李樹徳さん [2]


李樹徳さんは中陽県で中共党員としての偽装暴動後に日本軍に捕まり、太原にある第一軍の捕虜収容所「工程隊」に収監された。この際、李さんは同じく捕虜として工程隊に収監されていた党員の劉侵霄さんらとともに地下活動を展開した。この活動について劉さんが書かれたのが、以下に紹介する「太原日本軍『工程隊』獄中闘争の回想」だ。この文章は劉さんの筆であるが、工程隊での活動については中心者であった李さんの口述筆記に拠るところが多い。文中では李樹徳さんは、李滋という仮名で登場する。 [1]~[6]までの項分けは原文に拠った。

劉侵霄「太原日本軍『工程隊』獄中闘争の回想」

[1]

日本帝国主義者が太原に侵略してきて以降、小東門内にある城壁の東北の一角に捕虜収容所が建設された。その名も「工程隊」。大門には日本兵が立哨しており、「工程隊」の看板が掛けられていた。

ここは三棟の建物からなっていた。一番手前の前院には十数人の日本人通訳と一個小隊約五十人の日本兵が、中院には一個中隊約七十人の偽軍兵が詰めていた。奥の後院はとても大きく、門衛所や高圧電線が設置されていた。捕虜がいたからだ。

ここには十数戸の大部屋が並んでおり、一戸の部屋に百人近く収容できた。屋内で人は壁にそって一列に地べたに寝る。枕は煉瓦、ふとんは草だ。このほかに少校以上の国民党将校のための「将校班」があり、こちらは一部屋二人だった。「将校班」の人たちは上等な小麦粉を使った特別食で優遇されていた。他方、一般の人々の食事は具のない野菜汁と腐りかけた雑穀だった。医務室も設けられていたが、薬がないことは皆知っていた。

工程隊は山西派遣軍司令部の直轄だった。所長が一人(松本大佐)、尉官級の隊長が一人、通訳が三人配属されており、このうち通訳は日本人、朝鮮人、中国人が一人づつ。中国人通訳は陳財という名だった。

捕虜は「天」、「地」、「人」、「財」の各隊に分けられ、一千人単位とされていた。日本軍は捕虜の生活管理や使役へ派遣する際の人選などをさせるために、捕虜のなかから隊長を一人指名していた。百名を一班とし、班長を一人指名、各隊の隊長はこの百人から選ばれた。班の下には小隊が三つ編成されていて、小隊長を一人づつ指名した。頻繁に捕虜の出入りがあったが、人数は平均して一千四百人前後だった。私が収容されていたのは数ヶ月だから、全体でおよそ延べ一万人くらいの人が収容されていたことになる。

後院は不潔で、常に伝染病が蔓延していたから、毎日数人の捕虜が亡くなっていた。日本人と偽軍兵はめったに後院に立ち入らなかった。点呼のとき、彼らはマスクをして二十メートル離れたところから大声で点呼を行った。

収監されている人のなかには、我が党の抗日軍政人員や遊撃隊員、民兵、さらには無辜の百姓もいた。しかし、大多数は敗退する際に捕虜となった国民党軍の兵隊たちだった。彼らはみな捕まったときにその地で尋問を受け、名簿を作成されて送られてきていた。

工程隊に収監された人は、必ず三ヶ月から六ヶ月間監督されてからでないと外に使役に出されなかった。収容所が満員になると、苦力として外に移送されていく。また、伝染病を減らすため、一、二ヶ月に一回、重病人が釈放された。このとき、誰を釈放するかは尉官級の隊長と陳通訳、それに医師によって決められた。病気によって釈放される人はしょせんほんの一握りで、ほとんどの人は苦力として遠くへと送られていく。例えば、東北撫順の炭鉱や北平の労働収容所、或いは日本へ送られるのだ。また太原附近の炭鉱や飛行場、日本人経営の株式会社や酒保(日本軍の需品販売所)で働かされる場合もあった。さらに、ある人たちは銃剣に追い立てられてどこかに連れて行かれたが、のちに彼らは城壁の角隅で軍用犬の訓練に供されて生きたまま喰い殺されたことが分かった。細菌兵器や化学兵器の実験に供されたり、あるいは日本兵の戯れで刺し殺された人もいた。

日本軍は、家畜用の餌で捕虜の生命を維持していた。一人あたり毎日たった三~五両(十六両で一斤五百グラム)の雑穀で、実際には毎日二回食事があることも希だった。喉の乾きは所内の汚い井戸水で癒すほかなく、このようなひどい待遇の上に過酷な労働が課せられた。そのため、捕虜は皆みるみるうちに痩せ細り、骨と皮だけになった。毎日、何人もが餓死、疲労死、病死し、彼らは小東門外の外堀に棄てられ、野犬や鳥の餌となった。外堀には白骨が累々とし、野犬が群れて大群となってた。何も知らない町の少女が近づき、野犬の餌食になったりもした。

[2]

1940年12月、日本軍は我々の抗日根拠地へ向けて大規模な「掃蕩」を仕掛けてきた。このとき私は第八分区の機関が駐在する山西省交城県中社村にいた。

夜明け前の黎明時、突然、中社村が日本軍に包囲された。その当時、私は財務科長の職にあったが、ちょうどひどい風邪にかかって高熱を出していたため、帳簿や金をまとめるのに手間取り、逃げようとしたときにはすでに日本兵が家の敷地内に入ってきてしまった。私は急いで後ろの壁を飛び越え、走って山麓へたどり着いた。そして山道を登ろうとしたちょうどそのとき、道は日本兵の機関銃で封鎖されてしまった。私の前を走っていた二人の同志は「ヒュッー、ヒュッー」と飛んできた機関銃の弾にあたってその場に崩れ落ちた。その瞬間、私は自分の肘がしびれる感覚を覚えた。見ると、たちまち着ていた綿衣から鮮血が滲み出てきた。私は最悪の状態に自分が置かれていることを悟らざるを得なかった。急いでその場で溝に文書と金を埋めた。そして埋め終わったそのときに日本軍に包囲され、不幸にも捕虜となってしまった。

その日の午前、日本兵は私の口から部隊の糧食や弾薬、それに武器の隠匿場所を聞き出そうと尋問をはじめた。私は拷問を受けたが、彼らは何も得ることはできなかった。午後も尋問は続けられた。彼らは縄を私の首にかけて小銃で殴った。気絶すると冷水を浴びせて目を醒まさせて殴打を繰り返す。しかし私は口を開かなかった。彼らはさながら狂った狼のようだった。しまいには焼けて真っ赤になった木炭を私の襟首のなかに詰め込んだ……。夜になって目覚めたとき、身体全身が痛み、力が入らず、首はやけどのためにひどく痛んだ。手で、焼けた襟の部分を、ついで皮膚にふれてみた。首は焼けただれた皮膚から滲み出てきた油のためにべとべとしていた。手をかすかな明かりに照らして見てみると、べっとりと血にまみれて赤黒く光った手がそこにあった……。

三日目に、日本軍はこの時の「掃蕩」戦の最中に捕虜となった私たちを集め、そのなかから重傷者を集団の右側に押し出した。全身血だらけの私も右の集団に入れられた。そのとき、突然ひとりの日本兵が私が肘に怪我をしていることに気づいた。私を前へと引っ張り、歩くのに何も支障がないことを確かめると、私を左側に押し戻した。そして私が戻った瞬間、機関銃の発砲音が鳴り響いた。右側にいた十数人の同志たちは倒れ、吹き出た鮮血が大地を紅く染めた。捕らえられた同志たちの約半数が、このようにして銃殺されたのだ。そして私たち軽傷の者は、太原の「工程隊」に送られることになった。私は捕虜となってから名前を劉違新と変え、記録係であると偽りの供述をした。このときから、私の収容所生活がはじまった。

[3]

1941年春のある日のこと。所内で日光浴をしていた私たちは、またもや収監されてきた捕虜の一群をながめていた。偶然にも、私はその一群のなかに良く知った顔を発見した。彼は閻軍の将校服を着ていた。私が彼を見たとき、彼もまた私を見た。互いの視線があったそのとき、私は彼の名を思い出した。李滋だった。

山西青年抗敵決死隊第二縦隊第十七団で私が組織科長と一営指導員を兼任していたとき、彼は第九連長だった。1939年、第二戦区が決死第二縦隊の幹部を召集して陝西省の宜川秋林で集中訓練を行っていたとき「晋西事変」が発生、訓練中の人員全員が勾留され、そのなかに李滋がいた。党と彼との連絡は途絶えた。のちに彼が言うには、彼も連絡の取りようがなかったそうだ。

再会してからのち、私はすぐには彼に接近しなかったが、すぐに彼のほうが私たちに接近してきて、頻繁に将校用の食事から饅頭を盗んで我々八路軍のメンバーに渡してくれた。そのうち、彼はトイレに行く機会を利用して私を呼び出し、自ら「晋西事変」後の行動について教えてくれた。

彼によれば、閻錫山は勾留した幹部を買収し、全員を昇進させて官職に任命したという。彼も山西省中陽県の国民兵団の副団長を任命された。1941年の初め、彼は暴動を組織し、県公安局から数十丁もの小銃を奪うことに成功した。そして晋西北へと帰隊する途中に、彼らは閻軍の追撃に遭った。そして閻軍の追撃をかわしたものの、汾離公路で、またもや今度は日本軍の攻撃を受けて捕虜となってしまった。捕虜となった彼は、閻軍将校としての身分で通し、もともと共産党員で抗敵決死隊で職務を遂行していたことは露見していなかった。我々は彼とともに捕虜となった兵隊に事実関係を確認する調査を行い、彼が語ったことが真実であることを確認した。

