李庭章さん


犠盟会への参加
山西省北部五台山の麓で育った李さんが抗日愛国組織の犠牲救国同盟会に参加したのは、日華事変が勃発して三年が過ぎた1940(昭和15)年のこと。愛国心に燃える十七歳の青年だった。犠盟会は、発足当初こそ会長に就任した閻錫山が影響力を保持していたが、当初より中共の影響力が強く、戦争の進展でその影響力は拡大する一方であった。李さんが参加した時点で、すでに犠盟会には中共が深く浸透していた。全く新しい視点から救国の理念を掲げる中共の主張に自然と心が向いていった。犠盟会に参加してまもなく、李さんは共産党に入党した。

李さんが犠盟会員として活動を始めたのは、地元の五台県附近を統轄する五台中心支部。このとき李さんは自分にとって生涯忘れられない人に出会った。「抗日劇社」という演劇の責任者をしていた支杰さんだ。

生涯忘れられぬ恩人との出会い
支さんは河北省唐県出身で、歳は二十代半ば。彼はちょうど満州事変が起きたときの十五~十六歳の若いときから、故郷の唐県で劇団を組織し、抗日愛国を題材にした芝居を行っていたという熱血漢だった。日華事変の勃発後は犠盟会に参加し、五台中心支部に派遣されてきていた。年が十二~十三歳離れていた支さんは、良き先輩として李さんを助けてくれた恩義ある人だ。五台山の山中での活動を三年余りともにして、ふたりは大親友になった。

李さんの自宅にて李庭章さん(右)。左は同僚でもある李献瑞さん。(太原,1997年3月)

李さんの自宅にて李庭章さん(右)。左は同僚でもある李献瑞さん。(太原,1997年3月)

1943(昭和18)年になると、李さんは五台山から代県へと移動となった。当時代県附近を統轄していた山栄県で第二専区の党書記を任命されたからだ(*1)。そこでの主任務は中共軍の補給を確保することだった。そして翌年の春になると、今度は恩人の支さんも代県に派遣されてきた。直前に日本軍との戦闘で負傷した足を治療して赴任した支さんは、李さんと同じ山栄県の区党書記を任命されたのだった。第二専区の李さんに対して支さんは第三専区。代県の県城から南約十キロに日本軍の陽明堡飛行場があることから陽明堡地区とも呼ばれる重要地域だった。

しかしこの時期、中共は兵力抽出で警備力の弱体した日本軍への攻勢で活動が忙しかった。そのため、せっかく支さんが代県に派遣されてきても二人にとって旧交を暖める時間はなかった。二人はそれぞれの活動に忙殺されていた。そんななか、8月に李さんの第二専区に属する任家荘という村で、晋綏解放区第五戦区に属する各県代表会議が開催されることになった。代県各区の責任者として二人も会議に出席することになった。一年近く会っていない支さんに久しぶりに会う良い機会だった。

(*1)党と政府は一体で、党委員会書記が党と行政を統括する。区の党委員会には、書記、組織、宣伝、青年、婦女、職工、武装の各部があり、李さんは書記として各部を統轄していた。

再会
8月のとある日、任家荘で会議が開催された。今後の方針や具体的な活動方法など、活発な議論が交わされ、午前中で始まった会議も終わった頃には陽も傾き、外も暗くなりはじめていた。会議に参加していた各代表はそれぞれの任地へと帰っていった。しかし、久しぶりの再会で語り合いたいことが山ほどある李さんは支さんを引き留めた。

「もう空も暗くなり始めたし、私はここらへんの土地はよく知っているから、明日の朝出発しよう」

その夜ふたりは任家荘に泊まることになった。もちろん李さんはこのとき、その後に起こること、その事で自分が一生後悔の念を抱き続けることになろうとは思いもよらなかった。

宿泊先の農家に入り、食事を済ませて床につくまで二人は語り続けた。自分の家族の近況から五台山での思い出、戦局の行方と今後の活動など、いろいろと語りあいたいことが多くてとても一晩では語り尽くせなかったほどだ。夜がかなり更けてから、村の外で警戒のために青年をひとり見張りに立てて、ふたりはようやく床についた。

包囲
床について数時間がたったころ、熟睡していた李さんたちは、村の外で見張りに立っていた青年の鋭い声に叩き起こされた。

「日本兵来了!快走!(日本兵が来た!早く逃げろ!)」

李さんたちは慌てて床から飛び起きると、急いで靴を履いて家の外に出た。そして見張りの青年に日本軍がどの方向から来て、どちらの方向に逃げればいいかを聞こうとした。しかし夜明け前の薄暗い暗闇のなかでどこにも青年の姿は見あたらない。彼は「日本兵が来た!」と叫ぶと、誰よりも先に逃げ出してしまっていたのである。

李さんたちは薄暗い暗闇の中で、最悪の事態を考え、とりあえず上着のポケットに入れていた書類を埋めることにした。たとえ便衣を着ていても書類など持っていれば言い逃れもできず、情報も漏れてしまうからだ。農家のそばの目立たない場所に穴を掘って書類を入れる。土をかけ終わったとき、既に空は明るくなり始めていた。

この時点で既に村の周囲は日本軍に包囲されていたようだった。李さんたちはとりあえず日本兵が警戒するであろう谷の道沿いは避けて、裏の山の方へ逃げることにした。しかし、村の裏手から山のほうへ向かって急ぐと、明るくなった空に照らされて、周辺の山々の稜線にぽつぽつと人影が見える。日本軍は周辺にも兵を配置して村を完全に包囲していたのだ。どこからか会議の情報が漏れ、周到にたてられた作戦なのかもしれない。仕方なく李さんたちは日本兵の死角を見つけて包囲を突破しようと、道のない谷底へと下りていった。

支杰さんの死
山の斜面を下って谷に下りていく時、李さんは前をゆく支さんが手に拳銃を握っているのが目に入った。李さんも普段なら拳銃を持っているのだが、あいにくこのときは八路軍の大隊長に貸したまま逃げてきたので持っていなかった。おめおめと捕まるくらいならいっそのこと彼の手で…と思い、李さんは支さんの手に握られた拳銃を見ながら

