劉展さん


犠牲救国同盟への参加
1937(昭和12)年の日華事変が起きたとき、劉さんは山西省汾陽県の河汾中学に在学していた。中学生だった劉さんは愛国心から抗日運動への参加を決意する。太原が陥落した11月、劉さんは中学校を中退して犠牲救国同盟会に入会した。当時、犠救盟は若者たちが陸続と参加する大きな流れが起きていたが、参加者のなかでは劉さんはかなり若かったという。劉さんは「特派員」のひとつ下の「協助員」という身分に就き、最初は生まれ故郷の石楼県が所管の山西省洪趙中心支部(*1)に所属して、主に新聞などを通じた広報や宣伝活動に従事するようになった。

(*1)犠牲救国同盟会についてはこちらのコラムを参照。洪趙中心支部は洪趙中心区とも呼ばれ、正式には第六行政専員公署に属する第六区。隰県、趙城、洪洞、臨汾、汾西、霊石、大寧、永和、蒲県、霍県、石楼、中陽の十二県を統轄した。ちなみに「洪趙」の名称は、現在の洪同県北部が、当時の行政区画では趙城県であったことに由来する。

日本軍の攻撃
年が明けて1938(昭和13)年2月、山西省の北・中部を制圧した日本軍は、山西省南部の制圧を目指して作戦を開始した。同浦線沿の南下と河北省西部、河南省南部から進撃を開始した日本軍は、2月末には山西省南東部一帯を制圧した。臨汾に退去していた閻錫山は西へと避難した。吉県、永和県へと避難し、黄河を越えて陝西省へと向かう閻錫山を追って、日本軍も西へと進撃を開始した。当時、劉さんの故郷である石楼県附近は敗走した中国軍が多数駐留しており、日本軍は閻錫山の追撃と中国軍撃滅を狙って「石楼作戦」を実施する。4月1日の午後、石楼県に三つの道から日本軍が侵攻してきた。劉さんの故郷である羅村鎮にも部隊が侵攻してきた(*2)

この時の羅村鎮の住人は六十~七十世帯、一千人前後いたそうだ。日本軍の侵攻をいち早く察した村民たちは、貴重品をもって村から避難した。ちょうど帰郷していた劉さんも家族とともに避難した。村には当時六十歳を越した蘭兆泰さんというお爺さんがいた。もともとこのあたりの人は山西省でも気質が剛毅な人が多い。蘭さんも「日本軍恐れるに足りず」とひとりだけ村に残るという。蘭さんひとりを残して村民たちは全員避難した。もぬけの殻となった羅村鎮にやってきた日本軍は、その日は村で野営したようだ。このため、劉さんたちは村に戻ることができず、4月とはいえ底冷えのする山のなかで不安な一夜を過ごした。翌日の午後、日本軍は石楼県城に向かって出発していった。日本軍が村を出ていって一時間ほどした午後二時頃、劉さんは住人として一番最初に羅村鎮に戻った。

(*2)「石楼作戦」では、第二十師団と第百九師団が協同して北と南から石楼県に侵攻した。石楼県城は、北、東、南西からの三つの道が交差している場所に位置し、劉さんの故郷である羅村鎮は、県城から東に伸びる道上に位置している。このため、劉さんの村へ侵攻してきたのは第二十師団鈴木支隊(歩兵第八十連隊基幹)のようだ。史料「第一軍作戦経過ノ概要」によれば、鈴木支隊は4月2日の午後三時に石楼県城に入城しているが、これは劉さんが日本軍の羅村鎮出発を確認した時刻(午後十二時~一時)に、羅村から県城までの行軍に要する時間を考慮した時刻と一致している。

破壊され尽くされた村
村に近づくと煙が上がっているのが見えた。イヤな予感がした。急いで駆けつけると、案の定、村は散々荒らされたあげくに火を放たれて燃えていた。火を放たれた住居からは黒煙がもうもうと吹き出し、道には家財などが散乱している。劉さんは変わり果てた様子にショックを受けながらも自宅に向かって急いだ。すると、村のメインストリートの真ん中に仰向けに横たわっている遺体が見えた。ひとりだけ村に残った蘭爺さんだった。急いで近づくと銃剣だろうか、刃物のようなもので腹を割かれていたという。

