デジタルアーカイブで遊ぶ


自他共に認める歴史好きの人でも、一次史料にまで手を伸ばすのには遠慮する人も多いようだ。実際に史料を収蔵している場所では平日利用が原則なので、私のように本業(サラリーマン)とは別にプライベートで歴史を調べている人にとっては垣根が高いというのもある。ところが近年嬉しいことに多くの史料がデジタル化され、インターネット上で検索や閲覧ができるようになっている。その代表がアジア歴史資料センターだ。ここはデジタル化の恩恵を大いに享受して、興味本位でも覗いてみることをお勧めする。必ず何かおもしろいものを見つけることができるはずだ。

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アジア歴史資料センター(以下センター)は、国立公文書館・外交史料館・防衛研究所図書館の所蔵史料から、明治から昭和終戦までの近代アジアに関する史料をデジタル画像化して公開している国のデジタルアーカイブだ。きっかけは村山内閣時の歴史認識問題で、ネット上では4年前から運営されている。当初は所蔵史料も少なかったが、最近ではかなりの量が蓄積されており、予算が付いたのかどうか知らないが、ここ一年ほどはかなりのスピードで蓄積が進んでいるようだ。私も久しぶりに閲覧して網羅された範囲の広さに驚いた。場合によってはネット上での閲覧史料だけで論文を書ける例もあるだろう。

センターではインターネットの強みを生かして、誰でも自由に無料で閲覧が可能だ。史料はすべてDejavu(デジャブ)という画像圧縮技術を使っており、最初にブラウザにプラグインをインストールすれば、ブラウザ上で史料を閲覧することができる(LizardTech社―Dejavuプラグイン)。Dejavuは画像圧縮技術としてはまことに高機能で、ファイルサイズが小さために数メガ程度のDSL回線でも十分にストレスなく閲覧が可能だ。所蔵官庁、年代、フリーワードなどで検索が可能だが、それぞれの史料に検索キーワードが付されており、そのキーワードがかなり詳細なので高い確率で望みの史料を検索できる。国営とは思えない使い勝手の良さを感じる。

閲覧できる史料は、戦前の役所の公文書で陸海軍も含まれる。このホームページのテーマからすると、防衛庁所蔵の「陸軍省大日記類」が現在のところはメインになるが、山西省での小さな話題でも陸軍省まで参考資料として添付転送されているので結構役に立つ。使い方としては、当分はテーマとする話題についてネット上で検索してみて概観をつかみ、その後より詳細な点について現物史料を訪れるという方法がとれそうだ。実際に目黒にある防衛研究所に足を運ぶ手間は完全にはなくならないし、現物史料には消しゴムで消した跡とか走り書き、黒塗りした所を照明に照らすと原文が見えたりなど、現物ならではの重要さも無視できない点ではある。それでもセンターがあるおかげで有給休暇をとる回数が減るのはありがたい。

ところで防衛庁の内規では、プライバシー情報や国益を損なうおそれのある情報、社会不安を惹起するおそれのある情報については非公開とされることになっており、センターでもそれらのものは公開されていなかったり、該当部分が黒塗りだったりする。しかしそれでもいろいろと興味の引く史料は多く、一部人士が好みそうな「731部隊」関係の文書(吉村博士の凍傷論文や細菌研究危険手当に関する書類など)も公開されている。実際にはこれらの史料はすでに資料集として活字で刊行されているようだが、興味のある人は検索をかけてみるとよい。

さて、実際にセンターのデジタルアーカイブで見つけた2~3点の史料を紹介してみよう。いずれもこのホームページのテーマの山西省に関連するもので、内容自体も雑談程度にしかならないものだが、一次史料にあたるおもしろさを感じさせてくれるものだ。

監金櫃焼失の件 (昭和13年「陸支密大日記 第4号」)
戦場に金庫とは合わないイメージだが、軍隊が作戦行動を行うにあたって、食料の購買、労役の対価、徴発の賠償支払いなど、作戦給養の面で現金決済はどうしても発生してしまう。この史料は、日華事変のときに山西戦線で現金を輸送していた輜重隊が敵の攻撃を受け、やむなく金庫ごと焼却・遺棄した事件の報告書だ。
輸送していたのは満州から動員された第四師団の第二輸送監視隊で、消失したものは受領証や支払証書等の書類全部だった。幸いにも現金およそ5800円(現在の価値で約1500万円)は別行動をしていた分任官の手にあり無事だったようだ。報告書では、輜重隊は重機四、迫撃砲を装備する兵力500~600名の敵軍に囲まれ、護衛兵は全員戦死、隊長のM輜重兵中尉は部下にガソリンで行李に火をつけさせ、「生存者を指揮し先頭に立ち白刃を揮ひて敵陣地に突入」したという。報告書では、普段の現金管理の方法などにも触れられており興味深い。
板垣兵団正面に於て支那軍使用の特種砲弾実験報告の件 (昭和12年「陸支密大日記 第11号」)
忻口戦で板垣兵団(第五師団)篠原部隊(歩兵第十五旅団基幹)の正面に奇妙な砲弾が打ち込まれた。着地した砲弾は炸裂音が弱く、緑黄色の煙が吹き出したという。ガス攻撃と思われても無理はない。しかし実態は不良品の90ミリ砲騨だった。笑えないオチがつく話の出所がこの史料だ。
史料は北支那方面軍野戦化学実験部の報告書第三号と第四号の二編からなっている。第四号では板垣兵団に打ち込まれた”疑似ガス騨”の検証結果、第三号では中国軍の遺棄していった防毒面の効力試験結果が報告されている。ともに閻錫山の西北兵器工廠で生産されたもののようで、その未熟な製造工程が浮き彫りになる実験結果だ。報告書では、中国軍のお粗末な化学戦能力を前に「あか剤の使用は大なる効力を発揮」するとしている。実際、史実では翌年から「あか剤」の使用が本格化している。
日華事変における日本軍のガス使用は一部人士の精力的な研究で有名だが、当時も新聞で大きく騒がれていたように中国軍も毒ガス(ホスゲン)を使った疑いがある。河南省では実験プラント段階だがイペリットガス工場が発見されている。日華事変での化学戦を語るのであれば、中国側の体制についても論及しなければ学問とは言えないだろう。
種籾追送に関する件 (昭和14年「陸支密大日記 第16号 2/2」)
この史料は、1939年(昭和14年)に北支那方面軍が朝鮮軍に対して、山西省における水田開発用として水稲の種籾発送を要請しているものだ。陸軍が農業にも顔を突っ込むのは「武士の手習い」のようでおかしいが、中国戦線では南京の汪政権に広範な自治を委ねる1943年(昭和18年)まで、現地の軍司令部が政務全般を担当しており、経済政策も重要な柱だった。つい最近まで中国政府は「人民を食べさせること」を目標としていたが、それは戦前の日本軍も同じで、山西以外でも水田開発とともに鯰や鯉の養殖なども真剣に考えたという話がある。日本軍はせめて現地将兵が自活できる程度の稲作普及を目論んでいたようだ。
山西で稲作と言えば南部の黄河流域が対象となるのであろうが、日照量は問題ないとして、私のような門外漢でもアルカリ性土壌の改質や水の供給など一筋縄ではいかないように思える。今でもODA関連で稲作普及が俎上に上がるくらいだから、当時も失敗に終わったのだろう。ともあれ戦時中の占領地における農業政策についてはこれまでにもあまり論及されていないので、今後研究の課題にしてみたい。

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000114.html

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