「もし日本兵に捕まりそうになったら迷わず撃ってくれ」

と言った。しかし支さんは「君は何を言っているんだ。後ろからついてきなさい」と一喝すると、拳銃を構えて先を進んでいく。

山の斜面から谷底に降りてみると、地面は水たまりばかりで泥でぬかるんでいた。足が泥に捕まり、歩くこともままならない。そのうち徐々に陽があけてきて、谷底も明るくなってきてしまった。朝の陽光にぼんやりと、ぬかるんだ谷底を逃げる李さんたちの姿が日本兵の目に映る。逃げる二人を発見した日本兵が山の上から降りてきた。

しばらく行くと、前方がエス字型に曲がった所で、先を日本兵にふさがれた。後ろからも日本兵がやってくる。先を進む支さんの拳銃を撃つ音が谷底に響いた。双方の銃声が谷底に響き渡る。やがて銃声が途絶えると、李さんは後ろからやってきた日本兵に捕らえられてしまった。李さんは任家村へと連行されることになった。日本兵に前にせき立てられ、エス字カーブを曲がると、銃弾を浴びて息絶えた支さんの姿が目に入った。支さんの遺体の脇をせき立てられて、李さんは村へと連れて行かれた。

「黄閻王」
村まで連れ戻された李さんは、一人の日本兵が部下の兵隊の顔を革のベルトでバンバン殴っているのに遭遇した。殴られている日本兵は、顔がふくれあがり、血を流しながらも懸命に直立不動の姿勢で立っていた。李さんは衝撃を受けた。同じ日本人同士、しかも仲間に対してもあのようなことをするとは想像もできなかったからだ。

やがて李さんは隊長らしい一人の将校の前に引っ張られた。細面の顔をした三十歳過ぎの男で、肌の色は白く中肉中背。胸ポケットの上あたりに名札が縫いつけられていた。「和田××」という名前だった。李さんにとっては初対面だがその男の名は知っていた。「黄閻王」と呼ばれて代県の人々から恐れられてきた存在だからだ(*2)

住民たちによれば、「黄閻王」こと和田は1937(昭和12)年に代県にやってきて以来、多くの住民を殺し、まるで閻魔のような所業だと恐れられ、代県の発音で和田の「和」と「黄」の発音が似ていることから、それをかけて「黄閻王」と呼ばれるようになったという。噂によると和田は軍人として代県に来る以前に上海で軍属として謀略活動に関わっていたらしかった。そのような中国での経験のためか否かはわからないが、階級が下の下士官である和田に対して、将校が敬語を使っていたという話も聞いていた。思いがけず、うわさの「黄閻王」を目の前にしたことに気がついた李さんに、和田は流ちょうな中国語で質問してきた。

「おまえは何という名前で、八路でどんな任務を行っているのだ」と言う和田に、李さんは名字だけ変えずに「李士中」と名乗った。そして「新聞の仕事に携わっている」とだけ答えた。「なんの新聞だ」と和田は聞く。李さんは言った。「抗日の新聞だ」。和田はさらに八路軍の場所、武器の在処、抗日政府の所在などを聞きだそうと迫る。しかし、李さんは頑として「私は新聞の仕事のことだけしか知らない」と突っぱねた。すると和田は、おもむろに腰につるした軍刀を鞘から払い、切っ先を李さんの胸へ突きつけた。

「いいか、本当のことを言わないと今すぐ殺すぞ」。

軍刀を突きつけられた李さんは、冷静を装って答えた。

「本当のことを言っているのだからしょうがない」。

お互い沈黙した。時間が過ぎるのがとても長く感じた。すると、

「おまえを殺すのはやめだ」

和田はこう言うや否や、軍刀を鞘に収めた。一筋縄ではいかないと思ったのだろう、ホッとしたのもつかの間、今度は和田よりも上手な中国語を操る日本人の通訳にもう一度同じ質問を受けることになった。しかし、今度は頭を拳大の石で殴るという拷問付だった。李さんは和田に答えた内容と同じことしか答えなかった。しかし、このときは意識が朦朧となって記憶が曖昧になるぐらい、何回も頭を殴られた。そしてしばらく殴られ続けると尋問しても無駄だと感じたのだろうか、正午頃、中国人の保安隊に引き渡された。

(*2)のちに見るように李さんが捕まった部隊は、日本軍と保安隊が合同したF部隊。「黄閻王」こと和田は保安隊の指導官だった可能性が高い。

行軍
尋問が終了してしばらくすると、日本軍と保安隊は次の目的地へと出発を開始した。李さんは尋問のときの殴打で頭がぼうっとなったまま後ろ手に縛られ、その縄を首に巻かれた。そして馬に乗った士官が縄を持った状態で歩かされることになった。行軍中に保安隊の兵士の言葉から、次の目標が山底村であることが分かった。ここから東へ三十分程度の距離だ。また、李さんが捕らえられたのはF隊長の率いる部隊だと分かった(*3)。F部隊は日本軍と保安隊併せて大隊ぐらいの規模であることも分かった。

一時間も歩かないうちに山底村に到着した。F部隊はここでも武器の捜索と住民への尋問を行った。しかし何も出てこなかった。村でしばらく休息したF部隊は、手旗信号によって各隊に信号を送り、次の村へと出発した。村を出る際、F部隊は火を放っていった。家が燃えるキナ臭い煙とバチバチという音を後にして、次の目的地である陽溝村に向かう。山底村から南に約1時間の距離だ。

陽溝村に到着したときには陽も西に傾き、夕暮れが迫る頃だった。F部隊はここで一泊するらしく野営の準備を始めた。李さんも使役をさせられる。捕虜となって身心共に疲れ切っていた李さんは、使役が終わるとすぐに眠りについてしまった。

翌日、まだ夜も明けてない朝の三時か四時頃、李さんは保安隊の兵士に起こされた。夜明け前に行動を起こすのは軍隊の常だ。次の目的地である馬圏溝村へとF部隊は出発した。

(*3)代県には独立混成第三旅団(造兵団)の独立歩兵第六大隊が駐屯しており、李さんが捕らえられたF部隊は、当時同大隊第二中隊長を務めていたF隊長率いる日本軍と保安隊による合同部隊だった。

