孫東元さん


孫東元さんの生い立ち
孫東元さんは、1918年(民国8年、大正8年)に孫達生さんの第一子として江蘇省楊州に生まれた。父の達生さんは1914年(民国4年、大正4年)から四年間、東京帝大医学部に留学して近代医療を学び、帰国後に郷里で開業した医者だった。留学から帰国したのが1918年(民国8年、大正8年)だから、孫さんは父が留学から帰国してすぐに生まれたことになる。当時、父は40歳ぐらいだったから、第一子で男子の孫さんの誕生をとても喜んだことだろう。その後、弟と妹が生まれ、孫さんは三人兄弟の長兄となった。

孫東元さん。亡くなる数ヶ月前に孫さんの自宅で撮影。写真を撮ろうとするとちょっと待てと制止された。老眼鏡を外し、姿勢を正して、目を大きく見開いてカメラに向かった。「目が小さいのが嫌いで、写真に撮られるときはいつも目を大きくするんだ」。茶目っ気たっぷりに流暢な日本語で語った。(太原,2001年)

孫東元さん。亡くなる数ヶ月前に孫さんの自宅で撮影。写真を撮ろうとするとちょっと待てと制止された。老眼鏡を外し、姿勢を正して、目を大きく見開いてカメラに向かった。「目が小さいのが嫌いで、写真に撮られるときはいつも目を大きくするんだ」。茶目っ気たっぷりに流暢な日本語で語った。(太原,2001年)

孫さんが生まれてからのち、一家は山西省太原に移り住み、父は太原城内で開業した。その後、小学校を卒業した孫さんは河北省通県(現在の北京市通県)にある名門の北京シ路河中学校へ進学した。そして1937年(昭和12年)4月に中学校を卒業、18歳になっていた孫さんは、父と同じく国民政府の官費留学生として日本に留学することとなった。福岡県久留米市にある九州医学専門学校(現在の久留米大学)で医学を学ぶためだ。

日本留学
暖かな春の日差しのなか、家族に見送られて孫さんは列車に乗って太原を出発した。列車は山西の山あいを縫うように北平(現在の北京)へと向かう。北平からさらに北へ山海関を通過して満州国に入り、大連を経由して日本統治下の朝鮮に。そして新義州から列車でさらに南下すると、ようやく釜山と下関を結ぶ関釜連絡船の乗船地・釜山に到着だ。船に乗って一路日本へ。かつて父も生活を送った濃い緑に覆われた日本の風景は、孫さんの眼にどのように映ったのだろうか。

下関で船を下りて列車で福岡に。到着した孫さんを待っていたのは、留学の保証人を引き受けてもらった布施四郎先生だ。布施先生は専門学校設立当初に九州帝大から招かれて皮膚科研究室を支えてきた皮膚・泌尿医学が専門の医学博士。戦後久留米大学が発行した記念誌には、学者風のクールな顔をした布施先生が写っている。温厚な人柄で多くの人に慕われていたという。孫さんは九州医専の寄宿舎に入り、産科医を目指しての勉強がはじまった。

学校での講義はもちろんすべて日本語で行われる。父から薫陶は受けていたものの、やはり最初のうちは講義を聞き取るのも精一杯だった。勉強に追いついていくためには、徹夜の勉強もしょっちゅうだった。

日本での生活が始まって二ヶ月も経たない7月。北平で日中両軍の武力衝突が起きた。その後戦火は上海に飛び火し、戦争が始まった。日本軍は北平・天津地方を瞬く間に制圧。8月からは本格的な軍事進攻を開始し、孫さんの家族が暮らす山西にも戦火が及んだ。

