祖父の想い出


むかし同居していた母方の今は亡き祖父から戦前の話を聞いた。戦後起こした土建屋も酒で潰した(本当は金融引き締めが原因)、と家族に言われる酒好きで、その時も晩酌のビールを飲んで良い気分になっていたのだろう、虚実織り交ぜておもしろく語ってくれたのを憶えている。

明治末年に北海道で生まれた祖父は早稲田大学を卒業したが、テレビに写る総理大臣を見るたびに「あいつはオレの後輩だ」と言う一方で、あのときの早稲田は誰でも入れたんだと言って笑うおもしろい男だった。

祖母との出会いもおかしい。祖母は大楠公の遺児にまつわる家系で、「お爺ちゃんは平民だけど、お婆ちゃんは士族だったんだから」と言えるような家に育った。しかも師範学校の教諭をしていたから、とても祖父のような男と一緒になれるはずがない。見合いの席で酒飲みだけはイヤですと言う祖母に、祖父は「私は生まれつきの下戸で、梅酒の臭いを嗅いだだけで顔が赤くなります」とうそぶいた。嘘はすぐばれた。こともあろうに披露宴の席で酔って暴れたという。

満鉄に就職したが、幼い私には当時エリートしか入れなかった満鉄「調査部」に勤務していたと言っていた。のちに老衰で往生したあと、部屋を掃除して出てきた復員証明書を見て「工務局」勤務だったことがわかった。だから戦後帰国してすぐに土建屋を始めたのだと皆で笑った。

満鉄勤務では、蘇満国境近くの牡丹江に赴任したが、終戦三カ月前の5月に奉天に転勤、難を逃れた。祖父は命拾いしたなあとケロっと言うが、祖母はボロ切れをまとった避難民の巨大な流れが陸続と向かってくる光景が今でも忘れられないと、東京駅を模した瀋陽駅(旧奉天駅)前で語った。祖父の死後に行った満州旅行のときの話だ。

終戦前の根こそぎ動員で同僚が次々と招集されていったが、そのとき祖父は総務課で、招集の連絡や給与計算などを行った。招集を受けた同僚たちの書類を処理していくうちに、心の整理がついたという。成人した時はちょうど軍縮時代、第一乙種で兵役に付いたことがなかった祖父は、終戦直前に星一つの補充兵として奉天の教育隊に入営した。ビンタこそなかったものの、三八小銃を肩に担いで、水が顎に付くほどの深さでも河の中への行進を止めさせなかった若い下士官のことを、喜寿を迎えた老人になっても恨みに思っていた。教育隊は、祖父を含めて皆が現地召集を受けた中年男性で、軍隊経験のない者ばかり。四十歳前後の老兵じゃ弾薬運びですら役にも立たないとは本人たちが一番思っていたことで、皆が教練を”軍隊ごっこ”とバカにしていたという。

祖父は満州で一旗揚げたかったのだろう。終戦後の現地除隊後もすぐには帰国せず、とりあえずの生活費を稼ぐために雀荘屋をやっていた。帰国を待つ邦人が無聊を慰めるため来店し、店は繁盛していたようだ。天下国家を論じるのが好きな祖父は、すぐに客と意気投合して飲みに出て行ってしまい、店番をさせられていた祖母は、「オレは馬賊になる」と息巻いて酒に酔った祖父を深夜の夜道に迎えに行く毎日だったという。長男を身ごもっていた祖母がこのお腹の子はどうなるのかと泣いてすがり、帰国することになったという。

帰国して土建屋を起こし、銀座の一等地に社屋を構えるまでにはなったものの、彼らしい生き方なのだろう、どんぶり勘定と酒で会社は倒産。サラリーマンをしながら黙々と経営の勉強を続けたが、齢八十過ぎてボケもはじまり、数年後にぽっくり逝った。「死んだら満州に骨を撒いて欲しい」という祖父の遺言に従って瀋陽を訪れた祖母は、宿泊していた旧大和ホテルの前に建つ毛沢東像の脇のさえない植木に骨をまいた。随分安直だし、何も毛沢東の足下でなくても、という私に、祖母はさっぱりした顔で「これがお爺ちゃんらしいのよ」と笑った。その祖母も数年後に他界している。

