永富博道さん


永富博道氏は、終戦後に首謀者の一人として民間側から山西残留を推進した人物です。略歴についてはこちらをご参照ください。
本稿は2000年に武術雑誌に掲載されたインタビュー記事を転載したものです。氏は戦犯として中国収監中に太極拳を修得し、帰国後に本邦で初めて太極拳を紹介した功労者です。本稿は、その武術家としての氏に対して焦点をあてたインタビュー内容となっています。

――――永富さんの名前を本誌で見ました。日本においてはもっとも早い時期に太極拳を習得していたということで、貴重なお話をお聞かせ願えると伺いました。よろしくお願いします。中国の伝統武術を学習するということは日中友好と歴史を考える必要があるのでしょうか。そのあたりのこともお聞かせください。まずは武術に関する履歴を教えて下さい。

私は国士舘で剣道をやっていました。斎村五郎から習っていました。また、薙刀・直心影を修得し、それらを修徳館で教授もしておりました。そのような関係もあり、日本の武術が最高であると信じておりました。しかし、中国山西省太原で小さな子どもと遊んでいたときに、まったく相手にならなかったことがあったのです。彼らの拳法の動きは私に大きな衝撃を与えました。太原で商売をしていた時期に張という先生について武術を習うようになりました。「青年拳」というような名前でした。基本といえるでしょう。毎日、朝に体育場に通い、習うのが楽しみでした。一九四九年頃の話です。たくさんの人が武術を練習していました。

半年後には撫順の戦犯監獄に収容されました。そこで、満州国の国民勤労部大臣だった干鏡寿に太極拳を習うことになりました。特別に許可をもらったのです。それは帰国するまで続きました。また、収容所には旧満州国の皇帝溥儀をはじめとして多くの人が太極拳や武術をやっていました。

戦犯釈放後は東京に戻ってきました。収容所で私が太極拳を習っていたのを知っている古井喜美という前の厚生大臣から太極拳を教えてくれるように依頼がありました。お寺の敷地内で、何人かの人に教えるようになりました。それから日本太極拳協会を一九六三年に設立しました。私自身の活動期間は長くありませんでしたが、武道家や剣術家が興味をもって私のところへ来たものです。現在の日本太極拳協会の前身です。

――――小さな子どもの相手にならなかったというのは、具体的にどういうことだったのでしょうか。

当時は、共産党政府樹立の直後でした。多くの残留日本人は共産党の工程隊として、土木作業に従事させられていました。私だけは太原で自由に行動できました。ただし、自分で稼がなければなりません。そこで、食いつなぐために鯛焼きを売る露店を始めたのです。これが中国人に大評判となり、「王髭子」と言えば界隈で知らない者はいないくらいでした。顎髭をのばしていました。このころ、公園に散歩に行くのが日課でした。そこでの話です。別に立ち会ったとか、試合をしたということではありません。当然、武器を持っていたのでもありません。公園で子どもたちの遊びにつきあっていただけです。しかし彼らの手は非常に速い。追いかけても捕まえられないし、逆だとあっという間にやられてしまう。私はこれはなにかおかしい、疑問を持ったのです。中国拳法に惹かれていったのです。多くの人が公園で武術の練習をしておりました。はじめは練習している人たちと武術談義をしていました。日本の武道には段位というものがあるが、中国の武術でも採用したらどうか、などと。そして、張先生に習うようになったのです。弟子というより友達のような感覚でした。

――――「青年拳」とはどういうものでしょうか。

正式な名称は分かりません。ただ、若い人たちが基礎を練るためにおこなっていました。気合いを入れてやるもので、太極拳のようにゆっくりしたものではありません。

中国の武術は頭を使う。意識を重視します。それまでの私の剣道は、動作を反復することで体得していくという発想でした。太極拳はそういう意味では異なります。意識を以て動作をコントロールするのです。そこがすばらしいとだんだん分かってきたのです。

――――収容所での話を聞かせて下さい。皇帝溥儀と同じところにいたと、聞いていますが。

ええ、三、四年はいっしょにいたと思います。多くの人間が収容されていまして、あちらこちらで何人かずつかたまっていろいろな武術をやっていたようです。私が太極拳をやっていると、溥儀さんが私の目の前にやってきて演武してくれました。

――――溥儀と言えば、八極拳を練習していたことで有名なのですが、永富さんは見たことはありませんか。

太極拳しか見たことがありません。満州国の大臣クラスの連中と共に収容されていました。宿舎は別棟でしたが、同じ中庭を利用したので、彼らの行動は目にすることは多かったのです。日本人と中国人はしゃべることが許されておりませんでしたから、たがいに黙って太極拳をやっておったのです。

また、私は太原で拳法をやっていて太極拳には非常に興味がありました。そこで、収容所の先生にお願いして、旧満州国の国民勤労部大臣だった干鏡寿から太極拳の指導をしてもらう許可を特別にもらいました。私以外の日本人は興味を示さなかったのですが。

休みのときに庭に出て、向かい合って型をまねするのです。数ヶ月ですっかり覚えてしまいました。そんなこともあって、溥儀も私の前に来て太極拳をやってくれたのです。清朝は楊露禅から太極拳を習っていただけあってか、溥儀の攬雀尾は見事でした。

――――それでは、戦争中の話についてお聞かせください。中国伝統武術が日本軍と実際に戦ったという、そのようなことはありましたか。ゲリラ戦では武術は使われたのでしょうか。

従軍中に中国人の集落へ物資を調達しにいったときに、熱心に武術を練習していた人たちがいたことがありました。彼らは一生けんめい体を鍛えているようで、凄みを感じました。

