幻に終わった中国最大の化学工場「華北窒素」


戦前、山西省で日本企業によって化学肥料工場の建設が進められていた。完成すれば、中国で最大の化学工場になると言われた巨大プロジェクトだ。現地法人名は、華北窒素肥料股イ分有限公司、略して「華北窒素」。現在のチッソの前身である日本窒素肥料株式会社が国の要請に応じて設立した国策会社だった。

華北窒素は、1942年(昭和17年)9月1日、窒素肥料の製造販売を目的とした中国法人として設立された。資本金四千万円のうち、北支那開発株式会社と日窒がそれぞれ千九百万円を出資し、残り二百万円を立地予定の山西省公署が出資した。公署出資分は千二百平方メートルの土地の現物出資分だ。本社は北支那開発の北京事務所に設置されたが、現地での工場建設などの実務は日窒が請け負った。

当時の関係者によれば、1942年(昭和17年)2月頃に化学肥料工場の設立が北支那方面軍で計画され、日窒は当初、山東省青島付近で塩安(塩化アンモニア)製造を想定していたものの、軍の意向で山西省太原での硫安(硫酸アンモニア)製造が決定されたという。

そもそも塩安は塩素を含み水溶性に優れているために水稲に適している一方、硫安は硫酸イオンを含むためにアルカリ土壌における畑作に適している。すなわち日窒は中国で生産した肥料の朝鮮または内地への輸出、もしくは華北での普及を促進していた水田での使用を目的に塩安生産を想定した一方、軍は華北における穀物生産を中心とした自給自足体制の確立を目的に硫安生産を要求したようだ。

実際、建設計画が浮上したときには物資不足の深刻化から華北においても物資動員計画(物動)に基づく割当制が実施されていたが、関係者によれば「硫安年産二十万トン計画で、華北に自給するということで、北支軍も優先的に取扱った」という。大東亜建設に本気だった証左だが、現地における期待も大きかったようだ。工場附近は中共ゲリラの勢力下にあり、軒並み襲撃を受けていたが、終戦までの間、華北窒素だけは襲撃されたことはなかったという。それまで中国で流通していた「トンあたり千円」の英国製硫安に比べ、現地民は喜んで買うだろうトンあたり三百円の硫安の製造・販売を計画していた華北窒素は、「華北の土地に有益だと、八路軍は襲撃してこなかった」という。

硫安の製造方法は原料であるアンモニア分と硫酸分の生成方法を含めて多様だが、華北窒素では石炭を原料とした水素と窒素の高圧合成法(カザレー法)によって生成したアンモニア分を、採掘した石膏(硫酸カルシウム)の焼成によって生成した硫酸分と反応させる製法を考えていたようだ。そこで石炭が豊富で高品質な石膏を産出する山西省太原に立地が決まり、工場は山西省太原の県城から西へ四キロほどの汾河のほとりにある彭村に建設されることになった。川のほとりに建設予定地を定めたのはアンモニアの分離に使う冷却水として汾河の水利用が念頭にあったからだ。

また、アンモニアを酸化して生成される硝酸は爆薬(アンモニア・ダイナマイト)の原料となる。このため、硝酸生成設備を整えることで火薬工場への転換が可能だ。北支那方面軍と日窒では、当初からダイナマイトの製造も念頭にいれて工場建設を予定したようだ。当時勤務していた人も、将来的にダイナマイト製造を行う予定と聞いていたと回想する。

華北窒素は完成すれば、化学工場として中国で最大の規模になると言われていた。これだけ巨大なプラント建設は、通常だと予備プラントを建設してから本プラント建設に着工するのが一般的だ。ところが華北窒素ではいきなり本プラントの建設を開始している。技術力の高い日窒のやり方だった。しかし時局には逆らえなかった。結果として本プラントの建設は終戦を迎えるまえに中断した。