自宅にもどってみると、劉さんの家もめちゃめちゃにされていた。一家の財産である馬や驢馬などの家畜はほとんどが食べられたらしく、食べ残しの内蔵や骨などの死骸が道に散乱して蠅がたかっていた。持ち去ることのできない穀物はすべて焼き払われていた。さらに家の中の家具はもちろんのこと、炊事に用いる鍋や食器などにいたるまで、形のある物はほとんど壊されていた。母が大事にしていたきれいな刺繍の敷物は持ち去られたらしく、どこを探しても見あたらなかった。日本軍がたった一日いただけでこれほど村を破壊できるのかと思われるほどだったという。

村を破壊した後に日本軍は火を放っていったが、その火の勢いはすさまじく、塀に使った煉瓦が燃えてぼろぼろになるほどだったという。水を放って消火を試みても歯が立たず、結局、燃えるにまかせるしかなかった。ある場所は一時間ぐらいで自然に火が消えた場所もあったが、ちょっとした雑草の生えた場所などは二~三日も燃え続けたほどだった。

貯蔵していた食糧をすべて奪われ、何もかも焼かれた住人たちの生活の建て直しは楽ではない。劉さんも村に残って復興に力を注いだ。焼け残った自分の家を木材で補修し、残った少ない家畜類で生活を維持するほかなかった。劉さんは当時の破壊のすさまじさについて怒りを込めて一時間以上も話し続けた。当時、まだ十六歳に満たない劉さんにとっては今でも怒りが湧くほどの強いショックを受けたのだ。

石楼県城での被害
羅村鎮を出た日本軍はその後石楼県城に入城し、三日間駐屯したという(*3)。県城は人口二千~二千五百人ほどの比較的小さな県城だったが、このとき日本軍は城内でも略奪と破壊を行い、やはり移動の際には火を放っていったという。ちょうど劉さんの親戚が石楼県城の人だったため、被害の様子を詳しく聞くことができたそうだ。

親戚の話によると、日本軍の放火で県城内は大火事になり、清代に建てられた県政府をはじめ、県城内の商店、関帝や孔子をまつった廟や寺など、城内のほとんどの建物が焼けたという。城内の中には十日ほど燃え続けた場所もあったほどで、実際、十五キロ離れた羅村の裏山からも火の手が見えたほどだった。

また、暴行事件も発生したという。城内に住む六十歳を越した老婆がその被害をうけ、のちに老婆は暴行を苦に自殺したという。

(*3)鈴木支隊は4月2日の午後三時に石楼県城に入城、山崎支隊(第百九師団騎兵第百九連隊基幹)は同日の午後五時に入城している。そして、石楼入城軍は、4月2日の夜は県城内で宿営したのち、翌日早朝に永和県に向けて県城を出発している。中国側は県城内で破壊が三日間あったとするが、両部隊の残留警備隊によるものかもしれない。しかしこれらの点について詳細な報告をしている史料は見つからなかった。

終戦、太原進駐
日本軍の石楼侵攻からしばらくして、劉さんは中共に入党し、犠救盟から閻錫山軍に参加した。共産党地下工作員としての情報収集、浸透工作の日々が始まった。そして1945(昭和20)年の終戦直前、太原近郊を含む第八行政区専員公署に勤務していた劉さんは、山西軍関係者としていち早く太原に進駐することになった。八個分隊約五十~六十人の山西軍太原工作隊の一員として、進駐後の太原で占領行政を実施するための情報収集活動を行うためだ。(*4)

工作隊の一員として太原に入城したときの思い出は今でも忘れないという。勝者として勇んで太原に入城すると、日本兵はまだ軍刀を吊るして小銃をかついでいる、今までと変わらない光景が目に入ってきた。中には山西軍の軍服を着ている劉さんに向かって、「今はダメだが、十年後、二十年後にまた来てやるぞ」といきまく日本兵もいたという。(*5)

