王亮さん [3]


「無人区」での避難行
北風の吹く1944年(昭和19年)1月下旬のことだった。15歳になっていた王さんはこのとき中国共産党に入党し、共産青年団員として活動に参加していた。

この時期、付近では討伐にやってきた日本軍と中共軍との間で比較的大きな戦闘が行われており、王さんは同じく中共に参加していた二兄の王隆さん(当時30歳)と親戚の女性の李改香さん(当時30歳)、さらに村の党支部書記である王龍さんとその妻・妹の計6人で、日本軍が設定した立入禁止区域(中国側では「無人区」と呼ばれる(*1))を移動していた。戦火から逃れるためだ。

出発して数時間が経ち、一行は山の中腹あたりの比較的標高の高いところまで避難してきた。そこでしばらく休憩をとることにした。向かいの山では戦闘があるようで、銃声や大砲の音が響いてくる。

しばらくすると、戦況が思わしくないのか、向かいの山から日本軍が撤退してきた。山といっても黄土高原の山岳地は森林はなく、遠くからでも良く見渡せる。逃げる間もなく、王さんたちは三人の日本兵に見つかってしまった。

(*1)敵軍のゲリラ活動に頭を悩ませた日本軍は、一部地域で「無住地帯」と呼ばれる工作を実施した。指定地域の住民を強制移住させ、域内の立ち入りを禁止することで、敵根拠地の壊滅と経済物資の取得途絶を目的とした。中国側はこれを「無人区」と呼んでいる。

「我們是老百姓」
日本兵は王さんたちを見つけると小銃を突きつけ、中国語で「おまえら八路軍か?」と聞いてきた。「無人区」は立入禁止だから、怪しまれても無理はない。王さんは努めて冷静を装いながら、日本兵に良民証(*2)を差し出し、「我們是老百姓(私達はただの農民です)」と答えた。

日本兵は王さんの差し出した良民証を検査するかと思いきや、いきなり小銃を向けると、ためらうことなく引き金を引いた。バンッという大きな銃声とともに左肩にガツーンと衝撃が走ったかと思うと、王さんは気を失って倒れてしまった。日本兵の撃った弾は、王さんの左肩にあたって肩を貫通したのだった。

肩の銃創痕を見せる王さん。(山西省太原,1994年)

肩の銃創痕を見せる王さん。(山西省太原,1994年)

(*2)良民証とは、山西省政府が発行した身分証明書。良民証を携帯していないと有無を言わさず「共匪」と見なされて逮捕されたが、中共側も地方役人を脅すなどして虚偽発行させたので、信頼性は低かった。実際、この年の8月に方面軍が各部隊に配布した資料では、「……良民証ノミニ依リ信用スルハ不可ナリ 特二敵地域二於テハ敵匪ハ常時之ヲ準備シアリテ寧ロ所有セル者カ怪シキ場合多シ……」としている。良民証を発行しながら、結局それも信用できないというわけである。

小銃騨で腕を落とした李改香さん
この時点で肩を撃たれた王さんは気絶してしまったため、この後の詳細な経過は、意識を取り戻した後に、王さんが二兄の王隆さんなどから聞いたという。

王さんの肩から出た弾は、そのまま王さんの後ろにいた李改香さんの左腕の付け根部分にあたった。弾が命中した衝撃で、李さんの腕は付け根から吹き飛ばされてしまった。李さんはその傷がもとで二カ月後に亡くなった(*3)

撃たれた瞬間、気を失って倒れた王さんを見て、二兄の王隆さんは王さんが殺されたと思ったようだ。逆上した二兄は、そばにあった大きな石を持ち上げてその日本兵を打ち殺そうと投げつけた。石は日本兵の上半身には届かず、足にあたった。

石を足にぶつけらた日本兵は、小銃に着剣してあった銃剣で二兄を刺した。銃剣で腹を刺された二兄は重傷であったが、幸いして死には至らなかった。冬で重ね着をしていたのが幸いしたようだった。ほかの三人は危害を加えられずに無事だった。

中共の仲間の手で村に連れ帰られた王さんは、前回撃たれたときと同じように、漢方薬で手当をしてもらった。前回は傷が直るのに腹が二カ月、足が四カ月かかったが、今回は驚くほど早く、二週間ほどで直ったという。

(*3)李さんの傷は、一度、王さんの身体を貫通して弾が変形または破損した小銃弾があたったため、腕が切断されるほどの威力が生じたようだ。この点は、前稿の王さんの腹と足の傷の違いと同じと思われる。