私は、中国人が槍や刀で日本軍を攻撃したというようなことは見てません。山西部隊でも聞いたことはありません。

――――中国人が紅い槍をもって日本軍と戦った、というような話が伝わっていますが。

そういう事実は聞いてませんが、「紅槍会」は知っています。彼らは紅い房の付いた槍を持っていました。多くの集落にいました。自衛のために練習していたと思います。集落に立てかけてある槍を使って、村の人を殺してしまったことがあります。私の罪です。

――――日本兵は小銃に銃剣をつけて、士官は軍刀を提げていたわけですよね。白兵戦になると、それらを使ったのでしょうか。

私は白兵戦は経験していません。ただし、八路軍にゲリラ戦はさんざんやられてしまいました。こちらが攻撃すると、すぐに退却するのです。さらに追撃をかけると、また退却していきます。繰り返しているその間に後方から回り込まれるのです。これにはさんざんな目に遭いました。

――――中国人を多く殺めたと聞きましたが、基本的に銃殺したわけですか。

私は情報隊を組織しておりまして、たくさんの中国人を使っていました。彼らが集落から何人かずつ連行してくるのです。そして、水責め、火責め、あらゆる拷問にかけて情報を聞き出そうとして。その後に殺したのです。また、保安隊の指導官をやっていまして、中国兵を連れて村に入って片っ端から略奪行為をおこなってきました。本当に中国の人々に対して、申し訳ないことをしてきました。非道いことをやってきました。

中国の人は過去のことを知っている人は多くいますが、みなさんのように若い世代の日本人は、昔は昔で今は今というように、現在の日中関係だけに乗っかってしまっているのかもしれません。

ほんとうに日本の人々はこういう過去をしっかりと認識しなければなりません。どれだけ中国の人が苦しんできたかということを。

――――これから若い世代が中国の伝統である武術や文化を修得していくために必要なことがあれば教えてください。

過去のことを知らないでは済まされない。これを知るということは大切です。これを認識しなければ本当の日中友好なんてありえない。その上に立って、初めて日中友好ができる、中国の文化を学ぶことができるのです。

――――永富さんは中国武術においても大先輩といえます。武術を学ぶ上で大切なことは。

日本の剣道は人を活かすための剣であると言いますが、我々のは人を殺すための剣に成り下がってしまった。これではいけない。中国の武術もそうであってはならない。人を害するために用いてはならない。自分を修養するために鍛えるために、人を活かすために武術を修めなければならない。

私は最近、書道を始めました。書道でも同じです。自分の心がそのまま書に現れる。武術も人を傷つけるためにやっていれば、技に現れます。

――――中国人は心が広いというか優しいと言われますが、永富さんが接してきた中国人の人々はどうでしたか。どのような人間関係がありましたか。

私が太原で拳法を習っているときは、すでに解放(共産党政府樹立)後でした。張という先生にも師匠として接する感じではまったくなかった。まだ、当時の私は軍国主義のかたまりでした。いま考えると非常に傲慢な考え方でした。頭を下げて教えてもらうことなど思ってもいなかった。お礼もなにもしていない。しかし、よく教えてくれました。

私に対して憎しみをもっているのは当然のことですが、表面には出さない。日本人であっても、個人的なことでは人間として扱ってくれました。

――――実戦ということについては。

実際に突撃したことは何回もありますが、頭に血が昇って何がなんだかわからない。「ヤー」と叫びながら突っ込むだけです。決してかっこいいものではない。身につけていた武道もぜんぜん役に立たない。小手を狙おうとか、面を打つとか、できるものではありません。

――――永富さんは秘密結社のような組織にも属していたと聞きましたが。

青幇にも紅幇にも属していました。青幇では、小香・大香の儀式を受けて二十四代悟字幇になりました。紅幇のほうは古来の紅幇とは違い、閻錫山(山西軍閥)に忠誠を誓うための親分子分の関係みたいなものでした。いろいろなしきたりや儀式を教えてくれました。私は三哥と呼ばれていました。彼らは結束して身を守っていたのです。武術もやっていました。素手や刀・槍もやっていましたが、私は徒手拳法を教えてもらいました。いろいろな人に物事を頼むときや特別な相手に会うときなど、戦争中の諜報活動にはそれらは必要でした。

――――それでは、最後に永富さんから読者へ。

私が講演でよく言うことですが、揚子江よりも、黄河よりも、中国人が流した涙は多いのです。中国人が日本人のために流した涙の量は黄河の水よりも揚子江の水よりも多いのです。ほんとうにそうだということを知りました。

私は脳梗塞で二回も死にかけました。ほとんど過去の記憶を忘れてしまいました。自分の娘の名前さえ、分からなくなってしまったのです。もうだめだというところまでいきました。それでも死ななかった。まだ成すべきことがある、しなければならないことがあるのです。

私にはしなければならない使命があるのです。それは中国の人々に罪の償いをするということです。中国の人が苦しんできたことを日本の人に知らせなければならない。そのために余生が残されているのです。そのことがよく分かってきました。反戦平和・日中友好親善のために最後の命を捧げていきたい。一部の日本人は私のような者を許しておけないだろう。しかし、日本の若い人々と共に、最期の最後までこのことを知らしめていきたい。今年八三歳、まだ若い。どこも悪くない。今も身体を鍛えています。がんばっていきたいと思っています。かならず、自分の願いが届くものと思っています。

太極拳はすばらしい。これは絶対にいい。ゆっくりと、この歳になっても意識で身体を動かせる。ほんとうにすばらしい。健康の素です。

――――このたびは本当にありがとうございました。

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000769.html

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

post date*