王亮さん [1]


王亮さんは、1928年(民国17年、昭和3年)に、山西省南部の沁源県柏子鎮にある暢村で生まれた。当時、村には王さん一家を含めて約80世帯300人ほどの住民が暮らしていた。王さんが9歳の1937年(昭和12年)に日華事変が勃発した。以降、1945年(昭和20年)の終戦までの間に、村では7人の女性が日本兵の暴行を受け、10人の住民が亡くなり、4人は使役に連行されて以来戻らずに今も行方不明だという。王さん自身も二度、死の淵にたった経験がある。そのとき撃たれた弾の痕は消えない傷としてまだ身体に残っている。

長兄の結婚式での悲劇
1940年(昭和15年)年2月、旧暦の正月にあたる頃だ。その日は長男の王成虎さん(当時28歳)の結婚式だった。結婚式を祝うため、王さんの家族はもちろん親戚一同朝から集まり、花婿・花嫁の門出を祝っていた。集まった親戚の数はかなりのもので、王さん自身もどれくらいの人がいたか分からないぐらいの数であったという。

長兄が花嫁の自宅へ赴き、両親に三顧の礼をして花嫁を自宅へ連れてくる。そのあと、両家の親戚一同皆でお祝いをして、結婚式はとどこおりなく午前中に終わった。集まっていた親戚も昼過ぎになると郷里へ帰っていき、遠方から来た親戚約10人ほどが残った。

しばらくすると、結婚式の余韻もさめやらぬうちに村に日本兵が現れた。村から東へ約5キロほどの柏子鎮に駐屯していた部隊(*1)から来たようで、合計で16人いたという。彼らの目的は部隊移動の際の使役として、王さんたち若者を「苦力」(*2)として連れていくためだったようだ。

16人の日本兵のうち、5人が王さんの家にやって来た。彼等は王さんの家の門をくぐり、庭を通って家の中にまで無断で入ってきた。家の中には王さんの家族とともに、長兄の結婚を祝いに来ていた親戚女性がいた。3人の若い女性を見つけた日本兵は、着剣した小銃でみなを脅しつつ、彼女らを残して、王さん一族全員を家から追い出した。そして3人を家の裏手に連れていき、乱暴したという。

この時乱暴された3人の女性は、王さんの母の弟にあたる叔父の妻(当時20歳)、父の妹にあたる叔母の娘(当時15歳)、それに王さんの長姉の娘(当時15歳)だった。このうち、15歳の叔母の娘には村に婚約者の青年がいたが、この事件で婚約もうやむやになってしまった。日本兵による暴行と婚約解消の二重のショックで病気がちとなった彼女は、この事件の三年後に18歳の若さで他界したという。また叔父の妻だった樊××さんは、王さんに会った1994年の時点でまだ健在とのことだった。

(*1)暴行事件が起きた1940年(昭和15年)2月現在、沁源県を担当していたのは第三十六師団と第四十一師団だった。この点、柏子鎮はちょうど両師団の作戦地域境界線に位置し、行政区画からすると第三十六師団に属する。しかし、後に見るように、王さんが使役のために柏子鎮の日本軍に連行された先は、第四十一師団の部隊が駐屯していた北平鎮だ。附近に第三十六師団の大きな部隊がいないこと(分駐隊を出しにくい)、他師団に使役の「苦力」を連れていくことはあまり考えられないから、柏子鎮の兵隊は第四十一師団の将兵かもしれない。王さんによると、柏子鎮に駐屯していた部隊は、周囲半径五キロの各村(住民計約三千人)を「維持村」として管理し、たびたび村に来ては食料などを徴発していったという。しかし3月には移動していなくなったため、柏子鎮の日本兵による被害は本稿で最後だったという。同年4月から重慶中央軍に対する春季晋南作戦が開始され、第四十一師団も攻撃に参加しているから、分散配置していた柏子鎮の小部隊を本隊に合流・移駐させたとも考えられる。ちなみに、王さんによれば柏子鎮駐屯兵による徴発などは、1940年(昭和15年)に入ってやり方が一層ひどくなったという。これは第三十六師団移駐の時期に一致するが詳細は不明だ。
(*2)「苦力」は本来は中国語で労働に従事する労夫のことを指す。「kuli(クーリー)」と発音する。日本兵の間では、日本軍の使役のために働く青壮年を「苦力」と呼び、強制的に彼らを集めることを「苦力狩り」と呼んだようだ。

