寧武県城で起きたとされる虐殺事件


日華事変が勃発した1937年(昭和12年)年10月2日、山西省北部の町、寧武が日本軍に占領された。寧武を占領したのは、関東軍察哈爾派遣兵団所属の独立混成第一旅団(堤支隊含む)で、中国側は、この後、10月7日~16日の間に、寧武を占領していた日本軍が県城内外で合計四千八百人にも上る住民と避難民を殺害したと主張している。この時期に寧武には、少なくとも関東軍堤支隊の一個中隊が残留警備を命じられて駐留していた。ほかにも野戦重砲兵連隊の一部などが居たようだ。しかし、寧武で虐殺事件が起きたことを裏付ける日本側の資料や証言はない。

寧武旧城内の風景(2001年)

寧武旧城内の風景(2001年)

実際に寧武県で当時幼少だった人にも話を聞いたが、当時は日本軍の侵攻によって敗残兵が多数城内に入り、暴行や略奪などの相当の混乱があったようだ。中国側の記録でも、日本軍が二回にわたって入城・出城を繰り返しており、混乱の極みで治安状態は相当に悪化していたものと思われる。この点、正確な日時は不明だが、機銃掃射が行われたこと、附近の延慶寺の僧侶多数が殺害されたことについての住民証言は一致している。中国側は延慶寺の僧侶殺害も日本軍の仕業だとしているが疑問だ。付近に中共ゲリラや匪賊も出没していた。

機銃掃射が行われたのは大南門附近だという。対象となったのは青壮年の男性だったようだ。中国側は民間人の殺害を目的とした無法とするが、どうだろうか。軍服を脱いで城内に隠れた敗残兵を逮捕し、処理を行った便衣兵狩りが、日本軍入城前の混乱と合わさって誇張されたのではないか。10月9日付の東京朝日新聞夕刊では、「寧武に残敵我軍奮戦撃退」という記事を掲載しているが、そこでは虐殺が起きる前日の6日夜に、現地に駐留する日本軍が600~700名の敵に襲撃を受けたとしている。翌朝、苛烈な残敵掃蕩が行われたと予想される。ただ、記事では「赤井部隊」となっているものの、残留警備を命じられていたのは「朝井部隊」で一字違っている。

察哈爾派遣兵団は、万全や陽高など、他の地でも似たような虐殺事件を引き起こしている(→詳しくは「歴史の闇に埋もれた陽高事件」を参照)。李献瑞さんの祖父の不幸は、老齢の彼を”便衣”とみて引っ張ったとは考えづらい。やはり「男狩り」との批判は免れ得まい。

堤支隊「堤支隊戦闘詳報」(第五号)1937年
山西省史志研究院編『日本帝国主義侵晋罪行録』山西古籍出版社、1993年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000024.html

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One thought on “寧武県城で起きたとされる虐殺事件

  1. 中国山西大同 陈尚士

    被看作发生在宁武县城的屠杀事件
    http://shanxi.nekoyamada.com/
    土八路译自日本网络
    日中事变爆发后的1937年(昭和12年) 10月2日,山西省北部的县城—宁武被日军占领了。占领宁武的是关东军察哈尔派遣兵团所属的独立混成第一旅团(包括堤支队),中国方面认为,在此后的10月7日—16日之间,占领了宁武的日军,在县城内外共杀害了多达4800人的居民和难民。这一时期的宁武,至少留驻了关东军堤支队的一个中队,进行了留守警备。此外好像还有野战重炮兵的一部等。可是,日本方面却没有发生在宁武屠杀事件的旁证。
    宁武旧城里的风景(2001年)
    在宁武县,我实地听取了在当时还是孩童的人们讲述的故事,当时由于日军的进攻,有好多残兵进入了城里,相当混乱,好像发生了强奸和掠夺等事件。中国方面的记录也认为,日军入城、出城反复进行了两次,混乱至极,治安状况是相当恶化的。在这一点上,尽管不清楚准确的日时,但就发生的机枪扫射事件、以及附近的延庆寺的很多僧侣被杀害的事件而言、居民的证言还是一致的。中国方面认为,延庆寺的僧侣被杀,也是日军所为。但是这里存有疑问,(因为)当时附近有中共游击队以及土匪的出没。
    发生机枪扫射的地点,据说在大南门附近。被杀的对象似乎为青壮年男性,中国方面认为,这是以杀害民间人士为目的的残暴行为,不过,情况究竟如何呢?(日军)逮捕脱去军装的残兵而进行了处置的“捕获便衣兵”的行动,是不是与入城前的混乱搅合在一起而被夸大了呢?在10月9日的东京《朝日新闻》的晚刊上,登载了这样的记事,“在宁武我军奋战击退残敌”,在发生屠杀的前一天—6日夜间,驻留在当地的日军,遭到600—700余名敌人的袭击,可以想象,在第二天早晨,(日军)激烈地进行了残敌扫荡。只是记事上记载的是“赤井部队”,而被委派的却是“朝井部队”,差了一个字。
    察哈尔派遣兵团,在万全、阳高等其他地方,发动了类似的屠杀事件,(详细情况请参阅《被掩埋于历史尘埃中的(山西)阳高事件》)。李献瑞先生的祖父的不幸遭遇,即日军把老龄的他祖父看作“便衣”而处以死刑,这是难以想象的,(所以说)对于“拘捕男子”的批判,还是推脱不掉的吧!

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