李滋と再会してからまもなく、私と数人の同志は、二十数日間、晋南の飛行場建設にかり出された。この間、工程隊に残った同志は意外な収穫を得ることとなった。日本軍が捕虜隊長だった韓という将校を釈放したため、陳通訳は周という閻軍将校(彼は実際には抗敵決死第一縦隊の幹部で、長い年月が経ってしまい名は思い出せないが、周という姓だった)に適当な人物を推薦するように命じた。周同志は李滋を推薦した。彼は未だに身分が露見しておらず、しかも演技もうまいから、収容所から八路軍の捕虜を救出する工作に適していたからだ。しかし李滋は日本侵略者のために仕事を行うことに乗り気でなかった。これに対し周同志は、すべては革命を成就させるために必要な方便であると説き伏せ、最後に彼も同意した。そしてある日、陳通訳は李滋を呼んでこう言った。「あなたは閻錫山先生の部下だから、あなたを信頼して明日にでも隊長に任命します」。このようにして李滋は苦力隊長となったのだ。

工程隊に帰ってから話を聞いて、私はこれ以上ない有利な条件を勝ち得たと感じた。この時点で我々が把握している共産党員はすでに十数人に達していた。組織を結成する時期は熟した。秘密の討議を経て、我々は私と李滋、それに李一夫の三人を選出して秘密裏に党支部を結成した。私と李滋は片方が組織及び動員工作を受け持ち、もう片方が敵偽教育工作を受け持った。支部の成立後、我々は次のような工作方針を決定した。

一、我が党の抗日救国統一戦線の政策を宣伝し、共産党の影響力を拡大するとともに、閻軍捕虜の共産党に対する誤った認識を正す。

二、獄中闘争を展開して生活条件の改善を勝ち取り、同志を保護する。

三、獄中の捕虜と収容所の敵側人員を取り込んで利用することで有利な条件を創りだし、機を見て同志の出獄を勝ち取る。

このときから、私たちは互いに通じ合い、団結を緊密化するとともに、李滋が隊長の任にあるという有利な条件を利用することで獄中生活を生き抜き、闘争を堅持して出獄を勝ち取ることをかたく決意したのだった。

[4]

工程隊を警備する日本兵は中国語を解さず、しかも伝染病を怖れていたから、収監者にはめったに近づかなかった。そのため、日本兵に代わって通訳の陳財が収容所側と私たちとの連絡を取り持っていた。ゆえに、様々な物事の決定権はもちろん、実質的には収監者の生殺与奪の大権をも彼が握っていた。党支部は陳財の取り込みに重点を置くことに決定した。

陳財は福建省の出身で三十歳過ぎ、中肉中背で細面の顔に度の強い眼鏡をかけていた。彼の祖父は昔から台湾で商いを営んでおり、彼は祖父とともに台湾で成長した。日本が台湾を侵略した時、彼は高等中学校を卒業して日本語通訳となった。そして1939年に彼は日本侵略者とともに大陸へと帰国し、太原で家庭を築いた。嫁は河北省の女性だ。

私たちは工程隊に入る際、陳通訳が自ら投降した者は殴っても、捕虜となった者は殴らないと聞いていた。とりわけ、銃を持ちながら投降した者には厳しかった。彼は「おまえみたいな腰抜けは、銃を持っていてもここに逃げてきたんだから、生き延びるためなら明日にでも大砲すら持って来るんだろう」と罵った。彼を観察して、私たちは八路軍捕虜に対する彼の態度がほかの看守たちよりも良いことが分かった。むしろ多少親切でさえある。また、彼は訓話の際にしょっちゅう「 我々中国人は……でなければならない」という言い方をした。のちに私たちは彼の妻が抗日的であることを知った。このような情況から、我たちは陳財が未だ中華民族としての自尊心を失っておらず、我々のために服務させ得ると判断した。そこで李滋は隊長という利点を活かして、彼と密接な関係を築くことに務めた。

陳財は親族全員を養っている上に、ヘビースモーカーの悪癖があるため、いつも金に困っていた。そして彼は喫煙の症状がでると、いつも李滋から金を借りていた。彼を取り込むため、我々はいつも金を与え続けた。しかし、その金は一体どこから手にいれたのか?。三日間考え続けて、ようやくよいアイデアが浮かんだのだ。

当時、捕虜となった蒋軍の将校のうち何人かは「法幣」を持っていた。当時、太原城内では、百元の法幣を傀儡政権の発行した三十元の「連合票」と交換することが広く行われていた。しかも工程隊の日本兵は誰かが法幣を持っているのを発見したら、没収するのみならず、罪に問うていた。そこで李滋と彼らが相談して、法幣を手放したい人のために「連合票」との交換をしてやることになった。法幣を持っている人はとても喜んで、すぐに多額の法幣が出てきた。

話をもとに戻して、どのように換金の問題を解決したかを説明しよう。医師の陳躍庭は元閻軍第三十五軍の中校医官で、捕虜として工程隊に入ってから医師として採用された人間だ。彼は太原城内の「浦江会館」に家を持ち、毎日そこから出勤していたから、外で何かをするには都合が良かった。彼に接触すると、李滋は彼が国の行く末に強い関心を持っていることを感じた。あるときなど八路軍の情況を聞いてきたぐらいだ。ある日のこと、彼は李滋に言った。「あなたは私に嘘をついているでしょう。劉さんはけして八路軍のなかで上士なんかじゃない。彼はとても落ち着いていて才能があるから、間違いなく将校だ」。「それは君の考えすぎだよ」。李滋はごまかした。しかし陳躍庭はさらにこう続けた。「私はすでに君たちに注目していたよ。あなたと劉さんが何を必要としているか私は分かっている。これからは私を他人扱いせずに、何か必要なことがあれば遠慮せずに言って下さい。私の気持ちは抗日です。私は日本人に自分には息子も娘もいないと言っているが、実は一番上の息子は八路軍で大隊長をやっている。絶対に秘密にしといて下さい」。陳躍庭の姿勢は我々にとって非常に嬉しかった。法幣の換金問題はこのように彼の協力によって解決したのだ。

我々は換金してきた連合票のうち、法幣百元につき二十元を蒋軍の軍官たちに渡し、残り十元を得た。これが陳財を買収するための金の出所だ。陳財も金の出所を聞くことはなく、ただ「借金」して煙草を吸い続けた。金はあたかも縄の如く陳財を束縛し、李滋は彼の一番懇意な友人となった。

あるとき、陳財は李滋に対して胸のうちを語った。「日本人は多くの台湾人民を虐殺した。私は怒りを抑えて、そんな日本人のために働いて飯にありついている。君を抗日的だと思うから私の本心を言えば、私は日本人が早いところ消え失せてくれないのがとても残念なのだ。中国人は弱いから、戦局がどのように発展していくのか、まったくもって分からない。とても心苦しい……」。李滋は陳財の気持ちを党支部に報告した。支部は迅速に救出工作を展開するため、私も陳財工作に関与することに決定した。

そこで李滋は陳財の面前でうわさをつくった。彼が中隊長のときに私は記録係で仲が良く、のちに私は八路軍に参加した等々。陳財は意気込んで言った。「君の友人なら、私は尽力するよ」。果たせるかな、陳財は私に親切にするようになった。私のほうもこの機会を借りて彼に近づいた。関係がより密接になってから、私は彼に毛主席の『持久戦論』の考え方を話して聞かせ、彼が自らの祖国、自らの民族と人民の力量について正しく認識する手助けをした。これらの話はとても新鮮に聞こえたらしく、彼は自ら問題を提示したり、我々に対して更に説明を求めたりするようになった。宣伝は彼の思想に変化をもたらした。ある日、彼は私にこのような大謀大計は誰が生み出したのかを聞いてきた。私は彼に共産党の領袖である毛沢東先生であると告げた。彼は感慨深そうに言った。「このように抗日戦を戦えばどうして負けようか!」。熱いうちに鉄を叩くが如く、我々は彼も持っているはずの「抗日救国は中国人全員の責務である」との民族の気概を啓発した。

しかし、彼は自分は無能で、すでに八路軍に仇をなした以上、再び事をなそうとしても前途もなにもないと言う。そこで私は支部の精神に則って彼と公開談判を行った。その大まかな内容は、八路軍の同志を保護し、釈放・帰隊の条件をつくれば、戦争に勝利してのち、彼の家族全員の安全と仕事を保証するというものだ。共産党は抗日を是とする人々すべてと一致団結するからだと。このとき、彼は私の話をとても厳粛に聞いていて、外に出て二人の衛兵を呼んで門外に立哨させていたことを良く覚えている。

話をしたのち、彼は数日の間、我々の前に姿を現さなかった。そのため、彼が命を惜しみ死を怖れるあまり何か失敗をしでかしてすべて露見してしまうのではないかととても心配した。しかし、数日後、日本軍もなんら動きを見せず、我々は或いはまだ成功するかもしれぬとの希望を抱くようになった。ようやくして陳財は姿を現し、我々を呼んでこっそりと聞いた。「劉さんの話は本当ですか?」。李滋は「劉さんの話は彼が勝手に言っていることじゃなくて八路軍の政策です。私は宣伝のチラシで見たことがある」と答えた。すると陳財は「本当にそうなら、我々は徐々に進めていきましょう。けして他の者に知られてはならない。私には家族がいるから」と言う。これに対して李滋は「もし漏れたら遠慮せずに私を差し出せばいい」と胸を張った。こうして陳財は我々の「捕虜」となった。そしてこのときから、我々の工作活動はひとつの新しい局面を迎えることとなった。

