河本大作の山西時代


満州某重大事件(張作霖暗殺)の首謀者として知られる河本大作は、行政処分を受けて予備役に退いたあと、後半生を経済人として生きた。関東軍の後盾で満鉄理事、次いで満州炭坑の理事長と、満州財界の実力者にのし上がったが、鮎川財閥に満州を追われた。その後に彼が再起の地として選んだのが山西だった。省内の主要産業を一手に掌握していた山西産業株式会社社長に就任、山奥の地方とはいえ、政財界のトップとして、またフィクサーとして、軍司令官をも凌ぐ栄華を得た。そして再起の地である山西は同時に彼にとって終焉の地となった。

河本大作(1882年~1953年)

河本大作(1882年~1953年)

1940年(昭和15年)秋に満炭を追われた河本は、しばらく浪人暮らしを余儀なくされる。当時、北支那方面軍司令官だった妹婿の多田駿を中心に、関係者は河北省の開欒炭坑を河本に斡旋しようとしていたようだ。一説によれば、炭坑社長の話には鮎川の差し金との噂があり、河本が断ったという。真偽はどちらにせよ、炭坑社長の話は流れて、その次にやってきた話が山西産業だった。

山西産業株式会社は、軍管理経営を行っていた各種36工場を傘下に持つ国策会社で、そのほとんどは戦前に閻錫山が創設した西北実業公司を接収したものだった。傘下の業種は、炭坑、鉄鋼、電気、機械、化学、紡績、食品等、50種以上の多方面にわたり、山西産業はこれらを統合運営する一大コンツェルンだった。満鉄よりは規模が小さいが、省内独立が可能なほど経営範囲は広かった。傘下の各企業は太原占領後から日系企業を中心に経営を委託していたが、統制経済の進展によって統合運営の必要性が高まり、1942年(昭和17年)に委託経営企業13社と北支那開発株式会社の出資によって会社を設立、4月から営業を開始した。初代社長は、山西経営の筆頭財閥である大倉鉱業の太田文雄が就任したが、わずか五ヶ月後の同年9月には病気を理由に辞任している。河本は太田社長の後任として山西に赴任した。

河本の社長就任に尽力したのは第一軍参謀長を務めていた花谷正少将と言われている。河本と花谷は共に満州事変で暗躍した同志であり、親分子分の関係だった。支那通の岩松軍司令官(河本赴任直前に離任)の支持もあり、軍の強力な統制の下での山西経営と、民間で閻錫山工作を進めることが出来る人物として、河本に白羽の矢がたった。河本と閻は、反蒋戦に破れた閻が大連に逃れていた時代に面識があったという。

第一軍では、”大東亜建設”に寄与し、また規模を拡大して閻錫山工作の推進剤にするため、軍による山西財界への統制強化を目論んでいた。すでに会社設立直前に、新会社(山西産業)は人事を含め全て第一軍の指示の下に経営を行っていくべき旨を花谷参謀長の名で示していたという。一民間企業に対して随分と乱暴な話だが、これこそが山西産業の立場を示していた。当然、それまで「自由進出」の機運で投資を行ってきた財界とは軋轢を生じることとなった。花谷はかねがね側近に「財閥勢力を山西から一掃」することを放言して憚らなかったという。初代太田社長の辞任はこの流れで理解される。そして後任社長として太原に来た河本は、就任直後から人事権を行使して大倉を中心とした財界出身幹部を抑え込み、満炭から呼び寄せた仲間や退役軍人で上層部を固めていった。

河本の経営手腕については良く分からないが、山西産業は独占企業であるうえ、軍の意向に沿って経営を続ける限り物動による資材割当も優先的に取り扱われたので、経営の才覚をそれほど必要としない殿様商売だったと言える。どこの資料から引っ張ってきたのか明らかでないが、防衛庁の戦史叢書では河本が「大いに手腕を発揮」して「発足一年後には150万円の利益をあげた」と書いている。しかし大倉の資料では昭和17年度の営業収支が実質ベースでも613万円だから誇らしげに書くほどのものではない。経営の実務は大倉出身で技術屋の高橋鉄造が仕切っていたが、河本とはしっくりいっていなかったという。ただ、高橋は敗戦後の河本の残留につきあっているから、深刻な対立があったとまでは思えない。そして、河本の軍との強力なコネは、占領地における企業経営には最大の強みだった。河本は月に一度は北京に出張して、方面軍司令部や北支那開発、華北交通などと折衝を持ち、全ての問題は河本の一言で解決したという。

