孫東元さんの人物像―安藤彦太郎『虹の墓標』批判


かつて文革を評価した親中派の論客として著名な早稲田大学名誉教授の安藤彦太郎。安藤が1995年に勁草書房から出版した『虹の墓標―私の日中関係史』は、安藤の記憶に残る20人の中国人との交遊の思い出が書きつづられている。郭沫若、周恩来、廖承志などそうそうたる人物とともに、戦争体験談で紹介している孫東元さんも登場している。表紙をめくると、当時孫さんと一緒に撮影したとする写真が載っているが、そこに写っている顔は確かに若かりし頃の孫さんといって良い顔だ。しかし、一章(60~67頁)をさいて安藤が紹介している孫さんとの思い出話は、このホームページで紹介している事実と大きく異なっている。

安藤は孫さんを、1937年(昭和12年)の廬溝橋事件を機に帰国していった愛国学生の一人として描いている。安藤は「孫君はひたすら事変の不拡大をねがい、医学を身につけるまでは、と頑張っていた。だが、ついに七月末に孫君も引き揚げることになった」(64頁)とし、留学生活を三週間で切り上げ、博多から船に乗って天津経由で帰国したという。しかし孫さんは官費支給がうち切られた後も日本に残り、1940年(昭和15年)まで九州医専で私費の留学生活を続けている。廬溝橋事件の時に帰国した事実はない。

安藤にとって孫さんは愛すべき祖国のために生きようとする立派な愛国学生として記憶されており、その思いは次のようなエピソードに込められている。

孫君は熱烈な愛国者で、こう言った。「僕は日本に来て良い日本人をたくさん識った。君はその一人で、僕の心の友と言っていい。でも君は、日本の兵士として召集されて中国に来るかもしれない。僕は帰国して抗戦に参加する。そして戦場で君に逢ったら断固として君を刺し殺す」。そのとき、マルクス・ボーイであった私は「いや、そういう考えかたは小児病的ではないかな」と、利いたふうな答えをした。するとかれは眉を揚げて、「でも僕は君を刺し殺す以外にないのだ」と言い切った。(64-65頁)

そして7月30日頃に東京駅で安藤は孫さんを見送り、乗船の直前によこした手紙を最後に消息が絶えたとする。安藤は「気性は激しいが快活で、ときおり皮肉な笑いを浮かべるおもしろい青年だったが、抗戦のなかで死んだにちがいない」(67頁)とし、あくまでも抗日に命をささげた愛国学生と記憶しているようだ。しかし孫さんは抗日どころか、一時帰郷中は傀儡政権が設立した医学専門学校で教壇に立っていた。たとえ”心の友”であっても、日本人=敵である以上”刺し殺す”と涙を浮かべて主張するほどの愛国心に固まった青年像。安藤が著書で描くその姿と、傀儡政権に職を得た事実から受ける印象には大きな隔たりがある。

安藤は著書の中で、当時の日本では反中・嫌中の嵐が吹き荒れ、孫さんをはじめ中国人が肩身の狭い思いや身の危険を感じていたという印象を与える書き方をしている。しかし、違和感がある。孫さんは、保証人を引き受けた布施先生をはじめ学友たちも皆が戦争前と全く変わらず接してくれたとし、むしろ戦火の広がる祖国を心配してくれた彼らへの感謝を今でも忘れないと語っている。安藤の日本人と中国人との関係についての見方は、もうひとつのエピソードでも違和感を与える。安藤は孫さんが”帰国”したあとに父親の達生さんから手紙が届いたとしてその内容を紹介しているが、それは父が日本留学時の自分の経験からして「日本人は中国人を軽蔑し、戦時はとくにひどいと思われるから、途中できるだけ日本人を装って帰るように」と指示したとする(67頁)。もちろん、彼はその手紙を自分が受け取って孫さんには渡していないと書いているから、たとえ孫さんが父親からそのような指示を受けた記憶がないと言っても不自然ではない。しかし孫さんは反対に戦火が迫りつつある太原に居る家族に対して当時なんら心配はしなかったという。日本の大学を卒業した知日家の父なら、日本軍が来ても全く心配ないと思っていたからだ。日本人を警戒して息子を帰国させようとする父親が、日本軍が攻めてくる太原に家族と一緒にそのまま居続けるだろうか。

安藤の書く孫さんとの思い出は、孫さんが自ら筆者に話してくれたものと比較して事実関係で大きな開きがあり、性格描写は正しい印象を与えるものの、人物像という点では正反対に近い。安藤が話を脚色しているのか、”愛国者”の振りをして孫さんが彼を騙したのか。すでに70年も前の話で、しかも当事者の一方である孫さんが既に他界している今、それを第三者が判断することは難しい。しかし少なくとも安藤が古き良き思い出として書いたこのエッセイは、次の事実によって痛烈な歴史の皮肉として彼自身に跳ね返ってくる。

