成り行きで決まった山西作戦


日華事変初期の山西作戦は、事前に中央で作戦が練られたものではなく、成り行きで決まった作戦だった。その主導権を握ったのは関東軍で、目的は綏遠・晋北を内蒙に帰属させること、閻錫山を国府から離間させることだった。関東軍と板垣兵団の独断専行に引きずられた形をとっているが、武藤章ら参謀本部の関東軍シンパも関与していた。

日華事変発生時、参謀本部で事実上の責任者だった作戦部長石原莞爾は上海方面と同じように華北でも戦線の拡大には消極的だった。もともと内蒙工作にも反対だった。中国大陸での消耗戦による対ソ戦力弱体化を恐れたと言われている。中国軍が本気で日本軍に全面攻撃を仕掛けようとしているなかで、私的な和平工作(船津工作)に走った。華北戦線では関東軍の度重なる要請を否認しつづけ、やむにやまれぬ事情でゴーサインを出した板垣・東條コンビに察哈爾・山西への侵攻を押し切られている。どうもタイミングが良すぎるが、後にキャリアを冷遇されているところをみても、板垣・東條らとは一線を画していたことは確かだ。

廬溝橋で発砲事件が起きたとき、板垣征四郎は広島第五師団長の職にあった。作戦部長の石原の下には、武藤章が作戦課長に、支那課長には永津がいた。あうんの呼吸だ。武藤はさっそく第一次派遣三個師団に板垣を動員した。「(宇都宮の土肥原、姫路の磯谷、広島の板垣)此の三つを北支に出せばあそこらの有象無象が双手を挙げて来るだろうと思うが、余りに見え過ぎたやうだから宇都宮を控えて西方の師団たる熊本[第六師団]にした」という。後世からするとあまりにも楽観的な武藤の談だ。

陸軍中央では華北戦線について、保定で中国軍を撃破し、華北の安定化を図る点では一致しており、その点からすると関東軍の派兵はあくまでも側面支援にとどまっていた。察哈爾から綏遠、晋北に至る地域一帯は最も低いところで標高800メートル以上、外長城線以北では1600~2400メートルの山岳地帯だ。関東軍から派遣された兵力は独立混成旅団が二個で一個は機械化兵団(独混第一旅団)だった。のちに山西に独断侵攻する板垣兵団も輓馬(馬車)編成で山地行動にはむかなかったから、それぞれ綏遠、晋北にまで侵攻することは困難だと考えるのが常識だ。石原はのちに保定会戦の側面支援という名目で察哈爾作戦にゴーサインを出すが、関東軍が少々勝手な行動をとっても船津工作がまとまるまでに時間的に間に合うと考えたのだろう。彼らしい細かい計算だ。のちに石原は参本のヒアリングでその後のあまりにも迅速な関東軍の行動を予測できなかったと自責気味に強調している。

察哈爾作戦における東條英機兵団長(中央) (毎日新聞社,1937年)

察哈爾作戦における東條英機兵団長(中央) (毎日新聞社,1937年)

偶然にしては怪しいが、関東軍から派遣された鈴木兵団(独混第十一旅団)の集中が遅れ、南口に進出してきた湯恩伯軍が平津地方の北支軍を脅かすようになった。8月9日、石原は察哈爾作戦にゴーサインを出した。すると関東軍はすぐさま新たに満州から兵力を投入して、東條英機兵団長の下に合わせて混成旅団四個を統一運用する体制を整えたうえ、航空隊も最大二十個中隊も動員した。そして南口の鈴木兵団はいつまでもぐずぐずして攻勢が進捗しない。支那駐屯軍はやむなくそばにいた板垣兵団を投入する。香月司令官によれば「第五師団長がどうしても攻勢に出して呉れと云ふ意見具申をしましたので攻撃させること」になったという。そして8月下旬に南口の防衛線を突破して長城線の西に進出した板垣兵団は、これ以降、北支軍と音信不通となった。山の中で無線が通じないという。関東軍から天津に派遣された辻政信は板垣兵団に出向いたきり戻らず、その後、板垣兵団と東條兵団は互いに連携して晋北の山岳地帯を猛進する。

広霊城内を占領後、残敵掃討を行う平岩部隊 (朝日新聞社,1937年)

広霊城内を占領後、残敵掃討を行う平岩部隊 (朝日新聞社,1937年)