使役への連行
女性たちを乱暴した日本兵は、再び王さん一家の前に姿を現すと、苦力として、当時まだ12歳だった王さんと、五兄の王昭さん(当時15歳)を選び出し、連れ出した。王さんと五兄が選ばれたのは、ふたりが兄弟のなかでも体が大きく、さらに五兄は王さんより数センチほど背が高かったために体格が良いと思われたようだ。この時、柏子鎮駐屯の日本軍は、周囲15キロ以内の各村から使役のための苦力として約30人ほどの青壮年を連行したという。

王亮さん(左)と紹介者の李献瑞さん(右)。職場である山西省体育運動委員会会議室で。(山西省太原,1994年)

王亮さん(左)と紹介者の李献瑞さん(右)。職場である山西省体育運動委員会会議室で。(山西省太原,1994年)

王さんたちは、凍えるような冬の北風のなか、帽子も靴下も身につける暇もなく日本兵にせきたてられて村を出た。寒風のなか、王さんたちは村から西へ約15キロほど、県境を超えた安澤県の北平鎮まで連行された。当時北平鎮には100人ぐらいの日本軍部隊が駐屯していた(*3)。王さんたちはここで荷物を背負わされ、部隊とともに移動することとなった。南西に約20キロ離れた呂梁山の山頂まで荷物を運ぶのである。

(*3)北平鎮駐屯の部隊は、第四十一師団歩兵第二百三十九連隊(霍州)の第一大隊。王さんの言う「約百人ぐらいの部隊」は、この大隊に所属するいずれかの隊と思われる。第四十一師団は4月から春季晋南作戦に参加しているため、その作戦準備に伴う”苦力狩り”だった可能性がある。

広場での処刑
出発間際になって、日本軍は王さんら苦力一行を広場に集めた。広場には王さんたちを取り囲むように十六人の日本兵がいて、その前には丸太に縛り付けられた男性の姿があった。これから処刑するのだという。

男性は遠目に見て、五十歳ぐらい年頃だった。八路軍のスパイだったのか、普通の良民だったのかは分からない。出発前に逃げようとして捕まった。見せしめとしての処刑だという。

一人の日本兵が軍用犬を連れて現れた。四つん這いになった大人ぐらいの大きさの犬だった。日本兵は手綱を引いて軍用犬を男性の前に立たせると、一呼吸おいてその手綱を離した。その瞬間、狼のような犬が男性に牙を剥いて襲いかかった。悲鳴を上げる男性。男性の身体はみるみるうちに、血で紅く染まっていった。

軍用犬による「余興」が終わると、今度は二人の日本兵が銃剣を着けた小銃を持って現れた。日本兵は男性の前に立つと、着剣した小銃を構える。そして大きなかけ声を発したかと思うと、その男性に向かって銃剣を勢いよく突いた。

胸を刺された男性は、だらんと全身の力が抜けたように見えた。王さんには、この状態で男性がまだ生きていたかどうか定かではなかった。しかし今度は大柄の下士官のような兵隊が軍刀を持って現れたかと思うと、大きな声を出して、男性の身体を軍刀で突き刺した。

物音ひとつしない異様な雰囲気のなか、見せしめの処刑が終わった。

残雪のこる山道の行軍
各自数十キロの荷物を背負わされた王さんたちは、部隊とともに移動を開始した。安澤、洪同県を越えて蒲県の呂梁山の山頂まで、約20キロの行軍だ。しかし、王さんが家から持ってきた靴は、靴下を何枚も重ね着した上に履くように作られている冬用だった(*4)。家を出る際に日本兵にせき立てられて靴下を履くことを許されなかったために素足で履いていたが、大きすぎてぶかぶかだから歩きづらいことこの上ない。一度、靴を脱いで歩こうとしたが、数日前に降った雪がまだ残る石ころばかりの山道を素足でなど歩けるはずもない。靴を履いても歩きづらく、靴を脱いで歩くと足を痛める。結局、行軍に遅れがちとなり、それが日本兵に殴られる理由となった。

