「七亘大捷」の実相


「七亘大捷」は、日華事変初期の1937年(昭和12年)10月に、娘子関を突破して山西省に進攻してきた日本軍第二十師団を、中共軍が平定県七亘村付近で攻撃撃破したとされる出来事だ。規模こそ小さいが、第五師団を攻撃したという「平型関の勝利」に続く中共軍の武功として宣伝されている。しかし実情は平型関と同じく、非武装に近い補給部隊への奇襲攻撃で、その戦功もあまり大きなものではない。

七旦村。太行山脈の山深い山村だ。中央に見える丘の上に記念碑が立っている。(七旦村,1997年)

七旦村。太行山脈の山深い山村だ。中央に見える丘の上に記念碑が立っている。(七旦村,1997年)

攻撃に参加したのは、劉伯承が師長を務める第十八集団軍第百二十九師の部隊。第百二十九師は、10月24日に北同蒲線地区(源平鎮附近)から太原を経て七亘村に到着した。その後、一個大隊と偵察小隊をもって日本軍を攻撃したとする。中共側の戦死三十五人に対し、日本軍は戦死傷四百人前後、捕獲された物資は軽機関銃四挺、小銃十挺、砲弾三百発、輜重車を牽引させる駄馬・駱駝等四百頭としている。事実ならば師団が動けなくなる大損害だ。

ところが第二十師団の戦闘要報では七亘村付近の戦闘は言及されていない。戦闘がなかったか、あったとしても師団として記載するほど大きな出来事ではなかったことを意味する。ただ後方部隊の護衛の重要性は師団参謀会議でも取り上げられているほか、同要報でも、後方部隊の護衛の必要性を強調した上で、

…所要部隊ニハ直接掩護部隊ヲ付シ敵ノ防害ニ備ヘシモ測魚鎮西方地区(注:七亘村を含む)広陽鎮付近竝陽泉西方地区ニ於テ敵ノ攻撃ヲ受ケ犠牲者ヲ生セシハ遺憾トスル所ナリ

(出典:「第二十師団戦闘要報」(S12.10~11)1937年,防衛研究所所蔵)

としている。実際、10月28日には第二十師団から第一軍に対し、七亘村付近で師団行李輜重隊が敵と遭遇したため、航空機による現場の偵察を求める電文が打たれている。

このように見ると、中国側がいう「七亘大捷」の日時・場所と合致する状況で、第二十師団の後方部隊が攻撃を受け、若干の損害が発生したことは事実のようだ。実は、この出来事に相当する陸軍省の記録が防衛研究所に残っている。現場の輜重兵中隊長(第三師団からの出向)が、猛烈な攻撃に「最後」を覚悟し、機密書類を焼却処分したことを報告した書類だ。その内容を見てみよう。

別紙機密書類ハ(秘密書類ナシ)昭和十二年十月二十八日山西省平定県石門村付近ノ山地戦ニ於テ 第二十師団左縦隊糧秣前送中 優勢ナル敵部隊ニ遭遇 之ト交戦シタルニ 敵兵ハ我カ軍寡少ナルニ乗シテ殺到 重火器及手榴弾ヲ投擲シ 部隊ノ先頭ヲ公用行李将校行李ヲ積載行進中ノ駱駝ハ遂ニ敵弾命中戦死セリ 此ノ時既ニ敵ノ重囲ニ陥リ 敵火ノ集中ヲ浴ヒ 後続駱駝ハ枕ヲ並ヘテ敵弾ニ斃レ 敵ハ真近ニ潮ノ如ク殺到 手榴弾等ヲ乱擲セリ 為メニ中隊ノ進退極マリ 此レヲ最後と判断シタルヲ以テ 弾雨ヲ犯シテ之ヲ収容取纏メ焼却処分シ終リタリ 依ツテ陸軍機(秘)密書類取扱規則第六十八条ニ依リ 此段及報告候也

(出典:三兵輜一第六十二号「機秘密書類処分報告」1938年,防衛研究所所蔵)