8月15日
1945年(昭和20年)、農歴の7月頃、区政府青年団主席として中共の活動を行っていた王さんは、その日、柏子鎮にある長姉の家にいた。このとき、長姉の家は八路軍の招待所になっていた。あの結婚式の日、日本兵によって自分の娘を乱暴された母親は、自宅を八路軍に提供していた。

昼食をとっていたとき、八路軍の兵隊が息せき切って家に駆け込んできた。そして王さんたちに向かって言った。「戦争に勝った!天皇が自らラジオで無条件降伏を宣言した!」。王さんはそれを聞いて喜びとともに、長い八年間を思い、感無量の気持に浸った。

終戦から一年後、王さんは、区政府青年団から山西南部へと派遣され、その後、汾陽地区、孝義地区などへ派遣された。日本の敗戦で喜ぶ間もなく、国民党との国共内戦が開始されていた。

叔父一家の悲劇
1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)の終戦までの八年間、王さんは九歳から十七歳の多感な青春時代を戦火の下で過ごしてきた。これまで見てきたように、王さん自身も二度、死の淵に立ち、親族も危険な目に遭ってきたが、このほかにも、母の兄にあたる叔父一家九人が日本軍に殺される痛ましい事件があったという。

wl02

ちょうど、王さんが腹を撃たれて瀕死の重傷を負ったのと同じ1940年(昭和15年)、農歴の10月20日頃のことであったという。叔父が住んでいた水泉坪村に日本軍がやってきた。逃げ遅れて日本軍に捕まった叔父一家は、自宅内で麻縄で縛られ、一人一人が銃剣で刺された後、戸に衝立をされて火を放たれたという。火が消えた後、家の中で見つかった遺体は、黒焦げで誰が誰だか判別ができなかったという。一家十人のうち九人が亡くなり、助かったのは息子ひとりだけだった。彼はその日いなくなった一家の牛を探しに家を離れていて難を逃れたという。

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000186.html

Related Posts

  • 王亮さん [1]2005年2月26日 王亮さん [1] 1940年(昭和15)2月、沁源県の自宅で長兄の結婚式を行っていた日に、親戚女性三人が日本兵に乱暴され、王さん自身は兄弟とともに約二週間の使役に狩り出された。 […]
  • 王亮さん [2]2005年2月26日 王亮さん [2] 同年11月、村に討伐に来た日本兵に村民二人とともに至近距離から撃たれた。全治四ヶ月の重傷。残り二人は喉と頭部を撃たれて亡くなった。 […]
  • 山岳地帯2006年8月6日 山岳地帯

One thought on “王亮さん [3]

