“兵隊太郎”曹石堂さん


曹石堂さんにお会いしたのは、私が最後に山西省を訪れた2001年夏のことだから、もう五年も前になる。山西大学で日本語教師を定年退職された曹さんは、大学内にある官舎で、再婚された日本人の熊林さんと共に静かな日々を送られていた。

曹石堂さん(右)とご夫人の熊林さん(左)

曹石堂さん(右)とご夫人の熊林さん(左)

ちょうどご子息が立教大学に留学中で、二人だけの生活を送るなか、歳も近い私の訪問は、少しは慰めになったかもしれない。突然の訪問にもかかわらず暖かく迎えてくれた。夕食をご馳走になりながら、動乱の中国史の狭間で翻弄された自身の人生について語ってくれた。

曹さんは、戦前世代の日本人にとって”兵隊太郎”として記憶されている、ちょっとした有名人だ。戦時中に孤児同然だった曹さんは、ひょんなことから山西省に駐留していた日本軍の鉄道部隊に拾われた。軍人の養子扱いで北京の国民学校に学び、その後、日本に留学した。当時、新聞でも美談として報じられており、曹さんの名前は知らなくとも、”兵隊太郎”という呼び名を憶えている人は多い。

留学中に終戦を迎え、新中国が成立すると、曹さんは海外華僑への帰還呼びかけに応えて、共産党治下の中国大陸に渡った。しかし、間もなく曹さんは、当時多くの帰国華僑を襲った政嵐に巻き込まれる。スパイのえん罪をかけられ、長年にわたって迫害を受けることとなった。投獄、労改、前科者として農場や炭坑での肉体労働。いわれなき迫害は二十年もの長きに及んだ。

曹さんの波乱に満ちた半生については、太原でご自宅を訪問した際にご本人から断片的にお聞きしたが、詳しく知ったのは、野島進氏が書かれた小説『白き太陽の輝ける時』を読んでからだ。初対面で曹さんに感じたのが、小市民的な人柄の性格と、その柔和な笑顔でオブラートに包まれた意志の強さだったが、それは同書でもしっかりと表現されている。作者が言うように、小説という形をとってはいても本質的にはノンフィクション作品である同書には、幼少の頃より不幸に見舞われながらも、耐えて強く生きていく曹さんの姿が生き生きと描かれている。

野島進『白き太陽の輝ける時』原書房,1993年

野島進『白き太陽の輝ける時』原書房,1993年

『白き太陽の輝ける時』は、性格描写など、実際にお会いした私も読んでいて引き込まれる良書だと感じるが、やはり小説ゆえ、当人にとっては自分の筆による自伝を出版したいという思いが強いようだ。夫人の熊林さんの助けも借り、日本語で20万字以上に及ぶ回顧録を書き上げた。私がお会いした時には、すでに脱稿されていたが、江沢民政権による反日運動の盛り上がりや、日本の厳しい出版事情などで、出版化の話は流動的とのことだった。今もまだ本が出た話は聞いていない。

最後に、お会いしたときに出た話で印象に残っているのが、戦後の台湾訪問時に閻錫山と会ったときの話だ。当時、ウェストポイントに留学して、世話になった養父と同じ軍人の道を歩みたいという曹さんに、閻錫山は「私は長いこと軍人をやってきたが、軍人になぞなるものではない」「先進技術を身につけて、新中国の復興に尽力せよ」と諭したという。閻錫山の人となりが分かるエピソードだが、曹さん本人にとっては、自分の人生の舵を負の方向へと大きく切ることとなった出会いだった。晩年、閻錫山は、清廉質素な生活を送りながら、反共著述に専念している。

補記1:
曹さんが執筆された回顧録は、今年11月に『祖国よ、わたしを疑うな―政治犯から大学教授になった「兵隊太郎」の物語』と題して日本経済評論社より出版されることになりました。ご報告申し上げます。(2006.10.27)

補記2:
曹石堂氏は2011年末にご逝去されました。ご冥福をお祈りするとともに、ご遺族の皆さまに謹んでお悔やみ申し上げます。

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000190.html

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3 thoughts on ““兵隊太郎”曹石堂さん

  1. 晋ノ国

    「祖国よわたしを疑うな」を読んで

    望年会、皆が帰った後、幹事と会場に忘れ物があるか、とチェックをした。ある紙袋の中、数冊の本があった。その本の名は「祖国よわたしを疑うな」であった。店に捨てだれて…