(*4)閻錫山は8月8日のソ連の満州侵攻の報を受け、その日のうちに太原占領を指示。これに伴い、太原近郊を含む第八行政専員公署で八個分隊約五十~六十名から成る太原工作隊が組織され、太原進駐部隊である楚溪春率いる騎兵二個師とともに太原に向かった。閻錫山の太原進駐は終戦前から第一軍との間で打ち合わせがされていたようだ。
(*5)日本敗戦後の太原工作隊での勤務は、劉さん自身が1995年に「日本投降閻軍進占太原散記」と題して発表しています。文章の内容については後日翻訳する予定です。

太原の慰安所
劉さんの戦争体験談を聞いたとき、ちょうど日本では「慰安婦問題」が話題となっていた。中国でも大きく報道され、これを新聞で読んだ劉さんに、慰安所とのちょっとした関わりを話していただいた。

1945年8月の終戦後に劉さんが太原に進駐してからのことだ。工作隊は、現在の太原市内南城区政府のあたりの大袁家巷二十二号にあり、そこで中共や日本軍・傀儡政権側に対する情報収集活動を行っていた。

その工作隊の正門の対面に、一軒の「料理屋」があったが、実態は日本軍の慰安所だったようだ。もちろん、表向きには「慰安所」を示す看板などはなかった。しかし、ある日、劉さんの指示で部下が偵察にいってわかった。頻繁に日本軍兵士が出入りし、特にある特定の日(おそらく日曜日だと思うとのこと)、かなり多くの日本兵が来るのに不審を抱いたからだ。慰安所だということは、部下が中庭で食事をしている慰安婦を目撃して分かったという。

その後、劉さんの部下が慰安婦たちに接触して聞いたところによると、慰安所にいる女性は四~五人程度とのこと。外出は許されず、必要な物は手伝いの者に買いに行かせていたという。慰安婦のなかに「桃子」という二十歳前後の非常にきれいな女性がいたのを憶えているという。チョゴリを着ていたので朝鮮人だったようだ。

終戦後の市内が混乱しているなかでもしばらく営業していたが、9月にはどこかへ移動していったという。移動した後、劉さんたちが店内を見てみると、部屋のなかには慰安に使う道具などがそのまま残されていた。そのような物を見たこともない劉さんたちは最初どのような目的で使うのか分からず、後に日本軍の通訳をしていた人から使い方を聞いて、非常にびっくりしたという。