しばらく行軍すると休憩があり、食事をすることが許された。このとき、皆に弾薬箱に入った乾麺棒(カンパン)が支給された。これを川からくんできた水の中にいれて水分を含ませたのち、薪で燃やした火にくべて焼いて食べる。焚いた火の周りで寒さをしのぎながら、乾麺棒が焼けるのを待つ。しかし、このときまだ12歳だった王さんはお腹がすいて焼けるまで待つことが出来なかった。待ちきれずに水分を含んだ生のまま食べてしまったためにお腹をこわしてしまい、それがさらに行軍に遅れる原因になった。日本兵に殴られる回数も増えた。

休憩が終了して行軍が再開されると、母方の叔父に出会った。叔父も同じように村から連れてこられ、使役をさせられていた。叔父は王さんの足を見ると、そこら辺から綿や縄くず、ぼろ切れなどを見つけてきて王さんの靴に詰め込んでくれた。これで少しは歩きやすくなった。行軍にも何とか間に合うようになった。

(*4)一般に農村で履かれる靴は「布鞋」といい、靴底は布を重ねて糊で張り合わせたあとに千枚通しで通してから麻の太い糸で絞めながら刺し子にしたもの。そのため、普通の靴下で履いたのでは靴下がすぐ破けてしまう。底も脇も布を重ねた頑丈な「布襪子」という靴下を着用した上に靴を履く。特に冬用は重ね着できるように大きくしている。従って、本稿のように素足で靴を履くと、大きくてぶかぶかするだけでなく、足も痛めることになる。(参考:竹内・羅『中国生活誌―黄土高原の衣食住』)

十数日ぶりの帰宅
重い荷物を背負って山々を越え、やっとの思いで呂梁山山頂についた。山頂には40人ほどの日本兵がいた。これからどうなるのか不安が募る。すると五兄が王さんに向かって「逃げ出そう」とささやいた。しかし王さんは逃げようとして捕まれば殺されるのではないかと思い気乗りしなかった。結局、二人は逃げ出すことを断念した。

その後、王さんたちはしばらく荷物運びや何やら作業をさせられ、またもと来た道を戻ることになった。そうこうしているうちに、王さんと五兄のふたりだけが放免されることになった。王さんの母が治安維持会の知り合いを通して頼み込んだからだ。結局、王さんと五兄は合計四日間働かされただけで、ほかの人たちよりも早く解放されることになった。王さんたちは十数日ぶりに帰宅した。

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初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000015.html

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One thought on “王亮さん [1]

