馮炳梅さん


紡績工場への入所
1938年(昭和13年)の2~3月頃だ。当時13歳だった馮さんは、太原市内の工場に女子養成工として就職した。軍管理山西第一工場と呼ばれた紡績工場だ。工場は現在の五一広場あたりから北へ進み、府西街の方角へ向かう途中の太原市晋生路八号で操業していた。

軍管理山西第一工場は、戦前に晋生染織廠と呼ばれた民間の紡績工場だった。日華事変で太原が日本軍によって占領されると、晋生染織廠は他の重要企業とともに日本軍によって接収され、軍管理山西第一工場と改名された。接収された諸企業は、まもなくその経営を日系企業に委託する形で操業が再開されたが、第一工場では日本の鐘渊紡績株式会社(現在のカネボウ)が経営を委託されていた。第一工場の操業が一部再開されたのは1938年(昭和13年)の2月だから、馮さんは操業再開とほぼ同時に入所したことになる。(*1)

第一工場は、短繊維より糸を紡ぐ紡績から、紡糸より布を織る織布までを一貫して行う紡績織布兼営工場だった。その生産の多くは軍服などの軍需向けだったという。馮さんの記憶では、工員数は約1,000人で、これを半数の500人ずつ日中と夜間の二組に分けて作業に従事した。一組が1日12時間労働、24時間体制で操業していたという。(*2)

(*1)晋生染織廠(山西軍管理第一工場)については、こちらのコラムを参照。
(*2)馮さんは工員総数1,000人と話されたが、操業再開当初の工人数は200人程度、翌1939年(昭和14年)に24時間体制に移行してからは700人(管理人員を含めず)だったようだ(張・魏『日本侵晋記実』214-215頁)。

紡績工場での仕事
紡績の工程は、混紡(ミキシング)―打綿(スカッチャー)―梳綿(カード)―練条(ドローイング)―粗紡(フライヤー)―精紡と続き、単糸の場合は綛場(リール)―丸場―荷造で完成となる一方、撚り糸の場合はその間に合糸―撚糸の工程が入る。そして織布の工程へと移る。

これらの工程のうち、女子養成工として就職した馮さんは精紡工程に配属となった。精紡機で紡糸を巻き取った錘を交換する「落簡小組」という部署だ。工員は昼夜あわせて三十人程度、全員が11歳から17歳ぐらいまでの少女で、ほとんどが12歳から14歳の少女だったとそうだ。(*3)

太原紡績工場で働く女工(一橋大コレクションから)。詳細は不明だが、馮さんが働いていた軍管理第一工場で撮影したもののようだ。

太原紡績工場で働く女工(一橋大コレクションから)。詳細は不明だが、馮さんが働いていた軍管理第一工場で撮影したもののようだ。

落簡小組が作業する部屋には、幅約10メートルほどの精紡機が四台並んでいた。この精紡機一台に二人が配置される。一台の精紡機には、高さ15センチ、直径10センチほどの木製の錘が両面で100個ほど並んでおり、これら木製の錘が回転しながら紡糸を巻き取る仕組みだ。錘にある程度糸が巻かれると、レバーを操作してその錘の部分だけ回転を止め、精紡機から錘を外して麻袋に詰める。そして新しい錘を設置して精紡機を再作動させる。

麻袋は縦1メートル、口の広さ30センチほどで、この袋に糸が巻かれた錘が約20個入る。錘を詰めると麻袋は大体12キロぐらいの重さになった。一日12時間仕事をして、この袋が大体10袋ぐらいになったから、一人で一日約200個ほどの錘を交換したことになる。計算すると、3~4分に錘1個を交換する計算になる。横10メートルに並んで回転する50個の錘を監視しながら、精紡機の操作、錘の交換、錘の袋詰めの三つの作業を一人でするため、機械が動いている間は座って一息入れる暇もない。昼の30分の休憩時間を除く12時間はずっと立ちっぱなしだから、朝六時からの勤務がようやく終わる夕方六時にはくたくたになってしまう。このような勤務が週六日続く。13歳の馮さんにとっては大変な仕事だった。