死んだはずの男
馬圏溝村は一泊した陽溝村から北へ約十二キロ。山西の険しい山間を縫う行軍が続く。午後になって村に到着した。今日の行動はこれで終了で、F部隊はここで野営するらしい。李さんも野営の準備をさせられる。そんなとき、一人の男が李さんの前までやって来た。

「おまえは李庭章だろう?」

声をかけてきた相手を見た瞬間、李さんはアッと驚きの声を禁じ得なかった。と同時に背中が寒くなった。李さんの前に立った男は、死んだはずの安儒だったからだ。 彼はまたの名を「五旦」と言い、一年前までとある村の村長をしていた。当時の村の多くは昼間は日本軍や保安隊が駐屯し夜は中共軍が駐屯するという状況で、村長には両方に顔の利く人間が据えられていた。安儒が村長をしていたのもそんな理由からだったが、阿片を吸い、村人の物を盗んだり横取りしたりする彼の評判は悪かった。そのうち、彼にスパイの疑いがかかり、中共軍は彼と彼の仲間二人を処刑することに決めた。処刑の件は代県の責任者である李さんにも承知していた。中共軍は安ら三人を村の裏山に連れていき、銃殺したはずだった。

死んだはずの男を目の前にして驚く李さん。安は確かに裏山で中共軍の兵隊に拳銃で撃たれていた。しかし使ったのが手製の改造拳銃だったため、弾は彼の頭の上を滑っただけだったのだ。死んだ振りをして生き延びた安は、日本軍が駐留する代県城内に逃げ込んで食事係として働くようになった。そして今回、F部隊の作戦に同行してきて李さんと再会したのだった。

安の頭には、弾丸が滑った一筋の傷跡があり、そこだけ髪が生えていなかった。そんな彼の頭を見ながら、李さんは「もし俺のことを言ったら、おまえは必ず死ぬぞ」と言った。すると彼は意外にも「大丈夫、貴方のことは黙っているから」と言う。そんなふたりが小声で言葉を交わすのを見て、保安隊の兵士が近づいて来た。そして安に向かって「こいつを知っているのか」と尋ねた。李さんの胸を緊張と不安が覆う。安は保安隊の兵士に「もちろん知っている」と答えた。そして、続けてこう言った。

「彼はとてもいい人だから、なぜあなた方に捕まるのか、私には見当が付かない」

この一件で、李さんに対する保安隊兵士の態度も多少穏やかになった。気がゆるんだ保安隊兵士の隙をみて脱走に成功する布石になったとも言えるかもしれない。その後、新中国成立後に安は戦前の行いを糾弾され、「反革命分子」として審問された。李さんは手紙でくだんの様子を詳しく書いて代県政府に送った。李さんの手紙で安は重罪を免れ、減刑されることになったという。

保安隊兵士たちの不安
翌日、馬圏溝村で一夜を過ごしたF部隊は、まだ夜の明けない3時か4時頃、闇夜の中を出発した。馬圏溝村から東へ約十キロの位置にある楊荘村と棗園村へ向かう。この二つの村は抗日根拠地として有名だったようだ。李さんが村に到着したとき、村には兵隊があふれかえっていた。この二つの村を攻撃する兵力としては多すぎると感じるほどの規模だった。この村でも日本軍は逃げ遅れた村民数十人ほどを一箇所に集め、中共軍の居場所や武器の在処などを尋問していた。しかし、やはりここでも成果はなかったようだった。棗園村では、多くの中国人兵士が村の各家を荒らし、食料などを略奪していた。日本軍は糧食を持参しているらしく、略奪を行わなかった。そしてF部隊は午後になってから周辺地域を捜索した後、次の目標である胡峪村へと移動を開始した。

捕虜として保安隊兵士に連行されて行軍する間、多くの中国人兵士が盛んに話しかけてきた。三日間も一緒にいて打ち解けたようだ。そんな彼らは日本軍のそばにいて戦局の雲行きをすばやく感じとっていたようで、多くの兵士が「もし日本が戦争に敗けて、共産党が政権を取ったら自分たちはどうなるのか」と質問をしてきた。李さんは「悪いことをたくさんしていれば当然捕まってそれ相応の処罰を受けるが、保安隊の中にいても中共軍に協力すれば、それなりに悪いようにしないだろう」と答えた。そして、事あるごとに中共の理念や活動を話した。日本軍は前方を歩き、保安隊は後衛だったので、そばに日本兵がいなかったのが幸いだった。小休止の最中に話をしている際、日本兵が近づいてくると話をやめ、遠のくと又話し始めるというのを繰り返した。

このとき李さんを連行していた分隊の班長は非常にいい人であった。班長は李さんに対して敵意を持たずに接してくれていた。李さんは彼から今後とも仲良くしていこうと言われたのを覚えている。また、副班長は班長よりも長く保安隊にいるらしく、それほど李さんに対してうち解けた様子は見せなかったが、彼は李さんに向かって「君も家に帰ったら、保安隊に入りなさい」と言った。小銃の扱いが非常になれていたのが印象に残っている。

しばらくすると、一人の保安隊兵士がどこからか小さいナイフを探してきた。そして、縄で後手にしばられて歩く李さんにこっそりと渡してくれた。あとは機が熟すのを待つだけだ。

決断
F部隊は胡峪村を経て、三日前に通過した陽溝村に戻ってきた。陽も暮れ始め、今日の作戦は終了だ。兵士たちが野営の準備にとりかかる。李さんにとっては三度目の野営だ。

李さんは三日間、F部隊と行動をともにした。任家荘から山底村、陽溝、馬圏溝、陽荘・棗園、胡峪、そしてまた陽溝。直径十五キロほどの範囲を、時計回りにぐるりとまわっている。今までの行動パターンから、陽溝村からは必ず西へ進み、自分が書記を務める第二区周辺へと移動して中共軍を探すだろうと予測した。