戦争勃発で日本から多くの留学生が中国へと帰国していった。国民政府が日本への留学事業を凍結し、官費支給をうち切ったからだ。そんななか、孫さんは日本で勉強する道を選んだ。戦火が拡大している現地に戻るよりも、しばらく様子を窺っていたほうが良いという考えからだった。これには学校の教授や同学たちの孫さんに接する態度が戦争前と全く変わりなかったことが大きかったという。当時新聞は「暴支庸懲」一色だったが、孫さんの周囲ではむしろ皆が気遣ってくれたという。特に保証人を引き受けてくれた布施先生は大変気遣ってくれた。そのため、久留米での生活はいま居る日本が祖国中国と戦争をしているなどとは思えないぐらい以前と変わぬ平穏な日々だったという。また孫さんは現地の家族についても何ら心配しなかったという。何よりも親日家の父ならば日本軍が太原に進駐してきても何も悪いことはないだろうと考えたからだ。

1940年(昭和15年)の春、日本での生活も三年が経った。この間、良い教官や学友に恵まれて学生生活を送った孫さんは、病気療養を理由に学校を一時休学し、太原に帰郷することになった。官費支給がうち切られ、これまで三年間私費で学んでいたが、家庭の経済事情もあり、一時帰国することになったのだ。孫さん21歳のときだ。

一時帰郷と九州医専への復学
行きと同じように、関釜連絡船で釜山に渡り、新義州から北平を経由して太原へ。二週間ほどの船・列車の旅で三年ぶりに孫さんは故郷に帰ってきた。そして太原に帰郷した孫さんは一年あまり父が開業していた太原達生医院を手伝ったのち、1942年(昭和17年)に新しい職場に就職した。日本軍の支援で開校された桐旭医科専門学校だ。桐旭医専は当時太原で唯一の医学専門学校で、人手不足に悩んでいたようだ。まだ大学も卒業していない孫さんは講師として務めることになったという。

桐旭医専での勤務が三年を迎え、年はすでに1945年(昭和20年)になっていた。この年の春、学費を貯めた孫さんは学位取得のため、再度日本に留学することとなった。論文執筆と臨床研修のために九州医専に復学するのだ。今回の日本行きも前回と同じく関釜連絡船を利用するルートをとった。しかし、すでに終戦を数ヶ月先に控えたこの時期、日本と中国を結ぶ交通線は米軍の空襲と潜水艦の脅威にさらされていた。一年半前には米潜水艦の魚雷攻撃で崑崙丸が沈没し、乗員・乗客600人近い死者が出る悲劇が起きていた。また孫さんが渡航した直後の4月には客船の興安丸が機雷に触雷して大破していた。幸いなことに孫さんの乗った船は無事到着し、ホッと一安心だった。

久しぶりに学生服に袖を通した孫さんは九州医専に復学した。しかし同学はもうすでにいなかった。しかも学校の多くの教官や職員も戦場へとかり出されていた。今回も保証人を引き受けていただいた布施先生も、すでに1942年(昭和17年)末から南方派遣医療団の副団長としてインドネシアスマトラ島のパレンバンに派遣されていた。布施先生が南方から帰還したのは終戦後だ。

復学数ヶ月で迎えた終戦
五年前とはうってかわり、日本での物資不足は深刻だった。太原よりも困難さを感じたという。米の配給量は一人あたり二合三尺。とても足りなかった。しかもアメリカ軍の攻撃機が毎日のようにやってきて空襲を行った。特に終戦直前の8月13日の大空襲では久留米市のほぼ全域が廃塵に帰し、学校にも被害が出た。

そして空襲の二日後、日本はポツダム宣言を受諾して全面降伏した。戦争が終結したのだ。九年前の春、初めて日本の地を踏んでまもなく戦争が始まり、今回また日本に戻ってすぐに戦争の終結という歴史的節目を体験することとなった。しかし孫さんにとっては感慨深いという思いはなかったようだ。卒業めざして忙しかったのもあるし、なによりも今回も周りの日本人との関係は以前と全く変わることがなかったからだ。

