第九连第一排的排长(若换成日本式的说法,那就是,游击第5联队第3大队第9中队第1小队长)。就这样于1939年(昭和14年)1月,他率领部下15个人,身临了初次战斗。在临汾西北约30公里的黑龙关附近,与日军交火。这个时候作战的日军,是驻屯于临汾的第108师团步兵第117联队所属的两个大队。这支部队是由临汾出发,向西南方面出击,在完成了作战任务,回还归来的时候,遭到了李先生所属的游击第五团的伏击(注3)。
    游击第五团到达黑龙关后,以俯视关南北两侧之态势,占据了西山上的阵地。因为这里射击界面开阔,适合于眺望。所以部队设置了碉堡,广布战壕,构筑了阵地。李先生的那个排处于阵地的前方。在部下的15个人里边,有3个是机关枪手,剩下的12个是步枪手。机关枪是中国造的阻击机关枪,步枪是仿造日本三八式步枪的六五式步枪。作为排长(小队长)的李先生,手握称作“盒子枪”的中国造毛瑟手枪。
    (注3)为了使阎锡山归顺的工作得以进展,日军第一军从1938年(昭和13年)12月末,到第二年1月上旬,发动了阳动作战(隐匿名称为S号作战),在作战结束的时候,发生了黑龙关战斗。进击黑龙关附近的部队是,第108师团佐伯支队的高树喜一联队长,他率领着步兵第117联队的两个大队。高树部队于1月5日从大宁出发,经过蒲县,在黑龙关交火之后,于10日回到了临汾。黑龙关的战斗,在日本方面的战斗要报上也有记载。内容如下:“佐伯支队••••••10日继续扫荡襄陵平地,归还集结于临汾,此间在黑龙关原上附近的南窑村、牛王庙附近,分别与相当有力的残存匪团进行了交战,克之,扫荡了这些敌人”
    开始攻击
    那一天的天气略微阴沉,还没有配发防寒用的外套,所以,即使太阳高高升起,过来下午的一点钟,还是感到寒冷。突然,传令兵来传达了日军已接近的命令。李先生用望远镜从山上窥视了情况。过来一会儿,日军排成列队伍走了过来,也许是因为作战之后的返归,警戒心放松的缘故,看样子日军没有发现埋伏。李先生一边用望远镜瞭望,一边暗自喜欢。
    在日军的先头部队接近距阵地一公里的地方的时候,同时攻击的命令下达了。展开于山上的游击第五团同时开始了射击,枪弹向雨雹似的从山上倾注于日军。
    由于突然的攻击,看上去日军好像陷入了暂时的混乱。但是,很快就转变为临战态势,连大炮都使用起来,开始了应战。日军和中国军队在相距一公里的空间,展开了激烈的战斗。枪弹飞来飞去,炮弹落在了阵地上,烟尘翻滚,飞来的炮弹一落下,随着爆炸的声响,由地面和空气传来激烈的震荡。
    在弥散的硝烟和尘土中,李先生看见日军部队中闪现出军旗,因此,李先生向全体人员下达了命令,“可以不射击其他地方,大家一齐向那个地方开火”于是大家一齐将枪弹射向了那一带,在由枪弹掀起的沙尘里,能够确认在军旗周围的数个日本兵倒下了。
    催泪瓦斯
    在战斗开始后约一个小时,突然异常情况向李先生全排人员袭来,大家的眼睛遭到了剧烈的疼痛,止不住的流泪,由于过分的剧痛和流泪,眼睛也陷入了睁不开的状态。是使用大炮打过来的呢?还是使用手榴弹之类的武器抛撒过来的呢?大家并不清楚。而这时候,防毒面具并没有配发给李先生的部队。痛苦中,大家以攀草求援的心情,在地面上挖个小坑,虽然将小便和土混合成泥,堵塞在鼻孔里,但还是起不到任何效果,幸亏风刮的略微大些,瓦斯是不是扩散了呢?过了20多分钟,眼睛的剧痛也消除了 (注4)。
    打那儿起,约过了3—4个小时,太阳落山了,天色暗了下来,伴随着夜幕的降临,日军方面似乎开始了向临汾的撤退,激烈的战斗也渐渐平静下来,天黑后,日军的撤退一经确认,就宣告了战斗的结束。这一次战斗枪炮战的激烈、催泪瓦斯的厉害,在李先生此前以及后来的经历中,也算是最为激烈的一次。仅李先生的那个排,使用的弹药量约为6000发,后来团部发布文稿报道,在这次战斗中,日军阵亡和受伤的约有200人左右,与敌人的损失相比,第五团以阵亡十几人的代价获得了大胜(注5)。
    而在第五团的阵亡者里边,有两个人所属于第一排,是李先生的部下。一个是入伍已有数年的老兵,另一个则是刚入伍的新兵。他们都是被炮弹炸死的,并不是被枪弹打死的。那个时候,一个当即死去,而另一个被炮弹碎片击伤,在送往后方的途中死去,这两个人都是二十来岁的好青年。
    战斗结束后,我们到日军所在的地方一看,有失落的饭盒,拾起几个决定由全排人使用,饭盒是中间有夹层的两层构造,除了能够作为食器使用外,还能够一次性地调配好主食和副食,非常方便,李先生说那饭盒让他倍感兴趣。
    (注4)这个时候依靠催泪瓦斯进行的攻击,是日军事先做好准备而实施的攻击,详情参阅“1938年在吉县作战时的催泪瓦斯”这篇文章
    (注5)根据日本方面的史料,因S号作战而损失的日军情况为:战死67人,受伤124人。李先生从部队上层听到的战果,似乎或多或少含有夸张的意味。