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  2. 山西大同陈尚士

    “军队的长子” 曹石堂先生
    土八路译自日本网络http://shanxi.nekoyam ada.com/
    拜会曹石堂先生事件,是我在最后访问了山西省的2001年的夏天,因而那已经是5年前之久的事情了。在山西大学担任日语教师,已经退了休的曹先生,在大学里的机关宿舍,与再婚的日本人熊林女士过着恬静日子。
    曹石堂先生(右)和其夫人熊林女士
    恰好他的孩子正在立教大学留学,在只有两个人的生活中,我的年龄也与其子相仿,我的访问,也许给他们带来了少许的安慰。尽管是突如其来的造访,但他们还是热情地接待了我。他一边招呼我吃着丰盛的晚餐,一边对我讲述了他自己被动乱的中国历史狭缝所愚弄的人生。
    对于战前那个时代的日本人来说,曹先生是个作为“军队的长子”而被记忆着的小有名气的人物。在战争中如同孤儿的曹先生,没有想到竟被驻留在山西省的日军铁道部队收养了。他以军人养子的待遇在北京的国民学校学习,之后留学于日本。在当时的报纸上也作为美谈而被加以报道,曹先生的名字即使不为人所知,而记住了“军队的长子”这一称呼的人却很多。
    他在留学期间迎来了战争的结束,新中国一成立,曹先生就响应对海外华侨发出的回归呼吁,度过了大海回到了共产党统治下的中国大陆。可是没过多久,曹先生就被卷入了当时袭击众多的华侨的政治风暴中。他被戴上了间谍的冤枉罪名,受到了长期的迫害。投入监狱、劳动改造、作为前科者在农场以及煤矿进行体力劳动。那是不能够用语言表达的、长达20余年的迫害。
    关于曹先生充满波澜起伏的半生,我在太原访问他家的时候,从他本人那里听到了片言只语,而详细的了解,则是在读了野鸟进氏写的小说《白太阳能放光辉之时》之后。初次见面,我对于曹先生的感觉是,小市民的品质性格及其柔和的笑脸,是包藏在糯米纸里的坚强意志。即使在该书里,这些也都得到了很好的再现。就像作者所说的那样,采取小说这种形式,在本质上是纪实作品的该书里,尽管他从幼小的时候起就遭受了不幸,但硬是挺着坚强地生活下来,曹先生的英姿,被描写的活灵活现,栩栩如生。
    野鸟进《白太阳能放光辉之时》原书房,1993年
    实际上,拜会了他之后,我也读了《白太阳能放光辉之时》,关于其性格描写等,我虽然也感到是本引人入胜的好书,但因为毕竟是小说,所以对于当事人来说,他想出版自己笔下写出的自传,这种愿望似乎是很强烈的。曹石堂先生也借助了夫人熊林的一臂之力,已经用日语写成了长达20万字以上的回忆录。在我拜会他的时候,已经脱稿了,可由于江泽民政权导致的反日运动的高涨,以及日本出版界情况的严峻等,据说付诸出版的事情没有定下来,现在我也没有听到出书的消息。
    在我最后拜会他是时候,他说出来的话,留在我印象里的是,他战后访问台湾时与阎锡山会面的情况。当时,曹先生想跟曾在西点军校留过学、关照过自己的他养父那样,步入军人之路,阎锡山对他训谕:“我虽然很长时间一直在做着军人,但是并不想当军人,你要掌握先进的技术,为新中国的复兴尽力吧!”这虽然是了解阎锡山为人的一个小小插曲,可对于曹先生本人来说,这是一次将自己人生的航舵朝着不利的方向进行了大幅度的转切的会面。晚年,阎锡山一边过着清廉俭朴的生活,一边埋头于反共著述的写作。
    补记:
    由曹先生执笔的回忆录,《祖国啊!不要怀疑我!—–由政治犯成为大学教授的“军队的长子”的故事》,于今年11月决定由日本经济评论社出版。特此告知(2006、10、27)

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  3. 山西大同陈尚士

    倒数第二段翻译的有错误,改正为:
    在我最后拜会他是时候,他说出来的话,留在我印象里的是,他战后访问台湾时与阎锡山会面的情况。当时,曹先生想跟曾在西点军校留过学、关照过自己的他养父那样,步入军人之路,阎锡山对他训谕:“我虽然很长时间一直在做着军人,但是并不想当军人,你要掌握先进的技术,为新中国的复兴尽力吧!”这虽然是了解阎锡山为人的一个小小插曲,可对于曹先生本人来说,这是一次将自己人生的航舵朝着不利的方向进行了大幅度的转切的会面。晚年,阎锡山一边过着清廉俭朴的生活,一边埋头于反共著述的写作。

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