反共を貫いた殿将帥 王靖国


太原陥落で中共軍に捕らわれた山西軍首脳。右から二番目が王靖国。隣は孫楚か。

太原陥落で中共軍に捕らわれた山西軍首脳。右から二番目が王靖国。隣は孫楚か。(1949年)

王靖国は、1893年(光緒19年、明治26年)、山西省五台県新河村に生まれた。生家は貧農の母子家庭というが、郭家寨学堂、東治高等小学校を卒業、太原陸軍小学校に入学している。「苦学して」と表現されるが、出自が確かなら不世出の秀才を見込まれたに違いあるまい。

小学校在学時に辛亥革命が勃発し、学生軍の一員として城内警備にあたっている。のちに大同戦にも忻代寧公団の一員として参加している。公団解散後復学し、北京清河陸軍中学校を経て保定陸軍軍官学校第五期歩兵科に入学。傅作義、李生達ら同学とともに「十三太保」のひとりに数えられた。

卒業後は山西に帰郷し、晋綏軍学兵団隊付に着任。その後、第四混成旅第七団連長を経て、商震が師長を務める第一師第二旅第四団営長に就任。このとき部隊を観閲した閻錫山の目にとまった。閻は王の部下に対する厳格な教練に感心したという。1926年(民国15年、昭和元年)の対馮玉祥戦で功が認められ、第四団長、第十六旅長を経て、第五師師長と出世街道をあがっていった。1927年(民国16年、昭和2年)の北伐戦には第五師を率いて参加した。この頃にはすでに閻の忠臣として名が通っていたようだ。

1930年(民国19年、昭和5年)の中原大戦では第三軍軍長として参加したが晋綏軍は敗北。閻は大連に逃亡する際に全ての将領に洋銀を渡したが、王は受け取った一万元全てを部下に配分したという。のち張学良の縮軍で第三軍は第七十師に縮小されると、同師長として綏遠包頭に左遷された。しかし1932年(民国21年、昭和7年)に閻錫山が綏靖公署主任に返り咲くと、特設された綏西屯墾督弁公署の会弁に就任。臨河、五原一帯の開墾を指揮し、行政面でも能力を発揮した。

翌1933年(民国22年、昭和8年)に廬山軍官訓練団に参加した際には、その勤勉さから蒋介石の称賛を得た。そのため、翌年に第十九軍軍長に就任したが、その年に閻との会談で山西を訪れた蒋は王家を訪れている。蒋はその際、地方軍閥の一将帥にすぎない王の母に書を送り、その労をねぎらったという。しかし、王の閻に対する忠臣としての態度に変化はなかったようだ。また、同年に起きた関東軍の謀略による綏遠事件には、傅作義軍の一部として戦闘に参加した。

1937年(民国26年、昭和12年)7月の日中開戦後、晋北に出動し、代県、山享県で抗戦したのち、忻口戦では十一個師が配置された中央総指揮として、約三週間の激戦を指揮した。太原失陥後の翌1938年(民国27年、昭和13年)春、同蒲線を南下して山西省南部攻略を目指す日本軍を隰県付近で迎撃したが失敗、彼の処遇を巡って執法総監の張培梅が自殺する事件が生じている。

1939年(民国28年、昭和14年)には実質的に山西軍のトップとも言える第十三集団軍総司令に就任した。また閻が優秀幹部を育てる目的で陝西省秋林に軍官集訓団を編成すると、その副団長にも就任。その後も閻が青洪幇を組織すると、王は王夢飛という仮名で副山主を命じられたり、吉県で組織された建軍訓練所の主任を務めるなど閻に重用され、影響力を強めた。

閻の忠臣である王靖国は、当然反共の急先鋒として腕をふるった。同年冬には中共勢力を一掃することを目的とした「鉄軍組織」を設立。中共との軍事衝突が起きた晋西事件(山西新軍事件)では、陳長捷とともに反撃の先頭にたった。 この際、日本との妥協と中共攻撃に反対したといわれる政権ナンバー2の文官・趙戴文が事件後軟禁状態におかれた。王靖国は政権内でも閻の右腕としての地位を固めた。

1945年(昭和20年)の日本降伏後は、第十三集団軍総司令として中共軍との戦闘を指揮する一方、鉄軍師の組織と教育を担当し、閻軍の延命に力を注いだ。しかし戦局利あらず、1948年(昭和23年)に晋中戦役で趙承綬軍が壊滅して太原が中共軍に包囲されると、同僚らが次々と中共へ寝返り逃亡するなかで第十兵団総司令兼太原守備司令に着任、閻軍の殿(しんがり)を務めた。度重なる中共軍の降伏勧告を拒絶し、太原城内に最後まで籠城した。突入してきた中共軍に身柄を捕らえられたのは、司令部が置かれた公署地下室の中だったという。