日時と場所、配属部隊が合致している。「七亘大捷」の戦闘はこれに間違いないだろう。

報告書を読む限り、戦闘は激しかったようだが、この戦闘だけで「戦死傷四百人前後」もの大損害を与えたという中共の主張は明らかに誇張だろう。太原攻略戦全体でも、第二十師団の死傷者数は戦死413人、戦傷1242人だ。「七亘大捷」後も、第二十師団の進攻速度は全く衰えていない。運んでいたのは武器弾薬ではなく糧秣(食糧)で、獲られたのは行李、すなわち将兵の私物ぐらいだったのではなかろうか。

七旦大捷記念碑。(七旦村,1997年)

七旦大捷記念碑。(七旦村,1997年)

七亘村は山奥深い山村で、その暮らしは豊かではない。農地として耕作されている窪地を囲むように岩肌に穴が掘られ、人々は今もそこを住居(窯洞)としている。窪地の中央には小高い丘があるが、その頂上に巨大なモニュメントが建っている。「七亘大捷記念碑」だ。碑文は当時第百二十九師の副師長を務めた徐向前の筆による。慎ましい生活を送る山村には不釣り合いな雰囲気だが、管理を徹底されているのかきれいに掃除されている。

第一軍参謀部「第一軍機密作戦日誌」(巻四)
第二十師団「第二十師団戦闘要報」(S12.10~11)1937年
第二十師団司令部「北支山西省山地作戦ニ於ケル体験」
第二十師団参謀部「機密戦争日誌」1937~1938年
三兵輜一第六十二号「機秘密書類処分報告」1938年
董平編著『七旦大捷』中共平定県委党史研究室・政協平定県文史資料委員会、1995年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000023.html

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12 thoughts on “「七亘大捷」の実相

  1. 中国山西大同 陈尚士

    “七亘大捷”的真相
    在日中事变初期的1937年(昭和12年)10月,日军第20师团突破娘子关,进攻到了山西。七亘大捷指的就是,在平定县七亘村附近,被中共军认定为进攻并且击败了该师团这一事件。尽管这一事件规模不大,但中共军作为继攻击了日军第5师团的“平型关大捷”之后的武功,进行了宣传。可实际情况却与平型关一样,奇袭攻击的是近乎非武装的补给部队,其战功也并没有多大。
    七旦村。太行山脈の山深い山村だ。
    中央に見える丘の上に記念碑が立っている。(七旦村,1997年)
    参加攻击日军的部队是刘伯承担任师长的第18集团军的第129师。第129师10月24日从北同蒲线的原平地区出发,经过太原地区到达了七亘村。之后,设定以一个大队和侦察小队攻击了日军。中共方面战死35人,与此相对的日军伤亡为400人左右,缴获的物资为:轻机关枪4挺,步枪10枝,炮弹300发,牵引辎重车的骡马以及骆驼400头。这些如果是事实的话,那么,日军师团将要遭受不能动弹的重大损失。