例えば、炊事場の人員はすべて国民党の捕虜で、我々は食事の際いつも叩かれ侮辱されて、少しの飯と冷水しか摂ることができなかった。李滋が人員の交代を持ち出すと、陳財は二つ返事で了解した。そして、小隊長、班長、炊事員のすべてを我々のメンバー(その中には未だ本当の身分が露見していない閻軍の将校も数人いた)に交代させたのだ。それからというもの、我々の同志の獄中での生活条件は画期的に改善された。侮辱されることもなくなり、熱いお湯も摂れるようになった。

夏になり、いよいよ暑くなってくると、病死する者が日増しに増えていった。私は李滋がトイレに行くのを見ると彼に近づき、道すがら小さな声で「何か良い方法を考えなければいけない。我々の同志が戦場で死なずにここで病死するなどあまりにも無念だよ」とささやいた。すると彼はもはや収容所側に対して公開で抗議する以外に方法はないと考え、自らを危険にさらすことになる任務を承認するよう要請してきた。私も別の良い方法が思いつかなかったため、やむなく同意するほかなかった。

李滋は「日本人は捕虜を虐待している。食事もろくに与えず、ひどい衛生条件で伝染病も深刻だ。これは明らかに国際法に違反している。隊長の李滋が彼らとの面談を要求する」との噂があると陳財から日本側に伝えさせることにした。陳財は目を大きく見開いて「君は首を斬られても良いのか?」と聞く。李滋は死をも賭さない態度を示した。そして翌日、松本大佐が李滋と会うこととなった。陳財は一緒に向かう道すがら、咬んで含めるように言った。「くれぐれも慎重に」。

部屋の中には松本が一人だけでいた。彼は李滋が部屋に入って来たのを見るや否や、彼がまだ腰を落ち着かせないうちに詰問してきた。「日本人が国際法に違反している云々の話は誰が言ったのだ」。これに対して李滋は「部屋の検査が終わって灯りが消えて真っ暗になったときに聞こえたので、誰が言ったのかは分からない」と答えた。すると松本は「君はその話を正しいと思うかね」と聞く。李滋は答えた。「正しいと思う」。松本は李滋にその訳を問うた。李滋はこう言った。「自分は山西第二戦区司令部で訓練を受けていたときに、捕虜となった日本人が自分たちより衣食住が良かったのを見た。彼らは厳しく管理されなかったし、彼らもまた逃げようとしなかった。彼らが言うには『逃げ出してもまた戦争にかり出されて死ぬしかないからここが一番だ』と言っていた。しかも八路軍はもっと生活条件が違うのに捕虜は更に優遇されていて、けして虐待はされないそうです。閣下は訓話の際、常に我々に対して『中日親善』と言います。しかし、人がみな餓死して病死して、何が親善ですか?」。

陳財が李滋の話を訳し終わるや否や松本の顔色がみるみるうちに土気色に変わった。彼は声を張り上げた。「おまえはなぜ犯人に替わって話しているのだ!?」。しかし李滋は動じない。「私は誰かにかわって話をしているのではない。国際法に照らしてあるべきことを述べたまでです。私には父母もなく、妻も子もいない。殺されても恨むものはいない。しかしあなた方がこのようにしている限り良いことはひとつもない。また同じように騒ぎが起きるでしょう……」。

すると松本は「いったい何を改善するのだ!おまえたちの要求は何だ?」と聞いてきた。そこで李滋は毎日一人あたり一斤の糧食と安全な飲み水を確保することを提示した。松本は山西派遣軍司令部に問い合わせてみる旨同意した。

数日後、要求は受け入れられ、伝染病は徐々に収束していった。この闘争に我々は勝利したのだ。

これらの変化が生じてから、我々の同志たちはみな組織行動を意識するようになり、それとなく党の組織に接触を図るようになった。相互の連絡を経て我々の組織は拡大し、党支部の周囲に活動小組が組織された。我々はこれらの基礎の上に出獄工作を展開した。

ところで、日本侵略軍は国際社会を欺き、批判を免れるために、定期的に重病者を釈放していた。我々はこの機会を利用して、医師の陳躍庭にニセの病歴を提出させ、さらに陳財の批准を経て、数人の同志の解放を得ることが出来た。我々がこの方法で救出した同志の数は四十数人に上る。彼らはみな釈放通知書を手にスムーズに帰隊することができた。第一回目に八人の同志が釈放された際には、我々は党の上級組織との連絡任務を晋綏解放区の民運科長である景涛に委ねた。我々は獄中闘争を進める一方で、上層部の指示を待っていたのである。

遠く使役にかり出されていった人で生きて帰ってこれた人はとても少なく、なおさら日本へ連れて行かれた人などは誰も帰ってこなかった。ある日、陳財が李滋にこっそりと「明日、日本人が五百人を苦力として日本へ移送します」と伝えてきた。李滋は急いで私と李一夫を探して対策を練った。我々は陳財に圧力をかけて、彼に何か良い方法を考えさせることに決めた。そしてこっそり陳財を医務室に呼び出すと、厳粛な面もちで彼に対し「何があっても我々の同志を日本に送ることはできない」と伝えた。陳財はとても困った様子で考えあぐねた末にこう答えた。「明日、私は自分の前の隊列から並んだ順で五百人を指名していきます。あなた方は皆に良く連絡をとって、東側の後ろに並ぶようにしてください。私は西側から点呼を行っていきます」。

翌日、一千四百人が後院の広場に集合し、陳財が点呼を開始した。我々の同志約四百名は、計画に従って東側の最後尾数列に並んだ。指名された五百人はトラックに押し込まれて連れて行かれ、我々の同志は安全だった。我々はこの方法を二回用いて、同志を保護することができた。

またある日のこと、陳財は我々に細菌実験に供するために五十人前後の健康な者が選ばれて東北に送られる計画を教えてくれた。そこで我々は陳躍庭にニセの病歴を書かせて、二十人前後の八路軍幹部を重病者房に移して難を逃れたこともあった。

あるとき、私は新しく移送されてきた捕虜の中に第八分区の郭中楚ら七名の無線機密要員を発見した。正直に言って怖れの念を禁じ得なかった。「彼らの中にもし万が一気骨のない者がいたら、革命に重大な影響を与えてしまう」と思ったからだ。そこで李滋を通して彼らに対する対策についての了解を得ることにした。彼らの態度はとても良かったので身分は露見しなかったが、党支部は一旦何者かがこの七人の同志を告発すれば、彼ら自身が悲惨な試練を経験するだけでなく、我が軍の通信秘密への重大な脅威となることと考え、彼らの出獄を危急の任務とした。そこで次の重病捕虜釈放の機会を利用して、我々は彼ら全員を出獄させることにした。幸いにもうまく出獄させることができた。

ところで、先ほど登場した景涛同志は、出獄後に不幸にも戦闘中に捕虜となって再び工程隊に送られてきた。このとき、幸いにも彼の素性は日本側に露見していなかった。というのも工程隊の規則では再び捕虜として送られてきた者は軍用犬によって咬み殺されることになっていたからだ。景涛の立場は非常に危険な状態にあったため、李滋たちは彼の出獄に全力を傾けた。李滋たちの努力で、彼は十日もしないうちに出獄でき、帰隊することができた。

再び重病捕虜釈放の機会がめぐってきたとき、李滋は私にこの機会に出獄することを説得してきた。正直な話、誰だってあのようなひどい所には一秒でも長く居たくはないし、何とか生きて出獄し帰隊したいと願うものだ。以前、私が晋南飛行場での使役から帰ってきてまもなくの頃、古い戦友の誼から、李滋は早くも隊長の身分を利用して私の釈放を実現しようとしてくれた。しかしあの時は闘争も開始されたばかりで、李滋の表向きの身分では工作を行うにも不便で、いわんや出獄工作などできようもなかった。同志たちも私のことは知っているものの李滋のことは誰も知らなかったから、私が出獄した後に工作が中断されてしまうことを心配した。そのため、私は残留を決意したのだった。そしていま、すでに数人の同志は出獄に成功したものの、未だ多数の同志たちが収容所から脱出できずにいる。しかもすでに私はいくつかの方面で人員工作の基礎づくりを開始しており、未だ私が必要とされていた。私は再び李滋の好意を断った。李滋もやむなく、「再び次の機会まで待つのも良いが、そういつまでも長く居てはいけない。ここでは常に危険にさらされているのだから!」と言った。

[5]

国民党軍は敗北を続け、多くの捕虜が工程隊に送られてきた。我々がこれら捕虜の分析を行った結果、高級将校のなかに若干の頑固文子がいるものの、一般の将兵のほとんどは無理矢理に戦争に動員された気の毒な人たちだった。そこで彼らに対し、我々は団結して教育任務にあたることとなった。党支部は我が党の抗日民族統一戦線の戦略思想に基づき、獄中における秘密宣伝活動の展開を実施することに決定したのだ。その主な内容は、毛沢東同志の『持久戦論』の偉大な思想や、我が党の抗日民族統一戦線の政策、そして八路軍の素晴らしい伝統や姿勢などである。

