御親族の戦歴を調べる方法について


本稿では、元従軍将兵のご遺族を対象に、故人が戦時中にどの部隊でどのような作戦に従軍したのか、不幸にして戦没された場合はいつどこでどのように亡くなったのかを調べる方法についてまとめたものです。調査対象者は、陸軍将兵として日華事変以降の中国戦線に従軍した方を想定していますが、それ以外のケースにも応用できると思います。これから調査をお考えの方は参考にしてください。なお、故人が山西省で従軍していたことが明らかな場合は個別にご相談を承りますので、本サイトのコメント欄かメールでお問い合わせください。

故人の戦没または従軍状況の調査は、公的記録が残っているか否かの確認から始まります。以下の公的記録が存在するならば、多くの場合は故人の従軍部隊名、戦没者ならば戦没場所・日時が判明します。必ず確認するようにしてください。

軍歴照会
軍隊への入隊は公務員への任官と同義であるため、赴任時期など詳細が記録された「兵籍簿」というものが作成されています。この兵籍簿は、戦災などで失われたケースもありますが、原則として当人が陸軍に所属していた場合は本籍地の都道府県庁に、海軍または文官の場合には厚生労働省社会援護局業務課が現在も保管しています。これら機関に対して、記録の開示を申し出てください。このような請求は一般に「軍歴照会」と呼ばれます。軍歴照会は個人情報の開示となるため、原則としてご遺族に限られます。

(故人が陸軍将兵の場合) 故人の本籍地もしくはお住まいの都道府県庁の社会福祉関係部署へ
(故人が海軍または文官の場合) 厚生労働省社会援護局業務課 (代表 03-5253-1111)

戦没者の方:除籍(戸籍)の閲覧
軍歴を照会しても、戦災による焼失などで記録自体が残っておらず、判明しないケースも少なくありません。その場合には、故人が戦没者であるならば、除籍謄本・抄本を確認してください。戦死時の場所、日時、報告者名(ほとんどの場合が部隊長名)が記載されています。 除籍謄本・抄本の請求は、本籍地の市区町村市役所で、直系親族(父母、祖父母、子、孫)またはその承諾を得た人のみ請求が可能です。詳細は、故人の本籍地もしくはお住まい市区町村市役所にお問い合わせください。

戦没者の方:靖国神社に問い合わせをする
戦没者の方は、原則として、祭神名簿に載り、靖国神社で祭神として祀られることになっています。このため、一般的な名前でなければ、祭神名簿をもとに名前だけでも調べることは可能と思われます。靖国神社では、遺族の方からの問い合わせを受け付けていますので、靖国神社の社務所宛にお問い合わせください。

通称名から部隊の正式名称を調べる
軍歴照会や除籍謄本などの公的記録では、部隊名が正式名称ではなく通称や俗称で記載されている場合が少なくありません。その場合は、正式名称を把握することが必要となります。 下記の通称は、兵団文字符による記載例です。「雪」は第三十六師団、「甲」は北支那方面軍を示します。

(通称)雪3524部隊→(正式名)第三十六師団 歩兵第二百二十三連隊
(通称)甲第1484部隊→(正式名)北支那方面軍 独立野砲兵第十一大隊

兵団文字符に「兵団」や「部隊」をつけたり、「方面軍」を「派遣軍」と呼び変えた俗称での記載例もあります。

(俗称)乙兵団、乙部隊→(正式名)第一軍
(俗称)北支派遣軍→(正式名)北支那方面軍

通称名が部隊長の苗字で記載される例があります。下記は1937年12月~1939年8月まで兵団長(1938年以降は軍司令官)をつとめた蓮沼将軍の苗字をとって通称としたものです。

(通称)蓮沼兵団、蓮沼部隊→(正式名)駐蒙兵団(1938年以降は駐蒙軍)

防衛研究所などでアドバイスを受ける
公的記録がない場合や、何らかの理由で公的記録を閲覧できない場合などは、まず故人が従軍した部隊を特定することが必要です。故人が従軍した部隊を特定することで、具体的な当時の状況を知ることが可能となります。 しかし、従軍部隊の特定は、軍制と戦史に関する知識が必要で、一般の方が調べるにはどうしても限界があります。そこで、専門家によるアドバイスを受けることをお勧めします。 国の機関である防衛省防衛研究所や靖国神社の図書館である靖国偕行文庫では、戦史にまつわる調査研究を行っており、外部からの問い合わせに対応しています。個人の要請を受けて調査を行うものではなく、あくまでも資料のレファレンスという性格ですが、専門家によるアドバイスを受けることができます。

公刊戦史で部隊や作戦を調べる
旧防衛庁防衛研修所戦史部が編纂し、朝雲新聞社から出版された全102巻の『戦史叢書』は、近代日本の軍事史・戦争史を網羅した公刊戦史です。部隊や作戦の経緯が事細かに記されており、故人の部隊や作戦行動を把握するのに有用な資料です。国会図書館や都道府県立図書館には必ず所蔵されていますので、まずはこの資料にあたるようにしましょう。 故人の従軍部隊を特定する前提となるのは、故人の生年と従軍した地域です。

(日時)
日華事変に従軍の可能性がある人:1937年(昭和12年)現在で満21歳以上の人→1917年(大正6年)生まれ以降
太平洋戦争(中国戦線含む)に従軍の可能性がある人:1941年(昭和16年)現在で満21歳以上の人→1921年(大正10年)生まれ以降

※現役徴兵は満20歳で初年兵教育後の出征対象年齢として満21歳以上としています。
※日本陸軍では満17歳以上の志願兵や満14歳以上の少年兵制度がありました。

(場所)
満州(新京):関東軍
華北(北京):北支那方面軍(※)
内モンゴル(張家口):駐蒙兵団→駐蒙軍
華中(南京):中支那方面軍→中支那派遣軍→支那派遣軍(総軍)
華南(広州):南支那方面軍→第二十三軍

故人の従軍した部隊が華北(黄河以北)であるならば、上記※印の北支那方面軍の部隊を調べます。故人の従軍時期が事変初期の1937年~1938年であるならば、『戦史叢書』第86巻の『支那事変陸軍作戦 』を、1938年~1941年であれば第18巻『北支の治安戦 』を、1941年~1945年は第50巻『北支の治安戦 』を参照してください。また、陸軍航空部隊の場合は第74巻の『中国方面陸軍航空作戦』を参照するなど、調査対象となる部隊と時期、場所(作戦地、駐屯地)によって参照すべき資料が異なりますので注意してください。

郷土資料で部隊を調べる
陸軍では、故人の本籍地に対応して主として都道府県別に入営する部隊が定められていました。それぞれの地域に密着した「郷土部隊」と呼べる存在です。戦後は下記のように各都道府県別に”郷土部隊史”としてまとめられた資料が数多く刊行されています。

茨城郷土部隊史料保存会編『茨城陸軍諸部隊の足跡』1978年
岡山県郷土部隊史刊行会編『岡山県郷土部隊史』1966年
陸上自衛隊第13師団司令部四国師団史編さん委員会編『四国師団史』1972年
畠山清行『東京兵団 1~3』光風社、1976年

これらの郷土部隊史は、故人の部隊を特定するのに有用ですので、故人の本籍地に関係する資料がある場合は閲覧してください。なお、上記のように郷土部隊史は、編纂者や資料のタイトルも様々で、通常の書誌検索では探すことが難しいと思われます。地元の公共図書館に相談されることをお勧めします。

戦友会誌を調べる
『戦史叢書』は、第二次大戦における主要な作戦のすべてを網羅していますが、あくまでも軍、師団単位での記述が中心となり、各部隊の行動の詳細をつかむことは困難です。そこで、故人が従軍した部隊名と従軍時期等が判明したならば、その部隊の戦友会誌が発行されていないか調べましょう。部隊の戦友会誌は、『戦史叢書』では書ききれない部隊行動の詳細や元将兵らによる回顧録、戦没者名簿等が掲載されています。 例えば、前述の雪3524部隊に関係する戦友会誌は、師団としての『雪第三十六師団戦誌』(1988年)と連隊としての『歩兵第二百二十三聯隊史』(1980年)があります。 戦友会誌は、国立国会図書館や郷土の都道府県立図書館のほか、靖国偕行文庫昭和館で網羅的に蒐集されており、いずれも一般の方の閲覧が可能です。

公文書で部隊行動の詳細を調べる
事変初期に臨時編成された部隊などでは戦友会が存在せずに、資料が得られない場合があります。そのような場合には、部隊が作成した作戦日誌等の公文書にあたります。
一例として、事変初期に動員された第百九師団は、石川県金沢市に本拠を置く常設の第九師団を基幹として臨時編成された「特設師団」と呼ばれる師団です(太平洋戦争後期に硫黄島で玉砕した同号の膽兵団とは別)。北支那方面軍第一軍に配属され、中国山西省で作戦を行っていますが、1939年末の内地復員後に解散しており、戦友会もあまり組織されなかったようです。基幹となった第九師団関連の戦友会誌に記載がある程度で、第百九師団独自の資料は少ないのが現状です。
旧軍の公文書は、防衛省防衛研究所で閲覧が可能です。また、国立公文書館が運営するアジア歴史資料センターは、防衛研究所の史料を含む膨大な量の旧軍関係史料をインターネット上で公開しています。前述の第百九師団の資料としては、1939年1月に作成された「第百九師団長状況報告」(レファレンスコード C11111079900)があり、部隊の配置要図や作戦経過の概要などが報告されています。
これら公文書では、部隊が略称で記載されている場合があります。例えば、上記の「第百九師団長状況報告」にある警備配置要図では、1939年1月時点で山西省太原に駐留する部隊として次の記載があります。

太原警備隊:
69i(-Ⅲ)
Ⅲ/8D
ⅢMGs(-1、2、3)
109BA(-Ⅰ、Ⅲ、5、2/3RST)
6SA(-2、3、Ⅱ)

上記の意味するところは以下の通りです。

太原警備隊:
歩兵第六十九連隊(第三大隊欠)
歩兵第三大隊(第八師団より配属?)
第三独立機関銃大隊(第一中隊、第二中隊、第三中隊欠)
山砲兵第百九連隊(第一大隊、第三大隊、第五中隊、連隊段列2/3欠)
野戦重砲兵第六連隊(第二中隊、第三中隊、第二大隊欠)

これら英数字による略記号は「軍隊符号」と呼ばれるものです。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで公開されている1917年版の『陸軍軍隊符号』などを参考にしてください。

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000964.html

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81 thoughts on “御親族の戦歴を調べる方法について

  1. ありす

    はじめまして。
    硫黄島で戦死した伯父の軍歴を調べたくサーチをしていたところ、こちらのサイトに辿り着きました。
    早速、厚生労働省に連絡をしてみます。
    とても参考になる情報を有難うございました。
    お礼申し上げます。