社長業とともに山西における河本のもう一つの顔が謀略家としての顔だ。それは戦時中には閻錫山工作であり、終戦後は日本人残留の首謀者の一人として名指しされる。

閻錫山工作について言えば、第一軍が進めていた対伯工作がこの年5月の安平会談で破談に終わっており、北支那方面軍からうち切り命令が出された状況下では第一軍として表だって活動はできなかった。民間レベルでの”自発的活動”として、会社資金を工作の原資に流用して継続していくことが求められた。河本は社長就任直後より閻の太原事務所を通じて接触を保ち、翌年の1943年(昭和18年)に第一軍の笹井参謀の提議で決まった経済協力では、双方の軍用物資の生産や交換の任にあたる「五人理事会」または「三委員会」と呼ばれる経済委員会の理事長を自ら務めている。また閻の側近である彭士弘、賈英雲の二人を山西産業の社外重役に招いている。彭は終戦後に経理専務重役となって会社の接収処理にあたった人物だ。

戦時中の閻側との接触は、皮肉にも終戦で支配者としての立場が入れ替わった時にその力を発揮することとなった。終戦一週間前には閻側から河本をはじめ澄田軍司令官らに、ソ連の対日参戦と日本のポツダム宣言受諾交渉が伝えられ、終戦を見据えた進駐・接収について実務折衝が開始されたという。そして終戦前から、日本人の残留についての非公式のやりとりが行われたという。山西産業では、河本が接収後の同社最高顧問に就任し、戦前より規模も技術水準も拡充した同社工場の運営に必要な人材のリクルートが終戦直後から行われた。西北実業建設公司と名を変えた山西産業全体では、日本人職員の半数が解雇・帰国となったが、もう半数の職員は終戦前と同じ待遇で留用されることとなったという。その数は職員の家族を含めて1200人という。河本の供述によれば、60人前後の主任技術者を中心に、傘下各工場での操業継続を図ったという。彼らへの勧誘が具体的にどのような経緯で行われたかは不明だが、河本が部下に残留を説得したことは本人も認めている。

総勢5600人という日本人の山西残留。民間人は3000人(うち山西産業だけで四割を占める)を数えたが、この残留事件に河本が具体的にどのように関与したかは明らかではない。獄中での河本の供述でも他の収監者による供述でも、彼が部下を勧誘した以外に残留事件を推進した具体的活動について証言している者はいない。河本が山西残留に賛成していたのは間違いなく、軍は誰それが、じゃあ民間は河本が、という形で首謀者らと謀議を図ったことは考えられる。しかし偽の軍命まで出して武装部隊を残留させた軍関係者に対し、民間人の残留は(多少の圧力はあっても)あくまでも自発的意志の範囲を越えることはなく、中共の主張のように河本を残留の首謀者(責任者)の一人と決めつけることはできない。河本が民間人の山西残留に及ぼした影響力は、日本人居留民会長を務めており、残留民間人の多くが山西産業社員ということからもシンボル的存在として人々に意識されていた程度ではないか。

実際、獄中での彼の言動などをみると、満州時代からの実績を自負する経済人として、山西の地で資源開発を続けたいという思いが強かったようだ。彼は西北実業の最高顧問として終戦後も経営に関与したが、獄中での供述では、次第に中国側(閻側)が日本側からの経理上の意見を尊重しなくなり、さらに国共内戦の戦局悪化で資源開発よりも兵器生産に傾倒していったことを不満として、最高顧問を辞任して帰国することを考えたと述べている。実際には、1949年(昭和24年)1月に澄田軍司令官らが閻錫山の用意した航空機で包囲下の太原を脱出したときに河本はこれを断っている。残留を呼びかけた部下や日本人居留民を裏切って自分だけ帰国することはできないという思いからだが、中共とも資源開発で提携ができるのではないかと期待していたふしがある。今さら河本の心中を推し量る術はないが、そもそも張作霖爆殺で天皇陛下から敵視された河本にとって、日本に居場所があるはずもなかったのではないか。