    然而,在第20师团的战斗要报里,并没有言及七亘村附近的战斗。这就意味着没有发生战斗,或者即使发生了战斗,也不是作为师团值得记载的重大事件。只是在师团参谋会议上,后方部队之护卫的重要性被提了出来,在战斗要报上,在强调护卫后方部队的必要性的方面,有如下的记载:
    “……对于所需的事务部队,要直接配置掩护部队,以防备敌人袭扰,(日军)在测鱼镇西方地区(注:包括七亘村),广阳镇附近,以及阳泉西方地区受到敌人的攻击,出现了人员的牺牲,这些就是所感到的遗憾之处”(典出:《第20师团战斗要报》昭和12年10月—11月1937年防卫厅研究所藏)
    事实上,10月28日,在七亘村附近,师团的行李辎重部队与敌人遭遇,第20师团向第一军发去了电报,要求派飞机现场侦察。
    如果这样来分析的话,当时的状况就与中国方面所说的“七亘大捷”,在日期、场所上相吻合,第20师团的后方部队遭到了攻击,产生了若干损失好像是事实。实际上,防卫厅研究所还留存着与这一事件对等的陆军省的纪录。现场的辎重兵中队长(来自第3师团),在敌人的猛烈攻击下,已经作好了“牺牲”的思想准备,烧毁处置了机要文件。我们来看看其报告书的内容吧!
    “另纸机密文件:昭和12年10月28日,在山西省平定县石门村附近的山地战中,第20师团左纵队在粮秣运送中,与优势的敌人部队遭遇,在与之交战时,敌兵乘我军人少蜂拥而至,投掷重火器以及手榴弹。行进于队伍前边的、装载着公用行李和将校行李的骆驼,终究被敌弹命中战死了。此时(部队)已经陷入敌人的重围、冒着敌人密集的枪弹,后续骆驼全部毙命于敌弹,敌人如潮水般地涌到近前,因为敌人乱投手榴弹,致使中队进退维谷,将士们判断这是为最后时刻,便冒着弹雨将那些文件收集在一起,付之一炬,以与销毁。依照陆军机密文件处理规则第68条,报告此间的情况。”(典出:三兵辎一第62号《机密文件处置报告》1938年防卫研究所藏)
    日期、场所以及配属的部队是相符的,“七亘大捷”就是这一次战斗,肯定不会有错!
    只要看了报告书,就似乎觉得战斗是很激烈的。仅在这次战斗中,就给与日军“死伤400人左右”的重大损失,中共的这一主张,显然是被夸大了吧!即使在整个太原攻略战中,第20师团的死伤人数也不就是战死413人,战伤1242人吗!第20师团的进攻速度完全没有衰减,日军运送的不是武器弹药,而是粮秣(粮食),被抢掠的是行李,也就是将士们私人之类的物品吧!
    七旦大捷記念碑。(七旦村,1997年)
    七亘村是深山里的一个山村,其生活并不富裕,作为农田耕作于洼地,围着这些农田的四周是裸露的岩石,人们至今还居住于在岩石上挖出的洞穴里。在洼地的中央有个突起的小土丘,在它的上边建有一个巨大的纪念碑,碑文出自当时担任第29师副师长的徐向前的手笔,山村里的生活朴实无华,尽管气氛有些不协调,但也许是彻底管理的缘故吧,却打扫得很干净。