終戦の混乱のなか、孫さんは医局に入って臨床研修を行うとともに卒業論文の執筆に力を注いだ。戦争直後の物資不足にはさすがに私生活では悩まされたものの、学校での臨床研修に支障をきたすようなことはなかったという。1946年(昭和21年)の夏、孫さんは晴れて学校を卒業した。戦後出版された久留米大学医学部の記念誌では、第15期生(昭和20年)の卒業生131名のなかの一人として孫さんの名が記載されている。学校を卒業した孫さんは太原に帰郷した。

閻錫山の侍従医に
戦時中に務めた桐旭医専は閻錫山軍に接収され、疎開先の陝西省から太原に還ってきた川至医学専科学校(現在の山西医科大学)に併合されていた。もちろん、知り合った多くの日本人医師たちは一部を除き全員帰国していた。優秀な医者が不足するなか、孫さんは卒業して間もないにも関わらず川至医専に副教授として招聘されることとなった。戦前の経験が評価されての抜擢だった。

それからしばらくして、孫さんは川至医専で教壇に立つかたわら、閻錫山の侍従医を兼任することとなった。当時、閻錫山の侍従医は、父の達生さんと楊さんという医者の二人でつとめていたが、父は孫さんにも手伝ってもらうことにしたのだ。孫さんは主に閻錫山の家族の健康管理を任された。

孫さんの記憶では、家族は閻の母と妻、それに子供が4~5人くらいいたという。家族には特に病気はなかったが、閻錫山の健康状態はあまり良くなかったという。特に戦争中に辺境の吉県で避難生活を送っていたときに30代の頃に罹った糖尿病が悪化し、戦後も悩まされていたという。豆腐や豆などの好物の他に、閻は果物や肉も好きだったので、食事には気を使ったそうだ。

侍従医として閻邸に出入りするのは一週間に数回だったが、いつも閻の側近や残留した日本軍将校が頻繁に出入りし、謀議を重ねていたのを孫さんは覚えている。残留軍の主要メンバーで孫さんの耳に残っている名前だけでも、元泉、城野、岩田などがいる。あまり背の高い方ではなかった城野の姿や、パーティーを開いた際に優雅なダンスを披露した河本大作の姿などが記憶として残っているそうだ。

中共包囲下の太原
終戦後二年間くらいはよかったものの、山西省では日増しに中共軍の攻勢が強まっていった。1948年(昭和23年)になると残留日本軍の助力もむなしく、省都の太原も包囲されてしまい、外部との連絡を遮断された太原では物資不足に陥った。物価が鰻登りに高騰し、配給制が実施された。避難民も流入して人口が増加したのもあって、軍用機で食糧を空輸しても城内でひしめく多くの人々の胃を満たすには焼け石に水だった。最初に肉を口にすることができなくなり、次いで雑穀すら手に入りにくくなった。この頃から街中から野犬が消えた。そして末期になると人肉食も発生したという。このような情況下では栄養失調から様々な病気が蔓延する。一番ひどかったのは肺結核だった。産婦人科が専門の孫さんも、毎日肺結核の治療に追われたという。

1949年(昭和24年)4月、中共軍の総攻撃が開始され、まもなく太原は陥落した。閻錫山及び日本軍首脳は直前に航空機で脱出、最後まで降伏せずに籠城した国府軍将兵と残留日本人が取り残された。蒋介石は精鋭の八十三師を包囲下の太原に航空機で送り込んだが、彼らの多くも戦死し、生き残りは全員中共軍の捕虜となった。中共軍は太原に進駐すると政権や軍の関係者を逮捕するとともに市内各機関を接収、孫さんが勤めていた川至医専も中共軍に接収された。

迫害の嵐
国共内戦が終結し新中国が成立した。孫さんはそのまま太原にとどまった。中共治世の下でも腕の良い産科医として孫さんの名望は高かった。しかしそれも長くは続かなかった。1957年(昭和32年)に反右派闘争が始まると、親日家で閻錫山の侍従医をやっていた孫さんを狂気が襲った。紙製の三角帽子をかぶせられ、文字通り街中を引きずり回された。しかし孫さんはどんなに脅されても自らの政治的信念を頑なに守り通した。群衆の怒号にかき消されても、「閻錫山は立派な為政者だった」と大きな声で反論した。階級闘争・反右派が声高に叫ばれる中では過激すぎた。自己批判、労働改造と進み、最後には投獄された。長治市の郊外に設置された強制収容所に収監された。反右派闘争と文革、出所しては投獄されることが繰り返された。政治的迫害は実に二十年近くに及んだ。