翌日、真っ暗なうちから行軍が開始された。西に向かっている。李さんが予想した通りだ。F部隊は第二区周辺へと移動を開始した。そして兵士たちの会話から、払暁の攻撃目標は戸家荘であることが分かった。戸家荘には自分を知っている人が大勢いる。単なる新聞員ではなく、中共幹部である李さんの身分がばれることは間違いない。そうすれば命はないし、村民にも危険が及ぶ。なんとしても戸家荘に到着する前に逃げなくてはならなかった。そして行軍を開始してしばらく、朝の五時頃だろうか、まだ空は明けてない真っ暗なとき、戸家荘から1キロ半の距離に迫った。今しかない、李さんは決断した。

脱走
李さんは、保安隊の兵士に、小声で「おなかが痛いので、用を足してきたい」と言った。しかし、李さんを後手に縛った縄を持つ兵士はこともなげに「ここでやれ」と言う。そこで李さんは副班長に向かって歩道から少し離れた場所を指さながら「ここでは臭くて迷惑だからあそこでしてきます」と言った。副班長は李さんの指さす方向に目をやった。そこは多少藪が生えているが、下り坂になっており、よく見渡せる場所だ。そこなら大丈夫だと思ったのだろう。「ああ、分かった、分かった。行って来い」と言うと、部下に命じて縄をほどいてくれた。

李さんは道からはずれ、背中に保安隊兵士たちの視線を感じながら歩き始めた。副班長の小銃を扱う手慣れた動作が脳裏をかすめた。しかし李さんは確信していた。攻撃目標である戸家荘からこの距離で小銃を発砲すれば、銃声を聞いた村人たちは逃げだし、村はもぬけの殻となる。そうそう兵士たちも小銃を撃つことはできない。そして用足しの場所に着いた途端、全速力で下り坂を駆けだした。

必死の思いで坂道を転げるように逃げる。どれくらい走っただろうか。吐息をこらえて、暗闇のなかで耳をそばだてる。追っ手はいないようだ。李さんは幸いにも、背中に一発の銃声も聞くことはなく、脱走に成功した。運良くF部隊から逃げ出せた李さんは、東にある段家荘という村へ向かうことにした。これならF部隊と反対の方向で安心だからだ。

ところが疲れと興奮で方向感覚がずれていたようだ。自分では東へ進んでいるつもりだったが、実際には西の方へ進んでいた。そのため、逃げ出したF部隊のちょうど下を平行して進むこととなってしまった。方向感覚がずれていたのは、日本軍が駐屯していた二十里鋪という村に着いたときに分かった。李さんは用心して二十里鋪から離れ、北へ一キロの所にある候家溝に向かった。候家溝の村長、候狗々はよく知っている人物だ。便宜を図らせることができる。

「私が李庭章だ!」
しばらく歩いて候家溝に到着した。しかし油断はできない。村はずれの西瓜の畑の中に身を隠すことにした。しばらくすると一人の農夫がやってきた。畑の持ち主らしい。李さんはその農夫に声をかけた。「ここには八路の幹部はいないか」。農夫は、多少驚いた様子だったが、李さんが中共らしいとわかるとよってきた。そして、「いまはいないが、昨日もこの村で会議があった」と答えた。そこで李さんは、「会議の主催者は誰か」と聞いた。するとその農夫は、なんと「第二区書記の李庭章だ」と言う。さすがの李さんも怒ってしまった。

「うそをつくな。私が李だ!。三日間も日本軍に捕まっていて、今逃げてきた所なんだぞ」。

李さんは農夫に候村長を呼んでくるように命じた。しばらくして候村長がやってきた。手に着替えの上着と靴を持っている。候村長は、李さんの前にくると涙を浮かべながら「日本軍に捕まって助けたかったが、とても助け出すのは無理でどうしようかと思っていた」と言った。「逃げてきて何よりだ」と無事を喜ぶ候村長は、着替え終わった李さんを村の一軒の農家に招き入れた。しばらくすると暖かい食事が出てきた。久しぶりにゆっくりと食事が摂れる。

正午過ぎ、李さんは候家溝の農民を道案内に頼み、中共軍の根拠地である西平安村へ向かった。そこで政府の同僚や友人に迎えられた。皆が李さんの無事を喜んでくれた。李さんはこれ以降、終戦まで日本軍に再び会うことはなかった。

1945(昭和20)年8月15日。日本が無条件降伏を受諾し、戦争は終結した。この日、李さんは代県の盆児窟という村にいた。そこで無条件降伏の報を聞いた。うれしかった。八年間に渡る戦争の記憶を思い起こした。感慨無量、万感の想いだった。

終戦によって日本軍が去っても戦いは終わらなかった。第二戦区司令長官であった閻錫山と中共軍の内戦がすぐにでも始まりつつある状況だった。李さんをはじめ中共活動家たちは休む暇もなく、次の任務へとかり出されていった。李さんも終戦後すぐに大同に派遣された。

いつまでも忘れられない
日本との戦争、その後の国共内戦を生き抜いた李さんは、新中国成立後は体育関係の部署に配属となった。戦争体験談で紹介している李献瑞さんと同じ職場だ。共にずっと同じ職場で働いてきた同僚だったが、お互いに自分の戦争体験を語り合ったことはなかった。戦争のことを思い出すと、必ず支杰さんを思い出すからだ。李さんは、あのとき支さんを引き留めなければ命を落とすことはなかったと今でも後悔の念が絶えない。この戦争体験談を話した時も、七十四歳の彼は一人にして欲しいと席を立った。戦争体験は半世紀以上経ても当事者にとって重い記憶でありつづけるのだ。