    Reply
  2. yama

    ありすさま
    こんにちは。
    硫黄島の戦いは、資料も豊富なので、軍歴照会で判明せずとも、解明できる可能性が高いと思います。
    伯父さまのご供養になることと思います。

    Reply
    1. 上遠野 美保

      始めまして。
      母の還暦祝いに家系図をプレゼントをしようと、ご先祖様を遡っていたら、満州国新京にて、死亡と記載が有りました。
      何が原因で亡くなったのか、詳細は、記載されていないので、調べて頂けるのならお願いしたいです。
      戸籍に記載されている内容だと、
      本籍地が北海道阿寒町大字二十二線七十九番地。
      生年月日が大正拾参年四月八日。
      氏名、佐藤重雄だと思うのですが、父が佐藤由吉。母がカンです。昭和拾拾九年壹月八日午後拾時五拾五分新京満州第百拾四部隊死亡、同居者、佐藤由近(お兄さん)届出同年貳月拾貳日在満州國日本特命全権大使梅津美治郎受附同年参月拾九日送付と記載がありました。
      満州國新京市大馬路東大馬路興亜ビルハ号にて、佐藤由近さんの長男が誕生していとも記載が有ります。満州國は日本でしょうか?由近さんも同じ場所で何かしていた方なのでしょうか?
      私から見ての関係は、曾祖父の兄弟の子供の子供にあたる方々です。
      直系卑属では、無いですが満州國に住んでいたと思われる、方の戸籍を取り寄せる事は可能なのでしょうか?
      よろしくお願いします。
      ここの所毎日のように、戸籍とにらめっこです。
      戸籍の解読は、考えていたより難しい。

      Reply
  3. 保田光明

    私の母(現在名前は保田恭子、旧姓は芝地恭子)のお父さんの戦歴をお調べして頂きたくお願いします。母のお母さん(今回調査依頼の戦死されたおじいさんの妻)は既に亡くなっており、聞くてだてもない状況です。
    戦歴調査お願いしたい方は以下です。
    ⚫︎芝地末吉(しばちすえきち)
    ⚫︎兵庫県出石郡(いまは豊岡市)出石町口小野
    ⚫︎戦死されたおじいさんの妻は、芝地志づ
    ⚫︎海軍に所属しフィリピンの方で戦死されたと
    思うと母談
    ⚫︎当時、広島の呉に戦死者所属しており、母と
    母のお母さん(おばあちゃん)は兵庫から広
    島の呉に面会に行った記憶あるとのこと。
    ⚫︎戦死された後に、おばあちゃんは再婚されました。

    Reply
  4. yama Post author

    保田さま

    本文にもございますように、まずは公的記録が残っていないかを確認してみてください。海軍の場合、問い合わせ先は厚生労働省の社会援護局業務課になります。
    また、私は身近な親族に戦死者がいなかったので、うっかり本文には書き忘れましたが、戦死の場合は、靖国神社に祭神として祀られており、よほど一般的な名前でなければ、お名前だけでも調べることは可能だと思います。靖国神社の社務所宛にお問い合わせください。
    軍歴証明や祭神名簿で戦死時の所属部隊が分かりましたら、戦史叢書などで調べることで、詳しい部隊行動などが分かると思います。

    yama

    Reply
  5. ひなあられ

    大分の竹田にある祖母の実家の仏間にある遺影で旧日本海軍の帽子を被った人の遺影があった事を思い出し、
    祖母にその人の事を聞いた所、祖母の父親の兄弟である事だけが分かりました。

    名前の方は分からずじまいで大分に住んでる祖母の弟とそのご家族もその人について何も知らないという状態です。
    遺品等もありませんでした。

    その人が何の船に乗っていたのか凄く気になっています。

    名前も知らない遠い親戚の戦歴を調べる事は出来るのでしょうか。

    Reply
  6. yama

    ひなあられさん
    お書きになった内容だけでは、なにも分からないと思います。
    最低でも年齢(生年)と姓名、本籍地は必要です。
    陸軍だと本籍地が分かれば入営先を通じて配属部隊が分かる場合も少なからずありますが、海軍の場合は志願なので、陸軍よりもずっと難しくなります。
    遺影にある姿が士官でしたら、下記のようなサイトもありますが、いずれにせよ、お名前と年齢ぐらいは調べておかないと、聞く相手にも失礼でしょう。
    http://naval.way-nifty.com/blog/

    Reply
  7. りんご

    お忙しいところを申し訳ございません、教えていただけますでしょうか?
    祖母の弟が山西省にて1941年の2月に亡くなっていて、
    山西省新(降←こざとへんが糸へん)県黄土(被←衣へんが土へん)付近にて戦死 東部第36部隊長伊藤忍報告
    とあるのですが、こちらの山西省のサイトをみますと、1941年ころは、警備と書いてありますので、たとえば病死であるとかそういう事が考えられるという事でしょうか?
    そういった詳細も調べればわかるのでしょうか?若くして亡くなられ、直接の子孫もおられませんので、なるべく詳細に知りたいと思います。すみません、教えていただけますでしょうか?

    Reply
    1. yama Post author

      りんごさま
      遠い異国の地で亡くなられましたご親族様のご冥福をお祈りいたします。
      新絳県は、現在の山西省南部にございます運城市です。Google Mapsで頭に「黄」のつく村を探してみましたが見つかりませんでした。
      「警備」という言葉ですが、イラク戦争で米軍占領期に各地で戦闘が頻発していた頃のイメージと思っていただければと思います。戦争にかわりはありません。
      1941年2月頃の山西省南部の状況は、中共軍よりもずっと強い国府軍との戦いで、激戦地と言って良いと思います。
      「東部36部隊」というのは、宇都宮の歩兵第六十六連隊(連隊長が伊藤忍大佐)で間違いないと思いますが、その時期は内地にいましたので、留守部隊として、山西省へ補充要員を送っていたのだと思います。ただ、戦死の報告は、通常、補充先(配属先)の部隊長が行いますから、ちょっとよく分かりません。時間のあるときに調べてみます。

      Reply
  8. りんご

    ご回答ありがとうございます。警護といっても、そういうことなのですね山西省南部の激戦地での戦死。私の先祖だけではありませんが、やはり23歳と若くしてそのような所へ行く事は本当に心が痛みます。
    宇都宮の歩兵第六十六連隊ということがわかり、本当に嬉しいです。このようなサイトに巡り合い、ありがたいばかりです。本当にありがとうございます。

    Reply
  9. りんご

    すみません、初歩的なことばかりお聞きし、すみません。
    戦争で亡くなった先祖は、長崎出身なのですが、ここから調べていく場合に、サイトに書いてあります、「1938年~1941年であれば第18巻『北支の治安戦 』を、1941年~1945年は第50巻『北支の治安戦 』」
    を調べるのに、都道府県の図書館で調べられるというのは 栃木で調べられるという意味でしょうか?長崎で調べられるという意味でしょうか?あるいは、どこでも調べられるということでしょうか?
    何度もすみません。教えていただけますでしょうか?

    Reply
    1. yama Post author

      りんごさま
      『北支の治安戦』は、おそらく全ての都道府県で蔵書されていますので、りんごさまのお住まいの都道府県立中央図書館に行けば読むことができると思います。ただ、『北支の治安戦』は、亡くなったご親族様が戦争全体の趨勢のなかでどのような状況にあったのかを知る、いわば大局的な戦争史を知るには良い資料ですが、具体的にご親族様がどの部隊のどの作戦に参加中に、どのような状況でどのような敵から攻撃を受けたのかといった、いわば個人史として知るには、残念ながらほとんど手がかりにならないと思います。
      戦友会誌や旧軍公文書などを調べれば、かなりの部分まで判明できそうに思いますが、そのためにはまず所属部隊を確定させなければなりません。除籍謄本にある1941年2月という戦没年月と報告者の部隊長名からしますと、先ほどご指摘させていただいた歩兵第六十六連隊が該当しそうですが、しかし、戦没地が合致しません(歩兵第六十六連隊はその当時は栃木県宇都宮市にいたから)。また、仮に長崎県ご出身の場合(=長崎県が本籍の場合)、長崎県を担当地とする部隊に入隊するはずですので、栃木県の歩兵第六十六連隊はちょっと違う、ということになります。また、戦没されたときの年齢が23歳ということですので、現役入隊であれば、すでに3年は兵役に就いているということですから、その点でも考慮が必要になってきます(もちろん第二乙種や丙種で現役免除、その後、臨時召集を受けた可能性はあります)。
      ともあれ、所属部隊特定の鍵は、戦没地である山西省新絳県に1941年2月時点で駐留していた部隊を特定することで、それが東部36部隊からの補充先(配属先)であることが確認できれば良いので、その点を調べてみましょう。

      Reply
  10. ぱんまん

    すみません、あまり詳しくないのでかなり初歩的な質問になるのですが。戦没者名簿についてなのですが、何処に行けば見れる物なのでしょうか?また、日本国内だと日本人の戦没者しか確認出来ませんか?

    Reply
    1. yama Post author

      ぱんまんさま
      公的な戦没者名簿というのは、おそらく旧軍公文書もしくは厚生労働省の所管するものになると思いますが、具体的にどのような形で存在するのか、私も存じ上げません。ただ、戦友会誌などには、通常、部隊所属者で戦死された方の名簿が掲載または附属していますので、戦友会誌をあたられると良いかと思います。軍人以外の一般人・軍属等、また、外国籍の方については、私は存じ上げません。

      Reply
  11. もこ

    はじめまして。祖父の戦歴を調べている者です。私の祖父は兵庫県民なのですが親が他界しており軍歴標や兵籍簿を請求することができません。祖父が残しているメモ帳には護鮮22905部隊と記されていたのでそれを調べると第17方面軍第160師団歩兵第463連隊であることを突き止めました(本当に祖父がこの部隊にいたのか確実な確証はないのですが、メモ帳に公用外出証明書というのが書いてあり、最後に護鮮22905部隊 中川隊隊長 中川祐一と書いてあります)そこで、この部隊の結成から終戦までの詳しい情報や、またどういった輸送船・艦船に乗って朝鮮半島に渡ったのかということが知りたいのです。またこの部隊は戦友会などはあろのでしょうか?ちなみに祖父は陸軍上等兵です。あまり情報がなくて申し訳ないのですが、わずかでも何か情報があればよろしくお願いします。ちなみに今現在でも兵庫県では本人・配偶者・子しか請求ができないのでしょうか?