孫さんの自宅にて。中央が孫さん。左は同行者の山西省国際交流センターの李微風兄、右は省文史資料研究館の左澤林さん。(太原,2001年)

孫さんの自宅にて。中央が孫さん。左は同行者の山西省国際交流センターの李微風兄、右は省文史資料研究館の左澤林さん。(太原,2001年)

狂気の時代が終わったのは、毛澤東が死去して四人組が拘束された1976年(昭和51年)だ。妹の孫秀媛さんは華国峰主席の秘書をしておりその関係もあったのだろう。身柄を解放された孫さんは、すぐに産科医として現場に復帰を果たした。再始動した孫さんの活躍はまもなく注目と評判を集めることになった。山西省で最も腕の良い産科医として評価が高まる一方で、医療技術の発展に努め、省政府や国からも表彰されている。山西長治婦幼保健院の院長を最後に現役を引退した。

改革解放が進むなか、布施先生のご子息をはじめ、同窓生との連絡もとれるようになった。日本の同窓生から学術誌を定期的に届けてもらい、今でも日本語の医学論文に目を通すことが楽しみだという。2001年に老衰で亡くなった。83歳だった。

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000120.html

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3 thoughts on “孫東元さん

  1. BKK

    中国人の凄さに驚く事として、死んだ方がましだと思える様な環境で生き抜いて来たと云う、正に信念が強くなければなし得ないという事にあります。
    何十年も牢獄なの中に閉じ込められ、人としての尊厳を奪われ続けて来た。何という精神力なのでしょうか。
    中国人とは何と奥深い民族なのでしょうか。
    そして、彼等の文化が持つ闇は深く、底が見えません。
    カンニバリズムまである中だからこそ、このような人物も生まれるのかも知れません。
    日本という国は仏陀やイエスの様な仏様も神様は生まず、マザーテレサやガンジーの様な泣きたくなる様な人も生みません。
    しかし、ヒトラーや毛沢東やポルポトといった様な殺戮者も生まれません。
    そこそこ皆が平均してまとまっているからだと考えますが、日本に生まれて良かったとつくづく考えさせられました。

    Reply
  2. yama

    BKKさま
    私が中国の歴史を通して、彼ら中国人の生き様に触れるときに感じる「両極端」と言いますか、何となく良い言葉がありませんでした。あなたの「奥深い」という表現には、何とも心を洗われる気がいたしました。そうです、雑草のように生き抜く人と虫けらのように死んでいく人、巌のような意志を持った人と変幻自在のノンポリ人、善悪の概念、貧富の差、政治の虚と実…、私たち日本人の常識外の振幅性を中国社会(漢人)は持っていますね。
    そして、ここに戦前の「支那通」や「大アジア主義者」と呼ばれた“純朴な日本人”の陥った穴があるような気がします。その振幅性に呑まれてしまったのでしょう。理知の面で酔い、野蛮の面で同化してしまったわけです。我々日本が中国と対等につき合える日は来るのでしょうか。中国と没関係の時こそ、日本は安定していたのは歴史の教える所です。
    またお気軽にコメントをお寄せいただければ幸いです。

