太原紡績工場小史


現在も太原市内で国営の紡績工場として操業している山西針績廠は、戦前に設立された民間の紡績工場が母体となっている。記録に残っているだけでも、晋生染織廠、山西軍管理第一工場、太原紡績廠、山西針績廠と、時代の波とともに名前も三度変わった。

閻錫山は社会主義的な計画経済を指向していたようで、山西省では主要産業をまとめた西北実業公司が設立されていたが、晋生染織廠は純粋に私営企業として設立されている。陸軍山岡部隊編『山西省大観』では、資本金1万元で1928年(民国17年)に設立、二年後から生産開始とある。ただ1936年(民国25年、昭和11年)に閻錫山の叔丈(妻の叔父)にあたる徐子澄に経営権の移動があったようだ(任論文)。

工場は陽曲県に近い太原市晋生路8号に立地された。糸を紡ぐ紡績から布を織る織布までを一貫して行う紡績織布兼営工場だった。山西省内では楡次にある晋家紡績廠に次ぐ工場だったが、全国の水準からすれば工場の規模はそれほど大きくはなかった。1938年(昭和13年)発行の「満州日日新聞」では、精紡機が6,000台、織機が252台と報じられている(中村P132掲載)。

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太原の紡績工場(一橋大コレクションから)

太原の紡績工場(一橋大コレクションから)

1937年(昭和12年)に太原が日本軍に占領されると、晋生染織廠は他の重要企業とともに接収された。中国各地では、撤退する中国軍や暴徒によって工場の設備が破壊される被害が広く生じたが、山西省では閻錫山の指示によって工場の多くが無傷の状態で接収された。晋生染織廠も接収後わずか三ヶ月で操業を一部再開しており、ほぼ無傷に近い状態で接収されたようだ。

晋生染織廠は接収後、軍管理山西第一工場と改名された。接収された諸企業は日本企業に経営を委託する形で操業が再開され、第一工場では鐘渊紡績株式会社(現在のカネボウ)が委託されている。中国における日本企業の進出(在華紡)は現地法人によって行われることが一般的だが、軍管理工場の委託経営については内地の親会社が直接乗り出すことが多く、鐘紡をはじめ日本企業は積極的だったという。山西省では鐘紡の他に紡績業では東洋紡と上海紡が進出した。鐘紡について言えば、第一工場のほか、山西省内だけでも第十六(西北毛紡織廠・太原)、第十七(西北皮革廠・太原)、第十八(西北電化廠・太原)の計四工場の委託経営を行ったようだ。

日本企業、それも紡績企業の軍管理委託への積極的な進出は、それまでの在華紡の歴史を見れば自然の成り行きだ。戦前の中国大陸における紡績業は中国人にとって”民族産業”の象徴だったが、それを脅かしたのが在華紡だった。明治から昭和にかけて中国に進出した在華紡は、先進的な経営方式を採用して競争力を強め、規模を拡大していった。1930年(昭和5年)の段階で、在華紡は中国における紡績・織布生産量のうち36%・45%を占めたという(高村論文)。それゆえ、在華紡は民族主義の台頭により経済侵略の旗手的存在として認識され、ことあるごとにストライキや破壊活動の対象となった。在華紡は当時の対中投資における最もリスキーで投資規模の大きなものだった。それが日華事変の勃発によってリスクが一気に解消したわけで、わざわざ現地法人を設立してリスク回避する必要もなくなったわけだ。

実際の委託についてだが、高村論文では、在華紡各社への接収企業の割り当てが1938年(昭和13年)5月から、軍管理工場としての操業再開は同年12月からとしている。しかし第一工場では、11月の太原陥落三ヶ月後の翌年2月には正副工場長として日本人が赴任し、操業を一部再開したとされる。前出の満州日日新聞は3月6日から20日に発行されたが、記事中で晋生染織廠の経営者は鐘紡とされているから、軍は高村の言う5月の工場割り当て(正式な軍管理による委任指定)前に、すでに第一工場(晋生染織廠)を鐘紡に委託することに決定していたようだ。