    Reply
  12. yama

    もこさま
    公用外出証明書は、御祖父さまの所属部隊を示すものと考えてよいと思います。
    御祖父さまの所属部隊は、終戦直前の根こそぎ動員で編成された部隊ですので、戦友会誌などはあてにできそうにありません。
    ただ、歩兵第四百六十三連隊の編成元(動員部隊)となった部隊の戦友会誌などには、関連する部隊の略歴なる項目が設けられることが多いですので、それをあたると良いかもしれません。
    wikipediaの情報なので確かかどうかはわかりませんが、463i(歩兵連隊は「i」と略称します)の連隊区は山口となっていますので、歩兵第四十二連隊の連隊史もしくは第五師団史をあたると、463iに関する情報があるかもしれません。
    あと、第十七方面軍の司令部は京城(現在の平壌)で、終戦後にシベリア抑留の可能性もありますが、その場合は、シベリア抑留帰還者の資料をあたるとよいと思います。

    Reply
  13. CALF

    はじめまして。
    私の母方の先祖様で若くして戦死された方のことを調べています。今日除籍簿を偶然見ることができ昭和20年に東シナ方面にて戦死と書かれていました。
    この戦死された方は不幸な生い立ちで一族の中で冷遇されていたという経緯もあり、今ではこの方の事を詳しく知る人は誰もおりません。
    私がこの方の足跡を調べることで若くして亡くなられたこの方の供養になればと思っています。
    名前と生年月日、本籍地くらいしか情報がないのですがどこに問い合わせをすれば所属部隊など知ることができるでしょうか。
    お忙しいところ申し訳ございませんが、どうぞお力を御貸しくださいますようお願い申し上げます。

    Reply
    1. yama Post author

      CALFさま
      「東シナ」というのは、おそらく東シナ海のことかと思います。
      戦死の場合は、祭神名簿に載って祀られますので、靖国神社にお聞きするのが良いと思います。

      Reply
  14. 下村

    はじめまして。
    私のお爺ちゃんの戦歴を調べたいのですが、どこに問い合わせたらいいのかわかりません。

    お爺ちゃんは鹿児島県に産まれ鹿児島育ちで私が小さい頃に聞いた話では戦争にいって帰ってきたと聞きました。

    鹿児島の市役所に聞いたら戦歴をおしえてくれるのでしょうか?
    こういった事は全く無知なのですがる思いで検索していたところ、こちらのサイトをみつけることができました。
    どうしたら調べられるのでしょうか?

    お忙しいとは思いますが回答を宜しくお願い致します。

    Reply
  15. 鈴木努

    初めまして。
    私の母方の祖父の過去を調べております。
    先週母の郷里に出向いた際、遺品を拝見していたところ、一枚の写真を発見しました。裏には「太同(「大同」と思われます)東門城門前にて写す… 昭和13年5月19日」と記されておりました。祖父は近衛歩兵第二連隊に所属し、葉山御用邸や皇居二重橋にて従軍していたようですが、それ以外の事は全く分からない状況です。
    こちらのサイトを拝見し、山西省にて従軍していた場合は個別にご相談頂けるとのことでこの度コメントを入れさせていただきました。
    祖父の従軍歴を知りたいと思っておりますので、何かアドバイスを頂ければ幸いです。
    よろしくお願い申し上げます。

    Reply
  16. スズキ

    初めまして。
    祖父の従軍歴、所属部隊等調査しております。私の祖父は、近衛歩兵第二連隊に所属し、昭和13年5月19日に大同東門城門前で撮影した写真が遺品として残されておりました。
    所属部隊を調べているのですが、詳細がわかっておりません。
    そんな時にこのサイトを拝見いたしました。調査のヒントを得られれば幸いです。何卒ご教授願います。

    Reply
    1. yama Post author

      鈴木さま

      御祖父様の所属された近衛歩兵第二連隊(近歩二)は華北には出征しておりません。おそらく、近衛師団が補充担任していた部隊(新規編成を含む)へ転属されて、その部隊が華北に出征したものと思います。この種の話は一般的で、例えば山本七平は近衛野砲兵連隊に現役入隊し、その後に新しく編成された第百三師団砲兵隊としてルソン島に出征しています。
      補充担任の部隊を探すのは難儀でして、ちょっと現時点では御祖父様の転属先はわかりません。兵籍簿・軍歴照会もしくは戦没されておられるのでしたら靖国神社への問い合わせが確実です。
      言い訳になって申し訳ないのですが、大同は山西省といっても戦時中は関東軍の肝いりで成立した晋北政庁(のちに蒙古連合自治政府)の行政区域に入りますので、当方あまり詳しくなく、分かる範囲内でお答えいたしますと、昭和13年5月に大同を警備していたのは駐蒙兵団の第二十六師団(泉兵団)ですから、泉の部隊を調べるのが良策と思います。歩兵ならば隷下の独立歩兵第十一連隊、同十二連隊、同十三連隊でしょう。いずれも歴史のある部隊です。靖國偕行文庫に戦友会誌があります。

      Reply
      1. 鈴木努

        YAMA様
        ご回答いただき誠にありがとうございます。
        先日遺品の写真を再度確認していたところ、「記念写真帖 高梨部隊 伊藤隊」なる写真集を見つけました。内容は「柴溝堡城門」「支那風俗」などのタイトルの写真が印刷されたものでした。多くの兵士の写真が掲載されておりましたが、祖父は特定できませんでした。祖父は帰国後引退し、郷里で余生を過ごしておりますので、兵籍簿、軍歴照会をしてみたいと思います。
        ありがとうございました。

        Reply
  17. 桜華

    初めまして。
    太平洋戦争で散華した祖父の事で、戦後70年の節目の年に父や祖母も他界し、孫の私が祖父の戦歴や従軍部隊等を調べ、祖父がどんな経緯で最後を遂げたのか調べ知っておきたいと考えております。父もあまり戦争に関しては多くを語ってはくれなかったので、知ってる事は木更津海軍航空隊に所属し、昭和16年、美幌海軍基地に移動し、最終昭和20年3月にフィリピンマニラで散華し、兵曹長だった事のみ分かっております。
    祖父の遺言で父は祖父の両親(父の祖父母)の養子になってるので、中々道程は困難ですが頑張って調べたいと思います。
    もし何か分かる事がありましたらご教授頂けたら幸いです。

    Reply
    1. yama Post author

      桜華さま

      故国のために亡くなられました御祖父様のご冥福をお祈りいたします。
      海軍のことは素人ですので適切なアドバイスができませんが、戦没されたのが昭和20年3月のマニラということですと、ルソン島に米軍が上陸したときのマニラ市街戦で戦死された可能性が高いと思います。このとき陸軍は山奥に撤退しましたが、海軍はマニラを放棄せずに市街戦となっています。お子様を残しての玉砕ですから本当に心が痛みます。

      戦況についての文字情報は、戦史叢書『中部太平洋方面海軍作戦2』『捷号陸軍作戦2 ルソン決戦』『南東方面海軍作戦3』が該当するかと思います。また、NHKがマニラにおける海軍防衛隊の生き残りの方にインタビューした番組をネットで公開しています。
      http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210015_00000

      マニラ海軍防衛隊の主力は陸戦隊ですが、おそらく御祖父様は海軍航空隊(木更津・美幌)所属でしょうから、末期に航空機が破壊されて飛ぶ仕事がなくなり、最後は陸兵として戦われたのかと思います。ネットで検索した限りですが、木更津と美幌は陸攻部隊だったようですね。美幌航空隊が所属した第十一航空艦隊の一部がマニラ市街戦に参加しているようです。

      確実なのは、厚生労働省社会・援護局援護・業務課調査資料室(代表03-3595-2465)に軍歴照会をお願いすることです。個人情報保護のため、直系親族に限られており、桜華さまにとっては御祖父様は叔父にあたるので閲覧の権限がありません。ただ、戸籍謄本の身分事項欄にお父様の養子縁組について記載があれば、御祖父様の遺言で養子縁組されたことが証明できるので、照会が許可されると思います。

      なお、厚生労働省社会・援護局の前身である復員省が引揚者を対象に行った戦没者に関するヒアリング記録が一部残っており、下記は御祖父様が亡くなられた昭和20年3月中のものになります。個人情報なので氏名が黒塗りになっています。
      http://www.mhlw.go.jp/bunya/engo/shiryou/dl/shiryou_025.pdf

      結果が分かりましたらまたお知らせいただけますと幸いです。
      よろしくお願いします。

      Reply
  18. 桜華

    早速色々探して頂きありがとうございました。
    亡き祖父に変わり御礼申し上げます。
    確かな本籍も、分からず名前の漢字が間違えてたらしく、靖国神社に出向き調べて貰いましたが、除籍謄本を取った方が良いとのアドバイスを頂き父の妹(叔母)が偶々、祖父の本籍を知って居たので、本籍のある区役所に祖父の除籍、戸籍謄本の請求と、主様が教えて下さった厚生労働省に連絡もし、私と父の戸籍謄本も取り寄せた所、父の出生から父が祖父の戦死後、養子縁組した時の除籍も全て記載されてたので、なんとか孫として厚生労働省の方で認めて頂けたら幸いと思っております。祖父の生年月日さえ分からない状態ですが、一歩前進しました。
    本当に色々調べて下さり、ありがとうございました。
    進展がありましたら、またお返事させて頂きます。
    長文失礼致しました。

    Reply
  19. 山田智

    私の、おじいちゃんの兄は、中国で戦死しています。
    所在地
    静岡県榛原郡吉田町住吉旧吉田村
    名前
    本橋竹二郎
    戦没
    昭和20年7月15日
    毎年、7月に静岡県護国神社で慰霊祭を行うのですが、おじいちゃんが脳梗塞で倒れたのと、戦後70年の節目にと思い調べて欲しいのです。

    Reply
  20. からす

    祖父の兄の事を調べたく色々と検索しましたらここに辿り着きました。
    お陰様で、祖父の兄の戸籍をもらう事ができました。
    南方で戦死と聞いていましたが、戸籍には中華民国河南省新郷陸軍病院にて昭和十四年九月四日に死亡との記載。
    陸軍病院で亡くなっても遺骨は還ら無いものなんですね…とびっくりしました。
    これ以上の情報を調べる為に亡くなった場所と年で調べ、日華事変に行き当たり、またこのサイトに戻って参りました。
    これ以上の情報を調べる為に県庁に連絡してみたいと思います。

    Reply
    1. yama Post author

      からすさま
      異国の地で戦没されたご親族様のご冥福をお祈り申し上げます。
      中国戦線での戦没者は、通常、出来うる限り遺体を収容し、駐地で焼いて慰霊祭を行った後に、同じ兵団の将兵の手によって内地に還送します(遺骨宰領と呼ぶ公用出張)。昭和14年9月ですと、中国戦線ではおおむね侵攻作戦が一段落して占領地警備に移行しておりますし、陸軍病院でお亡くなりになったにも関わらず遺骨還送がなかったというのは、ちょっと考えられません。仮に遺骨が現地埋葬であるならば、よほどの理由があったのかと思います。