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  3. 中国山西大同 陈尚士

    孙东元先生
    孙东元先生的经历
    1918年(民国8年,大正8年),孙东元先生作为孙达生先生的长子出生于江苏省的扬州。他父亲孙达生从1914年(民国4年,大正4年)起的四年间,在东京帝国大学医学部留学,学习近代医疗,他父亲回国后作为医生在乡里开业。留学归来的时间是1918年(民国8年,大正8年),父亲留学归来之后,很快孙先生就出生了,当时他父亲40来岁,对于第一子是个男子的孙先生的诞生高兴极了。其后孙先生的弟弟和妹妹也出生了,孙先生成为姊妹三人之中的长兄。
    去世之前的数个月,孙东元先生在自己的家中,太原2001年
    孙先生出生后不久,一家人就迁移到山西省的太原居住,她父亲在太原城内开张营业。孙先生小学毕业后,就去了位于河北省的通县(现在的北京市通县)的北京潞河中学学习。并且于1937年(昭和12年)4月中学毕业。已经18岁的孙先生跟他父亲一样,作为国民政府的官费留学生,决定要去日本留学,为的是要在位于福冈县久留米市的九州医学专门学校(现在的久留米大学)学习医学。
    留学日本
    在暖春阳光的照耀下,孙先生告别了送行的家人,踏上列车离开了太原。列车曲折地穿行于山西的山谷间,向着北平(现在的北京)驶去。从北平再向北走,经过山海关进入了满洲国,再经过大连,到达了日本统治下的朝鲜。就这样,列车由新义州进而南下,好不容易到了连结釜山和下关的关釜联络船的乘船地—釜山。乘船后径直驶向日本。他父亲也曾经在这里生活过,被浓绿覆盖的日本风景,是怎样映现在孙先生眼里的呢?
    孙先生下了船,乘列车到了福冈,接待孙先生的是承担留学的保证人布施四郎先生。当初设立专门学校时,布施先生是被从九州帝国大学招聘来的,他是支撑起皮肤科研究室的皮肤和泌尿医学的专家医学博士。战后,在久留米大学发行的纪念杂志上,就印有潇洒的、学者风度的布施先生的玉照,据说他是个敦厚的人,受到很多人的敬仰。孙先生进入九州医专的集体宿舍,以妇产科医学为目标,开始了学习。
    当然,学校使用的课本全部是以日语来进行的。尽管孙先生从他父亲那里得到了日语的熏陶,但在最初阶段听取讲义还是很吃力,为了能跟得上课程,他老是彻夜用功。
    他开始了在日本的生活,在还不到两个月的7月份,中日两国军队在北平发生了武力冲突,其后,战火又在上海燃起,战争开始了。转眼之间,日军就控制了北平、天津,从8月起,开始了正规的军事进攻,战争也波及到了孙先生家人生活的山西。
    由于战争的爆发,好多留学生从日本回到了中国,国民政府冻结了赴日留学的业务,停止了官费支付。在这种情况下,孙先生选择了留在日本学习的道路,这是因为他认为与其回到战火蔓延的中国,还不如观察一段时间,看看事态是如何发展的为好。在这里,据说学校的教授以及同学们对待孙先生的态度,与战争爆发前是完全一样的,并没有发生多大的变化。而当时的报纸清一色要“惩罚支那”,据说在孙先生的周围,大伙都为他担心,特别是留学担保人的布施先生,更是担心得不得了。正因为这个,据说孙先生并没有考虑他眼下居住的日本,正在与他的祖国进行着战争之类的事情,他在久留米的生活的每一天,还跟以前一样是平静的。另外,据说孙先生也丝毫不担心他祖国的家里人,不管怎么说,即使日军进驻了太原,如果家父亲日,也不会发生什么坏事情,因为孙先生就是这么考虑的。
    1940年(昭和15年)春,孙先生已在日本生活了3年,这一期间,孙先生得益于良好的教官及其学友的惠顾,度过了学生生活。他以疗养疾病为理由,暂时休学,决定回太原省亲。官费支付已经中断,此前的三年是凭自费学习的。家庭的经济状况还好,因此决定临时回国。那时的孙先生是21岁。