当初年産二十五万トンの硫安製造を目標に、物動編成による主要機械の発注は1943年(昭和18年)度中に完了したものの、「必要資材竝工人食糧等之ニ伴ハズ」、「二十年度十二万五千瓲生産能力ノ工場建設ヲ完了シ操業ヲ開始」することに変更された。しかし翌1944年(昭和19年)に入ると、「物動情勢ノ急激ナル変化ニ鑑ミ此際建設工事ヲ一時中止」することとなってしまった。巨大プロジェクトゆえ多くの日本人技術者が赴任していたが、建設中止が決まった春頃から日本人技術者は徐々に朝鮮の興南や満州の青水といった別の日窒工場に移っていき人が減ったという。残ったのは石膏採掘に携わる人だけで、それでも8月現在で日本人従業員数は232人を数えた。

華北窒素のプラント建設は終戦を迎えるまで中断したままで、原料となる石膏の採掘だけが続けられた。それらはセメント製造用として軍に売却されたという。石膏の採掘量は、1944年(昭和19年)度の月産目標一万二千トンに対し九千トンの採掘だった。 終戦時に工場を接収した山西軍の報告によれば、「応用機械及び重要設備の十分の一、二しか完成されていなかった」という。機材の多くは接収にあたった山西軍によって売却され、工場は解体された。こうして中国最大の化学工場の誕生は幻に終わった。

中村隆夫『戦時日本の華北経済支配』山川出版社、1983年
范力『戦時期における華北産業構造についての一考察』1996年
日本窒素史への証言編集委員会編『日本窒素史への証言』(第一集)私家版、1977年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000032.html

Related Posts

  • 太原紡績工場小史2005年5月22日 太原紡績工場小史 現在も太原市内で国営の紡績工場として操業している山西針績廠は、戦前に設立された民間の紡績工場が母体となっている。 […]
  • 占領地太原の都市計画2007年8月19日 占領地太原の都市計画 日本人の主導によって華北の占領地では都市計画が立案された。内地におけるそれと比較しても遜色のない立派なものであったが、時局から実施できたのは一部にとどまった。山西省でも実現できた […]
  • “大黄河治水”三門峡ダムの戦前・戦後2005年8月25日 “大黄河治水”三門峡ダムの戦前・戦後 戦前は国府と日本、戦後は中共政府と、為政者は変わっても共通して黄河治水の要とされてきたプロジェクトがある。三門峡におけるダム建設だ。この壮大なプロジェクトは、終戦でデスクプランと […]

