戦場のラクダ隊


崞県附近攻略に向かう駱駝たち(朝日新聞社,1937年)

崞県附近攻略に向かう駱駝たち(朝日新聞社,1937年)

戦争を知らない世代は第二次大戦でも大砲を馬が牽いていたと聞いて意外に感じるが、中国戦線では馬だけでなくラクダ(駱駝)も使われていた。ラクダ隊が戦場を行く風景を想像してもシルクロードの隊商よろしく長閑な感があるが、軍用動物としてはなかなか優秀だったようだ。

もともと満蒙華北ではラクダは日常生活に欠かせない動物だった。外蒙との唯一の交通手段だったこともあり、当時は北京などの城市でも荷役や客乗用として普通に目にすることが出来た。中国のラクダは背中のコブがふたつあるフタコブラクダ(Camelus bactrianus)だ。一般に「蒙古種」と言われた。学術上は一緒だが、華北に生息する少し体格の小さなものを「漢駝」と区別することもある。フタコブラクダは走ることはできないが、数日の間は飲食をしなくても平気なほど丈夫で力もある。寒さにも強いため、極寒の満州でも使われていた。

中国戦線で最初にラクダを使った日本軍は、チャハル・山西に攻め込んだ板垣兵団(第五師団)のようだ。当時の日本軍はまだ馬で大砲や食料弾薬を運んでいたが、山岳地の山西戦線では道幅が狭く悪路で輓馬(荷役車を馬で牽く)では行動が困難だ。水の入手が困難だったこともあって現地徴用のラクダが多用されている。実際に板垣兵団の工兵第五連隊で使われたラクダについて記述が残っている。少し長いが引用してみよう。

昭和十二年八月河北察哈爾省境長城線攻撃の際は八達嶺附近において和田工兵部隊の入手したるものなるが、爾来大行李馬匹の代用として糧秣弾薬の輸送ならびに傷病者の輸送等、重要なる任務に孜々として従事し、克く馬匹積載量の二倍に及ぶ貨物を背にして峻険なる山岳地帯将又膝を没する泥濘地帯を踏破し、来源―易州間に於ては数十回に亘りて腹を没する急流を敢然徒渉し、常に飢渇と戦ひ過労に耐へ、察哈爾山西省の各戦闘に参加し、次て初冬大行山々脈を踏破して保定平地に前進し、実に厳冬躯体を白霜に包みつつ山東省に進み、一月中旬青島に入れり。此間実に延長八百二十里、只管草葉干草のみを常食とし能く飢餓に耐へ、連日連夜に亘る行軍にも唯黙々として跟随し、七ケ月の長期間終始大行李と行動を共にして之か任務を全ふせしめたる功績は実に大なり。
(仮名をひらがなに直し句読点を追加)

力持ちで忍耐強い工兵もラクダの献身的な働きには感動したようだ。この記述は日華事変で戦功のあった軍用動物を内地に移送するための指示書に添付されていたものだ。献身的な働きの褒美が動物園での余生とはラクダにとっては皮肉かもしれないが、ここに記されたラクダ二頭は北支那方面軍を通じて東京の上野動物園に「児童教育用」として寄贈されたことになっている。

前出の文章で将兵が絶賛しているように、ラクダは軍用動物として優秀だったことが陸軍の資料から分かる。ラクダを「性温順にして忍耐力に富み粗食に堪へ水に就て顧慮少き動物にして……軍用として利用的価値あり」と評価した上で、運用上の利点として次のような点を挙げている。

一、一頭の積載量比較的大なること
二、積載品の破損絶無
三、行軍間苦心せず
四、数頭乃至十頭を一団行動をなし得える故指揮容易なり

意外に感じる人もいるだろうが、ラクダは駄用(背に荷物を積む)だけでなく輓用(車輌を牽く)でも使うことができる。むしろ満州では輓用が主流だった。輓用の場合、馬の積載量がおよそ400kgだったのに対し、ラクダは500~600kgの積載量を誇った。一方でラクダ特有のウィークポイントもいくつか述べられている。しかし「状況に応ずる速度の増加困難」とか「休憩に時間を要す」など、なんとなくおかしい。

さて、山西省ではこの後も省内での作戦に引き続きラクダが使われたが、制式兵器ではないので部隊で飼っていたわけではない。あくまで作戦の時だけ調教師とともに臨時に雇っていたのがほとんどだ。例えば、北支那方面軍の調査資料では、山西省における貸駱駝の頭数と賃金が記録されている。それによれば、1942年(昭和17年)5月現在で、省内の貸駱駝は369頭、一日あたりの賃金は二圓~三圓だった。これは馬の一圓~二圓、雑役夫の〇.八圓に比べても”高給”だ。

このように駱駝はあくまでも臨時雇いだったが、陸軍中央も中国での戦例からラクダを軍用動物として真面目に検討していたようだ。早くも1938年(昭和13年)後半には関東軍に研究試験を命じており、1941年(昭和16年)には予算を付けて施設を建設、「第六軍駱駝調教所」なる組織において実用研究を行ったようで結構本気だ。先の記録も満州での研究結果を反映していると思われる。ラクダは山岳地や砂漠など、特殊な地理条件でその力を発揮するから全面採用とはなり得ないが、満州の一部の国境警備隊では実際にラクダ部隊が編成されたようだから、一応、国軍の兵器として仲間入りをしたと言えそうだ。

寺内部隊獣医部「支那産軍用動物戦歴及功績調査書」1938年
陸軍省兵務局馬政課関係文書
中島三夫『陸軍獣医学校』1996年
甲集団参謀部「北支那方面兵要資源調査」(方軍参二調資第七号)1942年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000112.html