    暂时的归乡与再度去九州医专的复读
    还与来的时候一样,乘关釜联络船渡海到达釜山,再由新义州经过北平奔向太原,经过大约两周时间的船、车的旅行,孙先生回到了阔别了3年的故乡。就这样,回到故乡太原的孙先生,在他父亲开业的太原达生医院,帮了一年多的忙,之后,又就职于新的岗位,那就是在日军支援下开设的桐旭医科专门学校就职。据说在当时的太原,桐旭医专是唯一的医学专门学校,大学还没有毕业的孙先生作为讲师就职了。
    孙先生在桐旭医专工作到第三个年头,岁月已经迎来了1945年(昭和20年),这年的春天,攒够学费的孙先生为了取得学位,决定再度去日本留学。为了执笔书写论文和进修临床医学,他要去九州医专复读。这次的日本之行与前一次相同,还是采取了利用关釜联络船的那条路线。但是,这一时期已经处于临近战争结束的数个月前了,连接日本和中国的交通线已经遭到美军的空袭和潜艇的威胁。一年半之前,由于美军潜艇的鱼雷攻击,昆仑丸沉没了,发生了乘务人员和乘客近600人死去的悲剧。另为,在孙先生出国之后不久的4月份,客船兴安丸触及到飞机投下的鱼雷而船身大破。幸而孙先生乘坐的航船平安到达,他长出了一口气,放下心来。
    孙先生穿上了隔了好久没穿的学生服,到九州医专复读了。但是,同学已经不在了,而且学校的很多教官以及职员也被动员上了战场。这一次仍担当自己留学保证人的布施先生,也已经从1942年(昭和17年)起,作为南方派遣医疗团的团长,被派遣到印度尼西亚苏门答腊岛的巨港。布施先生从南方回来的时候,已经在战争结束之后。
    复读了数个月就迎来了战争的结束
    与5年前截然不同,日本物资的贫乏加剧了,据说比太原还困难,大米的配给量每个人为0.4公斤,严重不足。而且美军的攻击飞机每天都飞来进行了空袭。特别是在临近战争结束之前的8月13日的大空袭中,整个久留米市大致被夷为了废墟,学校也出现了损失。
    就这样在空袭后的两天,日本接受了波茨坦公告,全面投降了,战争结束了。9年前的春天,孙先生初次踏上日本的国土不久,战争就开始了,这一次又是刚返回日本不久战争就结束了,孙先生经历了历史性的时刻。但是,这对于孙先生来说,好像是没有多大的感慨,因为他以毕业为目标而奔波忙碌,再说不管怎样,这一次他与周围日本人的关系还跟以前一样,完全没有发生变化。
    在战争结束的混乱中,孙先生进入了医专附属医院的研究室,在研修临床的同时,着力于毕业论文的书写。尽管战后的物资匮乏的确让个人的生活烦恼,但是这好像没有给学校的临床研究带来障碍。1946年(昭和21年)的夏天,孙先生正式毕业了。在战后出版的久留米大学医学部的纪念册上,记载着作为第15期学生(昭和20年)毕业的131名学生之一的孙先生的名字。毕业后的孙先生回到了太原。
    成为阎锡山的侍从医
    孙先生在战争期间效力的桐旭医专被阎军接受了,并将这所学校跟从疏散地陕西省迁回到太原的川至医学专科学校合并在一起了。当然,他认识的很多日本人医师,除去少量,大部分都回国了。在优秀的医师匮乏之时,尽管孙先生刚刚毕业不久,还是作为川至医专的副教授被招聘了。那是战前的经验得到好评之后的提拔。
    打那儿以后,没过多久,孙先生一方面立足于讲坛,一方面成为阎锡山的兼职侍从医。当时,阎锡山的侍从医是由他父亲孙达生和杨先生这两个医生来充当的,不过,他父亲决定让也孙先生帮忙,孙先生主要被委任于阎锡山家族的健康管理。
