“大黄河治水”三門峡ダムの戦前・戦後


“暴れ龍”とも呼ばれる黄河の氾濫を治水で防ぎ、利水によって華北を豊穣の地とする”大黄河治水”計画。およそ”中原を制する”為政者ならば必ず直面するこの問題に、戦前は国民政府と日本、戦後は中国共産党政府が共通して解決の要としてきたプロジェクトがある。山西省と河南省との省境にある三門峡におけるダム建設だ。

三門峡は、山西省平陸県から下流約25キロの黄河主流中流域に位置する渓谷だ。黄土高原を激流となって流れてきた黄河は、河幅を増して流れが緩やかになる下流域の手前でこの三門峡に流れ込む。黄河下流域の水の90%がこの三門峡を通るため、この場所に堰堤を築いて巨大な貯水池を造り、黄河の流量調整をすることで、数年に一度、夏季の氾濫期に下流域で大きな被害をもたらす洪水を防止することが可能となる。同時に水力発電所の建設によって、大きな発電量が得られることも期待された。

三門峡におけるダム建設は、すでに日華事変前にも、国民政府が外国人技師に依頼して1936年(昭和11年)に「山西水利建設計画草案」を作成させた際にも取り上げられている。その後、日本軍が華北一帯を占領すると、蒋介石の暴挙によって黄河が決壊し数百万人が被災する大被害を蒙った反省もあり、黄河の治水、その要となる三門峡ダムの建設が検討されることとなった。

ただ、三門峡ダムの建設については、国府の計画だけでなく、日本国内でも黄河治水の根本的解決に不可避であることは共通した認識となっていたようだが、現実には決潰口の封鎖と新黄河の合流という、より緊急かつ大きな課題があったため、その動きはあまり早くはなかった。国策調査機関の東亜研究所が三門峡ダムの青写真を含む「黄河水力發電計劃報告書」を作成したのが1941年(昭和16年)5月、北支那方面軍が実際に現地調査を行ったのが同年6月だった。

北支那方面軍の現地調査によれば三門峡の河床には閃緑岩が横断しており、下流は砂岩または礫岩で高さ100メートル程度の大規模堰堤の建設が可能な土地だった。ここに高さ70メートル、最上部の幅500メートルの堰堤を築き、満水位標高350メートル、面積2200平方キロ、総貯水量400億立方メートルの貯水池、それに112万キロワットの発電能力を誇る水力発電所を造ろうというのが計画の骨子だった。ダムの規模は、完成すれば米国アリゾナ州のフーバーダム(1935年)に次ぐ世界第二位の大きさで、総工費は4億4200万円、現在の貨幣価値に換算するとおよそ1兆円という壮大なプロジェクトだった。

三門峡ダムの設計図(東亜研究所,1941年)

三門峡ダムの設計図(東亜研究所,1941年)

三門峡ダムの設計図(東亜研究所,1941年)

三門峡ダムの設計図(東亜研究所,1941年)

総工費には、直接の工事費用のほかに、建設資材運搬用の鉄道建設、最大32万人に上る水没地域の住民補償費も含まれる。東亜研究所の試算によれば、これら費用をすべて水力発電で補った場合でも、発電コストは1キロワットアワー8.2銭と低廉で、物資動員計画によるインフレを考慮してもペイできるほど単位出力あたりの建設費が低いことが魅力だった。これに奥地における電気化学工業の発展や灌漑整備による耕作地の増大、舟艇水運の拡大などを考慮すると、計り知れない経済効果の波及が期待された。

以上のような青写真が出そろった翌年の1942年(昭和17年)9月、政府は興亜院会議で「黄河処理対策」を決定、そこには三門峡ダム建設が将来の諒解事項として明文化され、制式に国家プロジェクトとしての俎上に上がることとなった。東亜研究所の計画では、建設工事を二期に分けた場合、1945年(昭和20年)~1950年(昭和25年)で第一期竣工、1957年(昭和32年)~1960年(昭和35年)に第二期竣工というスケジュールだったが、実際には時局の悪化により、建設予定地付近の治安確保も必要資材・予算の確保もされぬまま終戦を迎えて、日本の手による三門峡ダム建設はデスクプランのまま立ち消えとなった。

三門峡ダムの建設プロジェクトが息を吹き返したのは、内戦も終わり、中共による治世が始まった1950年代のことだ。新中国のみならず、世界でも稀に見る巨大プロジェクトは、ソ連の技術協力の下に戦前の日本の計画よりもさらにスケールアップして実行に移された。1957年に着工、二年後の1959年には高さ116メートル、長さ1100メートルの堰堤が完成した。