軍管理の解除は、1941年(昭和16年)に南京の汪政権に広範な自治を与えるときまで続けられたが、山西省では接収企業のほとんどが公営の西北実業公司だったということもあり、これに替わるコンツェルンとして山西産業株式会社が設立された。第一工場は軍管理を解除されて太原紡績廠と改名され、山西産業の経営下に入った。太原紡績廠は元々は私営企業であるので、前所有者に返還されるべきはずだが、閻錫山の同族経営ということで敵性財産の扱いを受けたのだろう。他の工場と同じく、委託企業が山西産業設立までの間に投下した資本と新規払込金をもとに工場の受託権を獲得する形で、太原紡績廠はこれまで通り鐘紡の経営が続けられることになった。

さて、1938年(昭和13年)からは軍管理工場として、1941年(昭和16年)からは山西産業の太原紡績廠として終戦まで鐘紡の下で操業を続けた紡績工場だが、その生産実態はどうだったのだろうか。詳細な歴年記録が手元にないので何とも言えないが、あまり芳しいものではなかったようだ。接収後に最も生産量が高くなった1939年(昭和14年)で、実際に稼働していたのは精紡機2,800錘(原設備の45%)、織機130錘(同52%)にしか満たず、生産量は、年産能力12万尺に対して7万5,375尺(同63%)だったという。

1945年(昭和20年)、日本がポツダム宣言を受諾して降伏すると、山西省内の日系企業は山西軍に接収された。太原紡績廠はそれまでの経緯から西北実業建設公司の経営下に入った。生産設備は終戦後の段階で精紡機5,200台、織機220台。その後の西北実業の経営努力によって1948年(昭和23年)7月までに同6,000台、同249台まで順調に拡張しているが、その生産量は生産能力の約63%と戦時中と同様の水準だったようだ。

太原紡績廠は1949年(昭和24年)4月の中共軍による太原占領によって接収され国営化された。現在も陽曲県に近い太原市晋生路8号で操業を続けている。

中村隆夫『近代日本研究双書―戦時日本の華北経済支配』山川出版社、1983年
高村直助「日中戦争と在華紡」(原書房『日中戦争と日中関係』所収)1988年
任歩奎「解放前的太原工業」(『太原文史資料 第七輯』所収)1986年
張全盛・魏卞梅『日本侵晋記実』山西人民出版社、1992年
山西省地方志編纂委員会弁公室編『民国時期山西省各種組織機構簡編』1983年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000116.html

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3 thoughts on “太原紡績工場小史

  1. 鈴木由美

    在華紡の中国進出のきっかけは日本側の工場法成立と中国側の関税自主権の回復がきっかけと学校で習いました。
    中国の関税の自主権が回復すると、なぜ在華紡進出するのですか??
    日中戦争と在華紡の関わりはありますか??
    また、中国の人にヨーロッパの人たちは尊敬されているのに、日本人が尊敬されておらず、日露戦争でやったことの意味をなさなかったのはなぜですか???