      Reply
  21. からす

    お返事ありがとうございます。
    祖父の兄弟は数人おり、内2人が戦死しております。
    『南方で戦死』と聞いていたにも関わらず中国で戦死だったり、もう一人の兄が中国で戦死と聞いていたりとと、2人の兄の情報をごっちゃにしてしまってる可能性があります。
    ですが、お骨の有無に関してはさすがに間違えないのかなと思います。
    身内がなくなるたびに墓を開けて中を見てますから…

    曽祖父の戸籍をとり、そこに記載されている2人の兄の戸籍を見ておりますので中国で戦死と聞いていた兄の方も記載されてたのですが文章があまりに達筆過ぎて解読出来ず…
    こちらもなんとか読み解いて本当は何方でどう亡くなったのか調べてみたいと思います。

    Reply
  22. からす

    大伯父について、県に問い合わせてみましたが
    残されてる資料が一通でどこで亡くなったかと言う一行のみでした。
    戸籍と同じ文面と言う事で取り寄せる事はしませんでした。

    どういった経緯かわかりませんが、陸軍将校の認識票が家にあります。(戦死した方ではなく、頂いたとの事)
    歩五五とあり、これが歩兵第五五連隊だとすると
    大伯父が亡くなった時期には中華民国で広東攻略戦に参加してます。
    こっちの切り口からまた調べてみるみようと思います。

    Reply
  23. 林弘樹

    yamaさん
    初めて書き込みさせて頂きます、映画監督の林弘樹と申します。
    戦争で亡くなった祖父(母方)のことを調べております。
    その中でこのサイトと出会い、何かヒントが掴めればという、藁にもすがる思いで、お聞きしたいことがあります。

    母が産まれたのは、昭和18年10月。
    当時、祖父と祖母は埼玉県大宮の製糸会社の研究所で出会い、母を身ごもりました。
    しかし、その後出兵することになったため、祖父と祖母は籍をいれることなく、生き別れになりました。
    その為、母は私生児として育ち、祖父のことをずっと知りたいと思いながらも、分からないまま亡くなりました。

    今回、いろいろ調べていく中で、祖母から聞いたキーワードは、祖父の名前と産まれ年と出身地です。

    名前は、「ハラハジメ」といい、「大正11年(若しくは、大正12年)」、「長野県出身」です。
    この3つの情報から、祖父の軌跡を辿ることはできるでしょうか。
    できれば、母の悲願であった祖父の墓参りがしたいのですが、せめて祖父の出身市町村だけでも分からないか、
    せめて、祖父の名前を何かどこかの資料で目にするだけでもできないかと思っています。

    さきほども書きましたが、母は私生児のため、戸籍上のつながりのないため、都道府県や厚生労働省での照会はできません。
    一度、靖国神社にも調べてもらっていますが手がかりはつかめず、長野県の護国神社では今、調査依頼中です。

    昨年、長野県庁に問い合わせたところ、『ハラハジメ』での名前で戦没者として存在していることは聞くことができました。

    どうか、アドバイスを頂ければ幸いです。
    よろしくお願い致します。

    林 弘樹・日奈子

    Reply
    1. yama Post author

      林さま
      御祖父様が大正11・12年(1922・1923年)生まれですと、満20歳の現役召集の年が1942・1943年ですから、ちょうどお母様がお生まれになられたという1943年(昭和18年)に符合します。現役兵として太平洋戦争に出征されたことに間違いないと思います。
      このページに書いてあります通り、現役召集は原則として本籍地の郷土部隊に入営し、その後、連隊区が補充担任となっている部隊に送られます。長野の郷土部隊は松本歩兵第五十連隊です。ただ、この頃は本隊は外地にあって留守部隊への入隊で、新設部隊の編成や要員の補充がかなり複雑に行われておりましたことから、御祖父様がどの部隊に配属されたか、また、送られた先でさらに再編成なども考えられますので、今の手元の情報だけで部隊を特定することは非常に難しいと思います。
      県庁に戦没者名としてお名前があるならば、長野県護国神社で祭神として祀られている可能性が高いですので、祭神名簿をもとに戦没日時・場所・部隊名はわかると思います。祭神名簿で分からなければ、県庁に情報開示してもらうしかないかと思います。基本的に個人情報とは死者には該当しませんから、県庁に頼み込んで、遺族に関係しない部分(戦没日時・場所・部隊名)を開示してもらう、もしくはそれらの情報がなければ、せめて除籍謄本が請求可能なように市区町村名だけでも教えてもらう、というのはできないでしょうか?
      最後の方法として、郷土部隊に関係する戦友会誌を手当たり次第に調べる、という方法もあります。戦友会誌には戦没者名簿が掲載されていることが多いです(附録として別冊で配布している例も少なくない)。手始めに、松本連隊(歩兵第五十連隊・歩兵第百五十連隊)及び同連隊が所属した師団(第二十九師団・第五十二師団)に関連するものをお調べになると良いと思います。
      靖国神社偕行文庫に『歩兵第五十聯隊の思い出・完結編』歩兵第五十聯隊史編集委員会・2004年があります。おそらく、これが正式な戦友会誌だと思いますので、まずはこれにあたってみては如何でしょうか?
      このほかに個人で刊行した松本連隊関連の書籍があります。個人の著書に名簿が載っている可能性は低いですが、全くないわけでもなく、以前にご相談いただいた方で、たまたま個人の著書にご遺族のお名前があって、おおよその戦死状況が分かった例もあります。以下は国会図書館で閲覧可能です。
      『長野県郷土部隊の記録 : 松本歩兵第五十聯隊・松本歩兵第百五十聯隊 写真集』郷土出版社 1980年
      『松本陸軍歩兵第五十聯隊史』原康秀 著 好学社 1980年
      『南溟の星 : あ丶松本百五十連隊』立野渥孝 著 柏4656部隊衛生隊戦友会 1975年
      『松本連隊の最後』山本茂実 著 近代史刊行会 1966年
      ご参考になりましたら幸いです。
      このような調べ物は、調べはじめてすぐにお名前が出てきたり、間違ったアドバイスが元で解決したりと、不思議なことも少なからずあります。戦場で亡くなられた御祖父様の供養になると思います。

      Reply
      1. 林弘樹

        yama様
        お返事いただきありがとうございます。頂いた返信をよみ、「おじいちゃんを探す『パワー』がチャージアップ」されました。本当にありがとうございます。
        投稿した、翌日、長野県にいき、長野県立図書館や塩尻図書館で長野県内市町村誌の中にある戦没者名簿から手繰り寄せられないかと調べてみました。
        時間の都合上、すべての市町村誌を確認できたわけではないのですが、長野という場所で、一歩進めた気がしたのと同時に、長期戦になるな~という実感した日々でした。

        yamaさんからのアドバイスをいただきましたので、はじめに国会図書館と靖国神社にいき、そして長野県庁にもいってきます。
        本当にありがとうございました。進展がありましたら報告させてください。
        yamaさんの存在が、「こんなに親切に応援してくださる、見守ってくださる方がいる」との勇気につながっています。
        なんだか「光」がみえてきました。がんばります。

        林 弘樹・日奈子・蔵之道

        Reply
        1. 林弘樹

          yamaさん、こんばんは。はやしです。吉報です!
          yamaさんの助言の通り、長野県庁へ行って「粘り強い」交渉をして、祖父の情報をある程度聞き出すことに成功しました。
          出身が下伊那郡山吹村(現在は、高森町か松川町)。戦没日が、昭和20年6月18日。名前は「原 元(はらはじめ)」。生年月日も大正12年9月28日。
          これ以上の部分に関しては、県庁も戸籍上の明確なつながりの証明がないと無理とのことでした。
          ここまで分かったところで、長野県護国神社の担当の方に話してみました。
          すると、本籍が上水内郡若槻村。部隊は「第139兵站病院 陸軍軍曹」亡くなった場所がビルマ・ルソン島・マウンテン州 バクダン。
          というところまでは教えてくれました!
          これから「第139兵站病院部隊?」の戦友会誌なども調べてみようと思います。
          また、ビルマのルソン島?のことも調べ、祖父のことをより深く知りたいと考えています。
          最終的には、祖父の長野のお墓を探して「お墓参り」し、母の法要の際に報告出来ればと思っています。
          yamaさんの方で、もしビルマの第139兵站病院部隊のことなどで知っていることなどあれば教えてください。

          Reply
          1. yama Post author

            林さま
            御祖父様の消息が判明してよかったですね。
            ルソン島・マウンテン州 バクダンというのはフィリピンです。第139兵站病院は、フィリピンを防衛した陸軍第14方面軍(山下奉文将軍)の所属ですので、フィリピンで間違いありません。
            第139兵站病院は2冊の戦友会誌を出しています。1974年発行の「比島おもいで集:比島派遣第百三十九兵站病院」は、東京九段にある昭和館に、1986年発行の「比島おもいで集:比島派遣第百三十九兵站病院 続編」は、国立国会図書館に所蔵されています。御祖父様についての記載があるかもしれませんので、両冊をご確認ください。

          2. 林弘樹

            yamaさんへ
            こんにちは。林です。
            先日、教えていただいた両冊をみてきました。1974年発行の最後に戦友会名簿があったので、「もしかして!!」と思ったのですが、おじいちゃん「ハラハジメ」の名前はありませんでした。
            「戦友会名簿にないということは、所属部隊が違うのか。それとも抜けている方々もいるのか」。もう少し部隊からの紐解き方を研究してみようと思います。
            今回、名前はみつからなかったのですが、国会図書館で、昭和30年ころの地図から、長野県庁や長野護国神社で、教えてもらった本籍住所のあたりで、「原姓」の方々の位置をゲットしてきました。「親戚かな~。どこかつながったらいいな」と思い。
            実は、長野県庁と護国神社で教えてもらった住所が異なるのです。どちらも本籍と話してくれたのですが。
            県庁では、「長野県下伊奈郡山吹村(現在:下伊那郡高森町or下伊那郡松川町)。護国神社では「長野県上水内郡若槻村(現在:長野市)
            当時で、本籍が異なることもあるのですね。

            なかなかたどり着けませんが、こうやってyamaさんに報告しながら、歩み続けていられるだけでもうれしくおもいます。動いてみることですね。
            報告でした。いつもありがとうございます。

          3. yama Post author

            林さま
            戦友会誌に戦没者名簿はございましたでしょうか?所属部隊が第百三十九兵站病院で間違いなければ、必ずお名前があるはずです(基本的に所属隊員=戦友の記載漏れというのはありません)。もし戦没者名簿にお名前がないということですと、所属部隊は別で、戦傷・罹病で第百三十九兵站病院に収容され、療養中に亡くなった、ということかもしれません。だとすると、ルソン島北部の部隊(尚武集団)のいずれかの所属ということになりますが、探すべき部隊が多すぎて、相当に厳しいかと思います。なお、御祖父様が亡くなられたルソン島北部の様子については、山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』がお勧めです。

          4. 林弘樹

            yamaさんへ
            あれから、あきらめずに、祖父の調査しております。
            先日、県庁でゲットできた情報は、「戦没日の記載がない」とのことでした。これはどういうことだろうと気になりながら、教えてもらった、「長野県山吹村(現・松川町or高森町)に行ってきました。
            人から人へつながり、資料館の館長に調べていただいたところ、1.原元(ハラハジメ)は戦没者名簿になかった 2.集落の年配の方に聞き取り調査をしたら、該当する方がいた 3.その人は戦争にいっていなくて、憲兵だった、4.20年くらい前にすでになくなった と話してくれたそうです。

            生きていた可能性がでてきたのですが、yamaさんにお尋ねしたいのは、「憲兵」というのはどのような方が配属されたのでしょうか?戦地にいかなったということは、徴兵検査で落ちた方とかでしょうか?また、「憲兵」は軍歴になりますか? 所属部隊のような名簿とかはあるのでしょうか?