三門峡ダム

三門峡ダム

ところが、中国史上初めて黄河がせき止められた記念すべき瞬間は、同時に悲惨な結末への序曲のはじまりだった。それは黄河の水に含まれる土砂が年間5億~6億トンという規模でダムに堆積し始めたからだった。

戦前の調査では年平均で2~3%、戦後の中国水利部の発表では3.7%という大量の土を含む黄河の水をせき止めれば、土砂が堆積して早晩ダムが埋没することは自明の理で、戦前の日本の計画でも憂慮されたことだった。日本の計画では、年間輸砂量の半分が夏季、しかも30~40%が一度の洪水に集中していることから、ダムの上部を可動堰として、洪水時には堰を全開にして濁流を下流域に流す運用を行うことでダムの寿命を延ばすことができると考えていた。中国の当初計画でも可動堰を設け、下部には土砂排出口を備えていたが(*下部の土砂排出口については治水の権威である谷口博士が効果に疑問を呈している)、その後の運用が決定的に間違っていた。年間5億~6億トンという土砂堆積の規模は、何ら排砂対策を行っていなかったことを示す。一説によれば、可動堰、土砂排出口両方とも封鎖し、ただ堆砂に任せていただけだという。常識では考えられないが、この時期中国では反右派闘争と「大躍進」で専門家が追放されて、農民出身の無学の者が責任者をつとめるなど混乱の極みだった。三門峡ダムの失敗について中国政府は今でもソ連に責任を転嫁しているが、見苦しいとしか言いようがない。

中国政府がのちに発表したところによれば、上流域での土砂堆積で100キロ上流の渭水河の河口がふさがれ、さらに上流の古都西安をも水没させる危険が生じたため、三門峡ダムは堰堤完成からわずか二年後に工事が一時中断されることになったという。その後、1970年代まで排砂対策を含めた改築が繰り返し行われたが、発電能力は当初計画の五分の一のわずか25万キロワットに落ち込み、土砂は貯水容量の半分近く(44%)まで堆積してしまっている。2003年には上流の陝西省で、三門峡ダムが原因の”小さな洪水”によって23億元という大きな被害も生じた。治水を目的としたダム建設が失敗し、洪水を引き起こすとは皮肉だが、今ではダムの取り壊しすら全国政協の議題に取り上げられるようになっている。

東亜研究所「黄河水力發電計劃報告書」1941年
陸軍省軍務課「黄河処理対策ニ関スル件」1942年
石村太助訳「黄河三門峡ダムの設計概要」(土木学会誌42巻8号所収)1957年
「三門峡大堤存廃之辨」(『生活周刊』共青団上海市委,2004年)

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000134.html

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One thought on ““大黄河治水”三門峡ダムの戦前・戦後