9月、関東軍は板垣兵団支援と称して行動を開始、山西省境を越えて13日には大同を占領した。そして山西を含む華北五省分離独立を明言した「時局処理要綱」を14日に策定するとともに、大同占領当日に特務機関を設置して政権工作に着手した。一方の板垣兵団はその間に蔚県を独断で出発して14日には広霊を攻略している。この時点で参謀本部と陸軍省は関東軍の意図を明確に認識し、再三にわたって独断行動を制止しようとしている。しかし関東軍は聞かず、その後、朔県、寧武、代州等の要地攻略を続け、早くも一ヶ月後の10月15日に晋北十三県を管轄する晋北自治政府を大同で設立させて、のちに徳王政権に合流させた。一方の板垣兵団は寺内寿一方面軍司令官の一徹した保定転進命令に対し、兵力の半分を保定へ転進させたものの板垣自身は山西に残り、関東軍とともに侵攻を続けた。

太原城壁一番乗りする菅島部隊 (朝日新聞社,1937年)

太原城壁一番乗りする菅島部隊 (朝日新聞社,1937年)

晋北を手に入れた関東軍は主力を綏遠方面に向かわせるとともに、少数兵力の板垣兵団に一個旅団を預けて山西省への侵攻を続けた。既成事実の積み上げによってもはや山西省からの撤兵は顧慮されなくなった。石原なきあとの参謀本部で正式に太原攻略作戦が下令されたのは、閻が決戦場として選んだ忻口戦場に板垣兵団が到着した10月2日だった。参謀本部は板垣・東條コンビの独断専行を追認した。方面軍の支援が受けられない板垣兵団は忻口で苦戦を強いられたが、東の娘子関から山西省に侵攻した北支軍によって窮地を救われた。11月9日、北支軍の配慮で板垣兵団は太原に一番乗りしたが、閻錫山は臨汾に退去した後だった。

石原はのちに公式戦史のヒアリングでこう語っている。

「私は山西作戦は極力反対だったのであります。私の研究した所では山西の地形は『ゲリラ』戦に依る抗戦に適するので、之には手を触れない方が宜しいと思いました。所が板垣閣下は詳細な手紙を私に寄せて一ケ師団あれば山西は片附け得るとの事でした。あの手紙を書かない人が斯うして特に書かれたのですから、山西は板垣閣下をやれば良いではないかと思うやうになって、非常に地理に明るい多田閣下に申しました所、駄目だと云ふことになり一時中止になりました。然し遂に山西作戦を行ふことになった原因には、此時の強硬な板垣閣下の意見具申が非常に影響して居ると思ふのです。それに関する関東軍との関係は……記憶して居りません」

察哈爾作戦と山西作戦は独断行動の悪しき事例であるうえ、苦戦につぐ苦戦で評判は芳しくない。方面軍として面目を潰された寺内は板垣を「国軍の名誉を失墜する」輩と激怒したが、当の板垣は翌年、近衛内閣に陸相として入閣した。次官は東條だ。もともと人望がなく、陛下の御信任も失い、古巣の関東軍からも切られて参謀本部を負われた石原は、面当てなのか関東軍へ参謀副長として転出させられ、後のキャリアを冷遇されている。

防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書86 支那事変陸軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書8 大本營陸軍部(1)』朝雲新聞社、1967年
参謀本部「香月清司中将回想録」(みすず『現代史資料(12)』所収)
香月清司手記「支那事変回想摘録」
参謀本部「橋本群中将回想応答録」(みすず『現代史資料(9)』所収)
参謀本部「西村敏雄回想録」(みすず『現代史資料(12)』所収)
参謀本部「石原莞爾中将回想応答録」(みすず『現代史資料(9)』所収)

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000100.html

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3 thoughts on “成り行きで決まった山西作戦