(*3)紡績業では一般に精紡は幼年工が多く、しかも操作の容易なリング式精紡機の場合、女工、すなわち幼年女工が工程に従事することが多かった。陸軍山岡部隊編『山西省大観』(1940年)によれば、当時の工員数は成人が390人(うち女性240人)に対して少年少女が360人(うち女性230人)と、少女が工員数の約3割を占めている。この点、日本では1923年(大正12年)に14歳未満を就業禁止とする「工業労働者最低年齢法」が制定され、また1929年(昭和4年)には「改正工場法」が施行されて、一般婦女子と幼年工の深夜就労が禁止された。馮さんの話によれば14歳未満の少年少女も広く採用されていたようだが、規制の及ばない中国でも深夜業には従事させていなかったようだ。

女工哀史
紡績工場では紡糸が切れないようにスチームで水蒸気を出し続けている。紡績機の発する熱と水蒸気は、乾燥して寒さの厳しい冬の太原ではまだしも、夏は地獄のような蒸し暑さだった。冬でも少し動くだけで汗が吹き出るのだから、夏はじっとしているだけで服が湿ってくる。そして水気を帯びた肌に、微細な綿塵がまとわりつく。

例えば、工場内では肺病にかかる人が多かった。もともと紡績工場は、湿気を帯びた微細な綿塵がふわふわと飛んで、工員がそれを吸い込むために結核などの呼吸器系統の疾患が多い。おまけにみな解雇を恐れて多少の風邪などでは出社してくるから、湿度と温度の高い工場内で風邪は瞬く間に広がっていく。風邪がひどくなっても休めないから、仕舞いには風邪をこじらせて肺病になってしまう。

また女性の場合、妊娠するとすぐに解雇されたため、多くの女性が妊娠した後も無理をして出社した。そのために流産が多かった。例えば、織布工程で働いていた20歳前後のZさんは、妊娠した後も解雇されるのを恐れて出社を続けていた。そしてある日、仕事の最中に突然産気づいてしまった。工場の便所に駆け込んだが、助産婦はおろか、工場に知られないためにも誰の助けも得られない。とうとうたった一人で子どもを便所で生むことになってしまった。結局産まれた子どもはすぐに亡くなってしまったという。また馮さんと同じ落簡小組で働いていた同僚のLさんの姉は、長期の欠勤は怪しまれるため、出産後わずか3日で出社してきたという。(*4)

(*4) 戦前の紡績職工、特に女工に対する待遇の悪さは、細井和喜『女工哀史』(1924年)などでつとに有名だ。この点、鐘淵は業界のなかで最も待遇が優れており、特に各種扶助制度が充実していた。例えば「鐘紡共済組合定款」第二十二条では、「組合員妊娠又ハ分娩ノタメ労働不能トナリタルトキハ本組合ハ医師ノ証明ニヨリ缺勤当日ヨリ一日ニ付当時ノ給料ノ七分ニ相当スル扶助料ヲ約ス」としており、その期間も分娩前三十日から分娩後四十五日までの約三ヶ月も認められていた(原『鐘淵紡績株式会社従業員待遇法・鐘紡罪悪史』)。しかし、馮さんの話によれば、第一工場ではそのような扶助制度はなかったようだ。そもそも軍管理工場で鐘淵の職工待遇規則が適用されたかは疑問であるし、仮に適用されたとしてもその対象は日本人職員のみだったと思われる。前出の「定款」第六条では、組合員の対象を「会社雇人」としており、「臨時雇及短期間ノ特別契約ニヨル雇人ハ此限リニアラズ」として扶助対象から除外している。

低賃金
紡績工場での勤務は女工哀史を彷彿とさせる過酷な労働だったが、それに対する毎月の賃金は微々たるものだったという。馮さんは具体的な金額については忘れてしまったがとにかく少なかったとし、強いて言えば当時でタバコが1~2カートン買えるぐらいの金額だったそうだ。