宣伝を通して、彼らは我々の党と軍隊が真に抗日的で貧しい人々を解放するために活動していると、頭のなかから誤った観念を消した。そして彼らを啓発して、困難を脱した後には積極的に抗日に参加すべきと激励した。李滋は点呼の前後を利用して、日本人がいない数分の間に抗日救国を訴えた。その他の同志たちは、友人や同郷の誼、世間話などの方法を利用して宣伝に務めた。今までこのような道理を聞いたことがなかった彼らの耳にはこれらの話が新鮮に聞こえ、心に強く印象づけられたようだ。ある人はこっそりと我々の同志のもとを尋ねて多くの質問などをした。彼らは徐々に我々を尊敬するようになり、我々に接近するようになった。

そこで我々は彼ら中隊や小隊幹部のなかで気骨のある苦労人をリーダーとして育て、到来するであろう機会に叛乱を起こして八路軍に投奔する準備を行った。あるとき、日本軍は一千人に上る収監者を撫順の炭鉱に移送したが、山海関を越える前に予め我々が予定していた叛乱に成功した。さらに日本軍が一千五百人を唐山に移送したときにも成功した。このときは秦皇島に向かう途中で予め連絡してあった方法で行動を開始した。さきに数人が縄を解いておき、監視兵が結んでいないただの縄を持っている状態にしておいて、かけ声の合図とともに一斉に一千人が四方八方に駆けだしたのだ。日本軍はたった二百人を捕らえただけだった。逃げ切った多くの者が、我々が育てたリーダーに率いられて八路軍根拠地へと逃れた。移送にあたった傀儡軍の兵士たちが工程隊に帰ってきて言った。「八路軍の計略に引っかかった。みな逃げてしまった」と。

また、我々は頑固分子に対しても教育の機会を放棄しなかった。例えば、李滋と同部屋にいた五十歳代の県長がそれだ。名を陳漢英といい、日本の早稲田大学に留学して日本語が話せた。彼の故郷は決死第一縦隊の活動地区だった。そのため、彼は共産党を恨んでいた。我々は彼が日本鬼子に密告するのを強く警戒していた。しかしのちに李滋は彼の言葉から、彼が偏見に基づいて共産党を恨んでいること、また亡国の奴を是としない民族の自尊心から日本人への恨みの念を持っていることが分かった。救国という点から出発すれば、彼に対しても話をすることができるかもしれない。そこで私は李滋の同郷の者であるとして李滋の部屋で世間話をして時間を過ごしつつ、折を見ては八路軍の抗日活動について話をした。ほどなくして、彼と私たちは仲良くなってきた。

ある日、タイミングよく彼が重い腸チフスに罹った。工程隊の規則では、重い伝染病患者は全員、特号病房に移されて死を待ち、その後遺体は城外の壕に棄てられて野犬に喰われることになっていた。そこで李滋は彼に陳躍庭を通じて「軽度の風邪」と書いてやり、もとの部屋に居られるようにした上で、心を込めて看病をした。陳漢英の病状が好転して、私が彼を見舞ったとき、彼は「私を助けてくれてありがとう。もしあなた達が助けてくれなければ、今ごろ私は野犬のえさになっていたよ」と言った。そしてその夜、陳漢英は眠れずにこっそりと李滋に話しかけた。「劉さんは文武両道で情にも厚い。きっと八路では将校だ」。李滋はごまかして言った。「私は記録係だった彼と一緒だったんだよ」。すると陳漢英はごろりと身体を転がして身を起こすと話しはじめた。「李さん、私に隠し事はやめてください。彼の言葉は私の息子とそっくりだ。私は日本人に息子も娘もいないといたが、それは息子が共産党で仕事をしているからです。あいつは薄一波とともに行ってしまい、聞くところによれば何かの指導員とやらをやっているらしい。一度家に帰ってきたとき、私は息子を共産党に行かせまいとした。結局私たちは仲違いをして、親子の縁を切ったのです。それ以来、息子には会っていません。息子とあなた達は同じくらいの年齢だ。息子が私に話した内容は、劉さんが話した内容と全く一緒でした。あなた達と一緒に病と戦ったとき、私は初めて共産党の人の話の道理がよく分かったのです。これからはこの老いぼれでも何かのご用があれば、犬馬の微力を尽くさせてもらいたいのです」。

陳漢英は病気が癒えたのちに釈放された。工程隊は彼を偽山西省政府に紹介し、彼は文水、交城、清源、汾陽の四県専員を任ぜられた。この四つの県は我々第八分区の活動地域だ。陳漢英は我々の要求に従って八路軍と密通し、八路軍の物資の輸送を隠蔽して日本人を騙した。聞くところによれば、のちに彼は李滋を捜し出して彼に会ったが、そのとき彼は、自分が八路軍のために働いていること、息子の共産党への参加を支持していること、そして日本人のために仕事をすることなど望んでいないこと、これらを行方知れずの息子に伝えるため、李滋に息子を捜して出して連絡をとる労を承けて欲しいと泣きながら頼んだという。

[6]

1941年の夏が終わる頃のある日、突然日本人通訳の高橋が松本のもとに李滋を呼び出した。そして不意打ちの「談判」を行った。松本は彼に対し、葉挺と連絡しているのか否か、共産党と如何なる関係を持っているのかを問いただし、何者かが彼を告発したのだと言った。このとき、李滋は機転を効かせて松本をごまかした。しかしこの厳重な警告は、我々の行動が日本側に監視されていること、間違いなく密告者がいることを意味した。

我々は心の底から一同一緒に収容所を離れたかったが、李滋だけが獄中工作を停止させることができた。そのため、我々は李滋の処置にすべてを委ねる以外なかった。私は先に脱出し、李滋が後陣を固めることとなった。このとき、タイミングの良いことに、ちょうど陳財が太原城内で小売業を営むために、驢馬を手に入れてそれを扱える人を自分の農地の小作人として雇いたいと考えていた。そこで私は陳財の小作人という名目で収容所を脱出した。そして私は獄中党支部の上層部との連絡任務を任されたのだった(前に連絡は取れたが、このときはまた連絡が中断していた)。

出獄の際、李滋はもう二度と見送ることはないであろう私を大門の入口まで送ってくれた。大門の薄暗い洞内に日本兵の銃剣が冷たくひかる。大門を出たあとに振り返ると、彼の剛毅な目とかすかにうなずく仕草が私の目に映った。そして陳財は私を見送りに大南門まで来て汾河橋を渡ると、私が向かうべき根拠地の方向を教えてくれた後、収容所へと帰って行った。

陳財と別れた私は、飛ぶように西の山々を越えていった……。三日三晩歩き続け、ようやく交城山会立村の第八分区司令部所在地に到着した。帰ってきた根拠地はまるで暖かいわが家のようだった。そして私は分区党委員会に状況を報告すると病に倒れてしまった。

数日後、晋綏軍区から指示がきた。その内容は、工作資金を使って陳財の商売を買収し、我が軍の太原解放に向けた準備工作を行う連絡点にすること、同時に収容所内の党支部は闘争を継続し、李滋同志は偽りの身分を利用して所内の内通工作を進め、釈放を勝ち取った際には傀儡軍内部で内通工作を実施せよとのことだった。また上層部は、私を太原に潜入させて李滋と陳財の工作にあたらせる旨を決定した。証明書など何も持たずに太原に入城することは非常に危険であり、少しでも間違いがあれば生命も保証されない。しかし、状況をよく熟知しているのは私しかいなかったから、私が行く以外に任務を達成させることはできなかった。虎口を脱したばかりで病に伏せていた私は、幹部たちに必ず任務を達成する強い決意を伝え、敵工科長の段士楷を連れて再び虎穴に入っていったのだった。

私たち二人は、まず太原郊外に行って李成牛を訪ね、彼に陳財を呼んで来させた。李成牛は小作人として陳財に雇われた貧しい農民で、よく収容所に入って糞尿を回収していたから李滋を見かけることができた。のちに李成牛は我が党と収容所の党支部との連絡を担うようになった。

陳財がやってくると、私と段さんは彼と商売について話をし、我々と合作することを要求した。陳財は未だ中国人としての誇りを失っておらず、二つ返事で要求を引き受け、抗日活動への貢献を望んだ。段さんは彼に資金を渡し、私はここに残って彼と共に「商売」をすることとなった。最後に段さんは陳財に、私の安全を保証すること、できるだけ早く私の証明書を手に入れること、そして李滋の救出工作を継続することを要求した。陳財はすべてについてひとつひとつ約束を確認した。その晩、段さんは李成牛の家に泊まり、翌日に根拠地へと帰っていった。

その後、陳財と城内に入ったあと、彼はいくつか方法を考えたものの私の証明書は発行できなかった。そこで仕方なく彼の家にしばらく住むことになった。彼は毎晩収容所から帰ってくると私を外に連れて行って「商売」をした。陳財にならって私も変装をした。シルクの長衣と西洋帽、平らな眼鏡を身につけ、人力車に乗って出入りした。人々は私をどこかの屋号を持っている商売人だと思っていただろう。検問に遭遇しても、陳財が一緒にいる限り、日本軍にも何もとがめられなかった。

ある日、私と李滋は陳財の家で再会することができた。李滋はとても喜んでいたのを憶えている。彼は早く収容所から離れて隊に戻り、同志とともに戦うことを望んだ。しかし私は上層部の指示を彼に伝えた。すると彼は全くためらうことなく、「再び情況が困難になった現在、私も今の任務を堅持して、同志を救うことで革命事業に尽力したい」と決意を表した。私たち二人は、互いに目頭を熱くして、かたく手を握りあった。