  1. 中国山西大同 陈尚士

    王亮先生(一)
    土八路译自日本网络 http://shanxi.nekoyamada.com/
    1940年(昭和15年)2月,王先生在沁源县自己的家里,长兄举行新婚典礼的那天,他的三个女性亲戚遭到日本兵的强暴,王先生与兄弟一起,被驱赶着做了两个星期的苦役。同年11月,他与两个村民一起,遭到了来到村里讨伐的日本兵的近距离伤害,那是需要4个月才能痊愈的重伤。另外的两个人因喉部和头部遭到打击而死去。1943年(昭和18年)冬,在作为中共党员而开展的游击活动中,长兄与4个同伴一起被日军发现,左肩被击伤,负了需要1个月才能治愈的重伤,一个女人的左腕被击伤,长兄被刺刀刺伤。
    1928年(民国17年、昭和3年),王亮先生出生于山西省南部沁源县柏子镇的畅村。当时,村子里生活着包括王先生一家在内的、大约80户人家,人口约有300人左右。王先生9岁那年(1937年、昭和12年),爆发了卢沟桥事变。打那儿以后,直到1945年(昭和20年)战争结束,在这一期间内,据说村子里有7个女人遭到日本兵的强暴,有10个居民死亡,4个人被带走使役,一去不返,至今去向不明。王先生本人有两次死亡经历的体验,当时被枪击的弹痕,作为不可消失的伤痕还残留在身体上。
    在举行长兄结婚典礼仪式上发生的悲剧
    1940年(昭和15年)2月,正值旧例过年的时候,那一天是长兄王成虎(当时28岁)结婚办喜事,为了庆祝,王先生的家族自不待言,全体亲戚从早晨开始就聚集在一起,庆祝新郎、新娘开始的新生活,据说聚集起来的亲戚很多,王先生本人也不清楚大致有多少人。
    长兄前往新娘家里,向岳父母行三顾之礼以后,将新娘带回自己家里,然后两家的亲戚都一同庆祝,结婚仪式顺利地在午前结束,聚集起来的亲戚也在下午返回各自的乡里,只留下了来自远方的大约10来个亲戚。
    没过多久,就在结婚仪式的余韵还没有完全消失的时候,村子里出现了日本兵,据说他们好像是来自距村子约5公里远的、驻屯于东边的柏子镇的部队(*1),总共有16个人。他们的目的好像是要把王先生这些年轻人作为“苦力(*2)”带走,作为部队转移时使用的苦役。
    在16个日本兵里边,有5个人来到了王先生家里。他们钻入王先生的大门,通过庭院,擅自闯入家里。家中有王先生的家人,还有来庆祝长兄结婚的女性亲戚。据说发现了3个年轻女性的日本兵,用上了刺刀的步枪威逼大伙,将3个女人留下,将王先生一家人全部赶出了房子,并且,将3个女性带到房子里边,进行了强暴。
    当时被强暴的3个女性,一个是王先生叔父的妻子(相当于母亲的弟媳,当时20岁),一个是王先生叔母的女儿(相当于父亲的妹妹的女儿,当时15岁),还有一个就是王先生大姐的女儿(当时15岁)。这里头,叔母15岁的女儿,已与村里的一个青年订婚,可就因为这件事而婚事告吹,她由于被日本兵强暴和婚约解除的双重打击,而经常生病,据说这件事情发生的第三年,18岁的她,年纪轻轻的就去世了。另外,在我与王先生会面的1994年那时,据说叔父的妻子樊**还健在。
    (*1)在发生暴行事件的1940年(昭和15年)2月,担任驻防沁源县的,是日军的第36师团和第41师团。在这一点上,柏子镇恰好位于这两个师团作战地域的交界线上,从行政划分来看,属于第36师团。但是,就像后来看到的那样,王先生被柏子镇的日军带走,被使役的地点却是第41师团部队驻屯的北平镇。在附近没有第36师团的大部队(难以派出分驻队),不怎么考虑会把使役的“苦力”带到其他师团。据王先生讲,驻屯于柏子镇的日军部队,将周围半径5公里的各个村庄(居民共约3000人)作为“维持村”来管理,据说经常来到村里征集粮草等。可是,因为3月份部队没有转移,本稿认为,由柏子镇日本兵带来的伤害,这是最后的一次。从4月份起,对于重庆中央军的春季晋南作战就开始了,因为第41师团也参加了攻击,所以能够考虑把分散配置的柏子镇的小部队合并、移驻到本部。附带说一句,若按王先生所讲,进入1940年(昭和15年),柏子镇驻屯兵的征用方式更加残酷了,这与第36师团移驻的时期是一致的,但详细情况不明。
    (*2)“苦力”汉语本来指的是从事劳动的劳夫,发音为“kuli”。在日本兵之间,把为日军使役而劳作的青壮年叫做“苦力”,好像把强制征集他们的这件事叫做“抓苦力”。
    被带走的王先生所受的苦役
    强暴了女性们后的日本兵,再一次来到王先生一家的门前,选出了当时年仅12岁的王先生和他五哥王昭(当时15岁),带走作了苦力。之所以选中王先生和他五哥,好像是因为他们兄弟二人体格高,被认为体质好,而且,因为他五哥的个子比王先生要高出数厘米。据说,当时驻屯于柏子镇的日军,从周围15公里以内的各个村子带走大约30名青壮年,作为苦力而使役。