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One thought on “戦場のラクダ隊

  1. 中国山西大同 陈尚士

    战场上的骆驼部队
    土八路译自日本网络http://shanxi.nekoyam ada.com/
    向崞县附近攻略骆驼队(朝日新闻社,1937年)
    不了解战争的年轻一代,听到第二次世界大战还用马匹牵拉大炮就会感到意外,可是在中国战线,不仅使用了马匹,而且还使用了骆驼。想象骆驼部队奔赴战场的情景,也应当会有丝绸之路商队的悠闲宁静之感,而作为军用动物来看,似乎骆驼是非常优秀的。
    原来在满蒙华北一带,骆驼是日常生活中不可缺少的动物,曾经还是与外蒙交通的唯一手段,当时,即使在北京之类的城市,作为运载货物以及客人乘用的工具,平常是能够看到的。中国的骆驼是脊背上有两个驼峰的双峰驼。一般称作蒙古种,虽然在学术上是一样的,但往往将生息在华北的、体格略小的骆驼称为“汉驼”。双峰驼虽然不能奔跑,但是即使数天不吃不喝也满不在乎,而且照样还很结实、很有力气。因为它很耐寒,所以即使在极寒的满洲也被使用。
    在中国战线,最早使用骆驼的日军,好像是攻入察哈尔和山西的板垣兵团(第五师团)。当时的日军虽然还在用马匹搬运大炮以及粮食弹药,但是,在山岳地带的山西战线,因路面狭窄,路况恶劣,如果用马牵引运输车辆,则行动是很困难的。再说饮用水也很难弄到手,于是,当地征用的骆驼被使用于多方面了。有关板垣兵团第五工兵联队(团)实际使用骆驼的记载还保存着,尽管文字略长,试引用如下:
    昭和12年(1937年)8月,在(日军)攻击河北、察哈尔省境长城沿线的时候,和田工兵部队在八达岭附近弄到了骆驼,他们用这些骆驼代替以前搬运部队行装的马匹,运输粮秣弹药以及伤病员等。这些骆驼孜孜不倦地从事着重要的任务,它们经常将马匹载重量两倍的货物载其背上,踏遍了险峻的山岳地带以及没膝的泥泞地带,在涞源—-易县之间,它们多达数十次毅然徒涉淹没腹部的激流,经常与饥渴搏斗,忍耐过度的疲劳,它们参加了察哈尔省、山西省的各次战斗,紧接着踏遍了初冬的太行山脉,前进在保定的平野,严冬,的确是霜雪缠裹着身躯向山东省前进,1月中旬到达了青岛。在沿途长达820里路程的这一期间里,仅仅一味以树叶干草作为常喂的饲草,骆驼经常忍着饥饿,只是默默无闻地跟随着夜以继日的行军队伍,在长达7个月的时间里,始终与行装部队一起行动,骆驼完成任务的功绩实在是大莫比也。(作者注:将假名改成了片假名,并补加了标点符号)
    骆驼有力、耐受力强,连工兵都好像对骆驼的献身性的工作感叹不已。这个记录是附加在指示信上的文字说明,这是为了把在日中事变中具有战功的军用动物移送到日本内地而制作的文件。献身性工作的褒奖,就是要他们在动物园里度过其余生,这对于骆驼来说,也许具有粉刺的意味,不过,记述在这里边的两头骆驼,作为了“儿童教育用品”,通过北北支那方面军赠送给了东京的上野动物园。
    就像前面文章将士们赞许的那样,骆驼作为军用动物曾经是优秀的,这从陆军的资料里就看得很明白, “从其性温顺来看,富有忍耐力,耐粗食;就其饮水而言很少有顾虑;就其军用动物而言,具有利用方面的价值” 在把骆驼评价为如此的基础上,作为运用上的优点,还举出了以下几条:
    1,一头骆驼的载重量是比较大的。
    2,负载的物品绝无破损。
    3,行军期间不用操心。
    4,能够将数头乃至十数头放在一起行动,所以易于指挥。
    有人会感到意外吧,骆驼不光用于驮用货物,还能使用于牵引车辆。在满洲,用于牵引车辆索性成为主流。拉车的时候,马匹的载重量大致为400公斤,与此相对的骆驼,因其载重量达500—600公斤而引以自豪。另一方面,还记述了骆驼所特有的几个弱点。不过,“根据情况增快速度是困难的”以及“休息需要时间”等语,不知为什么,总觉得有些滑稽可笑。
    却说在山西省,在此后的省内作战也继续使用了骆驼,不过,因为不是规定的兵器,所以并不饲养在部队里, 只有在作战时才雇用骆驼和调教师,这种做法几乎一直坚持到最后。例如,在北支那方面军的调查资料里,记录着在山西省租赁的骆驼头数和租赁金,按记录所言,1942年(昭和17年)5月那个时候,省内租赁的骆驼为369头,每一天的租赁金是2—3圆,这与马匹的1—2圆、杂役人员的0.8圆相比,也算是“高工资”了。
    就这样,骆驼一直到最后都是临时雇用的,不过,陆军中央好像还是从中国的战例里,将骆驼作为军用动物,进行了认真的研讨。早在1938年(昭和13年)的下半年,就命令关东军进行研究试验。1941年(昭和16年),附加了预算,建立了机构设施, 在一个叫“第六军骆驼调教所”的组织里,似乎进行了适用研究,满够认真的。一般认为,前边的记录也反映了在满洲的研究成果。因为骆驼是在山岳以及沙漠地带等特殊的地理条件下,发挥其力量,尽管不能得到全面采用,但好像在满洲的一部分边境警备队里,实际上已经组编了骆驼部队,似乎可以说作为日军的兵器,骆驼已经入伙了。

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