陳財の協力のもとに活動も一ヶ月が経過し、ようやく家と収入源を確保することができた。このとき、上層部から李一夫同志を速やかに収容所から救出すべしとの指示がきた。当時、李一夫同志はまだ飛行場で使役をさせられていた。そこで陳財は日本軍の軍服を着て、自動車を運転して飛行場まで行き、用事があると言って李一夫を苦力の一群から呼び出した。日本軍の衛兵もいったい何の訳があるのか全く分からないうちに、李一夫同志は車に乗り、車は陳財の運転で厳戒態勢の飛行場を離れた。そして私と李一夫は陳財の運転で城外の李成牛宅に無事到着した。李成牛の父は軽食を出してくれ、その上親戚を装って大黒山の麓まで送ってくれた。

私と李一夫は第八分区に到着すると、党委員会に報告を行った。数日後、晋綏軍区から私たち二人に軍区への状況報告に来るよう指示があった。そのため、私たち二人は第百二十師司令部に出頭し、甘泗淇主任と程鐘部長(敵工部)に詳細な報告を行った。甘主任は喜んで「ご苦労さま!。同志たちの活動は革命に大きく貢献するものだよ」と言い、特別に鶏を一羽買って私たちを招待してくれた。その後、この工作の連絡は第百二十師の指導の下に行われることが決定され、私も部隊に復帰することとなった。

(筆者の劉侵霄は現在内蒙古軍区顧問を務める。文中に登場する李滋は、現在名前を李樹徳といい、西安八府荘機制煤球廠に勤務。景涛は現在北京化工部勤務。また段士楷は現在軍事委員会空軍後勤部勤務。本文章は一部を李樹徳の回想筆記に拠っている)

山西省文史研究館編『文史研究』(第一期)1986年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000014.html

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3 thoughts on “李樹徳さん [2]

  1. 中根 稔雄

    私の父は 私の幼いころ 中国戦線に出征しました、幸い
    生きて帰還しましたので 戦後の生活の苦しい時代も何とか
    生きて行けました したがって 中国戦線に訪ねて行くことはありませんが、中国へは 二度も観光旅行をしました。
     戦争の過酷さと、旧日本軍の残酷さは聞いて知って居ますが、中国人の手記は実体験ですから 迫力があります。

    Reply
  2. 匿名

    中根さま
    本稿は、捕虜収容所を出所した中共党員が書いたものです。他にも太原収容所に関する出所者の手記は数編ありますが、いずれも本稿と同様の有様が書かれています。ただ、これを100%鵜呑みにすることはできないと思います。詳しくは、下記の関連稿をご覧ください。
    太原の捕虜収容所「工程隊」 http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000506.html
    中国の場合、言論の自由がないこと、中共党史は功績調査が前提となっていることを踏まえる必要があります。このサイトについて言えば、掲載している戦争体験談の中でも、いくつかはたいそう大袈裟な話が混じっています。
    このサイトでは、中国側の主張と、それに対する日本側の見方(もしくは日本側の資料による考察)を、併せて掲載しています。両者を合わせて読むことで、本当の史実というものが見えてくると思います。矛盾も含めて、それが当事者双方の「歴史」ということだと思います。

