「山西軍参加者の行動の概況について」


厚生省引揚援護局未帰還調査部 1956年(昭和31年)12月3日調製

一、終戦から中国山西軍の山西省進出までの状況
終戦に伴い、山西省に駐屯していた第一軍(司令官澄田睞四郎中将、兵力約五万九千)は、昭和二十年九月九日の南京に於ける停戦協定に基き、山西軍(第二戦区司令長官閻錫山が指揮していた中国軍隊をいう。以下同じ。)に対し降伏の手続をとるよう支那派遣軍の命令を受けたが、山西軍主力(終戦当時陜西省に位置していた。)の移動は、中共軍の妨害を受け、第一軍の集結地たる山西省中心部に進出し得たのは、昭和二十年十月末であった。
当時、山西軍は、素質、装備共に劣弱であって、日本軍の援助がなければ中共軍に敗られ、山西省が急速に中共軍の支配するところとなる恐れがあつたので、種々の名目により、第一軍の武装解除及び警備交代を実施せず、かつ、第一軍の通信連絡について極端なる制限を加えた。

二、山西軍の日本軍将兵に対する参加勧誘の開始とその影響
山西軍側は、前述の状況から第一軍の援助を得るため、先ず、軍の高級者に対し、残留して山西軍の指導に当るよう勧誘すると共に、残留邦人をもつて鉄路護路隊を編成して、これを山西軍に編入するため、募集活動を始めた。ついで、十一月下旬以降においては、直接日本軍将兵に対し山西軍参加を勧誘するに至つた。
当時、第一軍は、前述の通信連絡の制限により、山西省外における日本軍の帰還の状況、中国国民政府が閻錫山に対して下達した日本人の山西軍編入禁止の命令等の重要事項を、全く知ることができないため、内地帰還について見透しを立てて適切な軍内の指導を行うことが困難であつたばかりでなく、降伏者としての行動に制限を加えられていたため、山西軍側の勧誘活動を完全に拒止することができなかつた。しかしながら、軍司令官以下軍の首脳部は、終始第一軍全将兵の完全な内地帰還の方針をもつて指導していた。
これらの状況の下に、塁兵団長元泉少将及び第一軍参謀岩田少佐が山西残留を決意し爾後閻錫山の庇護の下にその残留工作を支持するに至つたことは、山西残留があたかも軍の内意であるかの如き誤解を与え、第一軍が残留希望者に対して行つた説得等に非常な影響を及ぼしている。
在留邦人(家庭が現地にある等の事情で終戦直後現地除隊した現地応召の元軍人を含む。)側では、相当数の者が応募して山西側の鉄路護路隊に入隊した。
昭和二十年十二月末、中国国民政府は、日本人「技術者」を徴用して中国の復興に協力させるため、その取扱を定めた『日籍人員暫行徴用通則』を公布施行した。この通則施行の機会に、閻錫山は、これを援用して第一軍将兵を「技術者」として徴用し、これらの者をもつて「特務団」を編成する方針を決定し、特務団に応募する日本軍人等の待遇等を規定した『第二戦区特務団官兵待遇弁法』を公布した。ついで、昭和二十一年一月下旬、山西軍側は、全部隊の将兵の代表者を太原に集合させ、閻錫山自らもこれに出席し、右待遇弁法の趣旨を説明し、これを各部隊に普及するよう要求した。これと同時に、山西側は、第一軍の将兵のうち一万人を山西に残留させなければ、山西にある日本軍民の内地帰還は実現しないと宣伝することにつとめた。
このため、第一軍の将兵の中に動揺を生じ、昭和二十一年一月下旬以降残留希望者が続出し、その数は約一万に達したといわれる。
(注、その後において後述する第一軍側の指導により残留希望者数は減少し昭和二十一年三月十日調査の記録によれば、山西軍参加を希望する軍人は五九一六名、在留邦人は四六八名となつている。)

三、第一軍司令官以下の指導
第一軍司令官は、昭和二十年十一月以来戦犯として軟禁の状態におかれていたが、将兵の動揺を憂慮し、閻錫山の特別の認可を受けて十二月末から一月末にわたる約一ケ月間各兵団を巡視し、その機会に、第一軍の内地帰還の方針を説明してこれを将兵に徹底することに勉めた。一部の部隊においては、上官とその部下との間に、又は、戦友相互の間に、残留についての勧誘がしきりに行われ、情宜上自己の真意を曲げて残留を決意するものがあり、あるいは、残留希望者とその他の者との間に不和、摩擦を生ずる等の弊害が認められたので、昭和二十一年二月四日軍は残留希望者とその他の者との起居を区分するよう指令した。
右の指令に基づき、至誠、造、至隆の各兵団は、それぞれその兵団の残留希望者全部を一地に集結起居させることとしたが、その他の兵団は、収容宿舎等の関係から、大部分の残留希望者を一地に集結させ、残余の残留希望者を、その所属大中隊毎に、一般の者とは宿舎を別にして起居させるよう処置した。(注、この二月四日第一軍の指令には、「特務団留用受諾者」の名称が用いられ、この指令による集結を、特務団への転属と誤解した者もあるが、この指令は単なる起居の区分に関する指令に過ぎない。もともと、日本軍人が外国軍隊の要員としてこれに転属されるようなことは、制度上、あり得ない。)
第一軍は、上述のように、その全員帰還の方針と閻錫山の要求との間にはさまれて苦境に立つたが、全員帰還の方針は依然としてこれを堅持した。ただ、前述のように中国側が、技術者徴用についてこれを正式に認め、関係規則をも公布しているため、正当の手続によつて残留せんとする熱烈なる残留希望者に対し、残留を禁止することができない状態となつたので、隷下兵団に対し、徴用は飽くまで本人の意志に基いて決定さらるべきものであること、徴用希望者は除隊(召集解除)した後において応募すべきものであること、及び、所属部隊は本人の決意を充分に確かめたうえ処理すべきことを重ねて示達した。

