山西で散った道産子兵


ホームページを見たというNさんからメールが来たのは9月のことだ。山西省で戦死したという叔父の詳細が知りたいという。Nさんは家系図を整理している際に、N叔父の墓標を写したと思われる写真を見つけ、具体的な戦死場所やその時の様子が知りたいとメールを送ってきた。できれば現地で慰霊も行いたいという。

戸籍謄本には、「昭和13年10月23日山西省霍懸源頭林付近で戦死 K部隊長報告」となっており、写真に写っている墓標には「山西省霍懸源北門外」とあった。二十八才で亡くなったというN叔父は、屯田兵で入植した家庭に生まれた道産子。招集前には裁判所の書記官を務めていたという。応召されて現地に赴任し、到着してそれほど日も経たないですぐ亡くなられたらしい。しかし当時を知る人は亡くなり、所属部隊についても不明。本籍地や道庁で軍歴照会をしても何も判明しなかったという。

華北戦線の機関銃隊 (朝日新聞社,1937年)

華北戦線の機関銃隊 (朝日新聞社,1937年)

昭和13年末はちょうど日本軍が山西省全域を制圧しようと作戦を展開していた時期で、中国軍の抵抗が激しかった時期だ。「霍懸」は山西省の中南部に位置する現在の霍州市で、第百八師団の警備担当地域に含まれる。霍県には部隊が駐屯していた。戦死場所である「源頭林」は、霍州市の東約十二キロに位置する「源頭村」の間違いだろう。おそらくN叔父は部隊の討伐作戦に出動し、源頭村で戦死され、県城まで搬送されて「源北門外」に埋葬された。

気になるのは現地埋葬だ。当時は野犬が多いから土葬は安心できない。それに通常は慰霊を行い、火葬して骨壺におさめ、部隊で任命した搬送員に公用任務として内地に送り届けさせるのが通例だ。先に火葬して墓標を建て、後で内地に帰還させたのかもしれない。「源北門外」は県城の外にある駐屯地の場所で、墓標はその内に建てられたはずだ。

残る疑問が所属部隊だ。第百八師団は東北を師管区とする特設師団で、北海道に戸籍を持つN叔父が応召される筋合いはない。北海道は第七師団が原隊のはずで、日華事変のとき師団は満州に派遣されていた。事変勃発で師団から部隊が抽出されているが、その中で独立機関銃大隊をいくつか編成し華北戦線に送っている。調べてみると、第五大隊が第百八師団に配属されていた。N叔父はこの部隊だろう。大隊本部は師団司令部と同じ臨汾にあるが、霍県にN叔父のいた中隊が派遣されていたのだろう。重機隊は敵に狙われることが多い。 N叔父が亡くなる四カ月前、大隊は方面軍を通して兵100名の人員補充を中央に要請している記録が残っている。 N叔父はこのときに招集されたのかもしれない。

第七師団史料館は陸自の新千歳駐屯地にあるが、Nさんには勘違いをして旭川駐屯地に問い合わせするように勧めた。その後Nさんから連絡があり、幸運にも旭川に資料があり、N叔父が第五大隊にいたことが分かったという。Nさんは現地に行って供養したいという。遠い異国の地で亡くなったN叔父も喜ばれることだろう。

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000035.html

11 thoughts on “山西で散った道産子兵

  1. 中国 山西 大同 陈尚士

    Yama先生:
    您好,请教一个问题,什么是“道産子”?什么是“道産子兵”?我翻遍了字典也没有找到这个词条。
    日文的原文为:“二十八才で亡くなったというN叔父は、屯田兵で入植した家庭に生まれた道産子。”,“山西で散った道産子兵 ”
    另外,在您的文章的后面,有些没有设置“留言”栏目,因此,我只能将译文发往其他栏目了。
    谢谢,再见。

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  2. yama

    陳先生、「道産子(どさんこ)」というのは、北海道生まれの人のことを言います。もともとは、北海道の農耕馬のことを「道産子」と言っていたのですが、その後、人に対しても同じように表現するようになりました。
    その由来はよく分かりませんが、北海道生まれの人は、自分のことを「道産子」と呼びますので、悪い意味(差別)ではないと思います。
    ちなみに満鉄勤めだった今は亡き祖父母は、二人とも「道産子」でした。

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  3. よこさん

    自分の爺さんは、当時身長185Cmと大柄な人でした。
    北海道の岩内町出身で青森の親戚に行く途中で行方不明になり
    その後、実家に届いた葉書には、青函連絡船内で軍に召集され
    そのまま、北支につれていかれたというような内容が書かれて
    いました。その様な召集のされかたは、有ったのでしょうか。
    その後、昭和16年6月12日、河北省塩山県にて戦死。2階級特進
    兵長。というようなことを母親から聞かされました。
    子供の頃から、仏間にある、兵隊さんの写真をいつもじーっと
    見つめながら、この人がおじいちゃんなんだなと、不思議な感じと、なんで死んだのかという疑問を抱いてました。普通なら
    一人位、爺さんがいると思いますが、自分の爺さんは、誰一人
    おらず、聞くと、みんな、戦死してお前の爺さんはいないと。
    北支、アッツ、ガダルカナル。
    アッツ、ガダルカナルで戦死した爺さんの遺骨はない。
    昭和16年に北支にて戦死した爺さんは、まだ大東亜戦争に入る
    直前で少し余裕があったみたいで遺骨は戦友の方が届けてくれた様です。
    特に気になるのが北支で戦死した爺さんで、どうしても軍歴を
    調べたく、特に召集のされ方が、普通と違う点が気になります。
    ばあさんの話では、普通の部隊での新兵教育、古兵による虐待
    の様なことはあまりなっかたみたいなことをいってました。
    でも日本の軍隊でそんなことはないと思います。
    当時、この様に、突然軍隊に召集されるケースがあったのでしょうか。
    ご存知の方、教えて頂きたい。