            「憲兵」という仕事がどんなものなかのか「軍隊の警察」というようなイメージはつくのですが、よくわからないので、教えていただければと思います。

          5. yama Post author

            林様
            多忙につき、ご返事遅くなりましたこと、お詫び申し上げます。
            護国神社と県庁の方は同姓同名の別人のようですね。
            おたずねの憲兵というのは仰る通り、陸軍の警察組織ですが、戦前は陸軍内だけでなく、民間や海軍など、およそすべての組織・人に対して捜査権を有していました。これはフランスに倣ったもので、フランスでは今も同様です(いわゆる警察と憲兵が担当区域を分けている)。戦前日本の場合は、憲兵は警察よりも権限が大きく(警察は軍に対して捜査権を持たない)、任務も治安警察的(思想弾圧)でしたので、畏怖の対象でした。
            憲兵は、陸軍の軍人・兵隊から抜擢されます。警察官で徴兵された人が配属されることもあります。負傷で身体に不自由があり、兵科(歩兵・騎兵・砲兵など)では勤務が厳しい場合に憲兵になることもあります(転科と言います)。基本的には、成績・勤務優秀で、家庭環境にも問題がない人が選ばれました。勤務期間は当然軍歴に含まれます。
            憲兵隊は、国内での管区毎に、外地・占領地等では軍管区に応じて憲兵司令部が設置され、その下に各憲兵隊が属します。各隊別の戦友会もありますが、全国組織としての全国憲友会連合会から『全国憲友名簿』が出ています。もしかしたら御祖父様のお名前の記載があるかもしれません。同書は東京目黒の防衛研究所に蔵書されているようです。また、ネットで検索すると古書店にもあるようです。
            ご参考になりましたら幸いです。

  24. 田畑

    こんばんは、初めまして。田畑と申します。
    私の祖父について情報が得られればと思いコメント致します。
    祖父については下記より多少詳しい情報(名前、本籍地、狙撃された日・死亡日)をもっており、
    お手数ですがメールを頂ければ幸いです。(yama様のメールアドレスがわかりませんでした)
    なお、私は東京都北区在住のサラリーマンです。

    ◎祖父について
    昭和12年8月、赤紙にて招集。陸軍第百九師団(石川)。
    昭和13年5月に山西省で狙撃され、山西省忻県の第百九師団第壱野戦病院にて戦死。
    遺骨はどなたかに本籍地(=出兵前の住所、石川県羽咋郡)まで持ってきて頂けたそうです。

    ◎知りたい情報
    ・歩兵、騎兵、工兵等のどれで、第何連隊か
    ・どのような作戦(警備?)で狙撃されたのか
    ・狙撃したのは八路軍か
    ・遺骨を誰に持ってきてもらったのか

    Reply
    1. yama

      田畑さま
      遠い異国の地で戦没された御祖父様のご冥福をお祈り申し上げます。
      御祖父様の亡くなられた忻県というのは、当時「忻口鎮」とも呼ばれた場所で、現在の「忻州市」です。下記のGoogle Mapに場所を赤色のバルーンでポイントしました。
      https://www.google.com/maps/d/edit?mid=zxt0nhwSJeMA.k9PJ8WRjsyQs&usp=sharing
      バルーンをクリックいただくと、当時の第百九師団が作成した公文書に記載の配置要図が表示されます。赤枠の「忻口鎮」というのがバルーンの位置に当たります。
      この配置要図は、ご紹介している「第百九師団長状況報告」に収録されているもので、1939年(昭和14年)1月下旬時点のものです。田畑さまの御祖父様が亡くなられて半年後になります。その間に部隊の配置転換等があった可能性はありますが、まずはこれを手がかりにする以外にありません。
      配置要図の横に記載の「中井警備隊」というのが、忻県を含む一帯を担当していた部隊です。そこに配属部隊が符号で記載されています。
      III/69i…歩兵第六十九連隊第三大隊
      107i…歩兵第百七連隊
      9.10/136i…歩兵第百三十六連隊第九中隊・第十中隊
      II/9D(?)…第九師団?抽出の第二大隊?
      III/14D…第十四師団抽出の第三大隊?
      1/4LPW…不明
      S.III/109BA…山砲兵第百九連隊第三大隊
      3/6SA…野戦重砲兵第三中隊
      1/4・1/109P…工兵第百九連隊の一部
      このうち、歩兵第百七連隊は金沢の部隊ですので、本籍が石川県の御祖父様が配属されていた可能性が高いと思います。
      そこで、歩兵第百七連隊について記載のある『金城聯隊史』を参照したところ、忻県警備の部隊は、同連隊の第一・第二大隊ほかとなっておりました。
      また、御祖父様が亡くなられた1938年(昭和13年)5月頃は、北部山西省粛正作戦が行われており、敵は共産軍だったようです。
      今のところ分かるのはこれぐらいですが、1973年に石川県庁が『石川県将士の記録』という戦没者名簿を記載した資料をまとめていることが分かりました。どのような内容か分かりませんが、国会図書館を含めて関東近辺に所蔵はないようでしたので、いま古書店から取り寄せています。届きましたら確認してみますので、メールで御祖父様のお名前と狙撃日をお知らせください。なお、当時の陸軍の官職名には兵科が記されていました(「陸軍歩兵上等兵」といった具合)。もし、官職名も分かるならばそれもご連絡ください。戦死報告の報告者名(=部隊長名)があれば、それもお願いします。メールアドレスは、shanxi(アットマーク)nekoyamada.comです。

      Reply
      1. yama

        田畑さま
        古書店から届きました資料をめくってみましたところ、御祖父様のお名前がございました。歩兵第百七連隊のご所属でした。第一大隊・第二大隊・機関銃中隊・歩兵砲中隊のいずれかですので、歩兵と考えて良いと思います。後ほどメールで御祖父様のお名前が記された箇所の頁をお送りします。
        『金城聯隊史』に掲載の図(368頁)によりますと、御祖父様が亡くなられた日に、兵力五百の敵が忻県周辺の日本軍守備隊を攻撃したようです。その日付は5/13-14となっていますので、御祖父様が戦死された日と符合します。おそらく敵の襲撃当日に狙撃を受け、すぐに忻県の野戦病院に搬送されたが、手当の甲斐無く亡くなられたということでしょう。
        第百七連隊については、『金城聯隊史』354~400頁をご覧ください。同書は国会図書館に所蔵されています。

        Reply
        1. 田畑

          田畑です。お世話になっております。ご丁寧なご回答ありがとうございました。

          『石川県将士の記録』の記載内容、承知いたしました。歩兵第百七連隊とのことで、歩兵とわかりました。
          『金城聯隊史』についてもご教示ありがとうございます。近いうちに読んでみたいと思います。また、石川県庁に軍歴照会したいと思います。

          祖父の戸籍謄本を取ってみたところ、山西省崞縣田家庄付近の戦闘で狙撃された、とありました。
          この、田家庄を調べてみたのですが、どこかわかりません。崞縣が現在の 山西省 忻州市 原平市 であることはわかったのですが。
          「田家庄」がどこか、おわかりになりますでしょうか?

          Google検索したところ、下記サイトがヒットしました。彼らが祖父と戦った共産軍の兵士のようです。「山西崞縣田家庄戰斗」の文字列が共通しています。
          http://sn.people.com.cn/BIG5/n/2015/0804/c226647-25835698.html
          http://dangshi.people.com.cn/BIG5/165617/165618/166491/167909/12277722.html

          Reply
          1. yama

            田畑さま
            戸籍謄本記載の戦没地が正しければ(基本的には正しいです)、リンクを貼っていただいた「山西崞縣田家庄戰斗」というのは、おそらく、御祖父様が当時戦った相手で間違いないと思います。中国では、公式に正しい歴史は語られませんが、現場レベルでの話はそこそこ正確で、個別の小さな戦闘でも日本側と中国側で内容が一致することは稀にあります(ただし、双方ともに“勝ち戦だった”と主張しますが)。その稀な例と思います。
            なお、メールにございました件、二階級特進であれば、金鶏勲章の対象となっているはずです。また、加納部隊というのは、独立混成第三旅団の部隊ですので、御祖父様の部隊とは異なります。まずは『金城聯隊史』を確認されるとよいでしょう。

  25. 桜華

    7月初旬に書き込みさせて頂きました桜華です。
    無事、厚生労働省より祖父の軍歴証明書を頂く事が出来ました。
    詳しく軍歴証明書の取り寄せ方等を教えて下さったyama様に心から御礼申し上げます。
    祖父は昭和9年に海軍に志願し水兵となり大東亜戦争開戦前の昭和11年に木更津航空隊 第十一航空隊に所属し海軍第二等航空兵曹を経た後、水雷学校を卒業し昭和15年に美幌航空隊にて海軍整備兵曹長となり、昭和18年2月19日 第一五魚雷調整班隊、昭和19年8月1日に最終従軍部隊となる海軍第995航空隊に所属しフィリピンに行き、20年3月1日に比島プエルトプリンセナで戦死したとの事でした。
    大まかな事は分かったのですが、より詳しく調べるには、何で調べるのが宜しいのかが分からず、御報告を兼ねて書き込みさせて頂きました。
    軍歴証明書を持参し、靖國神社を尋ねれば教えて頂く事は出来るのでしょうか?
    もし、教えて頂けるのなら靖國神社に足を運ぼうと考えております。
    お時間の有る時にでも、お返事頂けましたら幸いです。
    ただ一つ思う事は、元パイロットとして、整備士として、比島から飛び立つ若き特攻隊員を見送る事は、とても辛かったろうと思います。
    殆どの戦闘機が破壊された後、還って来るチャンスも有ったと思いますが…他国に残り、残す妻子を想い、斬り込み特攻にて散華したかを考えると…やはり写真でしか知らない祖父の事でも涙が流れます。
    余計な話をしてしまい、すみませんでした。
    では、宜しくお願い致します。