    Reply
  2. 中国山西大同 陈尚士

    刘伯承与七亘大捷
    ■ 曹素英 吴国平
    《文史月刊》2005年第8期  历史风物-抗战风云
      
      漫步在平定县马山乡七亘村外,映入眼帘的是一座丰碑巍然耸立,上面镌刻着军委副主席徐向前元帅亲笔题写的“七亘大捷纪念碑”7个大字。这是1985年2月,中共平定县委、县政府为纪念中国人民抗日战争胜利40周年而修建的。今朝松柏绿,当年战旗红。每当看到它,就会想起68年前刘伯承和陈赓指挥八路军健儿在这里以“重叠的待伏”战术阻止日军入侵的战斗情景……
      1937年9月底,我八路军一二九师从陕西出发,东渡黄河,开赴山西抗日前线。10月挺进太原后,立即驰援娘子关。10月14日晚,一二九师第七七二团参谋长孙继先率领的团直机关和第一、第三两个营,搭乘正太路东行的火车,急速前进,于16日到了平定城东30里的石门村口,配合国民党友军,共同抵御日军的侵犯。第一二九师师长刘伯承、政治部主任张浩率师部于10月18日进抵平定义井村,并召开了平定、阳泉等地活动分子会议,积极动员和组织抗日力量,开展抗日活动。第三八六旅旅长陈赓率部继续东进,于10月20日到达河北省境内的支沙口(马山村东50里),21日在娘子关东南的长生口和日军交了一次火。不到1小时,敌人就被我军的火力压了下去。虽打了胜仗,战士们还是感到不过瘾。
      从22日起,陈赓旅长带领战士们在娘子关的外线,山西与河北交界的30里半径内来回兜圈子。“到底是日军追我们,还是我们追日军,兜了两天的圈子,没有兜着一个鬼子,怪不得国民党骂我们是游而不击”。一个战士不解地发出了疑问。为打消战士们的思想顾虑,陈赓旅长和第七七二团的团长叶成焕命令号兵吹响了停止前进的军号。陈旅长站在队前讲到:“刘师长给我们讲过,我们是地大人多的大国,日本是小国;但军事上日本是强国,我们是弱者。弱者对付强者的欺侮,只能藏在门背后,等他们过来时出其不意地给他迎头一棍,打他个措手不及。我们现在兜圈子就是用的这种办法。”就在陈旅长率领七七二团在娘子关外线兜圈子的时候,在测鱼口到马山村的交通线上,出现了一场意想不到的战斗。
      24日,日军第二十师团左纵队沿测鱼——马山大道前进。当晚,其辎重部队在强大火力掩护下西进,正好与我兜圈子的队伍在七亘村相遇。就在这天,刘伯承师长率部队的政工人员和警卫班一行30余人,在夜幕下从平定赶到了马山村,住在村口的樱桃寺内。当得知敌我在七亘村遭遇时,便亲率一行人马赶赴七亘村指挥战斗。七七二团虽然与敌遭遇,但由于我军组织严密,指挥有方,同时有当地群众的支持,部队很快摆脱了敌人的包围,撤到了村的西坡上,不到2个小时就把队伍结合起来,归还建制,靠近主力,反击敌人,待刘师长率部赶到,部队已突围转移,没有什么损失。
      25日拂晓,刘伯承等人登上七亘村三郎庙前的高土坎上观察地形,见七亘村四面环山,重峦叠嶂,一条小河傍村而过,崎岖石路绕山盘旋。进村的东口地势险要,为设伏之绝好地段。刘伯承判断,敌先头部队已过,后续及辎重部队必然要从这里经过,我军在此设伏,出其不意予以袭击,必能取胜。于是命第七七二团埋伏在七亘村大道两侧的山崖间,伺机歼敌。不出所料,当日,我军获悉日军二十师团先头部队已向平定急进,后续辎重部队两个中队1300余人宿营在距七亘村10公里的测鱼镇。分析了敌人的战略部署后,刘伯承等人认为这批日军的给养在正太铁路没有打通之前,必由测鱼、七亘、马山河这条小道运送。他胸有成竹地对指挥员们说:“七亘村是测鱼镇通往平定必经的咽喉要道,敌人明日必经七亘村向前方输送军需物资,我们一定要把它吃掉!”讲到这里,他拿起铅笔在地图上把“七亘村”三个字果断地画了一个红圈说:“就在这里设伏待敌,我军要利用七亘村南山自然地貌埋伏下来,出其不意地打击敌人。切断敌第二十师团与后方的交通联系,夺其辎重,牵制敌人西进”。
      26日拂晓前,第三营进入伏击地区,各连迅速占领阵地,隐蔽待敌。拂晓,一二九师七七二团也进入伏击地待敌。刘伯承对设伏很有研究,他说:“开进时间要恰当。如果过早,则减弱部队的紧张性与慎重性,容易使人发觉;如果太迟,则来不及设伏,将放走敌人。”对时间的把握,可谓得其要领。上午9时许,测鱼镇日军果然出现在七亘村东的路上,两间是掩护部队,中间是驮着辎重的骡马和押运的士兵,在步兵200余人掩护下向西开进。我军有意放过敌先头部队100余人通过伏击区,等其辎重骡马进入伏击圈内、后尾之掩护部队100余人还在跟进时,即抓住这一有利战机,向敌人的辎重部队突然发起冲击。我军以猛然的机枪、手榴弹火力压制敌人,随即冲进敌群,展开肉搏战,敌人措手不及,队形顿时大乱,兵力无法展开,失去指挥与抵抗,狼狈向东回窜。是役,敌除少数掩护部队和辎重骡马逃回测鱼镇外,大部分被我军歼灭。敌后卫见势不妙,调头顺原路回缩。在狼狈逃窜中,又被我团部侦察班截击于石门关即七亘村东的狭谷中,击毙四五十人。这次战斗,共毙敌300余人,缴获骡马300多匹及大批军用物资,我军仅伤亡10余人。
      27日上午,第七七二团在东冶头(昔阳县所辖)召开了庆贺七亘大捷和悼念烈士大会。上千名群众参加了这个大会。会上,叶成焕团长作了总结,陈赓旅长作了补充发言。
      