  1. 中国山西大同 陈尚士

    王亮先生(三)
    土八路译自日本网络 http://shanxi.nekoyamada.com/
    在无人区的避难行动
    那是北风尽吹的1944年(昭和19年)1月下旬的事情了。当时已经15岁的王先生加入了中国共产党,他作为共青团员参加了活动。
    这一时期,在他们村庄的附近,在前来讨伐的日军与中共军之间,展开了比较大的战斗,王先生根已经同样加入了共产党的二哥王隆(当时30岁)、亲戚李改香(女当时30岁)、还有村党支部书记王龙以及其妻子、妹妹,共计6个人转移到了日军设置的禁区里(中国方面称之为“无人区”(*1)),这是为了逃避战火。
    出发之后经过数个小时,他们一行来到了一处海拔较高的山中腹地避难,决定在那里休息一会儿,对面的山上好像发生了战斗,枪声以及大炮声响了起来。
    过了一回儿,是不是因为战况不利呢?日军从对面的山上撤退过来了。虽说叫山,黄土高原的山岳地带没有森林,即使在远处也能看得一清二楚。王先生他们已经没有逃跑的时间了,不幸被3个日本兵发现了。
    (*1)日军被敌人的游击活动搞得很头痛,在一部分地域实施了叫做“无人居住地带”的作业,即让指定地域的居民强制移民,由于这样的地域禁止人员进入,这就达到了断绝敌人取得经济物资,消灭敌人的根据地的目的。中国方面把这些地带叫做“无人区”。
    我们是老百姓
    日本兵一发现王先生他们,就端着步枪走了过来,用中国话问:“你们是八路军吧!”,因为“无人区”是严禁进入的,所以即使被怀疑也不无道理。王先生一边努力装作镇静,一边给日本兵拿出了良民证(*2)回答日军:“我们是老百姓”。
    原以为日本兵要检查王先生拿出的良民证,没想到日本兵突然端起枪,毫不犹豫地扣动了扳机,随着呯地一声枪响,王先生感到左肩作痛而受到了打击,栽倒在地丧失了神志。日本兵打出的子弹伤及到王先生的左肩,是左肩贯通伤。
    展示肩部枪伤痕迹的王先生(1994年)
    (*2)良民证是山西省政府发行的身份证明书。若是不带良民证,就不管三七二十一,都被看作“共匪”而遭到逮捕。中共方面也威胁地方官员,让他们进行了虚伪发行,所以信赖度很低。实际上,这一年的8月,在方面军发散给各部队的资料里,就有这样的记载:“仅凭良民证是不可以信赖的,特别是在敌占地域,敌匪经常准备着良民证,拥有良民证者,在很多情况下是可疑的……”虽然发行了良民证,结果还是不能相信良民证。
    被步枪子弹打掉手腕的李改香
    这时,被击伤肩部的王先生已经昏过去了,据王先生说,此后的详细经过,是王先生恢复意识后,从他二哥王隆那里听到的。
    从王先生肩部飞出的子弹,又那么击中了王先生身后的李改香的手腕,由于子弹命中的冲击力,李改香的手腕自根部起,被全部打飞了,两个月后,李改香死去了(*3),受伤是其死亡的根本原因。
    好像就在被枪击的瞬间,王先生二哥王隆,看到气绝倒地的王先生,以为他被杀死了,盛怒之下的他二哥,操起身旁的一块大石头就向那个日本兵投去,企图将其杀死,石头没有打到日本兵的上半身,而击中了腿部。
    被石头击中腿部的日本兵,用上好刺刀的步枪向他二哥刺去。他二哥被刺刀刺伤了腹部,虽然为重伤,幸而还不至于死亡。好像是冬天穿的多层棉衣,导致他不死的原因。其他三个人平安无事,日军并没有加害。
    被中共的同伴抬回村里的王先生,与前一次被击伤时一样,依然请人用中药治疗。前一次受伤,腹部治愈用了两个月,大腿治愈用了4个月,可这一回伤势的恢复,快得令人吃惊,用了两周的时间就痊愈了。
    (*3)李改香的伤情为:从王先生身体穿过的子弹,似乎是是变形或破损的步枪子弹,因为她被这样的子弹击中,所以就产生了断腕程度的威力。在这一点上,一般认为,这与前稿所述的王先生腹部和腿部伤情之不同是一样的。
    8 月15日
    1945年(昭和20年),农历7月左右,以中共区政府青年团主席而展开活动的王先生,那一天,他在柏子镇的他大姐的家里。这一时期,他大姐家已经成为八路军的招待所。在王先生的大哥举行婚礼的那天,被日本兵强暴了女儿的他大姐,就把自己的住宅提供给了八路军。
    在吃过午饭的时候,八路军的战士气喘嘘嘘地跑进家里就向他们说,“抗战胜利了!日本天皇亲自在广播上宣布了无条件投降!”听到这一消息后,王先生沉浸在喜不自禁的气氛中,同时回想起慢长的八年间,感慨无量。
    战争结束一年以后,王先生被中共区政府青年团派遣到了山西省南部,之后,又被派遣到汾阳、孝义等地。还没来得及喜庆日本的战败,中共与国民党的国共内战就开始了。
    叔父一家的悲剧
    从1937年(昭和12年)到战争结束的1945年(昭和20年)这8年间,王先生在战火下度过了从9岁到17岁的、多愁善感的青春时代。就像此前看到的那样,王先生两度处于死亡的边缘,亲戚也倒了大霉而遭到了危险,除此以外,他叔父(相当于母亲哥哥)一家,还发生惨遭日军杀害的目不忍睹的事件。
    这件事恰好发生在王先生腹部遭枪击,身负濒临死亡的重伤之时,那是1940年(昭和15年)、农历的10月20日前后,日军来到了王先生叔父居住的水泉坪村,叔父一家因逃跑落后被日军逮住,在自家里他们被日军用麻绳捆住,被刺刀一一捅死后,日军又在门口处堆起隔扇,放火焚烧。大火熄灭后,在家中被发现的遗体已经烧焦,已经判别不出谁是谁了,一家10口人,有9口死亡,幸而免于一死的仅有一个儿子。那天,他离开家去寻找丢失的牛,因而得以逃难获生。

    Reply

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

post date*