    Reply
    1. yama Post author

      桜華さま
      御祖父様の軍歴が判明してよかったですね。
      戦没地の「プエルトプリンセナ」は、正しくは「プエルトプリンセサ」で、場所はフィリピン南西の北ボルネオとの間にあるパラワン島中部にある町です。「海軍第995航空隊」というのが「第955航空隊」であればつじつまが合います。パラワン島には米軍が上陸し、陸軍と海軍の守備隊が迎え撃ちましたが、玉砕しております。下記のサイトによりますと、3月1日を最後に全滅し、1人の生還者もいなかったとのことです。「玉砕」と申しましても、通例は若干名の生き残りがいるものですが、全員戦死というのはちょっと大変なことかと思います。
      http://goo.gl/Vd3jkz
      なお、航空兵として教育を受けた木更津航空隊や水雷学校の卒業年度をもとに、それらの戦友会誌や回想録などをご覧になれば、もしかしたら、在隊・在校時に御祖父様と親交のあった方がなんらかの記述を残しているかもしれません。生前の御祖父様の人となりを知ることができるかもしれません。
      ご参考になりましたら幸いです。

      Reply
  26. 桜華

    早速の御返答有難う御座います。
    部隊名を書き間違えてました(汗)
    yama様のおっしゃる通り、海軍第九五五航空隊です。
    詳しい場所迄、調べて頂き本当にありがとうございます。
    実は私が中3の時に父と父の妹2人と祖母は戦友会の方から招待を受け、一度フィリピンを訪れておりまして、その時に『南十字星の丘に眠る』と言うタイトルの本を頂いて来ました。
    そこには部隊の活動や祖父の行動も詳しく日付毎に書かれており当時中3の私なりに必死に読んだのですが途中、祖父の沢山の弟妹家族に貸してから本の行方が分からなくなってしまったのです。
    しかし、先日叔母に連絡を取り、話を聞いたら叔母達も本を頂き、その本を持っているとの事なので、自分で調べても分かり切れない事が有った時は叔母から本をお借りして、今度は確りと祖父の事を知りたいと想います。
    本当に色々と力を貸して下さり、yama様、有難う御座いました。

    Reply
  27. 山田

    私のおじいちゃんの兄にあたる本橋竹次郎さんについて分かることはないかと調べております。私のおじいちゃんは本橋音吉です。なぜ知りたいかといいますと、子供の頃から静岡県護国神社の慰霊祭に出向いており戦後70年とゆう節目を迎え語り手の減少とゆう事と法律改正での悲劇を繰り返しそうな財政とゆう環境でふと思ったのと、おじいちゃんが脳梗塞で倒れ亡くなる前に真実をと思いましてコメントいたします。
    名:本橋竹次郎  享年23歳
    所:静岡県榛原郡吉田村
    今の所これだけしか情報がありません。祖父から昔聞いたのは中国で戦死したとの事です。お墓の文字は擦り切れているためによくわかりません。
    ほかに情報ありましたらどうぞよろしくお願いします。

    Reply
  28. 藤本

    初めまして。藤本と申します。
    私の祖父について調べたく、特に亡くなった時の状況が判れば嬉しく思います。
    私の父が最近亡くなり、戸籍謄本やいろいろな遺品を整理しておりました。そうしたところ、祖父は昭和20年8月19日に亡くなっておりました。死因は自決です。日本に妻と3人の子供を残し亡くならなければいけなかった祖父の気持ちを思うといたたまれません。
    父より祖父については詳しい話はあまり聞いてなく、最後は定かではありませんがロシアとの降伏調印立ち会い後自決したようなことを言っておりました。
    どの様な身分で最後はどの様な状況であったかがもし判れば嬉しいです。どこで調べれば一番細かい所まで判るか知りたいです。
    私は会社員で平日なかなか休みが取れません。それでも有休を取って国立国会図書館には行こうと思っています。
    祖父の情報(戸籍謄本より)
    藤本博
    生年月日 明治35年4月23日
    没年月日 昭和20年8月19日
    死去地 満州国三江省方正縣方正街
    宜しくお願い致します。

    Reply
    1. yama Post author

      藤本さま
      御祖父様・お父様のご冥福をお祈り申し上げます。
      三江省方正縣というのは、現在のハルビン市に位置します。終戦時は、ソ連軍が侵攻し、開拓地での集団自決や残留孤児の発生、在留邦人への掠奪・暴行、武装解除後の軍人の抑留が発生しました。当方の祖父母(母方)は満鉄勤務で、終戦半年前に牡丹江から奉天へ転勤により九死に一生を得たと常々申しておりましたので、たいへん悲惨な時に自決された御祖父様の心境いかばかりか、また、終戦後の混乱期に働き手を失った御祖母様のご苦労、察するにあまりあります。
      御祖父様の事跡をたどるには、本文にもございます通り、まずは軍歴照会により、所属部隊を確定させることが第一になります。その後に戦友会誌等にあたることになるかと思います。なお、降伏調印式に列席ということと年齢を考慮しますと、高位の幹部だった可能性がありますので、終戦時の満州を題材にした書籍等にお名前がある可能性があります。また、お亡くなりになっていますので、靖国神社や本籍地の護国神社に祭神として祀られている可能性が高いですから、靖国神社や護国神社に問い合わせてみるのも良いかと思います。
      軍人ではなく、民間人(満州国の官吏等)の場合はこの方法は使えません。国会図書館のデジタルアーカイブに満州国官吏録というのがありますので、そこにお名前があるか確認する、または除籍謄本記載の死亡報告者名や三江省・方正県関連の資料等を丹念に探す以外にないかと思います。
      取り急ぎご返事申し上げます。
      yama

      Reply
  29. 藤本

    yama様
    朝投稿したのに素早いご回答誠にありがとうございます。
    実は本日仕事を午後休にし、靖国神社と国会図書館に行って参りました。
    靖国神社では参集殿で戸籍謄本に書いてあった氏名没年場所等内容を記入しましたところ、5、6分くらいで最後の部隊が書いてあるB5の回答書を頂きました。
    所属部隊は第134師団司令部、陸軍中佐でした。すぐ裏手の偕光文庫で資料を調べたかったのですが、残念ながら月木が休館日でした。
    その後国会図書館に出向き、憲政資料室や議会官庁資料室のカウンターで聞きましたが、軍歴証明の取り方と会誌の一覧の冊子の案内しかなく、134師団の会誌がなく自分で四時間程端末機でいろいろ検索しましたが、所属部隊階級氏名等でヒットする資料は出てきませんでした。
    祖母や父から階級すら聞いておりませんでしたし、ロシア降伏調印後に自室に戻り自決としか聞いておりませんでしたので話が美化されているかもしれませんね。
    それでも部隊が判っただけでも血の繋がった祖父に一歩近づけ終戦70年の節目に祖父のことを知ることは供養になると思っております。
    軍歴証明も山口県福祉課に取り寄せしようかと思いますが遠方にて戸籍謄本や自分の戸籍謄本等も用意して郵送するので時間がかかりそうです。
    偕光文庫にもう一度行き名簿に祖父の名前でも見つけられたら嬉しく思います。
    ハルピン市のことなども教えて下さりありがとうございます。大変参考になりました。

    Reply
    1. yama Post author

      藤本さま
      御祖父様が自決された時の経緯について書かれたサイトがありました。中山隆志『ソ連軍侵攻と日本軍』国書刊行会・1990年に記述があるとのことですので、ご覧になってみてください。同書の奥付で引用元があればそれにあたっていただき、なければ中山先生にお手紙で直接お聞きするのもよいかと思います(元防衛研究所の方なので、同所宛にお送りすれば転送いただけると思います)。また、第百三十四師団関係の資料は、偕行文庫にも『富錦回顧録』しかないようです。軍歴証明を取得できれば、御祖父様のおおよそのキャリアが分かると思いますので、師団編成前の部隊資料を閲覧することで、生前のお姿の一端が分かるかも知れません。

      Reply
  30. 藤本

    Yama様
    「ソ連軍侵攻と日本軍」の本のことをご紹介いただき誠にありがとうございました。
    早速ネットで中古本でしたが手に入れることができました。
    まさに祖父の最後の時期の本であり、名前と共に最後の経緯がこと細やかに載っており涙が止まりませんでした。
    でも70年の時を経て知ることが出来、本当にyama様に感謝しております。
    やはり父に聞いていた調印時ではなく、軍使として依蘭で直接ソ連との停戦交渉に当たった祖父は、指導上の責任を感じ司令部に帰省後自決を遂げたとありました。
    関東軍第一方面軍の参謀であったようですのでその類いの文献をもう少し当たってみようかと思います。
    また偕光文庫でも士官学校の會誌に祖父のことを書いてくれた同期の方の文章もあり、人となりもうかがい知ることが出来ました。
    軍歴証明も取り寄せ中です。沢山の文献を読んでいるうちに太平洋戦争について改めて勉強し直しているようで更に深く知りたくなりました。もう少しいろいろな文献を当たろうかと思っております。
    70年前に亡くなった祖父のことがここまで判るとは思っていなかったので感慨深いです。今後も孫娘として更に供養し、このことを私の子供達にも伝えていきたいと思っております。
    祖父のことを探す手立てをたくさん教えて下さったyama様、職業等わかりませんがお忙しい中の素早いご回答本当にありがとうございました。

    Reply
  31. 古川

    はじめまして。古川と申します。
    祖父の兄が戦死しており、詳細不明、遺骨も戻ってきていないため調べ様と、このHPを参考にさせて頂き、現在、厚生労働省に軍歴照会しております。
    非常に参考になりました。ありがとうございました。
    必要書類を揃えようと、戸籍取得したところ、祖父の弟も満州で亡くなっている事が判明致しました。
    祖父の兄に関しては、佐世保海軍人事部長が届出しており、「南シナ海沖にて戦死」と明記されてあったので、調査開始することができたのですが
    祖父の弟に関しては、「昭和20年3月30日、午前7時、満州国東満總省牡丹江市中区日照街10号に於いて死亡、戸主○○(祖父の父親)届出、同年9月10日受付」と
    記載があるのみでした。大正13年3月25日生まれなので、22歳で亡くなっている様です。
    年齢若くして亡くなっているので、軍人として満州に渡り亡くなっているのではないか?と思うのですが、所属部隊も分からず「戦死」の記載もありません。
    足ががりが無く、どこへ調査依頼をしていいのか、さっぱり分からず、お力をお借りできないかと思い、ご連絡させて頂きました。
    満州からの引き上げ開始前に亡くなっているので、捕虜として亡くなったのかも??とも思っていますが
    亡くなった住所が明記されているので、病死では?とも思っています。
    いかんせん、知識が無く・・・・当時の満州がどのような状態であったのかも分かりません。
    出身は、香川県大川郡大内町(現、香川県東かがわ市)です。
    何卒、お知恵を拝借できれば幸いです。
    お忙しいとは思いますが、よろしくお願い致します。