      七亘大捷胜利后,刘伯承师长进一步分析了敌人的心理,指出:“敌人在七亘村受到打击后,与前方的交通联系被我军切断,增援任务没有完成,大批军需物资堆积在测鱼镇,急需向前方输运。敌人迷信于我国古代兵法中‘兵无常势,水无常形’、‘不得遵常’的用兵之道,一定会认为我军不会以原样章法,还会经此向前方输送军火。”于是果断再令第七七二团三营埋伏在七亘村西的高龄凤台至石门关,来个“守株待兔”,再给敌人一次打击。而测鱼镇之敌,一面调整部队到七亘村收集搬运尸体,一面调整力量,准备继续运送物资。
      28日上午,果不出刘伯承师长所料,测鱼镇之敌又向七亘村出发了。这次来的是一个骑兵连、两个步兵连,共100余骑兵和300余步兵掩护着辎重部队、骡马西进。敌人狡滑地把部队拉开了距离,打前站的敌人搜索甚严。而我军有了第一次打伏击的经验后,斗志更加旺盛,他们沉着地让敌人的先头部队通过。11时左右,一个骑在马背上的日本兵看到山坳里没有动静,便得意地吹起口哨,朝后面打“旗语”,通知辎重部队大胆前进,待敌人的辎重骡马走进我伏击圈,战士们便一跃而起,以机枪、手榴弹向敌人猛烈攻击,在山腰狭路之敌人仰马翻,狂呼乱叫,慌作一团,我军立即发起冲锋,与敌人展开肉搏战。由于敌人这次组织较前严密,掩护部队较多,战斗一直进行到黄昏。因下雨路滑,我增援部队未能及时赶到,致使敌人大部逃窜,只毙敌100余人,缴获骡马数十匹,我军伤亡20余人。
      七亘村战斗后,刘伯承师长将缴获日军的战马、军刀、大衣等战利品,送给国民党第二战区副司令长官卫立煌一部分。卫立煌亲自点验过目,敬佩不已,尤其对七亘村“重叠的待伏”的战术十分钦佩,认为是奇迹,是“兵家所忌”的一次大胆、巧妙的用兵。因之,他不断地向人说:“还是八路军机动灵活的战术好,接连打了几次大胜仗。”
      七亘大捷是刘伯承首次运用“重叠的待伏”战术取得胜利的光辉战例,也是抗日战争初期,继平型关大捷后我军较大的一次胜仗。刘伯承总结说:“这种重叠的待伏之所以可能进行而且取得胜利,是由于我军摸到了当时日军的大致规律,即通常都有一股牛劲,他们在向预定目标突击时,非常执拗,有时撞了墙都不回头。”朱德称赞刘伯承是“不但骁勇善战,足智多谋,而且在军事理论上造诣很深,创造很多。他具有仁、信、智、勇、严的军人品质,有古名将风,为国内不可多得的将材。”
      
       (责编 王时杰)
      (题图为七亘战斗的战场旧址)

    Reply
  3. 中国山西大同 陈尚士

    yama先生:
    お早うございます。
    次の古い日本語を現代日本語に訳して下さいませんか。私の訳文には正しくない処があるかもしれません。
    所要部隊ニハ直接掩護部隊ヲ付シ敵ノ防害ニ備ヘシモ測魚鎮西方地区(注:七亘村を含む)広陽鎮付近竝陽泉西方地区ニ於テ敵ノ攻撃ヲ受ケ犠牲者ヲ生セシハ遺憾トスル所ナリ
    別紙機密書類ハ(秘密書類ナシ)昭和十二年十月二十八日山西省平定県石門村付近ノ山地戦ニ於テ 第二十師団左縦隊糧秣前送中 優勢ナル敵部隊ニ遭遇 之ト交戦シタルニ 敵兵ハ我カ軍寡少ナルニ乗シテ殺到 重火器及手榴弾ヲ投擲シ 部隊ノ先頭ヲ公用行李将校行李ヲ積載行進中ノ駱駝ハ遂ニ敵弾命中戦死セリ 此ノ時既ニ敵ノ重囲ニ陥リ 敵火ノ集中ヲ浴ヒ 後続駱駝ハ枕ヲ並ヘテ敵弾ニ斃レ 敵ハ真近ニ潮ノ如ク殺到 手榴弾等ヲ乱擲セリ 為メニ中隊ノ進退極マリ 此レヲ最後と判断シタルヲ以テ 弾雨ヲ犯シテ之ヲ収容取纏メ焼却処分シ終リタリ 依ツテ陸軍機(秘)密書類取扱規則第六十八条ニ依リ 此段及報告候也