    Reply
  3. 中国 山西 大同 陈尚士

    李树德先生(2)
    土八路译自日本网络http://shanxi.nekoyam ada.com/
    李树德先生作为中共党员,在中阳县发动武装暴动后,被日军逮捕,收押在位于太原的日军第一军俘虏收容所—-“工程队”里。这个时候,李先生与同样作为俘虏而被收押在工程队的党员刘侵霄一起,开展了地下活动。刘先生所书写的有关这些活动的内容,就是我以下要介绍的“在太原日军‘工程队’监狱中的斗争回忆”。这篇文章虽然是刘先生执笔的,但关于在工程队方面的活动,有很多地方是根据其中心人物李先生的口述而笔录的。在文章中,李树德先生是以李滋这一假名而出场的,根据原文,分为[1]~[6] 项。
    李滋(李树德先生)
    太原俘虏收容所里的俘虏们
    中原会战俘虏的中国军队
    刘侵霄“在太原日军‘工程队’监狱中的斗争回忆”
    [1]
    日本帝国主义者侵略到太原以后,在小东门内的城墙东北一角,建立了俘虏收容所。其名称也叫“工程队”,大门有日本兵站岗,挂着“工程队”的牌子。
    这里由三栋建筑物构成,最前边的前院,住着数十个日本人翻译和大约一个小队的50名日本兵,中院挤着大约一个中队的70来个伪军,最里边的后院很大,设置了门卫所和高压电线,这是因为里边有俘虏的缘故。
    这里并排着十数间大房屋,一间房屋能够收容100多人。人在屋内沿着墙壁睡成一排,地面挤的满满的。枕头就是砖瓦,褥子就是杂草。除此以外,还有为少校以上的国民党军官而设立的“将校班”,将校班的房间住两个人,将校班的人们受到优待,吃的是使用上等白面而做的特别伙食,而另一方面,一般人们的伙食是没有佐料的野菜汤和发了霉的杂粮。虽然也设置了医疗室,可是没有药品,这些大家都知道。
    工程队由山西派遣军司令部管辖,配属所长一人(松本大佐),尉级官员的队长一人,翻译三人。这里边的翻译,日本人、朝鲜人、中国人各占一人。中国籍翻译的名字叫陈财。
    俘虏以1000人作为一个单位,被分成“天”“地”“人”“财”不同标识的几个队。日军从俘虏里指定一人作队长,为的是进行俘虏生活的管理,以及派遣劳役的时候、让其决定人选等。将100名俘虏作为一个班,指定一人作班长,每个队的队长,再从这100个班长里选拔。在班的下边,再编成三个小队,各指定一人作小队长。虽然俘虏频繁地出入,可人数平均在1400人左右。因为我被收容了数个月,被收容的总人数,我估计大约累计达一万人左右。
    后院不干净,经常有传染病蔓延,所以每天都有数个俘虏死去,日本人和伪军不怎么进后院。点名的时候,我们带上口罩,在距离20米远的地方,大声地进行点名。
    在被收押的人里边,有我党的抗日军政人员,以及游击队员,民兵、进而还有无辜的百姓。不过,大多数是在败退的时候,成为俘虏的国民党军的士兵们。他们被逮住的时候,都在当地受到了审讯,然后制成名薄而送来的。
    被收押在工程队的人,必须被监督3–6个月之后,才能让其外出做劳役苦工。收容所一旦满员,就被作为苦力移送到外边。另外,为了减少传染病,每一、两个月就释放一次重病人。这种情况下释放谁才好呢?这是由尉级官的队长和陈翻译、还有医师来决定的事情。因病而被释放的人,说到底还是微不足道,几乎所有的人都被作为苦力,送到了远方。比如;或者东北抚顺的煤矿以及北平的劳动收容所,或者是被送到了日本。另外在太原附近的飞机场,在日本人经营的株式会社以及兵营内的零售店,也有他们干活的场所。更有甚者,还有些人被刺刀逼着,不知道他们被带到哪里去了,不过,我们后来才知道,在城墙的角隅,他们被供给了军用犬的训练,就那么活生生地被吃掉了。或者供给细菌武器以及化学武器的实验使用,或者还有的人是被日本兵的戏耍而刺死的。
    日军以家畜用的饲料维持着俘虏的生命,每日每天只给3—5两的杂粮(16两等于一斤,即500克),口渴的时候,只能用所内的肮脏的井水解渴,在这样残酷对待的基础上,还被课以苛刻的劳动。因此,大伙都眼看着消瘦起来,虚弱得皮包骨头。每天都有几个人饿死、累死、病死,他们被丢弃在小东门外的外壕里,成为野狗和乌鸦的饵食,外壕里白骨累累,野狗成群结队。什么都不了解的城镇少女,一走到那里,或许就要成为野狗的饵食。
    [2]
    1940年12月日军向我抗日根据地发动了大规模的“扫荡”,这个时候,我在第八分区机关的所在地—山西省交城县中社村。
    天亮之前的黎明时分,中社村突然被日军包围了,当时我担任财务科长之职,恰好患了重感冒,发高烧,收拾账本以及现金等很费事,在就要逃跑的时候,日本兵已经进入了院子。我急忙翻过后墙,好不容易跑到了山脚下,在就要登上山路的那个时候,道路已经被日本兵的机关枪完全封锁了,跑在我前面的两个同志,被“嗖嗖”飞来的机关枪弹击中,当场倒地。就在那一瞬间,我觉得自己的肘部发麻,一看鲜血立即从棉衣里渗了出来。我不得不意识到自己被置于了最危险的境地。我赶快将文书和现金埋在沟里,就这样在埋完了的那个时候,已经被日军包围,我非常不幸地成为了俘虏。
    那一天的上午,日本兵开始了审讯,想要从我的嘴里问出部队的粮食以及弹药,还有武器藏匿的地方,我虽然受到了拷问,可他们什么也没有得到。下午还继续审问,他们把绳索套装我的脖子上,用步枪殴打,气绝之后,再浇以冷水,使之苏醒,反复殴打。可我还是不开口,他们简直就像发了疯的狼一样,最后,将烧得赤红的木炭塞进了我的衣领里……。到了夜晚,我苏醒过来的时候,浑身疼痛,乏力,因为脖子被烧伤了,所以疼得很。用手触摸衣领处烧伤的皮肤,从烧伤溃烂的皮肤渗出来的油脂,将脖子弄的黏糊糊的。在微弱的灯光照耀下一看,沾满了血迹的双手,在那里闪烁着黑红黑红的光亮……。
    日军的扫荡作战在第三天进入了高潮,这一天,就把我们这些俘虏集中起来,将里边是重伤者赶到了人群的右侧。全身是血的我也被收容在人群是右侧。这个时候,一个日本兵突然发现了我是肘部所受的枪伤,就将我拉到了人群的前边,在确认我走路没有任何障碍后,又将我推回到了左侧。就在我回到了左侧的那一瞬间,机关枪的发射声响了起来,在右侧的十数个同志倒下了,喷出的鲜血染红了大地。被逮捕的约半数的同志就这样被枪杀了。我们这些轻伤者就这样被送到了太原的“工程队”,我成为俘虏之后,将名字改为刘建新,在做记录时,我做了虚伪的供述。从这个时候起,我开始了收容所的生活。
    [3]
    1941年春的某一天,我们在收容所沐日光浴,又看到一群被收押来的俘虏,我偶然发现那一群人里边,有我非常熟悉的面孔。我看到他的时候,他也看到了我,就在双方的视线交汇的那个时候,我想起了他的名字,他叫李滋。
    我在山西青年抗敌决死队第2纵队第17团,兼任组织科长和一营指导员的时候,他是第9连的连长。1939年,第二战区召集决死第2纵队的干部,在陕西宜川的秋林进行集训的时候,发生了“晋西事变”,受训中的全体人员被扣留,那里边就有李滋。我中断了与党、与他的联系,后来听他说,他也没有办法取得联系。
    我们再次会面之后,我并没有立即与他接近,可他很快就主动接近我们了,他频繁地从将校食用的伙食里偷出馒头,送给我们八路军成员。没过多久,他利用上厕所的机会,亲自就“晋西事变”后的行动告诉了我。
    据李滋说,阎锡山对扣留的干部进行了收买,让全体人员晋升,任命了官职。他也被任命为山西省中阳县国民兵团的副团长。1941年的年初,他组织了暴动,成功地从县公安局夺取了数十枝步枪,并且在向晋西北归队的途中,他们遭到了阎军的追击,就这样虽然躲过了阎军的追击,可在汾离公路,这一次又遭到了日军的攻击,而不幸成为了俘虏。他以阎军将校的身份通过了审讯,而没有暴露最初作为共产党员、在抗敌决死队执行任务的事情。我们向跟他一起成为俘虏的士兵进行了确认事实关系的调查,确认了他所讲的都是事实。
    与李滋再次会面后不久,我和几个同志被驱赶到了晋南,修建了二十多天飞机场。这期间,留在工程队的同志得到了意外的收获,因为日军释放了一个俘虏队长,他是一个姓韩的将校。陈翻译让一个姓周的阎军将校(这个姓周的人,实际上是抗敌决死第一纵队的干部,经过长年累月,名字想不起来了,他姓周),推荐适当的人选来接替俘虏队长一职,周同志推荐了李滋。李滋还没有暴露自己的身份,而且演技高明,所以,他很适合做从收容所里救出八路军俘虏的工作,可是,李滋对为日本侵略者干事不热心、没有兴趣。对此周同志对他进行了说服工作,一切都是为了成就革命,这是权宜之计,临时的手段而已,最后李滋还是同意干了。就这么有一天,陈翻译叫住李滋对他说“因为你是阎锡山先生的部下,我们信任你,过一两天就任命你为队长”,李滋就这样当上了苦力队长。
    我回到工程队之后,听到了这件事,感到取得了再也没有比这更好的有利条件。这个时候,我们把握的共产党员已经达到了十几个人,结成组织的时期成熟了,经过秘密的讨论,我们选出了我和李滋,还有李一夫这三个人,暗地里建立了党支部。我和李滋一个人担任组织及动员工作,另一个人担任敌伪教育工作。支部成立以后,我们决定了如下的工作方针。
    1,宣传我党抗日救国统一战线的政策,在扩大共产党影响力的同时,纠正阎军俘虏对共产党的错误认识。
    2,开展狱中斗争,争取生活条件的改善,保护同志。
    3,笼络狱中的俘虏和收容所的敌方人员,通过利用他们创造有利的条件,见机争取同志的出狱。
    从这个时候起,我们相互通气,紧密团结,同时利用李滋担任队长这一有利条件,在狱中度过艰苦生活,坚持斗争,坚定了争取出狱的决心。
    [4]
    警备工程队的日本兵不懂中国话,而且害怕传染病,所以不怎么接近收监的俘虏,为此,翻译陈财代替日本兵承担着收容所一方和我们的联系,正因为这样,各类事物的决定权自不待言,实质上就连收监俘虏的生杀予夺大权他也掌握着。党支部决定把拉拢陈财的工作作为重点。
    陈财是福建籍人士,年过三十,他不胖不瘦不高不低,长长的脸盘上架着一副度数很高的眼镜。他的祖父老早就在台湾经商,他随着他的祖父,在台湾长大。日本侵略台湾的时候,他从高等中学校毕业之后,就做了日语翻译。就这样他于1939年,随着日本侵略者奔向大陆而回国,在太原建立了家庭,媳妇是河北省的一个妇女。