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000018.html

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4 thoughts on “李庭章さん

  1. 山西大同陈尚士

    李庭章先生的战争体验谈
    土八路译自日本网络
    http://shanxi.nekoyamada.com/
    1940年(昭和15年),李庭章17岁的时候,参加了牺牲救国同盟会,后来加入了中共。在代县的活动中,他们遭到日军的攻击而被捕,在那个时候,一起行动中的恩人死去了,他作为俘虏在被带走的途中,成功地瞅空逃脱了。
    加入牺盟会
    在山西省北部五台山麓长大的李先生,参加抗日爱国组织—牺牲救国同盟会的时间,是卢沟桥事变爆发之后,过了3年的1940年(昭和15年)。那时,他是个洋溢着爱国热情的17岁的青年。牺盟会在发起的当初,就任会长的阎锡山虽然保持着他的影响力,但中共从一开始就有很强的影响力,由于战争的进展,其影响力越来越大。在李先生参加牺盟会的那个时候,中共已经深入地渗透到了牺盟会了。人心自然地倾向了完全来自崭新观点的、宣扬救国理念的中共的主张,李先生参加牺盟会不久,就加入了共产党。
    作为牺盟会员,李先生开始活动的地方,是统辖当地的五台县附近的五台中心支部。就在这个时候,对于他自己来说,遇到了他终生也忘不了的一个人,那就是演出剧目的“抗日剧社”的负责人支杰先生。
    与终身不能忘记的恩人的相会
    支先生的籍贯是河北省唐县,年纪25岁,在9•18事变爆发的时候,他恰好是一个15、6岁的孩子,从年轻的时候起,他就是一个热血汉子,在家乡唐县组织剧团,演出以抗日爱国为题材的剧目。卢沟桥事变爆发后,参加了牺盟会,被派遣到了五台中心支部。年纪相差12、3岁的支先生,是作为长兄帮助了李先生的恩义之人。他们在五台山的山中一起活动了三年多,两个人成了亲密要好的朋友。
    李庭章在自己的家中(右),左侧也是同事的李献瑞先生。(太原,1997年3月)
    到了1943年(昭和18年),李先生由五台山向代县转移,当时统辖代县附近的是山荣县,因为他已经被任命为第二专区的党委书记(注1)。在那里的主要任务是确保中共军的补给。就这样,到了第二年的春天,这一次他的恩人支先生也被派遣的到了代县,前不久,支先生在与日军的战斗中足部负伤,这是为治了伤病而赴任的。他与李先生一样被任命为山荣县的区党委书记,相对于第二专区的李先生,支先生负责的是第三专区,在代县县城约10公里处,因为那里有日军的阳明堡飞机场,所以,那里也是被称为阳明堡地区的重要地域。
    (注1):党和政府是一体的,党委会的书记统括党和行政。区党委会有书记、组织、宣传、青年、妇女、职工、武装各个部门,李先生作为书记统辖各部。)
    可是,中共在这个时期抽出兵力,对警备力脆弱的日军发动了攻势,活动频繁了。因此,支先生即使好不容易被派遣到代县,对于他们二人来说,还是没有时间重温旧交,都忙于各自的活动。在这种情况下,8月份,在所属于李先生第二专区的一个叫做任家庄的村子,召开了属于晋绥解放区第五战区各县代表会议,作为代县各区的负责人,他们二人出席了会议,他们已经隔了近一年之久没有见面,这是一个与支先生会面的很好机会。
    再次会面
    在8月份的某一天,会议在任家庄召开了,就今后的方针以及具体的活动方法等进行了热烈的讨论,会议是上午开始的,在结束的时候,日头也已西斜,外边已经昏暗起来了。参加会议的各个代表,分别向各自的任地归去了。可是,这是隔了很久的再次见面,李先生有说不完的语言想倾述,就把支先生留了下来。
    “天色已经黑下来了,我对这一带的地形很熟悉,明天再走吧”
    那天夜里,两个人就住在任家庄。当然,在这时候的李先生,万万没有想到之后发生的事情,以及因为这件事,他后悔、内疚的心情,成为自己一辈子都挥之不去的阴影。
    两个人在农家住下,吃完了饭,一直交谈到上炕就寝才罢。从自己的家庭近况,到在五台山的回忆、战局发展的趋向以及今后的活动等,想交流的话题非常广泛,无所不及,那情形是一个晚上也说不完、道不尽的。夜幕很深了,作为警戒,在村外安排了一个人放哨,他二人好不容易就寝睡下了。
    包围
    就在躺下过了数小时的时候,熟睡着的李先生他们被站在村外放哨的青年急促的敲门声惊醒。
    “日本兵来了!快走!”
    李先生他们慌忙地从炕上翻身跃起,穿上鞋离开了房间来到了外边。并且打算向放哨的青年问问日军从哪个方向来的?自己向哪个方向躲避为好?可是,在黎明前朦胧的黑暗中,哪儿也看不到了青年的身影。他叫了一声“日本兵来了!”之后,就比谁都快地先行逃走了。
    李先生他们在朦胧的黑暗中,考虑到了最坏的事态,匆忙决定先掩埋藏在上衣口袋里的文件。因为即使穿着便衣,如果带着文件之类的东西也是不能够支吾推脱的,情报也会彻底泄露的。于是就在农家旁边不显眼的地方,挖坑放入文件,当覆盖完沙土的时候,天色已经开始亮了起来。
    就在这个时侯,村子的周围似乎已经被日本兵包围了,李先生他们仓惶决定,避开日本兵可能警戒的、沿着山谷的小路,向后山的方向逃跑。可是,从村后向深山的方向奔跑的时候,在明亮天空的映照下,在周边山峦的山岭上,已经能够看见稀稀拉拉的人影。日军也在周边布置了兵力,已经将村子完全包围了。会议的消息也许是在某个环节上泄露了,日军制定了周密的作战计划。没办法,李先生他们找到日本兵的死角,准备要突围,向没有道路的谷底奔去。
    支杰先生之死
    通过了山的斜坡,在下到谷底的时候,李先生看到走在前面的支先生手里握着手枪,要是在平时,李先生也是带着手枪的,可是,那个时候不巧把枪借给了八路军的大队长,他就是那么空着手逃跑的。他想,要是恬不知耻、厚着脸皮被抓住的话,倒不如以他的手枪……,李先生一边看着支先生握在手中的手枪,一边说“如果到了快要被日本兵抓住的时候,就不要迟疑,给我射击!”可支先生却喝道“你说什么?给我跟在后面!”之后,紧握手枪走在前面。
    从山坡下到谷底一看,地面全是水窪,泥泞不堪,不能行走。腿脚被泥巴粘住,连步都迈不开。就在这个时候,太阳徐徐地升了起来,谷底也完全变得明亮了。在晨光的雾霭里,逃跑在泥泞谷底的李先生他们身姿,映在日本兵的眼里。日本兵发现了逃跑的这两个人,就从山上跑了下来。
    他们走了一会儿,前方是一个“S”形弯曲的地方,前头被日本兵堵上了。后边也有日本兵追来。走在前边的支先生打枪发出的枪声回响在谷底。双方的枪声响彻在谷底。不一会儿枪声停了下来,李先生被后边打过来的日本兵逮住了。李先生被决定带到任家村去,他被日本兵逼着走在前面,一拐过“S”弯道,饮弹气绝的支先生的身姿就映入他眼帘,李先生被逼着走近支先生的遗体旁,然后被带到村子里去了。
    “黄阎王”