ノルマ達成のために休日繰り上げで出社させられたりすることも希ではなかったが、超過労働の分の賃金を払われることもなかった。あるときは馮さんのグループだけノルマ達成のために朝30分前の出勤を命じられた。このとき馮さんが住んでいた家は工場から歩いて20分ほどの太原城内の西校尉営のあたり(現在の立達デパートの北あたり)にあった。比較的工場までは近かったものの、朝30分前に出勤するには、まだ暗い朝の五時頃に家を出なくてはならない。同じグループで働く妹と家を出て暗い道を歩いていくとき、自転車に乗った怪しい男につきまとわれたこともあった。30分前出勤は一ヶ月くらい続いたがタダ働きだった。

賃金の他に馮さんが入所した当初は、毎月一回綿棒と小麦粉が一袋ずつ支給されていた。しかし翌年からは支給される小麦粉の量は半分になった。そして1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発すると支給される量が少なくなるどころかほかの雑穀にとってかわられた。高梁や黒豆ならまだましだった。さらに後には高梁のカスや楡皮などに変わったからだ。

楡皮はもともと落葉樹のシナニレの白い内皮を粉にしたもので、他に食べるものがない凶年のときに緬にして食用されるものだ。消化吸収が悪いために、身体の調子が良くないときは腹痛も起きた。消化しきれず、細木を肛門に入れなければ排泄できないほどの便秘になるのでいつも血便だった。そんなものでも、食糧事情の悪化していた太原では他に食べるものがなく仕方なかったという。

ひどい待遇でも馮さんや他の女工たちは工場を辞めることはできなかった。戦争によって景気は悪化し、傀儡政権ができたあとも物不足と物価の高騰は益々悪化していた。おまけに太原市内で職にありつくのはとても困難で、職があるだけましな状況だったという。数名が無断欠勤したりすることもあったが、多くの人は解雇されて路頭に迷うよりも我慢する道を選んだようだ。そのため、便所で子供を出産したZさんのように、解雇を怖れるあまりに身体に無理をしてでも出社するため、気の毒な話が絶えなかったという。

日本人
工場の責任者のほとんどは内地の鐘紡から派遣されてきた日本人だった。馮さんが働いていた落簡小組にも、責任者としてふたりの日本人職員がいたという。O主任と、その部下のK課長だ。O主任は四十歳前後、K課長は30歳前後だった。ふたりとも中国語は分からず、通訳を介して指示を出していた。ふたりは決められたノルマを達成できないと作業の遅い工員を殴ったりしたという。そのため、まだ幼かった馮さんは暴力をふるうふたりが怖くて、ふたりが現れるとペコンとおじぎをしてすぐさまその場から逃れていた。

日本人の中にはいろいろと恥ずかしい振る舞いをする者もいたようだ。例えばK課長は、1940年(昭和15年)頃に家族が太原にやってくるまで単身赴任だった。彼はそれまでの約二年ほど、若くてきれいな女性が工場に入所すると、いつも自分の寄宿舎に連れ込んでいたという。また総務課にいた別のKという日本人も、自分の家族が太原に来るまでの間、工場のYという中国人女性と同棲していた。そしてこのYはKの威光を笠に着て好き放題していたそうだ。YはKが総務課で工場の食堂を管理していることを良いことに、工員に対して小麦に芋を混ぜたマントウを純小麦のマントウと偽って法外な値段で売りつけ、金を儲けていたという。

「安全管理」
工場では事故が頻繁に起こった。特に織布の部署が一番多かったそうだ。ある工員は力織機に手を巻き込まれてしまい、急いで機械を止めて工場の医務室で応急処置を施したが、親指以外のすべての指が切断されてしまった。また馮さんは事故で片眼を失明した人も知っている。これら事故にあった工員たちには見舞金などが支給されのかどうか、幼かった馮さんには分からない。しかし、指を切断されてしまった人に関して言えば解雇されることはなく、指がなくても仕事が可能な職場に移動になったという。

工員の事故防止の面に比べて、窃盗などへの「安全管理」は厳しかった。工場の門には門衛とともに検査係の人間がいて、退勤時に門を出る工員すべてに対して身体検査を行っていた。もちろん、女性に対しては女性の検査係が身体に触れるような気配りなどはなかった。