    Reply
  2. yama

    鈴木さま
    > 在華紡の中国進出のきっかけは日本側の
    > 工場法成立と中国側の関税自主権の回復
    > がきっかけと学校で習いました。
    > 中国の関税の自主権が回復すると、なぜ在
    > 華紡進出するのですか??
    当時の中国にとって、自国の基幹産業として保護育成したい分野のひとつが軽工業の紡績業でした。関税自主権の回復を契機に、輸入品(紡績)に対して税を課すことにより、日本からの輸入を抑え、自国紡績業の育成を図ろうとしたわけです。日本企業としては、中国は日本の十倍の人口がある巨大市場であるという認識があり、排除されたくなかったわけです。そこで、現地において工場を設立(もしくは買収)して現地生産を行えば関税の対象となりませんから、生産拠点を中国に移すメリットが生じます。そのうえ、日本国内では、労働者の権利保護を定めた工場法が公布されたことでコストが上昇していました。そこで、より安価な労働力が得られ、原料生産地のメリットもある中国への進出に拍車がかかりました。
    > 日中戦争と在華紡の関わりはありますか??
    現代も同じですが、実は中国進出というのは非常にリスクがあります。というのも、日本人は「同文同種」などという気分で進出しますが、中国にとっては「連英米制日」(英米に連なって日本を制する)という姿勢なうえに国家テロを厭わないですから、現地邦人に対するテロや日本企業での罷業誘導などを繰り返すわけです。そこで、現地に居住する邦人(居留民)や利害関係を持つ邦人企業は、出兵による邦人保護を含む本国の積極的関与を求めるわけです。
    とはいえ、国家間の戦争というのは経済問題で生じることはまずありません。自国民が無法な脅威に晒されているという点では、自国民保護の観点から、国家にとっては大きな問題ですが、しかし、「自己責任」で進出している以上は、たとえ彼らが脅威に晒されていたとしても、国家として相手国に戦争に訴えるまでの問題とはなりづらいからです。日中戦争の直接の原因は、国民政府の蒋介石が対日戦を決意した(日本に戦争を仕掛けた)ことによって生じました。ただ、日本国民(政府)としては、度重なる現地邦人への権利侵害に、いよいよ戦争で中国を懲らしめることができる、という気分はありました。それを端的に示したのが「暴支庸懲」です。一方の在華紡にとっては、日中戦争で日本が勝つ(在華紡の所在地を日本軍が占領する)ことで中国側からの権利侵害がなくなり、中国現地生産のリスクが一挙に解消しました。
    > また、中国の人にヨーロッパの人たちは尊敬
    > されているのに、日本人が尊敬されておらず、
    > 日露戦争でやったことの意味をなさなかった
    > のはなぜですか???
    日本が中国に対して尊敬に値するほどの役割を示したか否かは別として、中国では言論の自由が認められておらず、虚偽の歴史(史観)を強要されていることはあると思います。
    ご参考になりましたら幸いです。