    被带到村子里的李先生,看到日本兵用皮带“啪啪”地抽打作为部下的一个日本兵的脸庞,挨打的日本兵颜面肿胀起来,尽管淌着血,却拼命地以直立不动的姿势挺着,李先生精神上受到了打击。因为他没有想到,在日本人同类之间,而且即使是同伴,也进行那样的殴打。
    不一会儿,李先生被拉到一个像是队长的军官面前,那是一个长着长脸的年过30的汉子,肤色发白不胖不瘦。在胸前口袋的上方,有个缝着姓名的牌子,他叫“和田××”。对于李先生来说,这是头一次会面,但那个汉子的大名以前他就知道。人称“黄阎王”,因为代县的人们一直对他很害怕(注2)。
    (注2)就像下面将要看到的那样,抓捕李先生的部队,是日军和保安队联合起来的部队,“黄阎王”和田,当时为保安队的指导官的可能性很大。
    据代县的居民说,“黄阎王”和田,他于1937年(昭和12年)来到代县以来,杀了好多居民,令人恐怖,其所作所为简直是阎王之类干的勾当,因为以代县的发音,和田的“和”与“黄”的发音相似,所以,就以那种发音被称为“黄阎王”了。据传说,和田作为军人在来到代县之前,在上海作为军事机关的文职人员,似乎进行了谋略活动。不知是不是因为他在上海取得了经验,听说甚至连军官们都对军衔低下的下士官和田竟然使用敬语。李先生觉察到,没有想到传说中的“黄阎王”就在自己的眼前,和田一直是以流畅的中国话来审问李先生的。
    和田问道:“你叫什么名字?在八路里担任什么职务?”
    李先生并没有改姓,只是把名字改了,自称 “李士中”,并且只是回答“搞与新闻有关的工作。”
    和田问道:“是搞什么样新闻工作?”
    李先生回答:“是抗日的新闻。”
    和田进而紧逼,问起了八路军的地点、武器的藏处、抗日政府的下落等等。可是,李先生坚持“我只知道与新闻有关的事情,其他一概不知” 推脱了对方的提问。
    于是,和田慢慢地从刀鞘里拔出挎在腰部的军刀,将刀锋架在李先生的胸前,“听好了,要是不说真话,立即杀头!”
    李先生面对架着的军刀,故作镇静地回答:“没办法,我说的是真话。”
    双方沉默无语,李先生觉得时间过得漫长。
    和田说完“杀你的事情就免了”这句话,就将军刀收入了刀鞘。也许和田认为李先生是个使用普通办法不能使其就范的人吧,就在李先生长长出了一口气的期间,接着又一次受到操着一口比和田更流利中国话的日本人翻译的同样的审问。可是,这一次是附加了脑袋被拳头大小的石头殴打的拷问,李先生仅仅回答了与回答和田一致的内容。但是,这个时候,他的意识变得朦胧起来,记忆变得模糊了,脑袋被殴打了好几次,也许是日本人感到,即使就这么隔一会儿继续殴打和审问也是是徒劳的吧,在中午的时分,将他交给了中国人的保安队。
    行军
    审问结束了不一会儿,日军和保安队就开始向下一个目的地开拔了。李先生因审问时候的挨打,脑袋变得昏昏沉沉,他就那么被倒背着手捆绑着,那些绳子还缠绕着脖子。而且,骑马的士官以牵着绳子的状态让他行走。行军中,李先生从保安队士兵的交谈中得知,下一个目标是山底村。从这里往东大约走30分钟的路程。另外,他还知道了抓捕自己的部队,是F队长率领的(注3),他还明白了F部队是日军和保安队联合行动的,规模大致是一个大队。
    (注3)独立混成第三旅途(造部队)的独立步兵第六大队,驻屯在代县,捕获李先生的F部队,是当时担任该大队第二中队长的F队长率领的、由日军和保安队联合在一起的部队。
    走了还不到一个小时,就到达了山底村。F部队在这里也进行了武器的搜索和对居民的盘问,但是,什么也没有问出来。在村庄稍事休息的F部队,通过旗语信号向各个部队发送了信号,就向下一个村子开拔了。在离开村子的时候,F部队放起火来,他们把房屋燃烧焦臭烟味和巴拉巴拉的声响丢在身后,向下一个目的地阳沟村奔去,由山底村向南,大约走一个小时的路程。
    到达阳沟村的时候,红日也已经西坠,时分迫近傍晚了。F部队似乎要在这里驻一宿,开始了野营的准备。李先生也被使役。成为俘虏之后,身心都疲劳到极点的李先生,一干完活,很快就倒头睡着了。
    第二天,在天色还未明的早晨3点或4点的时候,李先生就被保安队的士兵弄醒了,黎明之前发起行动是军队的常例,F部队向下一个目的地马圈沟村开拔了。
    应该是死去了的汉子
    由驻了一宿阳沟村出发,向北走20公里就是马圈沟,那是持续曲曲折折穿行在山西险峻山间的行军,到了下午才到达村庄。今天的行动就此结束,F部队看样子要在这里野营。也让李先生进行野营的准备,这个时候,一个男子来到李先生的面前。
    “你就是李庭章吧?!”
    就在李先生看到有人与他打招呼的瞬间,大吃一惊,禁不住地“啊”了一声,顿时脊背发凉。因为站在李先生面前的这个汉子,应该是死去的安儒。他还有个名字叫“五旦”,一年之前,他担任某个村的村长。当时有很多村庄处于这样的状态,白天是日军或保安队驻扎,夜晚是中共军驻扎,安置于村长位置的人,对于双方来说,都是有头有脸脸、有影响的人,安儒担任村长也是基于那样的理由。但是他吸食鸦片,偷盗、冒领、抢夺村民的东西,人缘很坏。不久,中共军认为他有间谍的嫌疑,决定了处决他和他的另外两个伙伴,代县的负责人李先生,也是知道处决这件事情的,中共军将安儒等三人带到村后的山沟,应该当时就枪毙了。
    应该是死去的汉子,出现在了李先生的面前,让他大惊失色。安儒的确在后山被中共军的士兵用手枪射击了,但是,因为使用的手枪是自制改造的,子弹仅仅在他头上滑过而已,装死而捡了一条性命的安儒,逃入了日军驻留的代县城里,作为炊事人员而有了活干。就这样,这一次他一直跟随F部队行军作战,与李先生再次相遇。
    在安儒的头上,有一道子弹滑过的伤痕,仅仅在那个地方没有长出头发。李先生一边看着他那样的头,一边说“要是把我的事情说了,你也必死无疑!”这样一来,他却意外地答道“不要紧,你的事情,我会沉默不说的”。保安队的士兵看见他们俩那样小声地交谈,就走了过来,并且向安儒问道“你认识这家伙吗?”李先生的内心笼罩着紧张和不安。安儒向保安队的士兵回答道:“当然认识”而且继续这样说了。“他是个很好的人,我没有想到是为啥被你们抓捕的?”
    经安儒这么一来,保安队的士兵对于李先生的态度也多少变得缓和起来了,这也可以说成他瞅准保安队士兵松懈的空子,成功逃脱的准备阶段。到后来,新中国成立以后,安儒战前的行径被弹劾,他作为“反革命分子”而遭到了审讯。李先生通过书信,详细地写了上述的这件事情,寄给了代县政府。据说由于李先生的书信,安儒摆脱了重罪,被决定减轻了刑罚。
    保安队士兵们的不安
    第二天,在马圈沟村过了一夜的F部队,在天还未明的三、四点时侯的暗夜中就出发了。奔向位于距马圈沟村东方约10公里的杨庄村和枣园村,这两个村作为抗日根据地似乎很有名。当李先生到达村庄的时候,村子里已经布满了队伍,他感到,对于攻击这两个村子来说,使用的兵力过多,规模过大。在这两个村子,日军也是将逃跑迟缓的数十个村民,集中在一个地方,盘问中共军的住处以及武器所藏的地方。可是,在这里好像同样没有取得成果。在枣园村,(保安队)的很多中国人士兵糟蹋村子里的各家各户,掠夺吃的东西等。日军似乎带着粮食,没有进行掠夺。就这样到了下午,F部队在搜索了周边的地域后,就开始向下一个目标—胡峪村转移。