ある真冬の日だった。20歳前後の修理工の青年が紡績用の鉄糸を盗んだ。なんでも鉄糸を売って食べ物を買おうと企んだらしい。馮さんは妹とともにその日の仕事を終えて帰宅するところで、門のところでこの青年が捕まるのを見ていた。工場側はこの青年を工場内の畑に連れていくと、寒空の下、彼の来ていた服を全部脱がして水をかけ、木刀などで殴ったあげく、門に縛りつけたという。他の労働者に対する見せしめとするためだ。この青年は二日か三日、門に縛られたあと、いなくなった。馮さんはのちに、その青年は日本軍の憲兵隊に連れて行かれたのだという噂を耳にしたそうだ。

終戦
1945年(昭和20年)8月15日のことだ。20歳になっていた馮さんは、その日も工場に出勤して仕事をしていた。午後になって、ひとりの工員から日本の無条件降伏を聞いた。なんでもその人によれば、ラジオで天皇陛下の玉音放送が流れたのだという。工場はこの日も休むことなく操業していたが、OやKら日本人職員はこの日からぱったり工場に来なくなったという。

馮さん(左から2人目)の自宅にて。馮さんの息子夫妻たちと。(太原,1997年3月)

馮さん(左から2人目)の自宅にて。馮さんの息子夫妻たちと。(太原,1997年3月)

その後しばらくすると、工場は太原に進駐してきた閻錫山軍に接収された。終戦の混乱が続くなか、日本人職員は持って帰れない家具やきれいな和服などを雀の涙ほどの二束三文で売り払い、我先にと帰国していった。

閻錫山軍の接収後、門の前での身体検査はなくなり、生産ノルマも以前よりずっと少なくなったという。給料も戦前よりも上がり、配給される食糧も良くなった。待遇は終戦前に比べればずっと良くなった。しかし、国共内戦が始まると食料の配給も止まり、鰻登りの物価高騰で、上がった給料もほとんど意味がなくなってしまった。そのため、馮さんは終戦から二年後の1947年(昭和22年)に工場を退職した。13歳で就職してから九年間、常に戦争の影とともにあった紡績女工としての青春だった。

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000020.html

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4 thoughts on “馮炳梅さん

  1. 山西大同陈尚士

    您好:
    “賃金の他に馮さんが入所した当初は、毎月一回綿棒と小麦粉が一袋ずつ支給されていた。”
    所谓的“棉棒”,究竟是一种什么东西?是一种能吃的食物吗?