1949年(昭和24年)4月、中共軍の総攻撃で太原は陥落した。河本と残留日本人にとっては二度目の敗戦だった。戦前は山西産業、戦後は西北実業と呼ばれた工場群は、今回も無傷のまま中共軍に引き渡された。河本は他の日本人残留者と共に太原城内小東門に近い政治犯収容所に収監された。

義弟の平野零児によれば、日本人は約10名ずつに分けられたが、河本を含む数名だけは中国人房に一人ずつ分けて入れられたという。重要犯扱いだったのだろう。そこは八畳ほどの広さに十数人が押し込まれ、身動きもできない狭さで、端に追いやられた河本の居場所は戸板を渡しただけの便壺の上だったという。日本人は天気の良い日に房の外で日光浴をしながら虱取りをするのが日課だったが、元来潔癖だった河本は同室の中国人からうつされるために諦めていたのか、洗濯も日光浴もせず、両足のくつ下からは虱の行列が見えたという。そしてこのような獄中生活の唯一の息抜きが、夕食後のマルクス勉強会だったというから、その辛苦がしのばれる。

河本の自筆供述書とされるもの

河本の自筆供述書とされるもの

収監されて半年後の1950年(昭和25年)1月、河本は”山西A級”と呼ばれた他の残留首謀者たちとともに北京監獄へと送られた。北京行きの前、河本は”話せば分かる”中共の大物と会見して、資源開発に協力できることを期待していたという。しかし、中共との提携などは夢の話で、二年と半年あまりして1952年(昭和27年)秋に戦犯容疑者として太原に戻ってきたときには、「頭髪は真っ白になり、痩せて体がひとまわりも小さくなっていた」(大西健談)という。

その後、戦犯容疑の取調が開始され、朝の洗面と用便以外はいっさい取調室の外に出ることを許されない過酷な尋問が行われた。翌年夏になると河本の衰弱は目に見えてひどくなり、それまで担当していたマッチ箱貼りの労役も外され、日がな一日、外で硬い椅子に座って日光浴をして過ごすようになったという。真っ白な頭髪とのび放題にのびたあごひげが、その精気のなさとともに仙人のような印象を与えたという。この死を目前とした悲惨な姿は、河本供述書を収録した『河本大作与日軍山西「残留」』に掲載されている(わざわざ”巻頭”に掲載する底意地の悪さには気分が悪くなる)。1953年(昭和28年)8月25日、河本大作は太原監獄で息を引き取った。枯木の倒れるような死だったという。

終戦直後に国府も取調をして、戦犯の嫌疑なしとしている点と同じく、中共の河本に対する嫌疑も張作霖暗殺や満州事変での容疑ではなかった。あくまで山西残留の首謀者としての訴追が目的だった。しかし、すでに述べたように、山西残留に関して河本を訴追できるような具体的事実の提示はない。中共が捕らえた日本人のなかでも河本は最大の大物であり、無罪放免することは考えられなかったのだろう。当初から他の日本人とは異なる劣悪な待遇を行っており、取調の名目で故意に死に至らしめたと非難されても仕方あるまい。

最後に余談だが、収監されたときの河本は無一文だった。派手な芸者遊びで散財したとも言えるが、私腹を肥やしたり公金を使って遊ぶことは生涯なかったという。中共の取調でも全くの文無しだったのがなかなか理解されなかったという。遺骨は東郷寺に安置されているが、墓代も親友である出光佐三の世話による。

平野零児『満州の陰謀者-河本大作の運命的な足あと』自由国民社,1959年
中央档案館・中国第二歴史档案館・吉林省社会科学院編『河本大作与日軍山西「残留」』中華書局,1995年
相良俊輔『赤い夕陽の満州野が原に-鬼才河本大作の生涯』光人社,1978年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000135.html

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7 thoughts on “河本大作の山西時代

  1. 矢部不三雄

    15年前、河本将(まさ)女史とお付き合いがありました。
    この記事によって、川島芳子さんが河本家に戦中戦後、寄宿していた経緯が少し分かるような気がします。
    話は変わりますが、昭和18年、会計検査院の河本文一第4部長(後の院長)は河本大作氏と何か関係がありましょうか?
    当時私は河本部長直属の給仕をしておりました。昭和16年
    12月8日以降、第4部長室は金モールを肩から下げた陸海軍の将校が毎日大勢やって来て大騒ぎでした。