    李先生作为俘虏,在被保安队士兵带着行军的期间,有好多中国人士兵一直跟他说话,他们在一起长达3天了,似乎已经融洽了。他们那些人就在日军的近侧,似乎敏锐地感觉到战局形式的变化,好多士兵问起了“如果日本战败了,共产党取得了政权,我们这些人会怎样呢?”李先生答道:“如果干了太多的坏事,当然要抓捕,受到相应的处罚,不过,即使在保安队里,如果协助中共军,也就不会那么处理的吧”。就这样,一有机会,他就宣讲中共的理念以及活动。因为日军走在前边,保安地跟在后边,所以日本兵不在近侧是很幸运的。正在歇息的时候,每当谈话之际,日本兵就走了过来,一来到近前,他们就停止了谈话,一旦离开走远了,就有又开始了交谈,反复进行了这样的谈话。
    这个时候,带着李先生行动的分队班长,是个非常好的人,班长对待李先生并不怀有敌意。李先生还记得,他说今后也要把关系搞得好起来。另外,副班长好像比班长在保安队呆的时间长,对于李先生,副班长虽然没有显示出那么融洽的态度,但对李先生说:“回营之后,你也加入保安队吧”,给李先生留下印象的是,他对步枪摆弄得非常熟悉。
    不一会儿,一个保安队的士兵不知从哪儿找来一把小刀,而且把它交给了双手被反捆着行走的李先生,剩下的只有等待时机成熟了。
    决断
    F部队经过胡峪村,返回到三天前通过的阳沟村,太阳也快要落山了,今天的作战结束了。士兵们开始着手野营的准备,对于李先生来说,这是第三次野营。
    李先生随着部队行动了三天,从任家庄开始,经过了山地村、阳沟、马圈沟,阳庄•枣园,胡峪,就这样又回到了阳沟。在直径15公里的范围内,就像钟表旋转似的绕了一圈,从直到目前为止的行动模式看,他预测,(日军)必定要离开阳沟村向西推进,向自己担任书记的第二区周边移动,搜寻中共军的吧。
    第二天,在漆黑的夜幕中开始了行军。正像李先生预想的那样,F部队转向了西边,开始向第二区的周边移动了,而且,李先生从士兵们的谈话中,得知拂晓攻击的目标是户家庄。在户家庄,有好多人认识他,李先生不单单是新闻人员,他还是中共干部的身份就肯定会暴露,这样一来,他就没命了,而且潜在的危险是还会牵连到村民。不管怎么说,无论如何在到达户家庄之前,必须逃跑。就这样,在行军开始之后不久,大概是早晨5点钟左右吧,在天还没有亮的黑暗中,队伍就已经迫近到距户家庄一公里半的地方了,除了这个时候就再也没有机会了,李先生断然下定了决心。
    逃脱
    李先生小声对保安队的士兵说,“我肚子痛,想解个手再走”。可是,李先生被反捆着双手, 牵着绳子的士兵说:“就在这里拉屎吧!”这个时候,李先生离开道路,一边向副班长示意稍远的地方,一边说“在这里拉屎太臭,要给你们添麻烦,我到那里拉完就过来”。副班长顺着李先生示意的方向张望,那里多少长着些灌木丛,是下坡,是个一眼就看得很清楚的地方。大概副班长觉得在那里拉屎,不会出什么问题的吧,就说“啊!知道了!知道了!快去快回!”部下遵照命令,给李先生解开了绳子。
    李先生离开了道路,一边感受着背后保安队士兵的视线,一边走了起来,大脑掠过副班长摆弄步枪的熟悉动作。然而,李先生确信,如果在这个距离开枪的话,那么,作为攻击目标的户家庄就能够听到枪声,村民们就会逃走,村庄就会变得空无一人,士兵们也不会草率地开枪射击。就这样,他一到达解手的地方,就全力以最快的速度在下坡的道上跑了起来。
    李先生以拼命的心情,在坡道上连滚带爬地奔逃,自己已经走了多远呢?他屏住喘着的粗气,在黑暗中侧耳倾听,幸运的是好像背后没有追兵,他没有听到的声枪,连一声都没有,他成功地逃脱了。能够从F部队里逃出,李先生运气真好,他决定要奔向位于东边的一个叫做段家庄的村子,因为这样做的话,就与F部队行动的方向相反,就能够安下心来。
    可是,由于疲劳和兴奋,他好像把的感觉方向弄错了。他自己以为是在向东方行进,可实际上是在向西走去。因此,不凑巧的是,逃出来的他在下边前进,恰好与F部队平行并进。在到达日军曾驻屯过的一个叫做二十里铺的村庄时,李先生才明白了自己弄错了方向。李先生警惕地离开了二十里铺,奔向了北侧一公里远的侯家沟。侯家沟的村长侯狗狗,是个他非常熟悉的人物,是个能够为他提供方便的人。
    我就是李庭章
    走了没多久,李先生就到达了侯家沟,但是不能疏忽大意。他决定隐身于村头的西瓜地里。不一会儿,一个农夫走了过来,好像是瓜地的主人,李先生向那个农夫打了招呼,“这里有没有八路的干部?”农夫多少有些吃惊的样子,但预料到李先生似乎像个中共人员,于是就回答:“现在没有,不过昨天在这个村子开过会议”,于是李先生又问:“会议的主持人是谁?”农夫居然接着回答:“是第二区的书记李庭章”,就连在这种情况下的李先生都发火了:“不要撒谎!我就是李庭章!我被日军逮住了,长达三天之久,我是刚跑回来的。”
    李先生命令农夫把侯村长叫来,不一会儿侯村长就过来了,手里拿着替换的上衣和鞋子。侯村长一来到李先生的面前,就两眼含着泪花说:“你被日军抓捕后,我们虽然也想营救,但能够救出来的希望很渺茫,正考虑着该怎么办呢?”, “能够逃出来比什么都好” 兴高采烈的侯村长给平安无事的李先生换完衣服,将他招呼到一户农家,不一会儿,热乎乎的饭菜就端上来了,这是他享受的隔了好久的歇息和吃喝。
    过了中午,李先生委托侯家沟的农民带路,奔向的中国军的根据地—西平安村。在那里,他受到政府的同事和朋友们的欢迎。大家都为李先生的平安归来而高兴,李先生从此以后,直到战争结束,再也没有见到过日军。
    1945年(昭和20年)8月15日,日本承诺无条件投降,战争结束了。那一天,李先生正在代县的一个叫做盆儿窟的村庄, 他在那里听到了无条件投降的消息,高兴万分。回想起长达8年的战争记忆,他感慨无量,思绪万千。
    由于战争的结束,日军撤去,可是战斗还没有终止,第二战区司令长官阎锡山与中共军的内战,很快就处在了就要爆发的状态。以李先生为首的中共活动家们,无暇休息,被动员召集起来,去完成向下一个任务。李先生在战争结束后,很快就被派遣到了大同。
    永远也不会忘记
    李先生在与日本的战争,以及其后的国共内战中幸存下来了,新中国成立后,他被安置在与体育有关的工作岗位上。他与我在战争体验谈里介绍过的李献瑞在同一个职场,他们一直是在同一个职场工作的同事,但是并没有互相交流过自己的战争体验。因为李先生一想起战争,就想起了支杰先生,那个时候,要是他不挽留支杰先生的话,支杰先生就不会殒命,内疚的心情直到今天还挥之不去。在谈论这一战争体验的时候,74岁的李先生还起立离开坐席说,我真希望还有一个人在这里。对于当事人来说,战争体验即使过去了半个多世纪,但依旧继续是重要的记忆。
    (全文译完)