    Reply
  2. 山西大同陈尚士

    冯炳梅女士的战争体验谈
    土八路译自日本网络http://shanxi.nekoyam ada.com/
    冯炳梅女士
    1938年(昭和13年)的初春,在被日军接收的纺织厂,她作为培养的女工参加了培训。直到战争结束的七年间,她在与“女工哀史” 相似的艰苦劳动环境中工作。
    进入纺织厂
    1938年(昭和13年)2、3月份的时候,当时13岁的冯女士,在太原市内的工厂,作为培养的女工就职。这个工厂就是被称作“军事管理山西第一工厂”的纺织厂。工厂作业的位置在如今的五一广场那一带的北侧,在去府西街方向途中的太原市晋生路8号。
    军事管理山西第一工厂,是战前被称为“晋生染织厂”的民间纺织厂。由于日中事变,太原被日军占领,晋生染织厂以及其他重要的企业都被日军接收,改名为军事管理山西第一工厂。没过多久,被接受的诸企业就以委托日系企业来经营的形式,重新开工了。不过,在第一工厂,委托给了日本的钟渊纺织株式会社(现在的“钟纺”)经营。第一工厂一部分作业的再开工时间,是1938年(昭和13年)的2月,所以冯女士大致是与作业再开工同时进入工厂的(注1)。
    (注1)关于晋生染织厂(山西军管第一工厂)请参照*****
    第一工厂是个由短纤维纺成纱线,再由纱线制成布,即由纺纱到织布,一以贯之而进行的兼营纺纱织布的工厂。据说其产品的大部分是面向军需的军服等。在冯女士的记忆里,员工人数约有1000人。以其半数的500人为一组,分成两组昼夜从事作业。据说每一组一天劳动12小时,是以24小时的体制进行操业的(注2)。
    (注2)冯女士说,员工总数为1000人,但当初重新开业的工人数是200人左右,在第二年(昭和14年),转为24小时的体制后,包括管理人员在内,好像是700人(张•魏《日军侵晋纪实》214—215页)。
    在纺纱厂的工作
    纺纱的工序是:混纺—打棉—梳棉—练条—粗纺—精纺这样连续下来,在单丝的情况下,通过摇纱间—圆纱间—封包来完成。另一方面,捻线的情况下,在其间加入并纱—捻线的工序。就这样移接到织布的工序。
    在这些工序里边,冯女士作为培养的女工,被分配在精纺的岗位上。她的岗位是替换精纺机卷取纺线的纱锭,这个岗位叫做“落简小组”。这个岗位的员工昼夜加起来有30多人,全是11岁到17岁左右的少女,据说大部分人的年龄在12岁到14岁的之间(注3)。
    在太原纺织厂工作的女工(一桥大学收藏)。详情不明,好像是在冯女士所工作的军管第一工厂拍摄的。
    在落简小组作业的房间,并排着宽约10米的精纺机四台。这种精纺机每台配置两个人。每台精纺机上,两面并列着高约15厘米,直径约10厘米的木制纺锤100个,这些纺锤的构造是一边旋转,一边卷取纺线。纺锤上一旦卷取到某种程度的纺线,就操作控制杆,只停止那个纺锤部分的旋转,从精纺机上取下纺锤装进麻袋里。并且,再安置新的纺锤,使精纺机再次运作。
    麻袋的纵深有1米,麻袋的口宽约30厘米,这种麻袋能够放入卷好的纺锤约20个。一旦装满纺锤,一个麻袋大体上约有12公斤重。一天工作12个小时,这样的麻袋大体上要装满10来个,所以,每个人一天大约要替换200个左右的纺锤。计算一下的话,每3—4分钟就要替换一个纺锤。一个人要一边监视着并列在身旁10米长的50个纺锤,一边要进行精纺机的操作、纺锤的替换,纺锤的装袋这三项工作,所以,在机械开动的期间,就连坐下来歇息的空闲都没有。除去中午30分钟的休息时间,12个小时都一直站着,所以,从早晨6点开始的工作,好不容易到傍晚6点收工的的时候,自然就筋疲力尽了。这样的工作在周六、日还继续作业。对于13岁的冯女士来说,这个工作是个非常够呛的活儿。
    (注3)在纺织业里的精纺岗位上,一般情况下幼年工较多,而且,在容易操作的链式精纺机的情况下,女工,而且是幼年女工多从事这一工作。据陆军山冈部队编写的《山西省大观》记载,当时的工人人数为:成人是390人(里边的女性240人),与其对应的少男少女是360人(里边的女性230人),少女约占员工人数的三成。在这一点上,日本1923年(大正12年)就制定了《工业劳动者最低年龄法》,规定未满14岁者禁止就业。另外,1929年(昭和4年)实施了《改正工场法》,禁止一般女子和幼年工深夜劳作。据冯女士说,似乎是未满14岁的少男少女也被广泛地录用,但即使在规章制度还不完善的中国,也没有让他们从事深夜作业。