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000019.html

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One thought on “劉展さん

  1. 山西大同陈尚士

    刘展先生的战争体验谈(1)
    土八路译自日本网络
    http://shanxi.nekoyamada.com/
    刘展,他在中学校就读的时候,就参加的牺牲救国同盟会的活动。1938年(昭和13年)3月,故乡的村子来了日军,村里的一个老人死去了,村子被烧毁了。
    后来,他一加入中共,就作为地下工作人员潜入了阎锡山军。战争结束的时候,他作为阎军的太原工作队员,最早进入了太原城。
    参加牺牲救国同盟会
    1937年(昭和12年),卢沟桥事变爆发的时候,刘先生在山西省汾阳县的河汾中学就读。还是一个中学生的刘先生,因为具有爱国热忱,所以决定投身于抗日运动。在太原陷落的11月,刘先生中途退出所在的中学校,参加了牺牲救国同盟会。当时,掀起了年轻人们陆续参加牺牲救国同盟会的高潮,不过,据说在参加者的人里边,刘先生是相当年轻的。刘先生以一个“特派员”之下的“协助员”的身份就职,最初他所属于他出生的故乡石楼县管辖的、山西省洪赵中心支部(注1),主要从事通过报纸来进行的宣传活动。
    (注1)关于牺牲救国同盟会,请参照****。洪赵中心支部也叫洪赵中心区,属于第六行政专员公署的第六区是正式的称呼。统辖隰县、赵城、洪洞、临汾、汾西、灵石、大宁、永和、蒲县、霍县、石楼、中阳这12个县。顺便说一下“洪赵”的名称由来,现在洪洞县北部在当时的行政区划里,属于赵城县。
    日军的攻击
    过了年的1938年(昭和13年)2月,已经征服了山西省北部和中部的日军,以征服南部为目标,开始了作战。日军沿同蒲线南下,同时从河北省的西部以及河南省的南部开始了攻击。2月底征服了征服了山西省东南部那一带。退到临汾的阎锡山向西避难去了,他依次向吉县、永和县避难,进而越过黄河,奔向了陕西省,日军还紧逼阎锡山,开始了向西的攻击。当时,在刘先生的家乡石楼县附近,驻留着很多败走的中国军队,日军以追击阎锡山和歼灭中国军队为目标而实施“石楼作战”,4月1 日的下午,日军分三路向石楼县攻打过来,也向刘先生的家乡罗村镇打了过来(注2)。
    (注2)“石楼作战”是第20师团和第109师团的协同作战,分别由南北两个方向进攻了石楼县。石楼县城位于北、东、西南三条道路的交叉点上,刘先生的故乡罗村镇,位于县城向东延伸的道路上。因此,进攻刘先生村庄的好像是第20师团的铃木支队(基干为步兵第80联队)。据史料《第一军作战经过之概要》,铃木支队于4月2日下午3时,进入了石楼县城,这个时间在刘先生确认的日军离开罗村镇的时刻上(下午12时—1时),与考虑到从罗村镇到县城行军所需要的时刻是一致的。
    据说那个时侯的罗村镇,居民有60—70户,大约有1000人左右。很快就察知日军要来进攻的村民们,带着贵重物品离开村子避难了,恰好回乡的刘先生,也和家人一起避难了,村子当时有个超过60岁的叫做兰兆泰的老人。本来,即使在山西省,这一带也有很多性格刚毅的人,据说兰先生也认为“日军不足畏”,他要一个人留在村里。将兰先生一个人留下后,村民们就全部避难了。日军来到了空无一人的罗村镇,当天好像在村子里宿营了。因此,刘先生他们不能够回到村里,虽说是4月份,然而在严寒彻骨的山里,他们度过了不安的一夜。第二天下午,日军出发,奔向了石楼县城。日军离开村子之后,大约过了一个小时的下午两点左右,刘先生作为居民最早回到了罗村镇。
    被尽力破坏的村庄
    刘先生一接近村庄,就看见冒着的浓烟,不详的予感油然而生。他急忙跑进了村庄,果如所料,村庄被糟蹋的乱七八糟,最后是被放火焚烧了。从放火的房子里弥散着冒出的黑烟,路上散乱着什物家具。尽管刘先生被面目全非的情景所震惊,但还是急忙奔向了自家,(沿途)看见在村子主干道的中央,横躺着一具仰面朝天的遗体。那是仅仅一个人留在村里的兰老先生。他急忙赶到近前,据说他好像是被刺刀呢?还是其他带刃的武器剖开了肚子。
    刘先生回到自己的家中一看,自家也被折腾的乱七八糟,作为一家财产的马匹以及驴子等家畜,好像都被吃掉了,剩下的内脏以及骨头等遗骸散乱在路上,爬满了苍蝇。家里的家具就更不用说了,就连做饭用的锅碗等有形的物品都大部分被毁坏了。他母亲很看重的漂亮的刺绣垫子好像也被拿走了,即使四处寻找也不见踪影。日军仅仅呆了一天,就能够把村子破坏成这个样子?据他说简直不敢想象。