    在孙先生的记忆里,阎锡山一家有母亲和妻子,还有四、五个孩子,据说家族里的人没有特殊疾病,但阎锡山的健康状况却不太好。特别是在战争中,在边境吉县度过避难生活的时候,阎在30来岁的时候患上的糖尿病恶化了,据说在战后他还被这个疾病所困扰。据说除了豆腐以及豆类他所喜欢的食品外,他还喜欢吃水果以及肉类,所以他在吃饭上很在意。
    孙先生作为阎的侍从医,一周内有数次出入于阎的官邸,孙先生记得,残留在阎近侧的日军将校总是频繁地出入,反复地进行了谋议。日本残留军的主要成员,仅仅是留在孙先生耳边的,就有元泉磬、城野宏、岩田清一等。据孙先生讲,个子不太高的城野宏的容貌,还有举办舞会时,披露了优雅舞姿的河本大作的形象,都还残留在他的记忆里。
    中共包围下的太原
    大约在战后的两年间,虽然形势还好,但在山西省,与日俱增的中共军的攻势增强起来了。到了1948年(昭和23年)4月,残留日军的协力也是枉然的,省会太原被彻底包围了,在被截断了与外部联系的太原,陷入了物资匮乏之中,物价直线上涨,实施了配给制。难民的流入导致了人口的增加,即使军用飞机空投粮食,要添饱城内拥挤不堪的众多人的肚子,也是杯水车薪,最初是吃不上肉食,紧接着连杂粮也难以弄到手,从这个时候起,野犬在街道里消失了。就这样到了末期,据说竟发生了食用人肉的事件。在这种状况下,由于营养失调,导致疾病蔓延。最厉害的是肺结核病,专业为妇产科的孙先生也每天忙于肺结核的治疗。
    1949年(昭和24年)4月,中共军的总攻击开始了,不久太原就陷落了。阎锡山以及残留日军的首脑在陷落前不久,乘飞机逃出,留下了直到最后还不投降的、困守城池的国民政府军官兵和残留的日本人。蒋介石以飞机将其精锐的83师空投到处于包围之中的太原,这些人也多半战死,幸存的也全员成为中共军的俘虏。中共军进驻了太原,随着逮捕政府以及军队的有关人员,同时也接收市内各个机关,孙先生工作的川至医专也被中共军接收了。
    迫害的狂风暴雨
    国共内战结束,新中国成立了,孙先生就那样留在了太原。即使在中共治世之下,作为医技良好的妇产科医生,孙先生的名望是很高的。但是这些并没有持续多久,1957年(昭和32年),反右派斗争一开始,狂风就袭击了亲日者、当过阎锡山侍从医的孙先生,他被戴上纸制的三角帽子,就像文字写的那样,被强行拉着游街。可是孙先生不管遭到怎样的威胁,他还是将自己的政治信念顽强地坚守到底,即使被群众的怒吼声淹没,他还是高声地反驳:“阎锡山是个出色的为政者!”在阶级斗争、反右派的高调喧嚣声中,他做得过激了,紧接着升级到自我批判、劳动改造,最后被投入了监狱。在反右派斗争和文革中,他出狱后再度被投入监狱,反复了多次,政治上的迫害长达近20年。
    在孙先生的家中。左侧是同行的山西省国际交流中心的李微风兄,
    右侧是山西省文史资料研究馆的左泽林先生。(太原 2001年)
    疯狂时代结束之时,已经到了毛泽东死去,四人帮被拘禁了的1976年(昭和51年)。孙先生的妹妹孙秀媛担任华国锋主席的秘书,也许有这层关系吧,被解放了身体的孙先生,很快就作为妇产科医生,恢复了原单位的工作。再次活耀起来的孙先生,很快就受到了人们注目和评判,他作为山西省医术高明的妇产科医生,对他的好评在高涨,另一方面他致力于医疗技术的发展,受到了省政府以及国家的表彰,他最后是从山西长治妇幼保健院院长的职位上退休的。
    在推行改革开放的进程中,孙先生还取得了以布施先生的儿子为首的,与其他同学的联系,他请他的日本同学定期给他邮寄学术刊物,即使在今天,他还以研读日本语的医学论文为乐,2001年他因衰老而去世,终年83岁。

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