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  2. yama

    矢部様
    河本文一氏は明治15年の山口県生まれです。河本大作氏は兵庫県出身で、伝記などにも文一氏との繋がりは記載されていなかったと記憶しています。断言はできませんが、血縁等の関係はないと思います。
    河本文一氏の職歴ですが、枢密院の記録に残っている経歴には、昭和7年に第三部主管、昭和8年に第一部主管、昭和13年に第二部主管、昭和16年10月24日に院長を拝命しています(第四部への就任は記載されていませんでした)。ですから、この記録によれば、12月の日米開戦時は、臨時軍事費の関係で参謀共が河本院長のもとを訪れていたものと思われます。

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  3. 中国山西大同 陈尚士

    河本大作的山西时代
    土八路译自日本网络
    http://shanxi.nekoyamada.com/
    作为满州某重大事件(暗杀张作霖)的主谋者而广为人知的河本大作,在受到行政处分退出预备役之后,他又作为经济人士度过了后半生。他作为关东军的后盾,虽然爬上了满铁理事的高位,接着又担任满洲煤矿的理事长,成为满洲财界的实力人物,但还是被鲇川财阀赶出了满洲。后来,作为东山再起之地,他选择的是山西,担任了一手掌控省内主要产业的“山西产业株式会社”的经理之职,虽说地处深山,但作为政、财两界的老大,他以其牢固的地位,得到了超越军司令官的荣耀。而东山再起之地的山西,对于他来说,同时也成了其绝命之地。
    (河本大作1882年–1953年)
    1940年(昭和15年)秋,被赶出满煤的河本不得不暂时过起了浪人的生活,当时,以担任北支那方面军司令官的其妹夫多田骏为中心,相关人员好像要把河北省的开滦煤矿周旋给河本;据另外一种说法,在有关煤矿经理这件事上,传说有鲇川的唆使,据说被河本拒绝了。不管真假在哪一方面,反正煤矿经理的故事流传着,接下来的故事才是山西产业。
    山西产业株式会社是以军事管理而经营的、下属36个各类工厂的国营公司,阎锡山在战前就设立了西北实业公司,而这些公司的绝大部分被(日军)接收过来了。下属的行业有煤矿、钢铁、电气、机械、化学、纺织、食品等,各行各业多达50种以上,山西产业将这些行业统合营运,成为一个大的垄断的联合企业。比起满铁来,规模是小一些,不过,在可能的限度内,是省内独立运作的,经营范围是广泛的。下属的各个企业从占领太原之后起,就以日系企业为中心,进行了委托经营,不过由于统制经济的进展,统合运营的必要性越来越高,1942年(昭和17年),由于13家委托经营企业和北支那开发株式会社的投资而设立了公司,从4月份起,开始了营业。第一任经理是经营山西的首席财阀—-大仓矿业的太田文雄,不过,仅仅5个月后的同年9月,他就以生病为由辞职了。河本是作为太田经理的后任而去山西赴任的。
    据说尽力帮助河本就任经理的,是担任第一军参谋长的花谷正少将。河本和花谷都是满洲事变时暗中活动的同志,河本与花谷的关系就是魁首与喽罗的关系。河本又有支那通—岩松军司令官的支持,他作为在军队强力统制下的山西经营者和能够推动对阎工作民间的人物,因而选中做了经理。据说(1930年中原大战时)反蒋失败的阎在逃亡大连的时候,河本与阎就相识了。
    在第一军里,河本有助益于“大东亚建设”,他还扩大(山西产业株式会社)的规模,为了把它作为对阎工作的推进剂,策划了对由军队主导的山西财界的统制强化。据说,公司成立之前,他就已经以花谷参谋长的名义,将新公司(山西产业)包括人事在内的一切事务,应该在第一军的指导下,进行经营下去的宗旨作了训示。对一个民间企业来说,虽然是相当粗暴的事情,但这正好显示了山西产业的立场。当然,此前一直以“自由发展”的机会而进行投资的所谓财界,产生了倾扎和冲突。据说,花谷早就对左右亲信毫不顾忌地放言,要“从山西一扫财阀势力”,凭这种传言,就可以理解首任经理太田的辞职,而作为继任经理来到太原的河本,在就任之后就行使了人事权,他压制以大仓为中心的财界出身的干部,而启用从满铁呼唤过来的同伙以及退役军人来巩固上边的领导层。
