黄河のほとりで戦死した女性漫才師


戦場で命を落とした漫才師がいる。徴兵された兵士としてではない。プロの漫才師として慰問中に戦死した。しかも女性で、勲章を受け靖国に祀られた。名前を花園愛子と言う。

1941年(昭和16年)7月25日、朝日新聞に小さな記事が掲載された。黄河のほとりで、前線に赴いた慰問団が中国軍の攻撃を受けたという記事だ。護衛の将兵十三名が戦死したこの戦闘では、記事では触れられていないが慰問団にも被害がでた。その詳細は五日後の7月30日付の記事で明らかにされる。

祭壇の前に座った幼い女児の写真とともに「妻の遺骨携え前線慰問 郷里の愛娘から激励の手紙」とタイトルが付けられたその記事には、山西省南部の苗庄という場所で起きた戦闘の際に、吉本興業の女性漫才師である花園愛子(稲田みさ)が命を落としたこと、旦那で慰問団長を務めていた同じく漫才師の桂金吾(清次郎)が妻を失った悲しみを抑えて前線での慰問を続けている、という内容だった。

桂金吾と花園愛子は、当時浅草で夫婦漫才で活躍していた吉本興業の芸人だ。歌と三味線がうまい、とぼけた味のある漫才が売りだった。江戸前の芸を武器に、東京吉本の専属として浅草でも結構売れていたという。遭難当時、愛子は数え年で36歳、夫婦の間には小学生の幼い女児がいた。

金吾と愛子が参加していた慰問団は、吉本が積極的に外地へ送り出していた「わらわし隊」とも呼ばれた陸軍省派遣の慰問演芸団だ。他に夫婦漫才が一組に奇術親子の三人、声帯模写の男芸人、浪曲の男女一組の計10人で中国大陸の前線部隊を回っていた。一行は6月に北平に入ったあと、当時河南省を警備していた第三十五師団(第二軍)の部隊を中心に、開封、新郷などの都市の他に辺境の駐屯地までを細かにまわっていたようだ。このとき日本軍は、撤退した中国軍と黄河を挟んで対峙しており、数ヶ月後に黄河を渡河して攻撃を行う河南作戦の準備のために最前線に部隊を配置していた。遭難が起きた7月22日は、済源の歩兵第二百二十一連隊本部(小林部隊)の慰問を終え、済源からさらに西の警備隊(歩兵第二百二十連隊)を慰問するためにトラック四台で出発したという。遭難時の様子は、昭和13年(1942年)に朝日書房から出版された山路幸雄著『国民娯楽演芸読本』に戦争美談として大きく紹介されているほか、金吾から実際に聞いたという小島貞二の記述もある。しかし、やはり公務を詳細に報告する必要のあった歩兵第二百二十連隊が正確に記録していたようだ。

220会誌によれば、朝の八時半に済源を出発した一行は、昼頃に両側が丘となって谷間状となっている峠道にさしかかったときに中国軍の待ち伏せ攻撃を受けた。当時の報道では、遭難場所を山西省南部としているが実際には河南省北部の黄河の支流のほとりだった。このとき先頭車が被弾して急停車、後続車は全員が飛び降りて河原へ散開して応戦したが、護衛兵一個分隊の慰問団に対し、機関銃を装備する敵二百に囲まれて負傷者が続出した。その日に限って先頭車の助手席に座っていた愛子は、負傷した運転手を抱えて下車しようとした際に右大腿部に二発の銃弾を受けて歩行不能、金吾らが車から降ろしたときにはすでに虫の息だったという。総勢四十名ばかりの将兵たちが次々に倒れていく中、覚悟を促された慰問団の芸人たちは、おのおの戦死者の銃をとり戦闘に参加した。接近する中国兵に手榴弾を投げるほどの激しい戦いは、救援隊が駆けつけるまで四時間にわたったという。この間、充分な手当が出来なかった愛子は出血多量で亡くなった。

戦死した女性漫才師のニュースは、すぐに前線から内地へと伝わった。愛子の遺骨は現地で焼かれ、金吾は白木の箱を胸に、その後一ヶ月間、予定の慰問をこなした。慰問の先々で暖かいもてなしを受けたが、移動の途中に車が揺れて箱がカタカタ鳴る度に痛がっているようで哀しく感じた、とは、団長として私情を殺して慰問を続けた金吾の当時は人には言えない胸のうちだ。小林部隊からは感状が授与され、北平では岡村大将列席の官民合同葬儀が営まれた。東京に帰還後は、9月1日に浅草の東本願寺で盛大な帝都漫才協会葬が営まれ、会葬者三千人を数えたという。名誉の戦死を遂げた愛子には勲八等の叙勲があり、戦後の1965年(昭和40年)には陸軍軍属として靖国神社に合祀された。漫才師で靖国にまつられたのは愛子だた一人だという。

山路幸雄『国民娯楽演芸読本』朝日書房,1942年
小島貞二『こんな落語家がいた』うなぎ書房,2003年
220会『歩兵第二百二十連隊』1982年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000131.html