    Reply
    1. yama Post author

      古川さま
      ご返事が遅くなりまして失礼いたしました。
      除籍謄本の記載からしますと、大叔父(弟)様は兵役中に亡くなったのではなく、満州国の一市民として亡くなったようですね。
      牡丹江には当時、多くの邦人が居住しておりました。私の祖父母は満鉄勤めで、ちょうど大叔父様が亡くなられた頃まで牡丹江に勤務しておりました(終戦前に奉天へ転勤)。
      どのようなお仕事に携わっていたか、満鉄だけでなく、満州国の官吏や自治体職員・会社勤め・開拓団など、様々な可能性があります。戦後に存命で帰国されている場合には、引揚証明書に前職が記されていたり、戦後の年金記録などでどのような仕事が分かりますが、終戦前にお亡くなりになっている場合は、ちょっと調べる方法がわかりません。もしかしたら、現地の新聞等の訃報欄などにお名前があるかもしれません。
      手っ取り早く調べられるのは、数年前からゆまに書房から復刻出版されている朝日新聞外地版ですが、訃報欄はなかったように思います。3月だと海上輸送が困難になってきており、当時の新聞や雑誌類は原紙として国内に運び込まれる量が減ってきますから、国内での所蔵は少ないと思います。考えられる所蔵先は、東大・京大あたりだと思います。ご参考になりましたら幸いです。

      Reply
      1. 古川

        yama様
        お忙しい中、早速のご回答、ありがとうございました。
        身内でも、日照街で亡くなっているので戦死では無いのでは?との意見もあったのですが
        戦死かも?との意見も根強く・・・・。
        有識者のご意見頂け、親族一同、当時の渡海状況や、紙が原資として国内に入ってこなっかったことなど
        調べる事が困難である事が納得できました。
        唯一、祖父の一番下の弟(亡くなった弟の弟)が、現存しておりますが
        痴呆がかなり進んでおり支離滅裂で状態すが、親族力合わせて戦争の記憶を喋った事を記録していく事になりました。

        このHPが無ければ祖父の兄も弟も調べる事ができませんでした。
        本当にありがとうございました!

        Reply
    2. 小原

      はじめまして、先祖のことを調べていてこのサイトにたどりつきました。ここで質問をされている「藤本」さんという方が私の親戚であることがわかり驚いています。御祖父様が終戦時に満州依蘭で自決なさったという方です。この藤本博中佐の実父は山口県徳山出身(現周南市)の徳山藩士で私の血縁です。サイト管理人様、もし可能ならこの「藤本」さんと連絡をとることは可能でしょうか。アドレス等教えていただくことはできないでしょうか?ここで詳しい話をしてもよいのですが、本サイトとは筋違いかと思われますので差し控えます。

      Reply
  32. 小原

    yama様
    藤本中佐の件です。橋渡しありがとうございました、思わぬところで遠いながらも血の繋がった親戚と連絡をとることができました。
    ちなみに藤本中佐の祖父が私の高祖父と兄弟です。やはり近い先祖でも供養しようという気持ちが、めぐり合わせてくれたのかもしれません。
    本当にありがとうございました。

    Reply
  33. 松村 力

    現在、マレーシアに住む松村力と申します。
    既に他界した父が、生前関東軍で終戦まで中国にいた様です。
    山西省にも居た話が記憶にあります。陸軍航空隊のパイロットで静岡出身の職業軍人だった様です。名前は、松村 和郎。 生まれは大正の最後の年です。戦歴等に関し何かわかるでしょうか? 漠然としたお伺いで恐縮です。

    Reply
    1. yama Post author

      松村様
      大正末年のお生まれですと、終戦時に二十歳ですし、職業軍人ということですから、おそらく終戦の数年前に少年飛行兵として航空兵になられた可能性が高いと思います。
      満州からは、山西省を含む中国北部に越境南下して作戦を行う機会は多いので、どの部隊に所属していたのか特定は難しいと思います。ただ、最年少の少年飛行兵として入隊されたとしても、昭和18年~昭和20年頃に限られるはずですので、その時期の満州・北支の飛行隊について調べられると良いと思います。
      手始めに、戦史叢書の巻53『満州方面陸軍航空作戦』巻74『中国方面陸軍航空作戦』をご覧いただき、満州にあった飛行隊のうち、昭和18年~昭和20年頃に山西省へ進出している部隊を特定してください。その後、防衛研究所や靖国偕行文庫等にその部隊の戦友会誌がないかを調べるのが定石になります。

      Reply
  34. 陸軍特別航空隊

    はじめまして。
    yama様が、いろいろ詳しくご存知のようなので、長年放置状態になっていました父のことがわかればと思い、メールしました。
    父は陸軍特別航空隊第15期生で、最後は知覧から特攻隊でとんで撃ち落とされ、病院で次の出撃待ちで、終戦をむかえ、生きておりますが、父の名前が何処にも無いのです。病院は空襲で焼けてしまったとか。
    間違いなく戦争に行っており、戦時中の功績から天皇から勲章もらえましたもらっております。
    父は、県担当者に隊長の証明が無いと証明されないと言われた。と、あまり触れませんが、そうとう悔しかったのがわかります。
    隊長も仲間もみんな死んでいるのに、隊長の証明とか、そもそもずさんな記録のせいでしよう。
    知覧にも、名前がありません。
    飛び立つ時、一人ひとり写真を撮ったとのことで、後々、そのとき世話係だった女学生が写真のコピーをくれましたから、写真を見に行こうとしていた矢先、桜島の噴火。88歳で、何度か肺炎を起こしており、最近めっきり弱くなり、緊急の課題です。
    何か、良い方法があれば、是非教えて頂きたくメールしました。

    Reply
  35. ひな

    こんばんは。
    山西省と書いてありハッとしました。
    曽祖父がそこで戦死した記録が軍人手帳に残っております。
    遺品も数点帰ってきております。
    靖国にも記録が残っておりましたが
    これ以上の情報収集は出来るのでしょうか。
    曽祖父の写真も残っておりなんだか分かりませんが
    悲しいのか嬉しいのか涙が出てきそうになりました。

    Reply
    1. yama Post author

      ひな様
      こんにちは。軍人手帳があれば、よほどの事がない限り、当時の様子を知ることは可能です。所属部隊から戦友会誌などをたどることができますので。
      差し付けなければメールで記載内容をお送りください。

      Reply
  36. よしろー

    はじめまして。軍歴証明でたどりつきました!大叔父の事で4親等は、、と諦めていたのですが、勇気をもって問い合わせてみました。
    残念なことに昭和12年と戦死時期が早いため管理外との事でした。ただ勢いで厚生労働省に相談したところ陸軍も管理しているものがあるので、
    必要書類を用意してくれれば調査してみますとのご回答をいただきました。問題は大叔父の戸籍?除籍?謄本を役所が出してくれるかですね。。
    取り敢えずやれるだけはやってみます!ありがとうございました。
    あとお訊ね致しましたところ、靖国さんには御祭りして頂いてるようで、
    早速、奉賛会に加えて頂き、祭神之記もお願い致しました!
    今現在まで大叔父について判っている事は、習志野の陸軍歩兵学校から第77連隊に入隊後、
    平壌から出兵、昭和12年10月19日山西省の西~(さんずいに草冠?門構えの中に?これも記憶が曖昧)で戦死という事です。
    墓碑には始点、通過点、戦死地名や死亡原因まで詳しく書かれているのですが、読めない部分が多くて、、お恥かしい限りです。
    また進展があればご報告いたします!ではありがとうございました。

    Reply
    1. yama Post author

      よしろーさま
      大叔父様は、朝鮮第二十師団(川岸兵団)の一員として、事変初期に派兵され、現在の河北省井徑附近の戦闘で亡くなられたのだと思います。山西省は、北と東で守りを固めており、東の要衝が娘子関です。井徑は娘子関の前哨にあたる場所です。いわゆる激戦地です。以下に概要を紹介しています。
      http://shanxi.nekoyamada.com/?p=46

      下記は井徑附近の写真です。数百メートルの高低差のある地隙が連続する山岳地帯です。
      http://shanxi.nekoyamada.com/?p=99
      http://shanxi.nekoyamada.com/?p=115
      http://shanxi.nekoyamada.com/?p=116

      当時の戦闘経過については、第二十師団と第一軍の資料が残っていますので、地名が分かれば、おおよそ大叔父様の戦没場所・戦闘状況が分かると思います。本当は戦友会誌があると、当時の状況を生き生きと知ることができるのですが、残念ながら、第七十七連隊については、戦友会誌が編纂されていないようです。同じ朝鮮の他の連隊(78i/79i/80i)は戦後に戦友会誌が編纂されているのに、77連隊だけは編纂されていないのは悲しいことです。
      防衛研究所戦史研究センターには、77連隊に関する史料が2点ありますが、おそらく略記のみで、たいした情報は得られないでしょう。
      入手できた資料で地名部分を写真に撮ってメールで送っていただければ地図と照らし合わせてみます。

      Reply
  37. よしろー

    詳しいお話、画像ありがとうございます!
    無事必要書類揃いまして、昨夕に厚生省に送らせてもらいました。
    謄本には
    中華民国山西省平定県 旧?関
    西南方高地付近の戦闘において戦死。
    歩兵77連隊補充隊長斎藤正彦報告
    仝年12月2日更附
    と、書いてありました。
    旧関は縦書きに書いてありまして、旧に見えるだけで関の上の何らかな冠で、一つの漢字なのかも知れません、、
    謄本より墓碑に刻まれた情報の方が、詳しく書かれております。何とか読める様がんばります!
    戦死状況は子供のころに兄である祖父より、敵兵の投げてきた手榴弾を投げ返そうとした時に爆発したと聞かされました。
    墓碑にも 左肩爆創により~と書かれており、左利きやったんやーと、子供のころ考えたのを今思い出しました!
    厚生省の方になんとか情報が残ってる事を祈るばかりです・・