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  2. 陈尚士

    组织这次行动的是F部队。
    (注3)独立混成第三旅途(造部队)的独立步兵第六大队,驻屯在代县,捕获李先生的F部队,是当时担任该大队第二中队长的F队长率领的、由日军和保安队联合在一起的部队。
    我想这个F队长就是金子传吧。金子传后来残留在山西了。

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  3. yama

    陳先生
    F隊長は金子ではありません。F隊長は実在の人物で、戦友会誌で氏名を確認していますが、本文ではFと表記しました。「黄閻王」こと「和田」は、資料で探しましたが確認ができず、なんとなく李さんの創作かとも感じ、紹介するか迷いましたが、本来、便衣兵として即処刑だったはずを命拾いした大きな理由となっているので、削除せずに紹介しています。
    本文をお読みいただいておわかりのように、F部隊は通常の作戦行動を行っており、犯罪行為はありません。支さんは戦闘行為による死であり、李さんは便衣兵として即処刑されても文句は言えない状況でした。

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  4. 山西大同陈尚士

    郭老师您好:
    【管理人Yamaプロフィール】
    1976年(昭和51年)、東京都生まれ。二児の父。会社員です。このサイトは趣味でやっています.
    写那些日文博客的,是一个叫Yama的人,他不是日本老兵,生于1976年,应该是33岁了。是一个已有两个孩子的父亲了。是一个公司的职员。完全是因为兴趣而开了这个博客,真了不起。您说呢?我想战争体验谈是他访问中国相关人员后写成的。

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