逮捕された王靖国は戦犯として太原監獄に収監された。最後まで中共に妥協しなかった反骨将帥は、1952年(昭和27年)、五十九歳で獄死した。

『民国高級将領列伝』解放軍出版,1996年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000029.html

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One thought on “反共を貫いた殿将帥 王靖国

  1. 中国山西大同陈尚士

    反共到底的将帅王靖国
    因太原陷落而被中共军逮捕的阎军首脑。右起第二是王靖国,他旁边的是孙楚吧。
    1893年(清•光绪19年,日•明治26年),王靖国出生于山西省五台县新河村。虽说出生的家庭贫困,为母子二人的农家,但在郭家窑学堂、东冶高等校小学校毕业后,升入了太原陆军小学校就读。虽然被表达为“苦学”,但如果其出身确切的话,估计肯定是一个少见的秀才。
    他在小学校就都的时候,爆发了辛亥革命,作为学生军的一员,他担任了城内的警备任务。后来,他作为忻代宁公团的一员,还参加了攻打大同的战斗。公团解散后,他复学,经过北京清河陆军中学校,升入保定陆军军官学校第5期步兵科学习。他与傅作义、李生达等同学一起,被列入(阎锡山的)“十三太保”之一。
    毕业后,他回归山西,就任晋绥军学兵团队的随从,经第4混成旅第7团连长之历,在商震就任师长的第1师第2旅第4团任营长。这个时候,他被检阅部队的阎锡山所注目,据说,阎很佩服王对其不下的严格训练。在1926年(民国15年、昭和元年)对冯玉祥的战争中,他被认为有功,经历第4团长、第16旅长之后,走上了其发迹的道路—-出任了第5师师长之职。1927年(民国16年、昭和7年) ,他率领第5师参加了北伐战争。这个时候他作为阎的忠臣,似乎已经名驰四方。
    1930年(民国19年、昭和8年)他作为第3 军军长参加了中原大战,不过,晋绥军败北。在阎逃亡大连的时候,给所有的将领都发放了大洋,据说王把领到的1万块大洋全部分发给了部下。后来因张学良的裁军,第3军被缩编为第70师,他作为该师的师长,被降职到绥远包头。然而,1932年(民过21年、昭和7年)阎锡山梅开二度,再返绥靖公署主任之职后,他就任特设的绥西屯垦督办公署的会办。指挥临河、五原一带的开垦,在行政方面也发挥他的能力。
    第二年的1933年(民国22年、昭和8年),他在参加庐山军官训练团的时候,因其勤勉而受到蒋介石的称赞。为此,他翌年就任了第19军军长,而就在那一年,蒋因与阎会谈而访问了山西,同时也访问了王家。据说那个时候,蒋把字画送给不过是地方军阀的王的母亲,以示犒劳。可是在作为王对阎忠臣的态度上却似乎没有改变。另外,同年发生了由于关东军的谋划的绥远事件,作为傅作义军的一部,他也参加了战斗。
    1937年7月(民国26年、昭和12年)7月,日中开战后,他出动于晋北,在代县、崞县进行了抗战,在后来的忻口会战中,他作为配置了11个师的中央总指挥,大约指挥了三周时间的激烈战斗。太原失陷后的第二年,即1938年(民国27年、昭和13年),他沿同蒲线南下,在隰县附近迎击以山西省南部为攻略目标的日军,但是失败了,围绕着对于他的处置,发生了执法总监张培梅自杀的事件。
    另外,阎以培养优秀干部为目的,在陕西省的秋林组编了军官集训团,他同时还就任该团的团副。再往后,阎组织了青红帮,王以王梦飞的假名,被任命为副山主。还担任了在吉县组织的建军训练所主任,受到了阎的重用,强化了其影响力。
    阎的忠臣王靖国,作为反共的急先锋当然施展了其才能。同年冬,设立了以一扫中共势力为目的的“铁军组织”。在与中共发生军事冲突的晋西事件(山西新军事件)中,他于陈长捷一起,站在反击的最前列。这个时候,被称为反对与日本妥协、反对进攻中共的阎政权的第二号人物、文官赵戴文他在晋西事件发生后,处于被软禁的状态。王靖国又巩固了在阎政权内作为阎的右腕的地位。
    1945年(昭和20年),日本投降后,他一方面作为第13集团军总司令,指挥与中共军的战斗,另一方面担任铁军师的组织和教育工作,为阎军免于垮台而倾注了力量。但是,战局不利,在1948年(昭和23年)的晋中战役中,赵承绶军覆灭,太原处于中共军的包围之中,在同僚们陆续向中共军投降,或逃亡的时候,他就任第10兵团总司令,兼太原守备司令,担负了阎军的殿后任务。他拒绝了中共军的多次劝降,在太原城内坚守到最后。他被突入的中共军逮捕的地点,据说是置于公署地下室的司令部里。
    被逮捕的王靖国作为战犯被收监于太原监狱,直到最后也不向中共妥协的反共将帅,与1952年,59岁时死于监狱。

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