お忍びで太原を訪問した元宮様


日本オリンピック委員会(JOC)会長を務め、戦後日本スポーツ界の発展に尽力した故竹田恒徳氏。1987年、中国政府はオリンピック復帰の橋渡しをした彼に、答礼の意味を込めて二週間の中国旅行に招待している。そこで彼はお忍びで太原を訪れている。

彼は戦後皇籍を離脱した元宮様だ。戦前は竹田宮恒徳王と呼ばれた。明治天皇の意向で皇族男子は全員軍人になることが慣例で、竹田宮は騎兵将校だった父のあとを継いで陸軍を選んだ。陸士42期陸大50期。騎兵第十四連隊勤務を経て、1938年(昭和13年)8月から一年ほど、山西省を担当した第一軍に作戦参謀として勤務している。

二週間の旅行の公式スケジュールでは、成都、桂林、西安、河南少林寺、北京などを訪れたことになっている。しかし昔勤務していた第一軍司令部をひとめ見たいと内緒で太原に日帰りで立ち寄ったそうだ。太原で案内をしたのが戦争体験談で紹介している李献瑞さんだ。太原第一軍司令部は四階建てに瓦屋根、車廻しの正面玄関がある立派な建物で、その風格は関東軍司令部にも負けない威風堂々としたものだ。今でも外観をほとんど変えずに人民解放軍が使っている。李さんが案内すると彼はとても喜んだが、そのうち写真を撮りたいと言い出した。軍事施設で撮影禁止だったが、李さんはどうしても彼を説得しきれず、結局、司令部前を車で走りながら車内でカメラを構えるというスパイまがいの手で写真を撮ることになった。李さんは冷や汗をかいたが、彼は戦友会で自慢できると喜んでいたという。

彼が第一軍に赴任したのは1938年(昭和13年)8月で、当時司令部は石家荘にあり、太原に移駐するのは翌年2月のことだ。太原での司令部勤務は半年ほどの短い時間だったが、竹田宮にとっては思い出が深かったようだ。彼は第一軍で初めて参謀勤務を経験したわけだが、その時に練った作戦計画は梅津司令官から四回も作り直しを命じられたという。彼が赴任したとき、第一軍は臨汾に戦闘司令所を設けており、そこでの中国家屋での生活はネズミに悩まされたというから、太原に引越した時には別天地にさえ感じたかも知れない。ちなみに第一軍赴任時に半年ほど蓄えていたカイゼル髭は、実はメンソレータムで形を整えていたという。後に写真を見た昭和天皇が似合うと述べられたという。自伝でのちょっとしたエピソードだ。

竹田恒徳氏は中国旅行から五年後の1992年に亡くなった。83歳だった。元宮様の中では戦後最も成功した人と言われている。

竹田恒徳『私の肖像画 : 皇族からスポーツ大使へ』恒文社,1985年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000113.html

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One thought on “お忍びで太原を訪問した元宮様

  1. 山西大同陈尚士

    偷悄悄访问了太原的皇宫元老
    土八路译自日本网络http://shanxi.nekoyam ada.com/
    曾担任日本奥林匹克委员会会长、为战后日本体育界之发展尽力的已故竹田恒德先生,对恢复中国在奥林匹克的席位进行了斡旋, 1987年,中国政府为了感谢他所做出的贡献,特地为他安排了为期两周的,充满答谢意味的中国之旅。为此,他偷悄悄地访问了太原。
    他是战后脱离了皇籍的皇宫元老,战前他被称为“竹田宫恒德王”,按照明治天皇的意向,皇族的男子要全部成为军人,这是惯例。竹田宫继曾经是骑兵军官的父亲之后,选择了陆军。他是陆军士官学校第42期、陆军大学第50期的毕业生,经历了骑兵第14联队的锤炼,从1938年(昭和13年)8月起,在山西省掌政的第一军,作为作战参谋而任职。
    在旅行时间为两周的正式日程里,决定了访问成都、桂林、西安、河南少林寺、北京。但是,据说他说想看一眼曾经工作过的日军第一军司令部,就顺便私下到了太原,并且于当天离开了那里。在太原领着他参观的人,就是我在战争体验谈里介绍的李献瑞先生。太原第一军司令部是一栋四层建筑的、屋顶盖瓦的漂亮楼房,它的正门可以出入汽车,是座威风凌凌、风格不亚于关东军司令部的建筑。即使在今天,也几乎没有改变其外观而被人民解放军使用。由于李先生的陪伴,他非常高兴,说出了想在那里拍照的愿望。但是,由于是军事设施,所以严禁摄影,李先生怎么也说服不了他,最后,他乘上汽车,一边在司令部的门前行走,一边在车内准备好相机,简直就像用间谍手法似的完成了拍照。据说,虽然李先生出了一身冷汗,可他能够在战友会上得以自夸而高兴不已。
    他去第一军赴任的时间,是1938年(昭和13年)8月,当时,司令部在石家庄,移驻到太原的时间是第二年的2月,虽然他在司令部工作的时间仅仅为短暂的半年多,但对于竹田宫来说,他的回忆似乎是深刻的。他虽然初次在第一军体验了参谋工作,但那个时候,据说推敲出来的作战计划,梅津司令官命令他进行了多达四次的修改。他赴任的时候,第一军在临汾设立了战斗司令部,在临汾的中国居室的生活,他被老鼠所烦恼,所以搬到太原的时候,他甚至感到了也许那是另外一个世界。顺便说一下,他到第一军赴任的时候,留了半年多的两端向上翘曲的胡子,据说是用凡士林整形的。据说,后来昭和天皇看到这张照片,说是很合适的。这是在他自传里的一个小小插曲。
    竹田恒德先生在中国之旅之后的五年,即1992年去世了,时年83岁。一般认为,在皇宫的元老里边,他是战后最成功的一个人。

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