    虽然我们不清楚河本的经营手段,但山西产业既然是垄断企业,因为只要按照军方的意向,就能优先地操纵由于物资流通而产生的资材分配,所以也说可以这样说,没有必要进行那么用心筹措而去经营的山西产业,是个“老爷官倒买卖”。虽然不清楚是引自何处的资料,在防卫厅的战史丛书里写着,河本“大大地发挥了才能”,“开始运作一年后,就取得了150万元的利益”。可是在大仓的资料里,昭和17年度(1942年)的营业收支,仅实质老底就有613万之多,所以说并不是得意洋洋的张扬之作。据说实际经营的业务,是由大仓出身的技术人员高桥铁造来结账的,而河本本人并不是一清二楚的。只是战败后,高桥陪着河本残留在山西,以至二人产生了严重的对立,这是始料不及的。而河本与军方强有力的结合,在占领地经营企业是其最大的长处。河本就这样每月一次去北京出差,担负着与方面军司令部、北支那开发部以及华北交通的交涉任务,据说一切问题就凭河本的一句话就解决了。
    河本在山西担任经理职务的同时,他还有另一副面孔,那就是作为谋略家的面孔,在战时进行了对阎锡山的工作,战争结束后,又被指定为日本人残留山西的首谋者之一。
    就对阎锡山开展的工作而言,第一军推进的对阎工作,在这一年5月的安平会谈中,以取消前约而告终,在第一军发出停止谈判命令情况下,作为第一军就不能在正面进行活动了。作为民间水平的“自发性活动”,要求将公司的资金用于流通活动的原始资金。河本从就任经理之后起,就通过阎的太原事务所保持着与阎的接触,在第二年的1943年(昭和18年),按照第一军笹井参谋的提议,在经济互助方面,他就亲自担任了相当于双方军用物资的生产以及交换职务的“五人理事会”或“三人委员会”的理事长。另外他还招聘阎的两个亲信彭士弘、贾英云,担任了山西产业的社外要职。战争结束后,彭承担了经营管理常务董事的重任,变成了处理公司接收事宜的人物。
    具有讽刺意味的是,战时就与阎锡山方面的接触,而在战争结束时,作为统治者的地位被取代的时候,再一次发挥了他的力量。据说在战争结束前一周,阎锡山方面就对以河本为首的澄田军司令官那些人,传达了苏联对日作战和日本承诺接受波茨坦公告的消息。就关于看准了的战争结束后(阎军)的进驻,接收事宜,开始了实质性的交涉。据说在战争结束前,就这样开始进行了关于日本人残留问题的非正式讨论。在山西产业,河本要就任接收后的该公司的最高顾问,新班子与战前相比,规模以及技术水平都要进行扩充、该公司工厂运营必需人材的组建,在战后就立即着手进行。据说,在决定在更名为“山西实业建设公司”的整个山西产业,有半数的日本人职员将要被解雇回国,而另一半的职员要以与战前一样的待遇继续留用,其人数包括家属在内,据说有1200人。根据河本的供述,以60名左右的主任技术人员为中心,谋求在属下的各个工厂工作人员继续工作。虽然不明白对这些人的劝说工作是以什么样的具体方式进行的,不过,河本本人也承认自己对部下做了残留的说服工作。
    在山西残留的日本人,据说总数有5600人。民间人士为3000人(这里边仅山西产业就占了4成),在这一残留事件上,还不明了河本是怎样具体参与的。无论是河本在狱中的供述,还是其他收监者的供述,除了他对部下的劝诱以外,关于推进残留事件,都没有人留下具体活动的证言。河本是赞成残留山西的人物,这一点没错,能够考虑为:以民间的河本、军方是谁呢?这样一种形式,跟首谋者们策划了残留阴谋。可是相对于甚至发出假命令,让军队武装残留的军方当事者来说,民间人士的残留(即使多少有些压力),说到底其也不会超越自发性的意志范围,就像中共所主张的那样,不能把河本断定为残留的首谋者(责任者)之一。河本给民间人士残留山西带来的影响力的程度,从他担任日本人侨民会长,很多民间残留人士为山西产业的职员这方面来看,他作为象征性的存在,是不是被人们广范地意识到了呢?