    Reply
  4. yama

    陳先生、中国語訳は問題ないと思います。唯一、「将士们判断」の部分が報告者である隊長の判断であるというぐらいでしょうか。念のため、以下に意訳を載せます。
    (1)(被害を受けた補給部隊には)護衛部隊を付けて敵の攻撃に備えたが、測魚鎮西方地区・広陽鎮付近と陽泉西方地区において敵の攻撃を受け、戦死傷者が発生したのは遺憾である。
    (2)昭和十二年十月二十八日、山西省平定県石門村付近の戦闘において、第二十師団左縦隊の食糧輸送中の我部隊は、有力な敵に遭遇し交戦した。敵は我部隊が兵力少数であることに乗じて殺到し、重火器及び手榴弾を投擲してきた。公文書と将校私物を載せて部隊の先頭を行進していた駱駝は、銃弾が命中して戦死した。このとき、既に我部隊は敵の包囲を受け、敵の集中射撃によって後続の駱駝も戦死、敵はさらに我部隊に殺到して手榴弾を投擲してきた。ここに、我部隊は進むことも退くこともできなくなり、隊長は最後(全滅は必須)と判断、敵が射撃するなかを、担当者が所持する機密書類を回収し、全て焼却処分した。(規則に基づき)ここに報告いたします。

    Reply
  5. 熊猫

    >ところが第二十師団の戦闘要報では七亘村付近の戦闘は言及されていない。
     私の手元に歩兵第80連隊第3大隊の陣中日誌があります。
     10月28日の被害は御指摘のように軽微なものであるという認識は同じですが、問題はその前の26日の日本軍の損害です。
     幸村部隊が壊滅的損害を受けたとのことです。おそらく輜重兵連隊でしょうが、大隊なのか中隊なのか小隊なのかは不明です。

    Reply
  6. yama

    熊猫さま
    ご指摘の幸村部隊というのは、まさに本稿で紹介している第三師団第一兵站輜重兵中隊(幸村三八吉中尉指揮)のことです。ただし攻撃を受けた日付は26日ではなく28日です。三兵輜一の報告書は、アジア歴史資料センターのウェブでごらんいただけます(C04120390800)。
    董平編著『七旦大捷』では、第一次伏撃を26日、第二次を28日とし、2回にわたる攻撃の累計で本稿記載の戦果を挙げたとしています。しかし、26日の攻撃参加は完全にウソと思われます。26日は国府軍との戦いで、日本側も複数の大隊長が戦死するなど激戦でしたので、中共軍も参戦したことにしたいのでしょうが、実態は第一線が前進した後にノコノコやってきた非武装の輜重隊をリンチしたというだけでしょう。そもそも朱徳、彭徳懐が蒋介石から受けたとする祝電が28日の戦果(これも誇張)に対するものだけですから、どだい話に無理があります。
    七旦大捷の持つ意味は、平型関と同じ戦法で同じように戦果を誇張している点がピタリと符合していることです。

    Reply
  7. 熊猫

    yamaさん
     28日の戦闘の件は私も存じております。その被害が軽微であったことも陣中日誌には記載されていました。しかし、それとは別に、26日の七亘村の戦闘で幸村部隊が壊滅的被害を受けたことが記載されているのです。
     そのことは八路軍第129師団386旅団旅団長であった陳geng1の日記とも符合します。
    「歩八〇Ⅲ戦詳第九号 七亘村附近ノ戦闘詳報」より26日のみを引用します。——–
    三、十月二十六日午後三時兵站輜重幸村部隊ノ伝令測魚鎮ニ帰来シ左ノ通報ニ接ス
      目下幸村部隊ハ七亘村附近ニ於テ敵ノ重囲ニ陥リ在リ至急救援ヲ依頼ス
    四、(略)
    五、午後七時三十分頃ヨリ遂次輜重隊ハ測魚鎮ニ後退シ来リ正子頃迄ニ完全ニ収容シ得タリ
      其ノ収容人員左ノ如シ
       師団大小行李ノ兵員  一二二名
       幸村部隊ノ兵員     九二名
       駱駝          九九名(まま)
       輜重隊苦力       二六名
    ——–引用終わり
     七亘村の戦闘においては10月24日から記述されています。26日の戦闘が無かったということはありません。また後世に『歩八〇Ⅲ戦詳第九号 七亘村附近ノ戦闘詳報』と『陳geng1日記』を突き合わせて書かれたとは到底考えられないことです。
     26日に戦闘があったことは疑いようのない事実ではないでしょうか。問題は日本軍の被害(損害)の規模になると思います。
     当時の輜重兵中隊の規模は500名程度の規模ですから、400人前後の輜重兵が戦死したことになります。人数は不明ですが「師団大小行李ノ兵員」もいたのですから、小規模な小競り合いではないでしょう。