    女工哀史
    在纺织厂,使用蒸汽设备不间断地喷出水蒸气,为的是不使纺线断开。在冬季干燥而寒冷的太原,纺织机发出的热量和水蒸气还算好一点,而在夏天,闷热得就像地狱。即使在冬天,只要稍微活动一下,就会冒出汗水,所以,夏天仅仅是一动不动,衣服也会湿透。而且在带着水汽的皮肤上,沾付着微细的棉尘。
    比如说,在工厂里很多人患有肺病,本来纺织厂带着湿气的微细棉尘轻飘飘地飞舞,因为工人吸入那些微尘,所以结核等呼吸系统的疾病就很多。况且,大伙害怕被解雇,患上轻微的感冒等疾病还要坚持上班,因而在湿度和温度都很高的工场里,感冒转眼之间就会扩散开来,感冒即使变得很重了也不能休息,所以感冒日久不愈就转变成了肺病。
    另外,在女性的情况下,因为一旦妊娠就马上被解雇,好多女性在妊娠后还勉强上班,因此流产的人较多。比如说,在织布工序工作的20岁左右的Z女士,也担心妊娠后被解雇,就继续出勤上班。就这样在某一天,她突然在工作中觉得要分娩了。它赶紧跑进工厂的厕所,为了不让工厂知道,别说是助产妇的帮忙了,就连任何人的帮助她都没有得到。最终只得一个人在厕所生小孩子。结果是所生下的孩子很快就不幸死去了。另外,据说与冯女士在同一落简小组工作的同事L女士的姐姐,因为长期缺勤就会被怀疑,所以仅仅在产后的三天就上起了班(注4)。
    (注4)战前的纺织工人,特别是对女工待遇的恶劣,早在细田和喜的《女工哀史》(1924年)等作品里就很出名。在这一方面,钟渊纺织在业界里待遇是最优厚的,特别是各种扶助制度很充实。比如说,在“钟纺共济工会章程”的第23条里规定:“会员因妊娠或分娩不能劳动时,本工会根据医师的证明,从缺勤的当日起,规定每天支付相当于当时工资的70%”, 在这一期间,从分娩前的30天开始,到分娩后的45天为止的约三个月,也是被准许休假的(原《钟渊纺织株式会社从业员待遇•钟纺罪恶史》)。但是,据冯女士说,在第一工厂,似乎没有那样的扶助制度。在军事管理工厂,究竟钟渊的职工待遇规则有没有被执行呢?还是个疑问。假使被执行了,一般认为其对象也仅仅是日本人职员。在前面所说的“章程”第六条里,将会员的对象定为“公司雇员”,从“通过临时雇用以及短时间特别契约而雇用的人,不在此限”来看,(她们)被排除在扶助对象之外。
    低工资
    在纺织工厂的劳动,虽然是与《女工哀史》相似的残酷劳动,但据说每月与其对应的工资却是很少的。关于具体的金额,冯女士虽然记不起来了,总而言之是很少的,硬要比较的话,据说那些金额在当时能够购买1—2箱的香烟。
    为了完成工作的定额,取消休息天而硬让上班之类的情形也不稀奇,可是超过劳动份额的那一部分工资也不支付给工人,有时,仅仅是为了完成冯女士小组的定额,就命令早晨提前30分钟上班。这个时候,冯女士住的家,在太原城内的西校尉营那一带(现在的立达百货商场),距离工厂的路程,在步走的情况下需要20分钟。虽然离工厂比较近,但为了早晨提前30分钟上班,就必须在天还未明的5点左右离开家。她与同在一个组工作的妹妹离开家,行进在黑暗的道路上的时候,还发生过被骑着自行车的一个可疑男子的纠缠。提前30分钟的上班,大约持续了一个月,那是没有报酬的劳动。
    除了工资,冯女士在入厂的当初,每月支付给她棉棒和面粉各一袋。但是,从第二年开始,支付的面粉量就减少了一半,而到了1941年(昭和16年)太平洋战争一爆发,不但支付的量变少,而且面粉也被其他杂粮取代了。要是高梁和黑豆的话,那还可以,可到了后来,又进而变成了高梁的渣滓以及榆树皮。
    榆树皮,本来是将落叶树—–支那榆树的白色内皮磨成面粉的一种东西,在凶年的时侯,没有其他食物将其做成面条来食用,因为不好消化吸收,在身体状况不好的时候,还能引起腹痛。不能彻底消化而造成便秘,因为不把细木棍插入肛门通便,就不能够排泄出来,所以大便时总是鲜血淋漓。据说,即使是那样的食品,在粮食状况恶化的太原,因没有其他可吃的东西,而不得不食用。