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000047.html

Related Posts

One thought on “祖父の想い出

  1. 山西大同陈尚士

    缅怀祖父
    土八路译自日本网络http://shanxi.nekoyam ada.com/
    以前我与住在一起的母亲,从死去的祖父那里听到了战前的故事。祖父战后兴办的土建铺子,也因喝酒而破产了(真是的原因是金融紧缩),家里人说他嗜酒,那时候晚间喝点啤酒,心情会变得好点吧,我记得母亲讲给我听的虚实交织的故事。
    祖父明治末年出生于北海道,尽管早稻田大学毕业,但每当看到出现在电视里的总理大臣,就一边一个劲地嚷嚷“那家伙是我的晚辈!”一边又自嘲地说,那个时侯的早稻田大学,无论是谁都能够进入的。他是一个很有意思的汉子。
    他与祖母的结合也很滑稽。祖母的血统与大楠公的弃儿有牵连,“你爷爷是平民,可你姥姥是士族”, 可以说她就是在这样的家庭长大的。而且,因为她做过示范学校的教师,按理说怎么也不会跟祖父那样的汉子生活到一块儿。据说在相亲的宴席上,祖母说她只是讨厌饮酒,祖父对祖母若无其事地说“我是个天生就不喝酒的人,只要闻一闻梅酒的味道,脸就红了起来”。谎话很快就败露了,偏偏在披露的宴席上喝了个酩酊大醉。
    祖父虽然就职于满鉄(中国东北) 却对幼小的我说,他在当时除了精英是进不去的满鉄“调查部”工作。后来因衰老而去世,在清扫房间时,我看见了扫出来的复原证明书,才知道原来他是在“工务局”工作。所以,祖父在战后回国之后,很快就创办了土建铺子,大家都哑然失笑。
    祖父服务于满鉄的时候,虽然到距苏满国境很近的牡丹江赴任了,可在在战争结束的前三个月,即5月调到了奉天,进入了逃难的行列。尽管祖父漫不经心地说,捡了一条命啊!可祖母却在仿照东京站而建设的沈阳站(旧奉天站)前说,她至今也不能忘记穿着破烂不堪衣服的难民,形成的巨大洪流,陆续奔逃过来的情景。这是祖父去世后,祖母去满洲旅行时说的话。
    由于战争结束前的彻地的动员,祖父的同事依次被征召当兵去了,可那个时候祖父在总务科进行征召的联系和供给的计算。在处理应招同事们文件的过程中,据说据说他的心情也得到了整理。在他长大成人的时候,恰好赶上了裁军时代,祖父因身体是“第一乙种”而没有服过兵役,就在战争眼看就要结束的时候,他作为补充兵的一颗星星,入伍于奉天的教育队。他虽然没有挨过耳光,但即使在迎来77岁寿诞的时候,还怨恨地忆起当年在河水中行进的情景,肩上扛着三八步枪,水的深度已经淹没了下巴,可年轻的下士官还是不下达停止前进的命令。 包括祖父在内,教育队都是在当地应招的中年男性,都是些没有军队经验的人。所谓40岁左右的老兵,就连运送弹药都不中用,那是老兵们本人首先考虑的事情,据说大家把教练藐视为“模仿着军队的样子游戏” 。
    祖父是想在满洲振作起来大干一场的吧。他在战争结束后也没有立即回国,为了打闹应急的生活费用,他开了麻将馆,等待回国的日本人为了打发无聊的日子而来到馆里,麻将馆似乎挺兴旺的。祖父喜谈天下大事,好论国家兴衰,很快就和客人情投意合,自然会出去饮酒。成天让祖母看守麻将馆,据说醉酒后的祖父愤慨地嚷嚷:“老子要当土匪!”祖母常常在夜深的道路上去迎接祖父。据说身怀长子的祖母哭泣着求援,腹中的这个孩子会怎样呢?她决定了要回国。
    祖父回国之后,创办了土建铺子,虽然甚至到了要在银座的一等地段修筑公司的地步,那很像他的生活态度吧,但公司因钱袋的算计和饮酒而破了产。祖父虽然一边靠工薪生活,一边默默地继续学习经营,可年过80岁后开始昏聩发呆,数年后突然去世。 “如果我死了,希望把骨灰撒到满洲” 按照祖父的遗言,祖母访问了沈阳,在她所住宿的旧大和旅馆前面、建起了毛泽东塑像,她将骨灰撒在了塑像旁边并不显眼的栽植的树木上。我说,相当便宜,再说即使不是在毛泽东的足下也算可以了,祖母露出了爽朗的笑脸:“毛泽东就挺像你爷爷的啊!”数年后这个祖母也去世了。

    Reply

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

post date*