One thought on “幻に終わった中国最大の化学工場「華北窒素」

  1. 匿名

    梦幻化成泡影的中国最大的化工厂“华北氮素”
    土八路译自日本网络
    http://shanxi.nekoyamada.com/
    战前,依靠日本企业,位于山西省化肥厂的建设被向前推进了。那个化肥厂要是建成的话,就会成为中国的最大的化工厂,可以说这是一个巨大的项目。当地法人的名称叫“华北氮肥股份有限公司”,简称“华北氮素”。“日本氮素肥料株式会社(日氮)”是目前氮素(生产厂家)的前身,该公司是按照国家策略的要求而设立的。
    华北氮素是1942年(昭和17年)9月1日,以氮肥的制造和贩卖为目的、作为中国法人而设立的。在4000万日元的资本金里,北支那开发株式会社和日氮分别出资1900万日元,剩下的200万日元由预定厂地的山西省公署来出。公署的一部分投资是1200平方米的土地现物股。总社被设在了北支那开发的北京事务所,但当地的工厂建设等实际事物务,则由日氮来承办。
    据当时的当事者讲,在1942年(昭和17年)2月份的时候,化肥厂的设立是由北支那方面军计划的,虽然日氮当初设想要在山东省青岛附近制造氯化氨,但军方的意向决定了在山西省太原制造硫酸氨。
    说起化肥来,氯化铵含有氯,因为它在水溶性方面优越,适合于水稻;而另一方面因为硫酸氨含有硫酸离子,适合于碱性土壤的旱田作物。也就是说日氮的设想是,在中国生产的肥料向朝鲜或日本内地输出,或者在华北促进水田的普及,以在这些地方使用为目的,而设想了生产氯化铵;而另一方面,军方是以在华北生产谷物为中心,以确立自给自足的体制为目的,而要求生产硫酸氨。
    从物资匮乏的严重化来看,实际上,在建设计划浮现出来的时候,即使在华北,基于物资动员计划的配额制也已经被实施了,不过,据当事者讲,说是“以年产硫酸氨20万吨的计划,要在华北达成自给,北支那派遣军也优先处置安排了实施”,这虽然是认真建设大东亚的佐证,但似乎当地的期待也是很大的。据说工厂附近处于中共游击势力范围之内,虽然各处受到过袭击,但直到战争结束的整个期间内,只有华北氮素没有遭到过袭击。(这里生产的氮肥)与此前在中国流通的“每吨一千日元”的英国硫酸氨相比,当地居民会高兴地购买吧,华北氮素计划制造和贩卖“每吨三百日元”的硫酸氨,据说是“有益于华北的土地,八路军没有来袭击”。
    硫酸氨的制造方法,包括合成作为其原料的氨气部分和硫酸部分,其方法是多种多样的,但是在华北氮素,考虑的好像是让氨气和硫酸发生反应的制造方法,氨气那一部分是依靠将煤炭作为原料的氢与氮的高压合成法而生成;硫酸那一部分是通过采掘的石膏(硫酸钙)加以煅烧而生成的。在山西省的太原,煤炭是丰富的,还出产高品质的石膏,所以选择的厂址就定在了那里。工厂决定建设在距太原县城以西4公里远的、位于汾河边的彭村。之所以选定在河边作为建厂预定地,是因为有利用汾河水的念头,作为用于分离氨气的冷却水(可以取自汾河)。
    另外,将氨气氧化而生成的硝酸,是炸药(氨炸药)的原料。为此,通过调整生成硝酸的设备,向火药厂的转换也就成为可能。北支那方面军和日氮,似乎从当初起,就将炸药的制造也放在心上,而预定了工厂的建设。当时的勤务人员也回忆说,他们听说预定将来要进行炸药的制造。
    作为化工厂,华北氮素如果完全建成的话,据说在中国将成为规模最大的化工厂。建设这么巨大设备的工厂,要是在一般的情况下,是要在进行了基础设施的建设之后,才启动正式的工程。可是,在华北氮素,一下子就开始了正式工程的建设。这是技术力量雄厚的日氮的做法。可是,时局没有发生逆转,结果,正式工程设备的建设,在战争结束前就中断了。
    当初,以年产25万吨硫酸氨为目标,依照物资动员计划的主要机械的订货,尽管在1943年(昭和18年)度中就完成了,可是,因“必要的资材以及工人粮食等并没有齐备” ,却被变更为“昭和20年度(1945年),开始作业,完成12万5千千瓦生产能力的工厂建设”。然而,一进入1944年(昭和19年),就不幸变成了“鉴于物资动员计划形势的急剧变化,暂时中止这个时候的工程建设”。因为是巨大的项目,很多日本技术人员已经赴任了,可是从决定中止建设的春天开始,据说日本的技术人员,就逐渐地向朝鲜的兴南和满洲的清水这些其他日氮工厂转移,人员减少了。留下的仅仅是与采掘石膏有关的人员,尽管是这样,在8月的那个时候,日本人从业人数达232人。
    华北氮素的生产设备建设,是直到迎来战争结束的时候才中断的,其后就那么仅仅继续进行作为原料的石膏的开采。据说,那些石膏作为制造水泥材料而被军方卖掉了。石膏的采掘量是,相对于1944年(昭和19年)度的月产目标12000吨,实际采掘了9000吨。据战争结束时接收了工厂的阎锡山军的报告,说“只完成了应用机械以及重要设备的十分之一、二”。很多器材被担当接受的阎锡山军给卖掉了,工厂被解体了。就这样,中国最大的化工厂诞生的梦幻化成泡影了。

    Reply

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

post date*