雲崗石窟と日本人


山西省北部の街・大同。この大同の西にある武周山の南壁に、大小様々な石仏群が約1キロにわたってある。仏教遺跡として名高い雲崗石窟だ。この1600年前の北魏時代に造営された雲崗石窟は、砂岩の岩肌を洞窟状にくりぬいて彫り出した石仏を極彩色で彩った石室内に安置している。最も大きなもので高さ17メートルという石仏群は、信仰や宗派を問わず訪れた人すべてを感嘆させる素晴らしい遺跡だ。この雲崗石窟は戦前の日本人と深い馴染みがあった。

photo by Mr.Nishishita

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雲崗石窟を初めて世界に紹介したのは建築家の伊東忠太だ。伊東は1902年(明治35年)に中国旅行中に立ち寄った大同で雲崗石窟を発見し、その存在を世界で初めて発表した。世界中で雲崗石窟への関心が高まり、多くの外国人が遺跡を訪れるようになった。しかし仏教が衰えたこの時代に保護の手がさしのべられることもなく、雲崗石窟は廃寺同然だった。石仏には塵が厚く積もり、石室の多くは農民の物置や便所などに使われていたという。また動乱の時代ゆえ多くの石仏が奪われ、世界に散逸していった。中国側の調査によると、1930年(昭和5年)の時点で、すでに96個もの仏頭が盗掘されていたという。参観路の東西両端に向かえば、露天に晒された空洞の無数の石室跡がいまも無惨だ。欧米の美術館には今も雲崗から持ち出された石仏が陳列されている。いち早く研究と保護が進んだ敦煌との差は何だろうか。異民族の地にあるのではなく、漢族の地にある異民族の遺跡だからか。

戦争は破壊をもたらすが、雲崗石窟にとってはプラスに働いた。日華事変の勃発によって、雲崗石窟は日本人の手で保護されることとなった。雲崗石窟が中国の文化遺産として位置づけられ、観光資源としての価値が高まったきっかけは、日本軍の占領下で熱心に調査にあたった日本人研究者たちの活動による。

雲崗石窟の調査は、水野清一ら京都大学の研究者たちによって完成された。水野たちはすでに排日運動が盛り上がっていた1936年(昭和11年)に初めて華北を訪れたが、当時は官憲の許可もなかなか下りず、身の安全を心配しながらの調査だったという。しかし翌年、水野たちにチャンスが訪れた。日華事変の勃発だった。日本軍が大同一帯を占領し、日本人が行動できるようになったからだ。

日本軍は1937年(昭和12年)9月に大同を占領するとただちに雲岡石窟の保護にあたっている。当時の報道写真で、石仏寺の楼閣に「雲崗石佛寺ハ世界的ノ名跡ニシテ軍ハ之ヲ愛護保有ニ勉ム 若シ破壊、掠奪等ヲナスモノアラバ日本軍ト雖軍法ニ照シテ厳重ニ處断ス」との札が掛けられているのが確認できる。日付は9月21日だから占領後1週間ほどだ。準備が良い。大同を占領した関東軍の東條参謀長は、政権擁立のために多数の文官をブレーンとして引き連れていたという。文教担当だった人の指示かもしれない。その後、警備を引き継いだ駐蒙軍は終戦まで一個分隊を常駐警備にあてている。

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水野たちは各方面に働きかけて1938年(昭和13年)から雲崗石窟の調査を開始した。そのプロジェクトは、軍や財界の支援も受けた稀に見る大規模なものだった。主要な石室すべてを実測して見取図を作成し、何万体もの石仏を写真に納めるというものだ。雲崗石窟での調査は、1938年(昭和13年)から終戦前年の1944年(昭和19年)までの7年間、毎年夏頃に7回に渡って行われ、延べ日数は一年を越えた。この間、水野たちの調査活動が話題を呼び、雲崗石窟の評価は飛躍的に高まっていった。すでに当時、あの辺境の地で平日1便、休日2便の遊覧バスが運行していたというから驚きだ。現地の晋北政府も本格的な保護計画に着手し、石仏寺に隣接していた住民を立ち退かせ、雲崗石窟の保全に務めるようになった。

終戦によって水野たちの調査活動は中断を余儀なくされたが、7年間の成果は16巻32冊の大部『雲岡石窟』の刊行という形で結実する。終戦直後の困難な時期にこれだけの規模の学術書刊行は他にあまり例がない。「学士院恩賜賞」というエンペラーズ・プライズに輝いたが、それもそのはず、石窟研究の学術書として世界で最高峰のものであり、中国でも雲岡石窟研究の礎となっている。