    实际上,从他在狱中的言行来看,好像他自负于源自满洲时代的实绩,作为这样一个经济人,他想在山西这块地方继续开发资源的心愿是强烈的。他作为西北实业的最高顾问,虽然在战争结束后还参与了经营,但在其狱中的供述里,是这样描述的:中国方面(阎方),对于来自日本方面的经营管理上的意见,逐渐变得尊重起来了,由于国共内战的战局进一步恶化,比起开发资源来,阎锡山变得热衷于生产武器了,作为对这样决策的不满,他辞掉了最高顾问之职,考虑要回国。事实上,1949年(昭和24年)1月,当澄田司令官等人乘坐阎锡山准备的飞机,逃出处于被包围之下的太原时,河本断然谢绝了逃走的选择。虽然他是出于这样的想法:即不能背叛自己号召残留下来的部下和日本侨民,而仅仅自己回国,但也有期待着能不能与中共合作,共同开发资源的想法。如今我们无法推测河本的内心,不过,对于炸死张作霖,被天皇陛下敌视的河本来说,在日本怎么会有他的位置的呢!
    1949年(昭和24年)4月,由于中共军的总攻击太原陷落了,对于河本和残留的日本人来说,这是第二次战败。战前叫山西产业、战后叫西北实业的工厂群,这一次也是完好无损地交给了中共军。河本和其他日本人残留者被监禁于太原城内小东门附近的政治犯收容所里。
    据其内弟平野零儿讲,大约每10名日本人被分成一组,可是,只是(后来)包括河本在内的数人,被分别关入了单人的中国人房间,他们被当作重要犯人而加以对待了吧!那里的房间大约能铺8张日本蓆,十几个人被塞进去,狭小得连翻身都感到困难,据说被挤到边缘的河本的休息居所,仅仅就是在架起门板的上边,放有夜壶的地方。在天气晴朗的日子,日本人一边在户外晒太阳,一边捉虱子成了每天应做的事情,而原来就有洁癖的河本,是不是因为被同室的中国人习染,既不洗涮也不晒太阳,据说能从两脚的袜子看到虱子的队列。而这样狱中生活的唯一通气孔,据说就是晚饭后的马克思学习会,所以得忍受辛苦。
    (作为河本亲笔自供书的原件)
    被监禁半年以后的1950年(昭和25年)1月,河本与被称作“山西A级”的其他残留首谋者们一起,被送往了北京监狱。成行之前,河本与“一说就明白”的中共大人物会了面,据说他期待在资源开发上能够合作。但是,与中共的合作等只能是梦话,过了两年半多一点的1952年(昭和27年)秋天,他作为战犯嫌疑者返回到太原的时候,据说“头发变得雪白,身体瘦小了一圈”(大西健之语)。
    后来,开始了对战犯嫌疑者的调查,除了早晨的洗脸和大小便外,完全不容许离开调查室,对他进行了严酷的审问。到了第二年的夏天,据说河本衰弱的体质看上去已经严重起来了,此前承担的糊火柴盒劳役也被解除了,过起了从早到晚一整天坐在外边的硬椅子上晒太阳度日子的生活。雪白的头发和随便生长的胡须伴随着没有生气的他,给人以仙人般的印象。这种死亡就在眼前的悲惨景象,登载于收录了河本供述书的《河本大作与日军在山西的残留》一书里(对于特意登载在“卷首”的恶作剧,心情会变坏的)。1953年(昭和28年) 8月25日,河本大作在太原的监狱咽了气,据说就像枯木倒下去似地死去了。
    战争结束后,国民政府也进行了调查,在作为没有战犯嫌疑这一点上,与中共的调查是相同的,中共对于河本的嫌疑也并不是暗杀张作霖以及在满洲事变的嫌疑。说到底将其作为残留山西的首谋者而提起公诉就是目的。然而就像我陈述的那样,关于山西残留,并没有能够起诉河本的具体事实。即使在中共逮捕的日本人里边,河本也是最大的一个人物,他并没有被考虑无罪赦免吧,从一开始就给与了跟其他日本人不同的恶劣待遇,即使被责难为以调查的名目,故意促使其死亡,大概也是没有办法的事情吧。
    最后说句闲话,被监禁时的河本一文不名,可以说,他是个很有气派的游玩家而散尽了钱财,但他一生中没有中饱私囊或使用公款游玩。即使在中共的调查里,他也一贫如洗,这是怎么也不可理解的。他的遗骨被安置在东乡寺,墓地的费用也是依靠亲友出光佐三捐助理料的。