    我们进入工程队的时候,就听说陈翻译即使亲自殴打投降的人,也决不殴打被俘虏的人,尤其是对带着枪而投降的人,就更加严厉。他骂道:“你们这些软骨头,带着枪还逃到这里来了,所以说,为了保全性命,说不定明天会连大炮都带着过来的吧!”我们观察他之后就会明白,他对于八路军俘虏的态度,要比其他看守好,甚至还有几分亲切。另外,他训话的时候,常常有这样的讲法“我们中国人,如果不……是不行的”。后来,我们得知他妻子是抗日的,从这样的情况来看,我们判断陈财还没有丧失作为中国人的自尊心,能够让他为我们服务。因此,李滋了发挥队长这一优势,致力于和他建立密切的关系。
    陈财在养活其家族成员的基础上,还有个抽大烟的坏毛病,所以总是在金钱上为难,而且他烟瘾的症状一出现,总是向李滋借钱。为了拉拢他,我们总是不断地给予他金钱。可那些金钱究竟是从哪儿弄到手的呢?我连续考虑了三天,一个好的主意终于浮现出来了。
    当时,已成为俘虏的蒋军将校里边的几个人持有“法币”,当时在太原城内,以100元的法币兑换傀儡政权发行的“联合票”30元,这件事被广泛地实施。而且,如果工程队里的日本兵发现谁持有法币的话,不仅没收,还要问罪。因此,李滋就和他们商量,为那些愿意把法币出手的人,给他们换成“联合票”,持有法币的人很高兴,很快就有巨额的法币出来了。
    是怎样解决兑换问题的呢?我把话题返回到初始,做一下说明吧。医师陈跃庭,原来是阎军第35军的中校医官,他作为俘虏进入工程队之后,就被作为医师而录用。他在太原城内的“浦江会馆”有家,每天从那里来上班,所以,做些什么都方便。一接触他,李滋就感到他强烈地关心国家的前途,有时候还询问起八路军的情况,有一天他对李滋说:“你对我撒谎了吧,老刘在八路军里绝不是什么上士,他非常沉着,很有才能,肯定是将校,不会错的。”“那你就考虑的太多了吧!”李滋进行了搪塞。可陈跃庭却进而继续说道:“我已经注意到你们了啊,你和老刘需要什么?我已经明白了。今后不要把我当外人,有什么需要我的地方,请不要客气地说出来吧,我的心情是抗日的。我对日本人说,我自己既没有儿子,也没有女儿,可实际上我的大儿子在八路军当大队长。请给我绝对保密下去吧!”对于我们来说,陈跃庭的姿态,让我们非常高兴。法币的兑换问题,就这样通过他的协助而解决了。
    对于蒋军的军官们,每100元法币,我们把兑换来的联合票给他们20元,从中得到留下的10元。这就是为了收买陈财的金钱来源之处。陈财也不问金钱的来源,只是“借钱”继续吸烟,金钱恰如绳索一样束缚着陈财,李滋成了他最亲切的朋友。
    有时,陈财对李滋说掏心窝子的话,“日本人屠杀了好多台湾人民,我压制住怒火,为那些日本人干活,找到了饭碗。我想你是抗日的,要说我的本心,我遗憾的是日本人不能给我快点完蛋。因为中国人软弱,战局会怎样发展下去呢?我实在不清楚,内心很痛苦……”。李滋把陈财的想法报告给党支部,支部为了迅速展开营救工作,决定我也参与对陈财的工作。
    因此,李滋就在陈财面前放出风声,说他做中队长的时候,我是记录员,关系很好,后来我参加了八路军等等。陈财兴致勃勃地说,“如果是你的朋友,我当尽力相助呀!”。果然,陈财对我变得亲切起来了。我这边也借此机会,与他接近,关系进一步密切之后,我把毛主席《论持久战》的想法讲给他听,我帮助他正确地认识关于自己的祖国、自己的民族和人民的力量。这些话他似乎听得很新鲜,他渐渐变得或者亲自提示问题,或者对我们要求进一步说明。宣传给他的思想带来了变化,有一天,他向我问起了这么宏大的谋略是谁提出来的呢?我告诉他,是共产党的领袖毛泽东先生,他深有感慨地说“如果这样进行抗日战争的话,怎么会失败呢?”如同趁热打铁那样,我们启发他也应该具有“抗日救国是全体中国人的责任”这样的民族气概。
    可是他说自己无能,既然已经和八路军结下了仇,即使再想做事也不会有任何前途。为此,我遵循支部的精神,与他进行了公开的谈判。其大致的内容是这样的,让他保护八路军同志、如果能创造释放归队的条件,战争胜利之后,则保证他全家人员的安全和工作。因为共产党与一切以抗日为是的人们团结一致。这个时候,他很严肃地听我讲话,我清楚地记得,他到外边叫了两个卫兵,让他们在门外站岗。
    谈话之后,他好几天没有在我跟前露面,为此,我非常担心,是不是因为他过于贪生怕死,而做出某些导致垮台的败露之举,而导致整个工作完全暴露呢?但是,数天后也没见日军的任何举动,我们就抱定也许还能成功的希望。陈财好不容易终于露面了,他叫住我们悄悄地问:“你说的话是真的吗?”李滋回答道:“老刘说的那些话,并不是他自己随便讲的,而是八路军的政策,我在宣传的传单上看到过” 。于是陈财说:“真是那样的话,我们就慢慢地进行吧,决不能让其他人知道,因为我还有家属”。对此,李滋挺着胸脯说“如果败露了,不要客气,把我交出去就行了” 。就这样陈财成了我们的俘虏。而且,从这个时候起,我们的工作迎来了一个新的局面。
    比如,伙房的人员都是国民党的俘虏,我们吃饭的时候,总是受到他们的苛待,受到侮辱,只能吃上少许的饭食和冷水。李滋一提出炊事人员的替换,陈财通过两次回答,了解了情况。于是,从小队长、班长,到全部的炊事员都换成了我们的成员(那里边还有尚未暴露真实身份的几个阎军将校),从此以后,我们同志在狱中的生活得到了显著的改善。侮辱的事件不再发生了,也能够喝上热水了。
    到了夏天,天气越来越热的时候,病死人员的与日俱增起来,我见李滋去茅房,就接近了他,边走边小声说“必须考虑一个好的办法,我们的同志没有死在战场,却死在这里,太令人遗憾悔恨了啊!”他考虑到对于收容所一方,已经只能采取公开形式的抗议,除此别无他法。希望容许把自己暴露与于危险的境地,于是他请求了这一任务,我也想不出别的更好的办法,万不得已,所以只好同意了。
    “日本人虐待俘虏,饭也不给吃饱,在恶劣的卫生条件下,传染病也是猖獗的。这些都明显地违反了国际法,队长李滋要求与他们面谈。”把这样的风言风语一出现,李滋就让李财转达了给日本方面。陈财瞪大眼睛问,“你让人家砍了头才觉得好吗?”李滋表示了连命都舍弃的态度。就这样决定在第二天,松本大佐与李滋会面。陈财跟他一起去,边走边说恳切地告诫他“要小心谨慎地行事”。
    屋子里只有松本一个人,李滋刚进房间还没有坐下,松本就盘问他,“日本人违法国际法之类的话,是谁说的?”对此,李滋回答道:“房间的检查结束,熄灯之后,变为漆黑时听到的,所以不清楚是谁说的” 。于是,松本问:“你认为那些话是正确的吧?”李滋回答:“我想是正确的”。松本问李滋那些正确的理由,李滋是这样回答的:“我在山西第二战区司令部受训的时候,看见成为俘虏的日本人,其衣食住要比我们要好,他们并没有遭到残酷的管理,所以也就没有打算要逃跑。他们说:‘即使跑出去,还是被驱赶于战争,只有死亡,所以在这里最好’。而且,八路军的生活条件对他们来说,更不对头,但俘虏却受到了优待,听说决不虐待。阁下训话的时候,常对我们说’中日亲善’,可是人都饿死、病死了,什么才是亲善的呢?”
    陈财刚把李滋的话翻译过去,松本的脸色眼看着就变成了土色,他提高了嗓门:“你为什么要替犯人说呢!?”可是,李滋沉得很稳:“我并没有替谁说话,只是照准国际法,陈述了应有的待遇而已。我既没有父母,也没有老婆孩子,即使被杀头也没有抱怨。但是,只要你们这样做,就不会有一件好事,骚动还会同样发生的吧……”
    于是,松本就问“究竟要改善什么!你们的要求是什么?”,为此,李滋就提出了要确保每人每日一斤粮食和安全的饮用水。松本原则上同意,并向山西派遣军打了个招呼。
    数天后,收容所接受了我们的要求,传染病渐渐地收拢缩小起来了,在这次斗争中,我们胜利了。
    发生了这些变化之后,我们的同志们意识到了组织行动的威力,都试图不露痕迹地与党组织接触。通过相互的联络,我们的组织扩大了,在党支部的周围,组织了活动小组,我们在这些基础之上,展开了出狱的工作。
    而日本侵略军为了欺骗国际社会,免遭批评,就定期释放重病者。我们就利用这个机会,让陈跃庭医师编造出假病例,进而经过陈财的批准,使数个同志得以解放。我们以这种办法救出的同志,人数达40个以上。他们都能够手持释放通知书,顺利地归队。在第一次释放8个同志的时候,我们把与上级党组织联系的任务,委托给晋绥解放区的民运科长景涛。我们一方面推进狱中的斗争,另一方面等待上级的指示。
    被驱使到远处使役的人们,能够活着回来的人是很少的,还有被带到日本去的人等,也没看到有谁回来。有一天,陈财悄悄地来转告李滋,“明天日本人要将500个人作为苦力,送往日本”,李滋急忙找到我和李一夫商讨对策。我们决定给陈财施加压力,让他考虑个什么好的办法。就这样,我们悄悄地把陈财约到医务室,以严肃的面孔告诉他“不管发生什么事情,也不能把我们的同志送往日本!”陈财的样子很为难,厌烦于考虑,结果是这样说的,“明天,我从我跟前的队列开始,以排列的顺序指定500个人,你们要与大家取得联系,我希望你们在东侧的后边排队,我从西侧开始进行点名”。
    第二天,1400人集合在后院的广场,陈财开始了点名。我们的同志大约有400名,按照计划,排列在东侧最后的尾数列里。被指名的500个人,被塞进了卡车带走,我们的同志安然无恙。我们两次使用了这种办法,得以保护了同志们。
    另外,还有一天,陈财告诉我们,为了提供细菌实验,计划要选拔50个左右的健康者送往东北。因此我们就让陈跃庭写假病历,把20来个八路军的干部转移到重病者房间,避免了灾难。
    某个时候,在新移送来的俘虏当中,我发现了第八分区的郭中楚等7名无线电机要员,说实在的,我的内心不由地感到了恐惧,因为我是这样想的“他们当中,万一出现意志不坚定者,将会给革命带来重大的不良影响”。因此,决定通过李滋,取得对于他们的了解,制定有关的对策。他们的态度很好,所以没有暴露身份,不过,党支部考虑到一旦某些人把这7个同志告发了的话,不仅他们本身要经历悲惨的考验,而且对我军的通讯秘密构成重大的威胁,于是,党支部就把他们的出狱作为紧急任务。为此,我们决定利用下次释放重病俘虏的机会,让他们全部出狱,幸运的是让他们都能够顺利地出了狱。
    然而,我刚才叙述的那个景涛同志,不幸在出狱后的战斗中又被铺了,再次被送到工程队。这个时候,幸而他的经历没有暴露给日本方面,之所以这样说,是因为在工程队的规则里,作为俘虏被再次送来的人,决定由军用犬要死。因为景涛的处境到了危险的状态,李滋等人对他的出狱倾注了全力。通过李滋等人的努力,他连10天都不到就能够出狱,能够得以归队。