    日军破坏村庄后,放起火来,而那个火势很凶,用于砌墙的砖头都烧得纷纷塌落,即使试着泼水灭火也无济于事,结果是只能任其燃烧。尽管也有的地方燃烧一个多小时,火就会自然熄灭,但在有杂草生长的地方等,竟然连着烧了2—3天。
    储藏的粮食被全部抢走,被烧得一无所有的人们的生活重建并不轻松。刘先生也留在村子里,将力量倾注于复兴。他用木材修补烧后残留的房子,只能以留下来的少量家畜维持生活。刘先生充满怒火,就当时破坏的可怕情况持续讲了一个小时以上。对于当时还不满16岁的刘先生来说,即使在今天,他还承受着涌动怒火的强烈打击。
    在石楼县城的受害情况
    离开罗村镇的日军,之后就进入了石楼县城,据说驻扎了三天(注3)。县城是个有2000—2500人左右的比较小的县城。这个时候,据说日军在城内也进行了掠夺和破坏,在离开的时候,依旧放起火来。据说,刘先生的亲戚恰好是石楼县城的人,所以他能够详细地听到受害的情况。
    据刘先生的亲戚说,由于日军的放火,在县城内造成了大火灾。据说以清代建立的县政府为首,连同县城内的商店、祭祀关帝以及孔子的庙宇和寺院等,几乎城内的所有建筑物都被烧毁了。在县城里,有的地方也连续燃烧了十多天,实际上,从距离县城15公里的罗村镇的后山,也能够看到熊熊的火势。另外,据说也发生了暴行事件。城内住着一个超过60岁的老太婆,这个老太婆受到了伤害,据说这个老太婆苦于暴行而自杀了。
    (注3)铃木支队是4月2日下午3时进入石楼县城的,山崎支队(基干为第109师团骑兵第109联队)也于同日下午5时进入了县城。而且,进入石楼的日军, 4月2日的夜晚,在城内宿营之后,于第二天的早晨,就从县城出发,奔向了永和县。中国方面认为在城内破坏了三天,不过,这也许是由这两支部队留下的警备队干的。但是,还没有发现有关这些问题的详细报告的史料。
    战争结束,进驻太原
    日军进攻石楼后不久,刘先生就加入了中共,由牺盟会参加了阎锡山军。作为中共地下党员,开始了收集情报,进行渗透工作的每一天。就这样,到1945年(昭和20年)的战争结束前,刘先生一直在包括太原近郊的第8行政区在内的专员公署工作。他作为阎军的相关人员,很快就决定了进驻太原。他作为8个分队约50—60人的阎军太原工作队的一员,在进驻后的太原,实施了为行政占领而的进行情报收集活动(注4)。
    (注4)阎锡山收到 8月8日苏联进攻满洲的报告,就在那一天,他指示占领太原,于此同时,在包括太原近郊在内的第8行政专员公署,由8个分队约50—60人组成的太原工作队成立了。随着楚溪春率领的太原进驻部队的骑兵两个师奔向了太原。阎锡山进驻太原,好像从战争结束之前起,就与第一军进行了商谈。
    据他说,作为工作队的一员,进入太原城当时的回忆至今也没有忘记。作为胜利者,他们精神振作地一进入太原,进入眼帘的是这样的情景:日本兵还在挎着军刀扛着枪,与以前没有什么两样。据说其中还有的日本兵向身着阎军军服的刘先生扬言:“现在是不行了,不过,10年后,20年以后还回再来的!”(注5)
    (注5)在日本战败后的太原进行工作的刘先生,他本人于1995年发表了题为《日本投降后进占太原散记》的文章,关于其内容,预定日后翻译。
    太原的慰安所
    在采访刘先生的战争体验谈的时候,恰好,在日本“慰安妇问题”成为了话题,即使在中国也被大肆报道,我请在报纸上看了这些内容的刘先生谈了谈与慰安所相关的一些内容。
    就在那个工作队正门的对面,有一家“饭馆”,实际上好像是日军的慰安所。当然了,表面上并没有对外显示“慰安所”的招牌等。可是,有一天,部下按刘先生的指示,去侦察后就明白了。日军士兵频繁地出入,特别是在某些特定的日子(据他回想大概是星期日),这是因为相当多的日本兵的到来而引起了怀疑。之所以说是慰安所,据说是部下目击了在里院吃饭的慰安妇之后才明白的。
    之后,刘先生的部下与慰安妇们接触,据说呆在慰安所的女性大约有4—5个,据说不容许他们外出,必要的东西让帮忙者去买。慰安妇里边,据他说,还记得有个叫“桃子”的20岁左右的非常漂亮的女性。因为穿着短上衣,似乎是个朝鲜人。
    战争结束后,市内仍处于混乱中,即使这样,可还在暂时营业着,不过,在9月份就不知转移到什么地方去了。转移之后,刘先生他们到店内一看,慰安妇使用的工具等,就那么原封不动地留在房间里。没有见过那些物品的刘先生他们,最初不明白是以什么样的目的而使用的,后来,他们从做日军翻译工作的人那里,听说了使用的方法,说是为之大吃一惊。

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