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  4. 匿名 明光寺  三女

    戦後生まれた私には戦争になった日本人の思惑が気持ち悪くなるほど、日本人のえげつない人を人とも思わないおろかな日本人の中国の土地がほしいのっとりたくて戦争になったと理解します。
    「赤い夕日のますが原に桜咲かそと一人旅」河本大作の妹お次さんが私の生まれた明光寺に来られて句碑に書かれて銅版の大作さんの横顔を銅板で右には大きな石に「河本大作の碑」十河信二書くと書いた句碑が建てられた記憶では昭和33年ごろに私は中学生のころ河本の親戚が大勢よられて句碑の竣工というか幕引きが行われたのを目の前に見てきました。
    日本が軍国主義で狂っていたせいか戦争犯罪者も句碑が立つほど英雄になるのかと、おかしいですね今から考えたら。
    皇室のひろさまなど平和な今の時代からは考えられない犠牲者におきの毒な犠牲者追悼いたします。
    河本開さんの弟河本大作明治16年生まれ私の祖父明治17年1月生まれ、一緒に墨絵を書いた足跡が有り、修復するまで本道の裏の壁に人の大きさの字で河本大作と白壁に落書きをしたのが」思い出しました。財産わけで隣の林も明光寺に太陽をもらえるようになり、この地で育った明治生まれの君が時代に飲み込まれて、大原収容所での様子をちらりと読めば、過酷な時代に生まれ生まれる時期が今の時代なら捕虜などにならずに幸せに一生を生きられたのにと巻き込まれたご先祖を哀れに思います。お世話になった皆様ありがとうございます。 

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  5. YH

    私の祖父は河本文一の甥にあたります。つい先日、その人の名を「わが一族の出世頭」として、おば達から聞きました。そして検索してみたところ、こちらのサイトにヒット。河本大作氏や政治家の河本敏夫氏などは「こうもと」と読みますが(いずれも兵庫県出身)、こちらは「かわもと」です。長府毛利家の家臣の家系かと思います。

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  6. MMY

    “City of Life and Death”という中国映画を最近見ました。中国題名は「南京!南京!」となっていました。十年ほど前にベストセラーになったIris Changの”Rape of Nanking” を髣髴とさせる映画でした。
    解説書に書かれていたMessageは、「日本人は普通の人々だが、戦争が人間をanimalsに変えてしまう」というものでした。
    しかし、私はそれは少し違うと思う。というのは、映画にも本にも描かれていた、南京で「安全地帯」を造って、何百か何千という女性・子供と負傷した兵士たちを救おうとしたのは、ナチスの南京代表だったからです。彼は人道的な立場から、中国人の女性・子供と負傷兵を救おうとし、それがHitlerから召還される理由になったと映画では説明されていました。
    川島芳子の話や、河本大作と出光佐三が親友であった、鮎川財閥、大倉財閥ということばが興味を引きます。出光は私の母校(神戸大学)の、大倉財閥は私の就職先(大成建設)と深いつながりがありました。

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  7. yama

    MMYさま
    「戦争が人を変える」というのは、よくある言説で、確かに一面その通りですが、その一方で、戦争という環境に自己の決断、行動の責任を押しつけるという側面もあるように思います。
    南京事件については、捕虜の処刑も正規の命令による作戦行動として行われたはずで、非武装の市民への暴力とは明確に区別されなければなりません。そもそも死者数(埋葬遺体数)を虐殺の数とすることはナンセンスどころか、戦死者(国府軍人)への冒涜ではないでしょうか?
    そして日本軍による市民への暴力は、小規模で散発的な非行・非違行為としてはありましたが数は多くありませんでした。この点は、中国軍が漢口・南京・通州で(作戦行動として)行った非武装邦人への暴力と大きく異なります。
    なお、日中戦争における捕虜の取り扱いについては不明な点が多く、「一般ニハ帰郷セシメ安居楽業ニ就カシメタル方針」だったとされますが、南京攻略時のように、不当な処刑も少なからずあったと思われます。

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