  1. 匿名

    土八路的提问
    你先读短文,然后再看我提出的问题,石原是主和派,板垣和武藤等是主战派。段落里的文字可以有两种译法,究竟哪一种对呢?请你定夺。
    (1)如果把这三个师团派往华北的话,我想那些师团里的不三不四的人(指日军的主战派)会高兴地手舞足蹈吧,(举双手欢迎的)
    (2)如果把这三个师团派往华北的话,我想这些地方的乌合之众(指华北的抵抗力量)会举起双手投降的吧,
    (3)“あうんの呼吸だ”怎样翻译为好?你看我翻译的行吗?
    廬溝橋で発砲事件が起きたとき、板垣征四郎は広島第五師団長の職にあった。作戦部長の石原の下には、武藤章が作戦課長に、支那課長には永津がいた。あうんの呼吸だ。武藤はさっそく第一次派遣三個師団に板垣を動員した。「(宇都宮の土肥原、姫路の磯谷、広島の板垣)此の三つを北支に出せばあそこらの有象無象が双手を挙げて来るだろうと思うが、余りに見え過ぎたやうだから宇都宮を控えて西方の師団たる熊本[第六師団]にした」という。後世からするとあまりにも楽観的な武藤の談だ。
    在卢沟桥发生炮击事件的那个时候,板垣征四郎任广岛第五师团长之职。在作战部长石原的下边,还有作战科长武藤章,中国科长永津。这二人是与关东军一个鼻孔出气的哼哈二将,在第一次派遣的三个师团里,武藤立即动员了板垣(参战),据说“(宇都宫的土肥原、姬路的矶谷、广岛的板垣),如果把这三个师团派往华北的话,我想那些师团里的不三不四的人会高兴得手舞足蹈吧,不过,好像是因为(他们)的期望过了头,所以才压制性地取消了宇都宫的土肥原师团,而是选择了作为西部师团的熊本师团(第六师团)”由后世的人看来,武藤的谈话有些过于乐观了。
    “ゴーサイン”是什么意思?,我推测好像是底线,边框的意思,你看呢?
    華北戦線では関東軍の度重なる要請を否認しつづけ、やむにやまれぬ事情でゴーサインを出した板垣?東條コンビに察哈爾?山西への侵攻を押し切られている。
    在华北战线,他连续否决了关东军重复了多次的请求,出于万不得已的情况,他拆散了板垣与东条出了格的良好的搭档,阻扰了他们向察哈尔、山西的进攻。
    石原はのちに保定会戦の側面支援という名目で察哈爾作戦にゴーサインを出すが、関東軍が少々勝手な行動をとっても船津工作がまとまるまでに時間的に間に合うと考えたのだろう。
    石原后来以保定会战的侧面支援为名义,虽然在察哈尔作战出轨了,但即使略微采取擅自行动,关东军考虑在船津工作(对内蒙的工作)结束之前,在时间上还是来得及赶得上的吧。

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  2. yama

    陳先生
    「(宇都宮の土肥原、姫路の磯谷、広島の板垣)此の三つを北支に出せばあそこらの有象無象が双手を挙げて来るだろうと思うが」というのは、
    (2)如果把这三个师团派往华北的话,我想这些地方的乌合之众(指华北的抵抗力量)会举起双手投降的吧,
    という訳が正しいです。三人は日本陸軍における中国通の重鎮でした。
    それから“ゴーサイン”は日本語の「許可」の意味です。