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  4. yama

    よこさんさま
    こんにちは。昔の日本軍も今の常識とそれほど大きく変わるところはありません。現役・予備役の召集であれ徴用であれ、通常の正規の命令による場合は、事前に召集令状など文面で指定された場所に参集し(数日の余裕はある)、すぐ戦地に赴く場合でも輸送班を組織して長を決めて移動します。
    青函連絡船内で召集された、というお爺さまのお話ですが、嘘をついたとも思えませんので、少なくとも話の大筋としては近い形があったのでしょう。とすると、現役で休暇中などでない限り、尋常な形ではありませんから、以前から軍の仕事か何かをされていらしたのではないでしょうか?。また、華北戦線の陸軍兵士で二階級特進もきわめて稀なことです。
    当時の記録については、軍歴照会により、おおよそは分かりますが、特別な任務に関わっていた場合は、公的な記録と実際の記録は異なる可能性がありそうです。また、そのような任務についていた関係者の方々は、戦後に至っても口を閉ざしていることが多いようです。ただ、二階級特進のような殊勲は何らかの形で記録に残っている可能性はありそうですね。
    最後になりましたが、お国のために散華されたお爺さまに、ご冥福をお祈り申し上げます。

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  5. よこさん

    ご説明頂き、ありがとうございました。
    確かに、当時、鉱山で働いてたようです。遺影を見る限り、
    (戦死直前)星2個が確認できるので、2階級特進で合ってると
    思います。
    太平洋戦争前だったので、国から、東京往復の汽車賃と宿泊代
    並びに、お土産代を頂き、靖国神社参りにも行かせてもらった
    と、ばあ様が言ってました。「東京に行ったら、ちゃんと、軍隊の人が、市内見物等の案内もしてくれた」とも言ってました。
    ばあちゃんが言うには、大東亜戦争前だったから、まだ余裕が
    あったのでしょうと。
    でも、あの陸軍がそんなことするか?と疑問に思いますが、
    本当にその様なことがあったのでしょうか。
    自分の母親も、もう70歳をすぎ、父親の顔は、写真の記憶しかなく、ばあちゃんからの話でしか知らず、せめて、軍歴だけでも、調べてあげたいと思います。
    今年のお盆は、体調不良で岩内の墓参りは行けず、代わりに自分が行ってきました。
    決して、立派なお墓ではありませんが、戦死した、爺さんの
    実家が、墓石店で、戦死した人のお墓の、あのとんがった特有のお墓ですが、毎年、見るたびに、涙がでます。自分の息子の
    お墓を作ることを思うと。
    今の日本は、確かに平和です。でも、その影で犠牲になった人
    の上に成り立っていることを、自分は、忘れないように生きて行きたい。子供がいるとなおさらです。最近、中国との関係が
    ぎくしゃくしだし、日華事変の前の様な感じがしてなりません。
    今回、メールさせて頂き、本当に良かったです。
    これから軍歴を調べたいと思います。

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  6. これって私の事?

    これを見てビックリしました。この記事が私の事なら?嬉しく思います。母も健在で死ぬ前に1度行きたいと諦めてません。その節は御世話になりました。

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  7. これって私の事?

    遺骨は戻って来てません。当時の軍の説明ではスパイ容疑で割らなかった為に36発打たれて死亡し金鵄勲章授与された。他の兵士達の墓標も写ってる中に叔父の墓標がズームされ、遺品は写真1枚です。祖母はどんな思いだったのか。マリアナ海戦で戦死した叔父も祖母は二人の息子の遺骨もなく、御上に捧げた人生でした。

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  8. これって私の事?

    12年ぶりに種類を見返したらS12年8月24日旭川において歩兵第二六連隊留守隊で独立機関銃第五大隊を編成9月6日旭川出発同12日大阪出帆同17日塘沽上陸以後北支で従軍S13年7月21日臨汾及霍縣附近の警備→10月23日霍縣源頭村付近の討伐において戦死(北方高地)と記載されてました。

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  9. これって私の事?

    12年前にYama先生の助言を受けて北海道保健福祉部保護課「遺骨」「戦没者調査票」「軍歴」と厚生労働省社会・援護局援護企画課外事室と援護局業務課調査資料室と防衛庁防衛研究所資料室と徳島県保健福祉部保健福祉政策課と総務省人事・恩給局恩給業務課すべて該当資料なしとの回答でしたが戦没者調査票に「祭神名票」が添付されていて死亡年月日場所等でも判明しなかったが祭神名票には氏の記載ありで判明致しました。名前だけの記載で驚きました。

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    1. yama Post author

      ご無沙汰しております。もう12年も経つのですね。
      ご相談をお受けしたときは、まだまだ私も見識不足でしたが、その後、いろいろなご遺族・ご家族から問い合わせをいただき、今も出来る範囲でご協力をしています。
      私の祖父母も叔父様と同じ北海道生まれでしたので、不思議なご縁を感じています。
      現地での慰霊がかなわずとも、十分、叔父様へのご供養になっていると思います。

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  10. これって私の事?

    ありがとうございます。お元気で嬉しい限りです。 
    12年前はお若いのに適切なアドバイスと知識で関心致しましたが、今もご活躍されていて感激感動致し頭が下がる思いです。今もそうですが将来、子孫達が調べたくなった時に調査も難しくなります。どんな情報も残していきたいです。

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