  1. 中国山西大同 陈尚士

    黄河的治理—-三门峡水坝的战前与战后
    土八路译自日本网络
    http://shanxi.nekoyamada.com/
    通过治理黄河,来防止被称为暴虐之龙的河水泛滥,通过规划“黄河大治理”的水利工程,来达到华北土壤的肥沃。一般说来,这是“入主中原”的执政者必须面对的问题。战前的国民政府和日本,战后的中国共产党政府,共同把这一问题作为主要的解决项目提了出来,这就是位于山西省和河南省省界之处的三门峡大坝的建设。
    三门峡是位于黄河主流流域的、离山西省平陆县约25公里处的一道峡谷。流经黄土高原的黄河激流,在河面增宽、水流变缓的下游这一带,汇入了三门峡。因为黄河下游的90%的水量要流经三门峡,在这里修筑堤坝,建造巨大的水库,通过调整黄河水的流量,就能够防止数年一度的洪水在夏季泛滥期给下游带来的巨大危害。同时,通过建设水力发电站,还能期待得到大量的电能。
    三门峡水坝的建设,早在日华事变之前的1936年(昭和11年),国民政府就委托外国人技师,让他们在设计“山西省水利规划草案”的时候,就提了出来。之后日军占领了华北一带,日军反省了由于蒋介石的暴行而导致的黄河决堤,致使数百万人蒙受的巨大灾难,探讨了黄河治理的要害之处,即三门峡水坝的建设问题。
    只是关于三门峡水坝的建设,不仅仅是国民政府的计划,从根本上治理黄河,即使在日本国内,也已经成为不可避免的议题,这似乎已经达成了的共识,可现实存在的更加紧迫而且重大的课题是,封锁溃决口和汇流成新黄河,因此建设三峡大坝的运作不太迅速。1941年(昭和16年),日本国策调查机关的东亚研究所制作了包括三峡大坝的蓝图在内的“黄河水力发电计划报告书”,同年6月,北支那方面军进行了实地考察。
    根据北支那方面军的实地调查,三门峡的河床横卧着闪绿岩,下游是砂岩或砾岩,是能够建设高达100米左右的大规模堰堤的场所。这一计划的要点是,在这里修筑高70米、最上部宽500米的堰堤、满水位标高350米、面积2200平方公里、总储水量400亿立方米的水库。另外要建造引以自豪的、112万瓦发电能力的水力发电所。水坝如果建成,其规模的大小仅次于美国的亚利桑那州的胡琶(1935年)水坝,位居世界第二,总工费为4亿4200万日元,若换算成现在的货币价值,就是大约1亿兆日元这么一个宏大的计划。
    三门峡水坝设计图(1941年)
    在总工费里,除直接工程费用以外,还包括用于建设材料搬用的铁道建设费用、水淹地带的最多达32万人的居民补偿费。据东亚研究所的测算,这些费用,在即使全部以水力发电填来填补的情况下,每度电的发电成本之低廉仅为8.2日分(1日元=100分),即使考虑由于动员物资而导致的通货膨胀,建设费用也仅为建造船坞单位所支付的费用,具有魅力的还是造价之低。如果再考虑到内地的电气工业、化学工业的发展、以及由于灌溉齐备而导致的耕地面积之增大、还有舟艇水运的扩展,那么期待的经济效果之影响是不可估量的。
    第二年的9月,(1942年,昭和17年),类似上面那样的蓝图就齐备了,政府在兴亚院的会议上决定了“治理黄河的对策”,在那里边,明文规定三门峡水坝的建设作为未来的谅解事项,作为国家的规划被正式提上议事日程。在东亚研究所的计划里,工程建设分为两期,是这样安排的:1945年—1950年(昭和20年—25年),第一期竣工,1957年—1960年(昭和32年—35年)第二期竣工。实际上由于时局的恶化,既没有确保建设预定地周边的治安,有没有确保必要的资财以及预算,就那么迎来了战争的结束,这样由日本人之手进行的三门峡水坝的建设,就那么成了一纸空文,不了了之。
    三门峡水坝的建设规划的复苏,是始于在内战结束、中共开始治世的1950年,这个规划不光在中国,即使在世界上也是罕见而巨大的。这个规划在苏联技术的帮助下,比起战前日本的规划来,规模更加扩大,等级随之升格,并付诸了实施。1957年开工,两年后的1959年就建成了高116米、长1100米的堰堤。
    三门峡水坝
    但是,就在应该纪念中国历史上首次拦住黄河的瞬间,同时也是走向悲哀结局之序曲的开始。那就是因为包含在黄河水里的泥沙,以每年5亿—6亿吨的规模,开始淤积在水库。
    据战前调查,黄河水的含沙量年平均为2—3%、战后中国水利部的公布是3.7%,如果拦截含有大量泥沙的黄河,泥沙就会淤积,水坝早晚会被泥沙淹没,这是不言自明的道理,这也是战前日本规划时所担忧的问题。在日本的规划里,考虑到年度输沙量的一半在夏季,而且其中的30—40%又集中在一次性的洪水里,因此,在水坝的上部,制成可动堰,在洪水季节将可动堰全部打开,让浊流流向下游,通过进行这样的运作,能够延长水坝的寿命。在中国当初的规划里,也设计了可动堰,在下部配置了泥沙排出口(关于下部泥沙排出口,治水权威谷口博士提出了质疑),可后来的运作发生了决定性的错误。有一种说法是,将可动堰和泥沙排出口全都关闭了,任凭泥沙的淤积。作为常识,这是不可想象的,不过,这一时期,中国进行反右派斗争和“大跃进”,混乱至极,专家遭到流放,农民出身的不学无术者担任了领导。关于三门峡水坝的失败,中国政府至今还把责任转嫁于苏联,除了丢面子,再就没法说了。
    据中国政府后来发表的文献来看,由于上游流域泥沙的淤积,上游100公里的渭水河的河口被淤塞了,进而产生了让上游的古都西安也遭水淹的危险,为此,三门峡水坝从建成堰堤起,仅仅两年后,曾一度要中断工事。之后,直到1970年为止,虽然反复进行了含有排沙对策的改建,可是发电能力陷入了困境,仅仅为当初设计能力的五分之一,为25万瓦。泥沙淤积到接近储水容量的一半(44%)。2003年,在上游的陕西省,由于三门峡水坝的“小洪水”原因,造成了23亿元的重大灾害。以治水为目的的水坝建设失败了,具有讽刺意味的是,还要引发洪水。可是在今天就连拆毁水坝,也的把议题提交给全国政协。

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