安藤が評したように”気性は激しい”孫さんは、中共治下の集団狂気にも怯むことなく自己主張を続け、反動のレッテルを貼られて三角帽をかぶらされることとなった。安藤が中国共産党の治世と文化大革命を賞賛していたとき、孫さんは1950年代の反右派闘争から1970年代の文革終結までの20年もの間、政治的迫害を受けていた。現地の人は皆一様に、孫さんは「投獄されていた」という。判決を受け、罪人として獄につながれた。良く言われる労働矯正よりも深刻だったのだ。安藤はエッセイの中で「太原には一九六四年、北京シンポジウムの旅行で一晩立ち寄ったとき以外、行っていないが、いちど達生医院のことを訊ねたいと思う」(67頁)と呑気に書いているが、1964年に彼が太原を訪れたとき、父親の達生さんは毛沢東の失政で中国全土を空前の飢餓が襲っていた二年前に他界しており、孫さん自身は長治市の郊外に設けられた強制収容所にいたようだ。

戦後に孫さんが受けた迫害については詳しく聞き取りをしていない。精神的に限界までいったトラウマに触れることを恐れたからだ。孫さんの自宅には、部屋中に周恩来の写真(毛沢東ではない)が貼られ、一種異様な雰囲気を醸し出していたのを憶えている。足腰が弱くなり、移動には車椅子を使っていたが、迫害を生き抜いた老人は、同行していた省政府の歴史研究員を前にして「閻錫山の治世は素晴らしかった」「中共はスローガンばかりだった」と大きな声で堂々と話した。これぐらいの内容でも彼らのような戦前世代が口にするには相当の覚悟が今でもいるのだ。布施先生のご子息をはじめ、数年前に連絡がとれるようになった日本の同窓生からは学術誌が定期的に届いていたが、80歳を過ぎたその時も医学論文に目を通すことを楽しみにしていた。私が取材した数ヶ月後に他界した。現地の人たちは皆一様に彼の気質を「すごい」と評する。何度も復活を遂げた鄧小平になぞらえて「不倒爺」とも呼ばれた。親日と反骨に生きた83年の人生だった。

孫東元さん。亡くなる数ヶ月前に孫さんの自宅で撮影。写真を撮ろうとするとちょっと待てと制止された。老眼鏡を外し、姿勢を正して、目を大きく見開いてカメラに向かった。「目が小さいのが嫌いで、写真に撮られるときはいつも目を大きくするんだ」。茶目っ気たっぷりに流暢な日本語で語った。(太原,2001年)

孫東元さん。亡くなる数ヶ月前に孫さんの自宅で撮影。写真を撮ろうとするとちょっと待てと制止された。老眼鏡を外し、姿勢を正して、目を大きく見開いてカメラに向かった。「目が小さいのが嫌いで、写真に撮られるときはいつも目を大きくするんだ」。茶目っ気たっぷりに流暢な日本語で語った。(太原,2001年)

追記:安藤彦太郎氏からの手紙
安藤氏に手紙で事実関係を質問したところ、著書での記述はフィクションではないとの返事を頂きました。安藤氏は孫さんの談話内容との乖離について、「対日協力者の複雑な心境ではないか」と評しています。そもそも”対日協力者”であるのは私からの手紙で初めて知ったはずで、しかもその談話の内容は、(中共治下では)自らに不利な内容で、かつ嘘をつく必要のないものです。

安藤氏からの手紙を読んで、孫さんが雑談のなかで話していたことを思い出しました。「ある日本の古い友人が、戦前の私のことを本に書いているが、事実が違っているので訂正を求める手紙を出した」というものです。その本が安藤氏の著作がどうかは、孫さんが亡くなった今では確認できません。

安藤彦太郎『虹の墓標―私の日中関係史』勁草書房,1995年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000121.html

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2 thoughts on “孫東元さんの人物像―安藤彦太郎『虹の墓標』批判

  1. 膨湖浪人

    1970年頃、私は早大で安藤彦太郎教授の「中国経済論」という講義を「聴講」したことがある。当時、文革は収束しつつあったが、高名なる安藤教授は、学生にも人気があった。実際の授業は「経済論」などではなく、日中関係史のような内容だった。意外だったのは、自慢話が多かったことで、安藤氏の学生時代は「財政学」だけが「良」(他はすべて「優」)だったので、幸いにも「満鉄」に就職しないで済んだそうだ。「満鉄」に行っていたら、「文革」期に中国に招聘されることもなく、「中国通信」も書けなかったよ、と自慢したのだ。
    私が通っていた大学では「中国共産党史」という科目があり、きちんとした授業が行われていたが、それと比較すると、安藤氏の授業は何とも貧弱な内容だった。
    いま考えると、安藤氏は早大の学内政治の果てに教授になった人で、中国専門家というよりは「日中友好運動家」と言うべき人だ。その証拠に、安藤氏に育てられた中国学者は皆無に等しく、後継者も他大学から採用された。
    こういう体験から、孫氏と安藤氏のどちらが正しいのかは、明らかだと思う。「日中友好運動家」の安藤氏としては、日本を批判し、中国に気に入られることが、そのすべてであるのだから、孫氏のエピソードについても、自身に都合よく書き換えたのだと推量する。

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  2. maroon_lance

    こんにちは。
    白崎秀雄『日本畸人伝』の安藤孝行の章の中に安藤彦太郎という名前が出てきたので検索したところ、こちらのページが引っかかりました。ただそれだけなのですが、安藤孝行は城野宏と同窓だったそうです。管理人さんも含めてなんとなく繋がったようで、不思議な感じがしますね。

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