    释放重病俘虏的机会再次来临的时候,李滋要利用这个机会说服劝导我出狱。说实在的,无论是谁,在那样的残酷的地方连一秒也不想久呆,不拘怎样,想方设法,总是希望活着出狱归队的。以前,我在晋南飞机场做苦役,从那里回来没多久的时候,出于老战友的情义,李滋很早就利用队长的身份,要实现对我的释放。但是,那个时候,斗争才刚刚开始,李滋以公开的身份是不便进行工作的,何况出狱之类的工作是没办法进行的。我担心的是,我出狱之后工作就会中断。因此,我决意留了下来。就这样,现在虽然有数个同志成功出狱,还有更多的同志们不能从收容所逃出而呆在那里。而且,在几个方面,我已经开始打下了工作人员的基础。我尚被当作必需的人员。我再次拒绝了李滋的好意。李滋也万不得已地说“再等到下一次机会也行,不过,不能就这么老是久居在这里,在这里常常面临着危险”。
    [5]
    国民党军连续败北,很多俘虏被送到了工程队。我们对这些俘虏进行了分析的结果是,虽然在高级将校中,有若干顽固分子,但一般的将校和士兵,几乎都是勉强被动员于战争的可怜人们。因此,对于他们,我们决定要担当团结、教育的任务。党支部基于我党抗日民族统一战线的战略思想,决定在狱中开展实施秘密的宣传活动。其主要内容是,毛泽东同志的《论持久战》的伟大思想,以及我党抗日民族统一战线的政策,还有八路军的优良传统和姿态等。
    通过宣传,他们知道了我们党和军队是真正抗日的,是为了解放贫苦的人们而活动的,因而消除了头脑中的错误观念。而且我们启发激励他们在摆脱困难之后,应该积极地参与抗日活动。李滋利用点名前后的、日本人不在的数分钟空闲时间,呼吁抗日救国。其他同志们利用朋友以及同乡之谊,利用拉家常等方法,致力于宣传。以前没有听说过这样的道理,这些话在他们的耳朵里,听起来新鲜,好像给心灵深处留下了深刻的印象。那些人悄悄地打问我们同志的底细,提出了好多问题等。他们渐渐地尊敬起我们来了,与我们接近起来了。
    因此,我们在他们的中队、小队的干部当中,将有骨气的人培养成领导,在将要到来的机会中,发起叛乱,进行投奔八路的准备。有时候,日军将多达1000人的收押者送往抚顺煤矿,可在经过山海关之前,我们预先制定的叛乱成功了。还有一次,日军将1500人送往唐山的时候,也成功地进行了叛乱。这个时候,在奔向秦皇岛的途中,以互相联络的方式开始了行动。几个人事先解开了绳索,拿着监视的士兵并没有捆住的、不起作用的绳索,事先在这样的状态下,随着吆喝的信号,1000人一齐同时奔向了四面八方。日军仅仅抓回来200多人,众多的逃脱者,在我们培养的干部的带领下,奔向了八路军的根据地。担当运送的傀儡军士兵们回到工程队后说“中了八路军的计谋,上了他们的圈套,人都跑光了”。
    另外,对于顽固分子,我们也不放弃教育的机会。例如:与李滋住同一房间的50来岁的县长就是一例。他的名字叫陈汉英,留学于日本的早稻田大学,会讲日语。他的故乡就是决死第一纵队活动的地区,为此,他憎恨共产党。我们严密地戒备他向日本鬼子告密。后来,李滋从他的言谈中得知,他是基于偏见而憎恨共产党的,从他的不以做亡国奴为是的民族自尊心来看,他对日本人怀有怨恨的心情。如果从救国这一点出发,对他也许还是能够谈话的。因此,我当作李滋的同乡,在李滋的房间以拉家常的形式打发时间,瞅机会也谈及八路军的抗日活动。不久,他就和我们成了好朋友。
    有一天,他恰好患了严重的肠伤寒病,那时工程队的规则是,传染病的重症者全部转移到特号病房等死,其尸体被弃于城外的壕沟喂了野狗。因此,李滋就通过陈跃庭给他写个“轻度感冒”,这样就能让他回到原来的病房,在此基础上,我们进行了充满爱心的看护。陈汉英的病情好转起来了,我去看望他的时候,他说“谢谢你们救了我,如果你们不给予我关照,这个时候我已经成了野狗的美餐”。而且,那天夜里,陈汉英睡不着,就悄悄地和李滋拉嗒起来,“老刘在文武两道上的情谊也是很深厚的,在八路里边肯定是个将校”。李滋搪塞说“他是记录员,和我一起共过事呀!”于是,陈汉英一咕噜翻身坐了起来,打开了话匣子:“老李,请别对我隐瞒秘密的事情了,他老刘所说的话,跟我儿子说的一模一样。我对日本人说既没有儿子有没有女儿,那是因为我儿子给共产党做事。那小子跟薄一波一起干,据听说好像当什么指导员。有一次回到家里来,我就不让儿子跟共产党走、到他们那里去。结果我们爷俩谈崩,关系失和,断绝了父子关系。打那儿以后,就没有见到过儿子,我儿子的年龄与你们差不多,儿子对我讲的内容,跟老刘说的完全一样。我与你们一起,在与疾病作斗争的时候,第一次充分理解了共产党人所讲的道理,我即便是个老朽,今后如果有什么用得着的地方,我愿尽犬马之劳”。
    陈汉英病愈之后就被释放了,工程队把他介绍给伪山西省政府,他被任命为文水、交城、清源、汾阳这四个县的专员。这四个县是我们第八分区活动的地域。陈汉英按照我们的要求,密通八路军,隐瞒了八路军的物质运输,欺骗了日本人。据说,后来他寻找到李滋,与李滋见了面,不过,这个时候的陈汉英,他已经为八路军办事,支持儿子参加共产党,并不愿意为日本人办事。他为了把这些告诉给去向不明的儿子,他哭着委托李滋,希望李滋寻找到自己的儿子,承担起联系的辛劳。
    [6]
    1941年的夏天将要结束的时候,有一天,日本人翻译突然把李滋传唤到松本的跟前,而且冷不防地进行了“谈判”。松本盘问他是否与叶挺有联络?与共产党保持着什么关系,并说是某某人告发了他。这个时候,李滋灵机一动,掩饰欺骗过了松本。可是这个严重的警告,意味着我们的行动已经被日本方面监视起来了,肯定有告密者。
    我们都是发自心底的意愿,想一起同时离开收容所,可只有李滋能够做到把狱中的工作停下来。为此,我们只能把一切委托给李滋处置,我先出狱,由李滋巩固后方阵地。这个时候,有一件机会很好的事情,正好陈财为了在太原城内经营零售业,他考虑的是,骡子弄到手后,想雇佣一个驾驭骡子的人、作为自己农田的佃户。因此,我以陈财佃户的借口逃出了收容所,并且把狱中党支部与上层支部联系的任务交给了我(以前虽然取得了联系,这个时候,联系又中断了)。
    出狱之际,李滋把我送到了大门的入口处,我再也不会有再进来的可能了吧。昏暗的大门洞里,日本兵的刺刀闪烁着寒光。我走出大门回头一看,李滋刚毅的目光和微微点头的动作映在我的视线里。李财为了送我,也来到了大南门,一过了汾河桥,他就告诉我前往根据地的方向,然后就回归了收容所。
    我与陈财分别后,行走如飞地越过了西边的山峦……。连续走了三天三晚,好不容易到了交城的山会立村,即第八分区司令部的所在地。我回归了温暖的根据地,简直就想自己家似的。就这样我向分区党委会报告了情况,之后就病倒了。
    数天后,晋绥军区发来了指示。其内容是:使用工作资金,收买陈财的买卖生意作为联络点,为我军转向解放太原,进行准备工作;同时,收容所里的党支部要继续斗争,李滋同志要利用伪装的身份,推进收容所里的内应工作,在争取到释放的时候,在傀儡军的内部实施内应工作。另外,上级决定了潜入太原,去刺探李滋和陈财的工作主旨。不带证明书之类的任何东西而进太原城,是非常危险的,即使一点差错,如果发生了的话,生命就不能保证。可是,熟知情况的人只有我,所以除了我去以外,别人是不能够完成任务的。刚刚脱离虎口,卧病在床的我,向领导们转达了一定完成任务的强烈决心,我带着敌工科长段士楷,再次深入到虎穴去了。
    我们二人首先到了太原的郊外,拜访了李成牛,让他把陈财叫来。李成牛是作为佃户而被陈财雇佣的贫困农民,因为经常进入收容所回收粪便,所以能够见到陈财。后来,李成牛担负起我党与收容所党支部联络的任务。
    陈财一来到,我和老段就与他谈起了买卖生意,要求他与我们合作。陈财并没有失去作为中国人的自豪,两次回应了我们的要求,愿意为抗日活动做贡献。老段把资金交给他,决定我留在这里,与他共同做“生意”。最后,老段要求陈财要保证我的安全,尽可能快地把我的证明书弄到手,还有继续做好救出李滋的工作。陈财就各方面的工作,一一确认了双方的约定。那天晚上,老段就住在李成牛的家里,第二天返回了根据地。
    打哪儿之后,我跟着陈财进了城,尽管他想了很多办法,可还是不能够发给我证明书。因此,只能暂时住在他家里,他每天晚上从收容所一回来,就把我带到外边去做“生意”,我也效仿陈财换了着装,将绸缎长袍和西洋礼帽穿戴在身上,鼻梁架上平目眼镜,乘人力车出入。人们以为我是拥有哪个商号的买卖人吧,即使遇到检查盘问,只要跟陈财在一起,连日本人都不加任何过问。
    有一天,我和李滋再次在陈财家得以会面,我记得李滋非常高兴,他希望早日离开收容所而归队,和同志们一起战斗。可是我把上级的指示转告给了他,于是,他毫不犹豫地表示了决心,“在情况又变得困难的现在,我还是愿意坚持完成现在的任务,以营救同志们的出狱,来尽力于革命事业”。我们二人都眼角含着热泪,互相把双手紧紧地握在了一起。
    在陈财的帮助下,活动已经过了一个月,终于能够确保房子和收入来源了。这个时候,上级发来了迅速将李一夫同志从收容所救出的指示。当时,李一夫同志还被使役于飞机场。因此,陈财穿着日军的军服,驾着汽车去了飞机场,说是有事,就把李一夫从一群苦力当中叫了出来。就在日军的卫兵还没有弄清究竟是什么理由的时候,李一夫同志就上了汽车,汽车由陈财驾着,离开了戒严态势的飞机场。而且,由陈财驾驶,我和李一夫平安地来到了城外的李成牛的住宅。李成牛的父亲给我们拿出了简单的饭菜,而且把我们伪装打扮成亲戚,送到了大黑山的山脚下。
    我和李一夫同志一到达第八分区,就向党委会进行了报告。数天后,晋绥军区发来指示,要我们去军区报告情况。因此我们二人到第120师的司令部报到,详细地向甘泗淇主任和敌工部的程钟部长进行了汇报。甘主任高兴地说:“你们辛苦了,同志们的活动,是对革命的重大贡献啊!”还特别买了一只鸡,招待了我们。之后,这项工作就决定在第120师的指导下进行,我也回归了部队。
    (笔者刘侵霄,现在在内蒙古军区担任顾问。文中出现的李滋,现在的名字叫李树德,在西安八府庄机制煤球厂工作。景涛现在在北京化工部工作。另外,段士楷现在在军师委员会空军后勤部工作。本文的一部分,源自于李树德的回忆笔记)
    (全文译完)

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