    Reply
  8. 熊猫

    >実態は第一線が前進した後にノコノコやってきた非武装の輜重隊をリンチしたというだけでしょう。
     これは史実と大きく異なります。26日に七亘村の戦闘で92名まで減少した幸村部隊は、28日に再度作戦を決行します。歩兵第80連隊の護衛付きですので、両日とも非武装の輜重部隊という認識は大きな過ちです。
     幸村部隊は28日に七亘村で攻撃を受け、翌29日に救出された時は33名になっていました。負傷者もいたでしょうから、全員が戦死と判断するのは間違いかもしれません。しかし、これらの場所で攻撃を受けたのは、幸村部隊だけではないということが重要です。
     yamaさんが提示された資料はあくまで【機秘密書類処分報告】であり、何らかの機密文書を燃やしたことを裏付けるには有効かと思います。

    Reply
  9. yama

    熊猫さま
    幸村部隊と同じ左縦隊配属の79iの連隊史(1984)を調べたところ、ご指摘の通り、26日と28日の両日、敵の攻撃を受けて危急に陥った旨の記載がありました。失礼しました。28日の出動については、遺体収容が目的とあります。80iは右縦隊ですが、III大隊のみ予備隊として左縦隊配属でしたので、28日に護衛小隊を出したとしても不思議ではありません。
    損害についてですが、79i史では、師団行李隊(藤本部隊)が数十名戦死で、79iの行李隊が5名の戦死とあるだけで、幸村部隊については記載がありません。この点、引用いただいた26日夜の収容人数について、通常の輜重隊をイメージして読むと大損害となりますが、そもそも駱駝輜重は駄馬と違い、現地雇用の調教師1人につき4頭程度を引率しますので、幸村部隊の規模はそれほど大きくなかったのではないかと思います。
    仰る通り、両日にわたり攻撃を受けて損害を生じたのは事実ですが、師団要報での取り上げ方など種々の状況から見ても、やはり戦死400、馬400といった中国側の戦果は誇張されてることに違いはないと考えます。

    Reply
  10. suzurandai

    “太原攻略戦全体でも、第二十師団の死傷者数は戦死413人、戦傷1242人だ。”というのですが、この依り所の「第1軍作戦経過の概要 第4章 太原攻略戦 昭和12年12月25日」においても、チャンと「本表は各部隊の報告により調製したるものなるを以て必ずしも正確を期し難い」と書いてあること、ご存知でしょうか。
    また、太原作戦全体で日本軍の損害について「死傷:11,000人以上」、とWikidataが主張してるので、自己損害をごくに縮小された当初の戦報には拠るにも拠られずっていうのです。

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    1. yama Post author

      何を言いたいのかちょっと分かりづらいのですが、ようは、Wikipediaの記述に“日本軍全体で1.1万人の死傷者数”とあるわけだから、本稿が提示している第二十師団の戦死傷者数は過少ではないか、しかもその可能性は原史料にも書いてあるから本稿の論旨はフェアではない、ということを言いたいのでしょうかね?
      本稿を書いた頃はまだデジタル化資料がなく、防衛研究所の師団要報などにあたりましたが、まあ、報告というのは得てしてそんなものです。とはいえ、多少の増減はあるかと思いますが、規模的にはせいぜい数百人程度の誤差が上限でしょうね。
      ともあれ、原史料にあたるほど熱心なようですから、“日本軍全体で1.1万人の死傷者数”が果たして正しいか、第五師団・関東軍を含めた数を調べてみてください(たぶん第五師団の損害が最多で数千人単位でしょう)。分かったら、またコメントで教えて下さい。あなた、私が調べて伝えても信じないでしょう?
      何でも自分でとことんまで追求することが肝要です。手間暇かかりますが、10年続ければだいたい見えてくるようになります。いまのあなたはまだまだです。がんばってください。

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