    王亮先生(左)和介绍者李献瑞先生在工作单位——山西省体委的会议室(山西太原1994年)
    王先生他们在被冻僵样的冬季北风中,连戴帽、穿袜的工夫都没有,就被日本兵驱赶着离开了村庄,在寒风中,王先生他们被带到了离村约15公里的、越过县境的、西边的安泽县北平镇。当时北平镇约有日军驻屯部队100来个人(*3),在这里,日军让王先生他们背着东西,随着部队一起转移,要他们把东西背到了西南约20公里远的吕梁山的山顶。
    (*3)驻屯于北平镇的日军,是第41师团第239联队的第1大队,王先生所说的“大约100人的部队”,一般认为是这个大队所属的某个小队。因为第41师团从4月起,就参加了春季的晋南作战,很有可能这是伴随着作战准备的“抓苦力”。
    在广场上处以的刑罚
    在快要出发的时候,日军将王先生他们一行苦力集合在广场,在广场,有16个日本兵包围着王先生这些人,在王先生这些人面前,有个男子被绑在木柱上,据说过一会儿就处以刑罚。
    从远处看,那个男子大约50来岁,也不清楚他是八路军的密探?还是普通的良民,因为他在出发前要逃跑而被抓住了,据说这是杀一警百的处罚。
    一个日本兵牵着军用犬出场了,这条犬的大小就像爬下的大人一般,日本兵拉着缰绳让军用犬站在那个男子的面前,停了一会儿就放开了缰绳,就在那一瞬间,像狼一样的军犬就呲牙撕咬、袭击了那个男子,男子发出了悲鸣,眼看着男子的身体就被鲜血染红了。
    由军用犬带来的“余兴”一结束,紧接着,两个日本兵端着带有刺刀的步枪出场了。日本兵一站在男子的面前,就做步枪上刺刀的动作,并且伴随着高亢的吆喝声,气势熊熊地刺向那个男子。
    被刺伤胸部的男子,看上去全身瘫软无力,王先生不清楚在这种状态下,那个男子是否还活着。而接下来出场的,像是一个下士官的军人,刚一上场,他就达喝一声,用军刀刺向了那个男子的身体。
    在没有一点响声的异样的气氛中,杀一警百的刑罚结束了。
    在残雪未消的山路上的行军
    各自背负数十公斤重物的王先生他们,随着日军部队开始了转移,越过安泽、洪洞县,到达蒲县的吕梁山的山顶,那是大约20公里的行军。从家里穿着鞋走来的王先生,他的鞋是为过冬用而制作的,这种鞋是要穿上好几层袜子后,才能穿用的鞋(*4)。离家之际,因为他被日本兵驱赶催促着,不允许穿袜,所以是光着脚穿这鞋而来的。鞋大而不适脚,啪嗒啪嗒再也没有比这更难以行走的了。他曾一度要脱了鞋行走,可是数天前下的雪还没有消融,再说在尽是石子的山路上,也是不能光着脚行走的。即使穿着鞋也难以行走,如脱了鞋走则脚痛,结果是行军常常落后,这也成为被日本兵殴打的理由。
    行军期间有休息时间,允许吃饭。这时供给大伙的是装在弹药箱里的干馒头,把馒头放入从河里取来的水中,浸湿后,再放到点燃的柴火上烧烤着吃。大伙一边在火堆四周忍受着寒冷,以边等着馒头的烤热。可是此时,还是12岁孩子的王先生肚子饿了,他等不下去了,等不到馒头烤热,就那么将含有水分的冷馒头吃进肚里,为此又闹坏了肚子,这又进一步成为行军落后的原因,被日本兵殴打的次数也增多了。
    休息结束后,又开始了行军,王先生遇到了母亲一方的叔父,叔父也同样是被从别的村子里抓来的。叔父一看见王先生的脚,就从附近找了些棉絮、破绳头、破布塞进王先生的鞋里,这样就变得有些好走了,不管怎么说,他好歹总算也能跟上行军的队伍了。
    (*4)一般在农村穿的鞋叫“布鞋”,鞋底是这样制作的,将布用浆糊多层粘糊后,粘得厚了又厚之后,再用粗麻绳衲紧。因此若是穿上普通的袜子,袜子很快就会破损的。在穿上一种底子和帮子重复了多层布而做成结实的、叫做“布袜套”的用品后,才能再穿鞋。这种鞋为了能够反复在冬季穿用而做的很大。因而就像本稿写的那样,如果光脚穿鞋,就不仅仅鞋大而啪嗒啪嗒,而且也使脚痛。(参考:竹内罗《中国生活杂志——黄土高原的衣食住》)
    隔了十数日的回家
    王先生他们背负重物翻山越岭,好不容易到达了吕梁山的山顶,山顶上有40来个日本兵,今后会怎样呢?他们越来越感到不安,于是,王先生的五哥悄悄对王先生说:“逃出去吧!”但是,王先生没有逃出去的心思,若要逃跑被抓住的话,是会被杀死的。结果他俩人断了逃走的念头。
    再往后,日军强迫王先生他们干了很长时间的物资搬运作业以及其他作业,决定还让他们从原路返回,就在这样的作业中,只有王先生和他五哥被释放了。这是因为王先生的母亲通过治安维持会的熟人,不断地进行了恳求的缘故。结果,王先生和他五哥仅仅被劳役了4天,比其他人早早地被释放了。其他人隔了十数天回到了家里。

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