日本人が去った後、雲岡石窟は再び受難の時代を迎えることとなった。降雨による雨漏りで石室内には水が溜まり、炭坑からの石炭の粉塵が石仏の肌を黒く汚した。中国政府が雲岡石窟の保護に着手したのは1961年に全国重点文物保護単位に指定してからだが、実際に保全が進展したのは文革後の1970年代後半からだ。2001年まで世界文化遺産への登録が遅れたのも遺跡の保全体制が整っていなかったことによる。現在では石窟の前庭はきれいに整地され、付近への石炭運搬車の乗り入れも禁止するなどの策が講じられている。しかし、毎年一度は石窟に積もる石炭の粉塵を拭う作業が必要だという。

水野ほか「雲岡石窟調査記」東方学報1938年~1947年
東方文化事業総委員会「大同石佛寺ニ関スル支那側調査報告(訳)」1930年
長廣敏雄『雲岡日記』NHKブックス、1985年
岡田健「雲岡石窟保護の現状」(東京文化財研究所)2001年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000101.html

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4 thoughts on “雲崗石窟と日本人

  1. 中国山西大同  陳尚士

    こんにちは。日本語が好きですから、訳したものは正しいですか、ほかの文章を訳したいですが……
    云冈石窟与日本人
    山西省北部城市,大同。在这个城市之西的武周山南麓,延绵着大大小小的,各式各样的石佛群约有一公里。作为佛教遗迹,这里就是有名的云冈石窟。这些在1600年前北魏时期营造的云冈石窟,是在砂岩的表面凿成洞窟状,将雕刻出的石佛安置于彩绘的、色彩斑斓的石室内。最大的石佛高达17米,这个美丽的石佛群遗迹,不论信仰和宗派之差异,使一切来访的人士都为叹观止。这个云冈石窟与战前的日本人有着很深渊的关系。
    最早将云冈石窟介绍给世界的是建筑家伊东忠太。伊东在1902年(明治35年)的中国旅行中,顺便去大同时发现了云冈石窟,首次将她的存在全世界首次发表了。全世界对云冈石窟的关注高涨起来,很多外国人开始了探访遗迹的旅程。可是在佛教衰败的那个年代,并没有积极着手保护,云冈石窟等同于一座废寺。石佛上积存着厚厚的尘埃,据说有很多石窟被用作农民的仓库以及厕所。另外,因为是动乱时代,很多石佛遭到掠夺,散失到世界各地。如果去参观路的东西两端,无数个被风吹雨打的露天空洞的石室遗迹凄惨得很。在欧美的美术馆,今天还陈列着从云冈盗劫的石佛。这里与研究和保护得以迅速进展的敦煌的差距在哪呢?原因是否在于石窟不在异民族地区,而是处于汉族地区的异民族的遗迹呢?
    战争是要带来破坏的,可对于云冈石窟而言却起到了正面的保护作用。由于芦沟桥事变的爆发,云冈石窟通过日本人之手而得以保护。云冈石窟作为中国的文化遗产,被赋予了地位,作为观光资源的价值而高涨的契机,正是由于在日军的占领下,遇到了热心调查的日本人,通过日本研究人员的活动而得到的。
    云冈石窟的调查,是通过水野清一等京都大学的研究者而完成的。水野等人已经在排日运动高涨的1936年(昭和11年)首次访问了华北。当时,官府的许可怎么也批不下来,据说那是一次担心自身安全的调查。可是到了第二年,水野等人又了机会,那就是芦沟桥事变的爆发,因为日军占领了大同一带,日本人能够自由行动了。
    日军1937年(昭和12年)一占领大同,立即承担起云冈石窟的保护职责,据当时报道的照片看,在石佛寺的楼阁上,能够确认挂有这样的牌子:“云冈石佛寺作为世界的名胜古迹,军队要爱护保全之,若有人破坏、掠夺等,即使是日军也要依照军法,严惩不贷!”因为落款的日期是9 月21日,所以时间是占领后的一周左右。据说占领大同的东条参谋长为了拥立政权,带来很多文官作为智囊,这个牌子也许是担任文教人员的指示。之后,接任警备的驻蒙军,委派一个分队的担任常驻警备,一直到战争结束。
    水野等人向各方面做工作,从1938年(昭和13年)起,开始了云冈石窟的调查,其计划也得到了军队以及财界的支持,这是罕见的大规模的行动。实地勘查全部的主要石窟,绘成简图,把几万尊石佛拍照留存。从1938年(昭和13年)开始,到战争结束的前一年(昭和19年)在调查云冈石窟的7年内,每年夏季去那里进行调查,延续的时日超过一年。这一期间,水野等人的调查活动的话题很有人气,对云冈石窟的评价也跳耀式地高涨起来。当时,据说在边境之地已有旅游巴士在运行,平日为一个班次,休假日为两个班次,当地的晋北政府也慎重其事地着手于保护计划,让与石佛寺邻接的居民搬迁,努力于云冈石窟的保全工作。
    由于战争结束,水野等人的调查活动也不得不停止,不过,7年间的研究,是以16卷32册大部头的《云冈石窟》的刊行形式而结出了成果,顺利成章地获得了“学士院恩赐奖”——恩贝拉兹奖。这在战后的困难时期,进行了如此大规模的学术书籍刊行,在其他方面是没有先例的。作为研究云冈石窟的学术书籍,在世界上是最高峰的,即使在中国,它也成为研究云冈石窟的基础材料。
    日本人撤退后,云冈石窟再次迎来了蒙难时代。因为下雨渗漏,造成石室积水,来自煤矿黑色煤炭的粉尘将石佛表面污染。中国政府着手保护云冈石窟工作始于1961年被指定为全国重点文物保护单位之后,但是保护工作的进展是从文革后的70年代后期才开始的,直到2001年,云冈石窟迟缓地等录于世界文化遗产,也是因为遗产的保全体制不完善而造成的。现在石窟的前院平整得很干净,采取了对策,禁止煤车驶入石窟附近,不过,据说每年还要进行一次清理煤尘污染石佛的作业。
    土八路译自日本网络