    Reply
  3. 陈尚士

    由形势决定的山西作战
    土八路译自日本网络http://shanxi.nekoyam ada.com/
    日中事变(7·7卢沟桥事变)初期的山西作战,并不是中央事先深思熟虑的计划,而是根据形势做出的决定,掌握其主导权的是关东军,目的是让绥远、晋北归属内蒙,将阎锡山从国民政府中离间出去。采取山西作战这种形式,虽然是被关东军和板垣的独断专行强行协迫所进行的,但也有武藤章等参谋本部对关东军寄与的同情。
    日华事变发生时,在参谋本部里,作为事实上负责人的作战部长石原莞尔,对于要扩大在华北战线,他所采取的态度与上海方面一样,也是消极的,对于内蒙的工作,他本来也是反对的。据说他担心因中国大陆的消耗战而削弱对苏作战的战力。就在中国军队要认真地着手对日军进行全面攻击的期间,他奔走于个人私下方面的和平工作(船津工作)。在华北战线,他连续否决了关东军重复了多次的请求,出于万不得已的情况,他认可了板垣与东条出了格的良好配合,却阻扰了他们向察哈尔、山西的进攻。虽然石原莞尔的机遇太好了,可从他来后的生涯遭到冷遇这一点来看,他的确是与板垣、东条等人划出了一道界限的。
    在卢沟桥发生炮击事件的那个时候,板垣征四郎任广岛第五师团长之职。在作战部长石原的下边,还有作战科长武藤章,中国科长永津。这二人是与关东军一个鼻孔出气的哼哈二将,在第一次派遣的三个师团里,武藤立即动员了板垣(参战),据说“(宇都宫的土肥原、姬路的矶谷、广岛的板垣),如果把这三个师团派往华北的话,我想那些地方的乌合之众会举起双手投降的吧,不过,好像是因为(武藤他们)的期望过了头,所以(石原)才压制性地取消了宇都宫的土肥原师团,而是选择了作为西部师团的熊本师团(第六师团)”。由后世的人看来,武藤的谈话有些过于乐观了。
    关于华北战线,要图谋在保定攻击中国军队,使华北稳定,陆军中央在一点上是保持一致的,从这一点来看,关东军的派兵参与,说到底还是停留在侧面支援。从察哈尔起,到绥远、晋北一带的地区,最低处也在海拔 800米以上,在外长城以北,全是高达1600—2400米的山岳地带。由关东军派遣的兵力,是两个独立混成旅团,其中的一个是机械化兵团(独混第一旅团)。后来,板垣兵团擅自进攻山西,就连由骡马组编的部队,都不适应在山地行动,他们甚至分别向绥远、晋北进攻,所以认为是很困难的,这是常识。石原后来以保定会战的侧面支援为名义,虽然在察哈尔作战出了格,但关东军即使略微采取擅自行动,考虑在船津工作(对内蒙的工作)结束之前,在时间上还是来得及赶得上的吧。这似乎是石原细致的算计。后来,石原在参谋本部听证会上,以自责地口吻强调,他没有预想到关东军其后的行动过于迅速。
    在大同火车站的东条英机兵团长(正中)(每日新闻社,1937年)
    从偶然的角度来看,是令人难以置信的,由关东军派遣的铃木兵团(独混第11旅团)集结迟缓,已经推进到南口的唐恩伯军,对平津地区的华北日军已经构成了威胁。8月9日,石原在察哈尔作战出了格。于是,关东军立即由满洲重新投入了兵力,归并在东条英机的麾下,在将四个混成旅团调整为统一指挥体制的基础上,航空兵也最大限度地动员了20个中队。而南口的铃木兵团到什么时候都是磨磨蹭蹭的,攻势没有进展。支那驻屯军万不得已,就投入了附近的板垣兵团。据香月司令官说,“第五师团长板垣在呈报的意见上讲了,无论任何也要给我拿出攻势来!所以就让部队采取了攻势”。就这样, 8月下旬,板垣兵团突破了南口的防线,向长城线的西方推进,打这儿以后,板垣师团就与华北的日军失去了联系。据说是因为在大山里,无线电受到阻隔而不通。由关东军派遣到天津的辻政信,前往板垣兵团(联系),可他一去不返,之后,板垣兵团与东条兵团相互配合,向晋北的山岳地带迅猛推进。
    占领广灵城后,进行扫荡残敌的平岩部队(朝日新闻社,1937年)
    9月,关东军开始了称为支援板垣兵团的行动,越过了山西省境,13日占领了大同。而且在14日,筹划制定了“时局处理纲要”,“纲要”明确地提出了包括山西在内的华北五省分离独立宣言,与此同时,在占领大同的当天,就设置特务机关,着手于建立政权的工作。在此期间,板垣兵团一方面面擅自向蔚县进发,14日攻下了广灵。就在这个时候,参谋本部和陆军省才明确地认识到关东军的意图,对其反复再三的擅自行动进行了制止。但是,关东军置之不理,之后又继续向朔州、宁武、代州等要地进攻,很快在一个月后的10月15日,就在大同设立了管辖晋北13县的晋北自治政府,后来,该政府与德王政府合并。另一方面,一方面军寺内寿司令官固执地发出命令,让部队向保定转进,对此,关东军虽然分兵一半向保定转进,但板垣本人仍留在山西,和关东军一起继续进攻。
    对忻口敌阵地进行炮击的第五师团炮兵部队的伪装阵地(朝日新闻社,1937年)
    最先登上太原城墙的菅岛部队(朝日新闻社,1937年)
    关东军在晋北得手之后,就把其主力转向了绥远方面,同时,将一个旅团留给了兵员较少的板垣兵团,将山西的势攻继续下去。由于既成事实的积累,已经不会顾虑从山西撤军了。在没有了石川的参谋本部,正式下达攻略太原命令的时候,已经是阎锡山将决战地选择在忻口,板垣兵团到达忻口战场的10月2日了。参谋本部追认了板垣和东条之间配合良好的独断专行。没有得到支援的板垣兵团被迫在忻口陷于苦战,由于华北派遣军从东边的娘子关攻入了山西,板垣兵团被从困境中解救出来了。11月19日,由于华北派遣军的关照,板垣兵团最先进入了太原城,不过,这已经是阎锡山撤退到临汾以后的事情了。
    石原在后来的战史听证会上,是这样讲的:“我是极力反对山西作战的,根据我的研究,山西的地形适合依靠‘游击战’的抗战,我想最好不要在这个地方动手。可是,板垣阁下给我寄来书信,说是若有一个师团,就能荡平山西。一个不写书信的人就这样特意写得很详细,因此,我的想法也就有了转变,把山西交给板垣不就很好吗,我向非常熟悉地理的多田阁下陈述后,他说不行,所以也就暂时作罢了。然而,在最终决定要进行山西作战的原因上,我想板垣阁下此时陈述的强硬意见,是具有非常影响力的,他跟与此关联的关东军的关系……我记不起来了”。
    察哈尔作战和山西作战,是擅自行动的恶性事例,而且战斗激烈,苦战一个接着一个,舆论评价不佳。作为方面军丢脸的寺内,虽然愤怒地把板垣称为“丧失皇军名誉”之辈,但板垣本人在第二年作为陆相而入阁。东条为次官。本来就没有声望、又失去天皇陛下的信任、还遭到关东军老巢的拆台的参谋本部负责人石原,也许是赌气泄愤,硬将他调往关东军担任参谋次长,他后来的生涯遭到了冷遇。

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