    “晋西事件”和武装起义
    距黑龙关战斗一年后的1939年冬(昭和15年),阎锡山着手武力解决在中共影响下的山西新军,于是就发生了“晋西事件”。解决新军的最早矛头,就指向了李先生所属的青年抗敌决死第二纵队。阎军从11月开始,就突然袭击第二纵队管辖下的中共据点,逮捕中共党员,与此同时,将第二纵队编入第一线,企图以抗命罪,于12月出马武力镇压。
    蒋介石在庐山以初•中级将校为对象,进行过集中训练的“庐山集训”,阎锡山以此为榜样,从前一年的11月开始,也创办了个“秋林集训”。晋西事件发生的时候,李先生正在陕西省宜川县秋林这个地方,因为这个原因,他正在接受集训。这个时候,在秋林接受集中训练的,是第二纵队初•中级将校的一部分人。在晋西事件发生的同时,阎锡山将训练中的第二纵队全体将校扣押,之后,据说对他们进行了怀柔,他给全体人员特别晋升了军衔,任命为各个机关的干部。驻留在秋林的第二纵队干部训练队就自然地被消灭了。与同情中共的薄一波将军亲手培养的第一纵队相比,中共的影响力好像还没有完全渗透到第二纵队里。
    被断绝了与中共联系的李先生,决定表面上接受怀柔,他一边采取与周围同一步调的姿态,一边等待着机会的成熟。李先生能够再次与党取得联系的时间,已经是约两年之后的1941年春(昭和16年),他作为日军的俘虏,被收容在作为日军第一军收容所的“工程队”、遇到了相互认识的党员之后。
    第二纵队散伙消失了,所属的全体将校被转职到各地的部队以及各个机关,李先生被派遣到中阳县,接受了由县民兵组织的国民兵团副团长之职(副联队长),军衔升到了少校(少佐),作为副团长前往中阳县的李先生,很快就开始了作为党员的活动。他向每个民兵灌输中共的思想,在成员集中到某种程度的时候,策划了通过武装起义,一口气奔向中共根据地的计划。这个计划不久就被实施了,1941年(昭和16年)春,李先生发动了武装暴动,利用暴动从县公安局强夺了武器,缴获了数十支步枪,随后立即奔向了晋西的中共根据地,他们好不容易摆脱了阎军的追击,就在由汾阳通往离石的公路上转移的时候,这一回运气不佳,不幸与日军遭遇,李先生和其他成员一起,都被日军抓住了。
    李先生被日军抓捕后,就被移送到了太原,而且是被移送到了由第一军组织的“工程队”里。工程队的名义虽然意味着是由俘虏做工的土木作业队,但据说实际上内部的待遇是凄惨的。供给的伙食为“腐败的野菜汤”和每天200克左右的“发了霉的高粱”。医务室虽然让国民党的军医担当,可是没有医药品,据说每天有数人,最多的时候约有60人,因传染病等而死去了。
    在这个收容所里,李先生与他的上级、曾经是秘密工作员的刘侵霄先生不期而遇,就这样,他和其他党员一起,展开了地下活动。他们使收容者团结起来,要求提高待遇,同时还展开对收容者的政治教育。关于这个时候工程队的情况以及李先生的活动,在由刘侵霄先生执笔的回忆录里,记载得很详细(在下一篇介绍)。
    8月15日
    1945年(昭和20年)8月,经过在工程队的活动,李先生参加了亲日的政府军,由蔡雄飞担任司令的山西省保安队司令部设在太原,他在这个司令部作为少校参谋而供职,可实际上,李先生是中共晋绥军区政治部属下的地下工作员。他利用军衔保证跟在阎军时同等待遇的邀请,离开了工程队,作为参谋潜入了保安队的司令部。就这样,他在收集敌军情报的同时,又在中共的渗透活动方面倾注了力量。
    8月15日,李先生在太原的司令部,用收音机收听了日本战败的消息,这个时候,在司令部的下级将士们,颜面表现出了如释重负的神情,发出了“战争好不容易结束了”的声音。与此形成鲜明对照的,是他的同僚将校们,他们成为了日本爪牙的“汉奸”,会不会遭到制裁呢?一幅忧心忡忡的样子,给李先生留下了很深的印象。
    战争结束后,李先生也没有亮明自己作为中共党员的身份,他回到了阎军,上任某部队的团副(副联队长)。一年后的1946年(昭和21年),李先生的部队被编入了由胡宗南任司令长官的国民党第一战区,伴随着改编,李先生也与部队一起移驻于西安。李先生作为秘密工作员的活动,又连续干了三年,一直持续到了新中国的成立。
    1949年(昭和24年),新中国成立了,李先生作为秘密工作员的活动也宣告结束,可是,李先生主张的、关于从战前算起的党籍和功绩没有被认可。因为能够证明李先生党籍的人都已经死去了。李先生作为委身于阎军•伪军(亲日政府军)的人,他满足于在西安某工厂当一名工人,他名誉被恢复的时间,不得不一直等到了1987年。
    (注6)关于李先生名誉的恢复,请参照“党籍证明的有无仲裁了其后的人生”这一篇文章。
    (未完待续)

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