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  2. yama

    陳先生
    原文に忠実な翻訳で問題ないと思います。このホームページのURLを併記いただければ、どのページもご自由に翻訳いただいて結構です。
    雲岡石窟には十年前に一度訪れました。世界に冠たる素晴らしい遺跡ですね。ひとつ残念なのは、唐代だか清代に、窟内にセンスのない彩色を施したことでしょうか。
    「雲岡石窟と日本人」の文章を書いた後に、戦前の国民政府時代の盗掘状況について記した日本外務省の公文書をアジア歴史資料センター(http://www.jacar.go.jp/)で見つけました。1930年の時点で、すでに96個もの仏頭が盗掘されていたとしています。日本語の文書ですが、興味がございましたらご一読ください。文書の番号(レファレンスコード)は、B05016100800です。

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  3. ねころ

    世界遺産について調べているうち、こちらのサイトに辿り着きました。
    30年前、初めての海外旅行でこの地や内蒙古を訪れました。
    とても広くて、まだ余り整備はされていなかったと思いますが、パンフレットなどはあり、保存しています。
    飛天が楽器を持って飛んでる彫り物など興味深く、間近にゆっくり見ることができました。
    しかし生きた人の気配がなく、じっといてると霊気が漂う感じがして、ぞっとしたのが印象に残っています。
    夫の父が戦前、大同に勤務していたそうで、結婚前初めて義父と会った時にその話を聞き、意気投合する事となりました。
    そういえば当時の写真のアルバムも多数ありましたが、貴重ですよね?
    亡くなってから10数年・・・。
    たぶん親戚の家にあるかと思いますが。
    義父は馬術をしていて大怪我をし、戦争が酷くなる前に日本に帰されたそうです。
    そのため足を引きずっていましたが、今あるのはこの怪我のお蔭、と言っておりました。
    生前は日中友好協会の仕事が生きがいだったようです。
    今、義父がいてこちらのサイトを読むことができたら、どんなに喜んだことでしょう。
    私も、少しずつ読ませていただきます。

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  4. yama

    ねころさま
    お越しいただきありがとうございます。
    私が石窟を訪れたのは15年ほど前で、そのときはまだ、今のような一大観光スポットにはなっておらず、仰るように暗く、人気の少ない、静かな参観ができました。
    宗教遺跡ですから、そこそこ神厳さを感じられるのが良いかと思うのですが、今はそのような雰囲気は微塵もないようで、残念なことだと感じています。
    戦前の大同に関する資料は限られています。アルバムも内容によっては大変貴重な意味を持つ場合がありますので、もし御義父さまの御遺品を整理される機会がありましたら、図書館など、しかるべき先に御寄贈いただきたく、よろしくお願いいたします。

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