    即使待遇恶劣,冯女士以及其他的女工们也不能辞职不干。由于战争而导致市场恶化,傀儡政权成立后,物资不足和物价高涨还是越来越严峻。况且,当时的状况,在太原市内就职是很困难的,据说只要有工作就胜过没有。虽然也发生了数人擅自缺勤之类的事情,但是,比起被解雇流落街头生活无着来,多数人好像还是选择了忍耐这条道路。因此,就像在厕所生下孩子的Z女士那样,据说因害怕被解雇而过分地糟蹋身体也要上班,可怜悲惨的故事屡屡不绝。
    日本人
    工厂的负责人,几乎都是由日本内地钟纺派遣来的日本人。据说,冯女士所在的落简小组,也有两个作为负责人的日本人职员,就是O主任及其部下K科长。O主任40岁左右,K科长30岁左右,这两个人都不懂中国话,通过翻译下达指示。据说,一旦完不成定额,这两个人就殴打作业迟缓的工人。因此,年幼的冯女士很害怕施行暴力的这两个人,这两个人一出现,她就敢快点头施礼,之后马上逃离那个场所。
    在日本人当中,也有做了各种可耻行为的人。比如说K科长,在1940年(昭和15年)那会儿,在其家属来到太原之前,是个单身赴任的人。据说,他在此前的约两年间,年轻而漂亮的女性一进入工厂,他就将其带进自己的宿舍。另外,总务科的另一个叫做K的日本人,在自己的家属来到太原之前的期间,和一个叫做Y的中国女性同居,而且,据说这个Y依仗K的威势,为所欲为。K在总务科管理着食堂,Y把这个当成好机会,把在面粉里混入山药的馒头假冒纯面粉馒头,对工人经常以法外的价格出售,以此赚钱得利。
    “安全管理”
    工厂里频繁地发生事故,据说,特别是在织布的岗位最多发生。某个工人的手不幸被机械织机卷了进去,虽然赶快停机,在工厂的医务室做了应急处置,但除了大拇指外,其他的手指都被切断了。另外,冯女士还知道有个人因事故而一只眼失明。对于这些发生了事故的工人们,是否支付了慰问金,年幼的冯女士并不知道。但是,就被切断手指的人而言,她并没有被解雇,据说她即使没有了手指,也被调离到了能够干活的岗位。
    与防止工人事故这方面相比,对于盗窃等的“安全管理”是严格的。在工厂的大门,具有门卫的同时,还安置了检查的人员,对于下班时出门的工人,全部要施行身体检查。当然,对于女性来说,,女性的检查人员是没有照顾触及身体之类的行为等。
    某个隆冬的日子,一个20岁左右的青年修理工盗窃了纺织用的鉄丝,他似乎是企图卖掉铁丝,要购买食物吧。冯女士和妹妹一起结束了那天的工作,就在要回家的时候,在大门口看到那个青年被抓住。据说厂方将这个青年带到工厂内的空地上,大冷天全部脱掉他穿着的衣服,往身上浇水,用木刀殴打后捆绑在门柱上,因为这是作为对其他劳动者的警示。这个青年被绑了两三天之后就不见了。冯女士后来听到传说,这个青年被带到了日军的宪兵队。
    战争结束
    这是1945年(昭和20年)8月15日的事情了,已经20岁的冯女士,那天也去工厂上班工作了。到了下午,她从一个工人那里听到了日本无条件投降的消息。据那个人说,收音机播放了天皇陛下的玉音讲话。虽然工厂这一天也不休息而进行了作业,但据说O以及K等日本人职员,从这一天开始,突然变得不来工厂了。
    冯女士在自己的家里(左起第二人),和儿子儿媳在一起。(太原1997年3月)
    之后过了不久,工厂就被进驻太原的阎锡山军接收了。在持续进行的战争结束的混乱中,日本人职员将带不回去的家具以及漂亮和服等,不值一文地给点钱就卖掉,都争先恐后回国去了。
    据说,阎锡山军接收工厂后,取消了在厂门前面的身体检查,生产定额也变得比以前少得多。工资也比战前提高了,配给的粮食也好了起来。待遇与战前相比也好的多了。但是,国共内战一开始,粮食的配给也停止了,因物价扶摇直上,提高的工资也几乎完全失去了意义。因此,冯女士在战争结束的两年后(1947年,昭和22年)从工厂退职了。她13岁就业,之后的9年间,那是作为经常与战争的阴影相伴的纺织女工的青春。

    Reply
  3. yama

    陳先生
    返信が遅くなり失礼しました。いま手元に聞き取りの際のメモがないのでなんとも言えませんが、おそらくカンパン(乾麺包)の誤字かと思います。
    メモが見つかったら訂正します。

    Reply

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