    Reply
  38. 不破未知子

    はじめまして。
    満州で亡くなった祖父の家族を 調べたくサーチをしていたところ、こちらのサイトに辿り着きました。
    彼の名前は松原勇、石川県出身とのことで私の祖母、不破美智枝と満州で結婚しました。私の父、不破忠良は満州生まれで5歳ほどの時に佐世保へ引き返したそうです。
    祖母の父、不破勇は満州で旅館を経営していたそうです。祖父は結婚後、不破の苗字に変更したと聞きました。不破勇と祖父、松原勇は石川県での知り合いだという事です。
    祖母、不破美智枝は帰国後、再婚され柴田美智枝となり福岡在住ですが満州時代の記憶が薄く書類も無く、あるのは松原勇の写真と石川県出身と言う情報だけです。
    後もうひとつ、父が保持する不破勇の写真に石川県のある墓地で不破家先祖代々墓の前で撮った写真があります。かなりりっぱなお墓で住職さん二人と不破勇と祖母、不破美智枝が一緒に写っていたと思います。この場所もできれば見つけたいです。
    この探索をどこからスタートすれば良いのか教えて頂けないでしょうか。
    不破未知子

    Reply
  39. 龍人

    yama様、はじめまして。
    曽祖母の兄の軍歴について調べているうちに
    当サイトに辿り着きました。
    現在高校生ですが、
    曽祖母が生きている間に
    少しでも曽祖母の兄の事を
    教えてあげたいと思った次第です。
    先日、県庁から軍歴証明書を取り寄せたところ
    (詳しい資料がありません
    申し訳ございませんがご了承ください)
    との書類が届きました。
    その書類には
    『第20師団衛生隊 陸軍上等兵
    死亡年月日 昭和13年4月16日
    死亡場所 中国山西省和川鎭附近』
    とだけ書いてありました。
    出来ればもう少し掘り下げて
    知りたいと思っています。
    曽祖母の兄は衛生兵で、
    戦線で倒れた戦友を助けに行ったところを
    爆撃にあい亡くなったと聞いています。
    この頃(昭和13年)の山西省は
    どのような状況下にあったのでしょうか?
    また、もしその他にお分かりになることが
    ございましたら教えていただきたいです。

    拙い文章ではありますが、
    何卒、よろしくお願いします。

    Reply
    1. yama Post author

      龍人様

      山西省和川鎮というのは、下記のGoogle Mapsでポイントした場所です。現在の地名は、山西省臨汾市安澤県和川鎮です。
      https://goo.gl/maps/HNojeku1jF22

      昭和13年4月の情勢ですが、前年末に山西省の北半分を占領した日本軍(北支那方面軍第一軍。第二十師団も含まれます)は、年明けから山西省内を徐々に南下して、省内全域から敵(国民政府軍や共産軍)を駆逐するために作戦を行っていた時期にあたります。各地で激戦が繰り広げられました。同じ第二十師団の歩兵第七十九連隊が、南の聞喜城死守で世に聞こえたのは、大伯父様が亡くなられた一ヶ月後の同年5月です。

      大伯父様の所属部隊は分かりませんが、おそらく、下記のアジア歴史資料センターにある資料が大伯父様の亡くなられた戦闘を記録したものかと思います。

      「支隊は帰還の途中十五日和川鎮附近に於て堅固に陣地を占領せる敵を攻撃し、安澤守備隊より派遣せる一部と共に十六日之を撃退せり」
      (レファレンスコードC11110983200、37ページ目)

      上記にある“支隊”とは、第二十師団歩兵第七十七連隊の一個大隊です。“安澤守備隊”は詳細不明ですが、おそらく同じ歩兵第七十七連隊の部隊だと考えます。大伯父様は、歩兵第七十七連隊に所属される衛生兵だった可能性が高いと考えます。

      臨汾に進出した第二十師団は、歩兵第七十七連隊を主力とした部隊で、4/2に臨汾出発、東の安澤に向かって敵を駆逐します。4/4に敵1000を撃破して同地の占領。そこで主力を残して、一個大隊の支隊を編成してさらに東の敵を駆逐したのち、帰還途上の4/15に和川鎮附近で敵に遭遇し、安澤守備隊からの応援を得て、(翌日ということなので一昼夜に及んだ戦闘で)敵を撃退した。大伯父様は、おそらくその戦闘中に亡くなられたのだと思います。

      なお、戦没者は靖国神社に祀られますので、祭神名票には正確な所属部隊が書かれていると思います。「真野部隊」と書かれていれば、歩兵第七十七連隊です。

      Reply
  40. 清美

    yama様
    はじめまして、母の兄の軍歴証明を調べて
    このサイトにたどり着きました。
    叔父は軍人でないため、詳しい事がわかりません。
    戸籍に比島ルソン島マニラ市戦死
    昭和5年2月22日生まれ
    広島県尾道市

    軍属届けが残っていて
    身分 船員
    比島派遣暁第2944部隊
    威第16748部隊 小田隊
    昭和19年12月22日受領しこの通信にて承知す

    死亡時の所属部隊
    海上輸送第9大隊
    死亡年 昭和20年22日

    この情報から
    叔父の事が判る
    資料は何を調べたら良いでしょうか?
    よろしくお願いします。

    県立図書館に行って見ようと
    思います。

    Reply
    1. yama Post author

      清美様

      各国ともに戦時は民間船舶を徴用して輸送船団を組織し、敵地に上陸させる兵員物資を輸送します。“比島派遣暁第2944部隊”にある「暁」部隊というのは、このような陸軍の船舶部隊です。下記に簡単な解説があります。
      https://goo.gl/W3me7o

      亡くなられた叔父様は、乗務していた船ごと徴用を受けて、輸送部隊の一員として勤務されていたと思います。“威第16748部隊”というのは“海上輸送第九大隊”のことです(秘匿名称という)。“小田隊”というのは部隊長の名前です。おそらく、下記のアジア歴史資料センターにある陣中日誌が、叔父様がいらっしゃった小田隊の資料だと思います。部隊長の名前は「小田二郎中尉」です。第九大隊の資料は、この第七中隊のものしかありませんので、正直な感想として、すごいと思います。
      https://goo.gl/xkZJWl

      ただ、残念ながら、この資料に出てくる氏名は、軍人だけで、叔父様をはじめとする船員の方のお名前は出てきません。酷なようですが、軍人と一般人は、たとえ徴用・軍属であっても、明確な区別がされていました。

      叔父様は最終的には昭和20年2月~3月のフィリピンのルソン島マニラの防衛戦で、亡くなられたと思います。マニラ防衛戦については下記に解説があります。
      https://goo.gl/U8vHy2

      以上が当方がわかる範囲での回答になります。なお、戦没船員については、下記の公益財団法人日本殉職船員顕彰会で、名簿・資料を所蔵しており、個別の問い合わせにも対応しているようですので、お問い合わせしてみては如何でしょうか。
      http://www.kenshoukai.jp/

      最後になりましたが、叔父様は享年14もしくは15歳でした。いわゆる年少船員と呼ばれる方で、戦没された船員としては最年少だったかと思います。尊き命を国に捧げた若き叔父様のご冥福を深くお祈り申し上げます。

      Reply
  41. 清美

    yama様
    お返事いただきありがとうございます。
    援護課の方に電話で問い合わせした時も、軍属の方の詳しい記録は無いと教えて頂きましたが、このように教えて頂き感謝しています。祖父母の墓に報告したいと思います。本当にありがとうございました。

    Reply
  42. 龍人

    yama様、ご丁寧に教えてくださり
    ありがとうございました!
    お礼の返信が遅れてしまい
    申し訳ございませんでした。
    ご返信いただいた内容を参考にし
    より深いところまで調べることができ、
    曽祖母に伝えることができました。
    本当にありがとうございました!

    Reply
  43. 龍人

    差し出がましいようですが、
    陸軍伍長だった曽祖父についてもお聞きしたいです。
    曽祖父は復員しましたが戦時中のことを聞く前に
    亡くなりました。
    yama様が書かれている山西省ではなく
    河北省なのですが…。

    曽祖父について分かっていることについてですが
    昭和15年12月 独立歩兵第14大隊に入営
    昭和15年12月 塘沽港に上陸
    昭和16年6月 一等兵に昇進
    昭和17年6月 河南省林縣羅家庄にて被弾
    昭和18年9月 北支那特別警備隊第4大隊に転属
    昭和18年12月 上等兵に昇進
    昭和19年6月 北支那特別警備隊第4警備大隊に編入
    昭和19年12月 兵長に昇進
    昭和20年8月 伍長に昇進
    昭和21年2月 佐世保港に上陸

    以上のことは県に申請した軍歴証明書と
    従軍証明書より分かりました!
    できれば曽祖父の動きの分かるようなものが
    ありましたら教えていただきたいです!

    よろしくお願い致します。

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    1. 龍人

      書き忘れましたが
      戦後発見された戦時中の写真の裏に
      昭和17年 夏
      保定城警備(北支派遣軍甲1417部隊松田隊三井所隊)
      と書いてありました。

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      1. yama Post author

        龍人さま

        曽祖父様の所属されたのは、山西省を警備した独立混成第四旅団(石兵団)です。第11~15の独立歩兵大隊ほかで組織されました。主に山西省の南東部、現在の長治市のあたりから東の省境までを警備していました。敵は国民政府軍と共産軍です。

        曽祖父様が負傷されたのは、昭和17年5月~6月に実施された晋冀豫辺区作戦です。本作戦は第一期・第二期・第三期の三段階に分けて実施されました。アジア歴史資料センター「C13032120400」に6月中旬の第三期作戦の戦闘詳報があります。日時が合致すれば、曽祖父様の所属部隊(独立歩兵第14大隊)についての記載もありますので、負傷された際の行動概要が分かると思います。

        独立混成第四旅団は、昭和18年5月に第六十二師団に改編され、翌年の8月に沖縄に移駐し、同地で玉砕しています。曽祖父様は、師団移駐と時を同じくして北支那特別警備隊に配属替えされていますね。この部隊は、対共産軍を目的に編成された部隊で、情報収集の憲兵と戦闘部隊の歩兵とを合体させた、過去例のない部隊です。下記は北特警に所属された方の体験談です。
        http://goo.gl/wUE9n

        曽祖父様がなぜ華北に残されたかと言いますと、推測ですが、部隊の情報係(中国人の密偵を使って情報収集や敵側との折衝を行う)を務めていたのではないかと思います。そのような方は、現地で必要不可欠な人材として引き抜きといいますか、残されたのです。

        もうひとつ考えられるのは、負傷で兵科(歩兵・砲兵・騎兵等の戦闘職種)が務められない場合に転科といって憲兵になる場合もありましたので、憲兵として北特警に配属された可能性もあるかと思います。

        結果的に、曽祖父様は華北に残ることで、沖縄玉砕を免れたと言えます。

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