    Reply
  3. 山西大同陈尚士

    太原纺纱厂小史
    土八路译自日本网络
    http://shanxi.nekoyamada.com/
    山西针织厂在太原市内,作为国营的纺纱厂,现在还在作业,它的前身是战前设立的民间纺纱厂。仅仅从残留的记录里,我们就会明白,随着时代潮流的变迁,他的名称也由晋生染织厂向山西军管第一工厂,太原纺纱厂,山西针织厂进行了三次变更。
    阎锡山似乎以社会主义性质的计划经济为方针,在山西省,设立了汇集主要产业的西北实业公司,而晋生染织厂是纯粹作为私营企业而设立的。在陆军山岗部队编写的《山西省大观》里写着:1928年(民国17年)设立,资本金一万元,两年后开始生产。好像只是在1936年(民国25年,昭和11年),经营权法发生了转移,转移到相当于阎锡山叔父(妻子的叔父)的徐子澄手里。
    工厂选定在接近阳曲县的太原市晋生路8号。这里曾经是一个从纺纱到织布一以贯之的纺纱织布工厂。在山西省内,它是一家仅次于位于榆次的晋家纺纱厂的工厂。从全国的水准来看,工厂的规模不是那么很大的。在1938年(昭和13年)发行的《满洲日日新闻》里,报道有精纺机6000台,织机252台。
    太原的纺纱厂(日本一桥大学收藏)
    1937年(昭和12年),太原一被日军占领,晋生染织厂与其他重要的企业一起就被接受了。在中国的各地,由于撤退的中国军队以及暴徒破坏,工厂的设备广泛地受害,但是在山西省,由于阎锡山的指示,很多工厂是以完整的状态被接受的。晋生染织厂也仅仅在接收后的三个月,就部分再次开始了作业,似乎大致是以接近无损伤的状态接受的。
    晋生染织厂被接收后,被改名为军管山西第一工厂。被接受的企业以委托日本企业经营的形式,进行了再次开业,第一工厂委托给了钟渊纺纱株式会社(钟纺),在华的日本企业的进入,一般是当地法人来实施的,但关于军管工厂的委托经营,多为日本内地的总公司直接出头,据说以钟纺为首的日本企业是积极的。在山西省的纺纱业方面,除了钟纺,东洋纺纱和上海纺纱也都参与进来了。就钟纺而言,除了第一工厂之外,仅仅在山西省境内,好像就有第16(西北毛纺织厂·太原)、第17(西北皮革厂·太原)、第18(西北电化厂)总计四个工厂的委托经营。
    从以前在华纺纱的历史来看,日本纺纱企业积极参与军管委托,也是自然的趋势。战前中国大陆的纺纱业,对于中国人来说,是“民族产业” 的象征,可是威胁这个“民族产业”的就是日本的在华纺纱。从明治到昭和,进入中国的在华纺纱,采用了先进的经营方式,增强了竞争力,将规模扩大起来了。在1930年(昭和5年)那个时期,在华纺纱占中国纺纱和织布总生产量的36%和45%。因此,在华纺纱被中国抬头的民族主义作为经济侵略的旗手而加以看待,每当有事的时候,就它成罢工或破坏活动的对象。在华纺纱在当时的对华投资中,风险是最大的,投资规模是很大的。这种状况由于日华事变的爆发,其风险性一下子消除了,由于专门设立了当地的法人,当然也就没有回避风险的必要了。
    关于实际的委托,在高村的论文里,他认为,向在华的各纺纱公司分摊的接收企业的接收,始于1938年(昭和13年)5月,作为军管工厂的作业再次开始,始于同年的12月。但是他认为,在第一工厂,太原是11月陷落的,三个月后的翌年2月,日本人作为正副厂长而赴任,再次开始了部分作业。前面谈到的《满洲日日新闻》,是3月6日到20日发行的,不过,在记事中,晋生染织厂的经营者被认为是钟纺,所以,高村说的在5月的工厂分摊前(由正式的军管所进行委任指定),好像第一工厂(晋生染织厂)已经决定委托给钟纺了。
    军管一直被持续到1941年(昭和16年)被解除,那时,给予南京的汪精卫政权广泛的自治。但是,在山西省,还有这样的情况,即几乎所有的接收企业都是公营的西北实业公司,作为代替这种垄断状况的手段,设立了山西省产业株式会社。第一工厂解除军管之后,改名为太原纺纱厂,进入了山西产业的经营之下。因为太原纺纱厂原来是私营企业,所以应该返还给以前的所有者,但是,由于是阎锡山同族经营的,所以受到了敌性财产的处置对待吧。太原纺纱厂与其他工厂一样,委托企业将山西产业设立之前投下的资金和按新规缴纳的股金,以以前获得的工厂受托权的形式,按照过去的样子,一直维持了钟纺的经营。
    再说,从1938年(昭和13年)起,作为军管的工厂,从1941年(昭和16年)起,作为山西产业的太原纺纱厂,直到战争结束,在钟纺的支配下,是持续作业的纺纱工厂。其实际生产状况是怎样的呢?因为手头没有详细的历年纪录,所以也谈不出什么来,不过,成绩好像不是很好的。在接收后生产量最高的1939年(昭和14年),实际运转的精纺机仅为2800台(占原设备的45%),织机130台(占原设备的52%),据说,相对于年生产能力的12万尺,生产量为7万5375尺。
    1945年(昭和20年),日本接受波茨坦公告投降后,山西省内的日系企业就被阎锡山军接收了,太原纺纱厂就由此前的原委,进入了西北实业建设公司的经营之下。生产设备在战后的那个阶段,精纺机为5200台,织机为220台。之后由于西北实业的努力经营,到了1948年(昭和23年)7月,上述的机器分别发展到了6000台和249台,而生产量约为生产能力的63%,似乎与战争时的水平一样。
    1949年(昭和24年)4月,由于中共军占领太原,太原纺纱厂被中共接收而国营化了。在接近阳曲县的太原市晋生路8号,现在还继续作业着。

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