四、支那派遣軍総司令官、中国国民政府陸軍総司令官及び駐支米軍司令官の第一軍帰還の指導並びにその内地帰還
前述のとおり、中国国民政府は、昭和二十年十月末閻錫山が邦人を募集して省防軍に採用する計画に禁止を命じながら、昭和二十年末には、「日籍人員暫行徴用通則」を公布して技術者の徴用を認めたが、その後方針を変更し、昭和二十一年一月二十日命令(誠字第二一九号)を以て、日本軍人及び残留を希望しない技術者の徴用は、これを認めないことを布告した。
しかしながら、閻錫山はこれを第一軍に秘匿し、依然として残留工作を強化続行した。国民政府は、更に四月八日、命令(誠字第三〇七号)をもつて、台湾における二万八千名(家族共)以外の者の徴用は、本人が残留を志願すると否とを問わず一切これを認めないことに修正した。
昭和二十一年一月七日、駐支米軍司令部の斡旋によつて国共協定が成立した結果、第一軍の武装解除は昭和二十一年一月末に完了することができた。米軍将校は、二月以後山西の奥地にも進出し、現地の異状を調査し、中共軍の包囲下にある無武装の日本軍を鉄道沿線に誘導し、あるいは、第一軍の帰還のための輸送等についてその促進を計る等現地において活動した。
他面、支那派遣軍(総司令官岡村寧次大将)は、かねて山西における第一軍の真相が不明であることを憂慮していたが、支那派遣軍参謀宮崎中佐を太原に派遣して状況を調査し、総司令官の全員帰還の方針を、第一軍に伝達させることとなつた。
宮崎参謀は、三月九日、飛行機により太原に到着し、先づ第一軍首脳部及び在留邦人有力者と会談し、従前の山西からの諸情報が閻錫山側によつてわい曲されていたことを確認した後、直接閻錫山と会見し、中国政府が下達した誠字第二一九号等前記諸命令の原本をその目前に呈示し、かつ、帰還のため五月末までに第一軍を平津地区に進出せしむべしという中国陸軍総司令官何応欽の命令等を第一軍に対し秘匿している事実を認めさせた。
第一軍司令部は、これらの状況を知り、直ちに、山西側に対し徴用者の徴用解除を交渉するとともに、特務団留用受諾者に対し原隊に復帰して部隊とともに内地に帰還すべきことを命じた。元泉少将及び岩田参謀は支那派遣軍の命令によつてその職を免ぜられた。
各兵団においては、留用受諾者に対し、それぞれの隊長が、命令して、留用受諾者の集成部隊を解散させ、なおその命令に従わないで帰隊しない者に対しては、その本属部隊の幹部が、部隊が現地を出発するまで帰還について説得を続けた。
このため、決心を変更して帰隊するものが続出し、各兵団の残留希望者の五〇%以上は帰隊し、中には、部隊が天津に到着した後、漸くこれに追及して収容された者もある。しかしながら、二五六三名の将兵は、強硬に残留を主張してついに、帰国しなかつた。(注、これらの者のうち約一六〇〇名が、昭和二十二年及び昭和二十三年に帰国している。)
留用受諾者の集成部隊を解散せしめた際に、陽泉の山西軍から、同地の至隆兵団に対し、解散を不当とする抗議があつたが、交渉の結果、円満に解決した。その他の地区においては、山西軍側は、留用受諾者の原隊復帰を妨害する行動をしていない。
第一軍は、その帰還に当り、戦争犯罪容疑者として拘留中の軍民十五名に対する差入、弁護、釈放後の収容等のため、中国戦区日本官兵善後連絡部太原連絡班(班長第一軍参謀長山岡道武少将)を太原に残置し、主力は、五月末、全部の復員を完結した。

五、山西に残留した将兵に対する第一軍の措置と残留者の状況
第一軍は、その山西出発後において、なお山西に残留した約二千六百名の将兵に対し、陸軍部隊の復員に関する規定に従い、現地除隊(召集解除、解雇)の処置をとつた。
これらの残留者は、当初山西軍の特務団に編入せられたが、特務団は二十一年の九月頃第十総隊に改編せられ、さきに編成せられていた鉄路護路隊もこれに吸収せられた。
山西軍に参加した者には、第一軍に所属していた将兵のほかに、次に掲げるものがあるが、これらの者の大部は、当初鉄路護路隊に入隊したものである。
(一) もと山西省に居住していた一般邦人(注、これらの者は、主として華北交通会社、山西産業公司等に所属していた。)
(二) 昭和二十年八月及び九月に、家族が現地にある等の事情で第一軍から現地除隊した現地応召者
(三) 山西省以外の北支各地在住の一般邦人で終戦後山西省に入つたもの
(四) 昭和二十年八、九月頃山西省以外の北支各地において、第一軍以外の部隊から現地除隊したもと軍員
山西軍に参加した残留者の約七割は、前述のように昭和二十三年までに帰国したが、その他の者は、なお山西省に留まり、昭和二十一年七月から九月に至る大同攻防戦、昭和二十三年六月から八月に至る晋中作戦(麦の収穫援護のため太原の南方太谷附近に進出した山西軍と中共軍との戦闘)及び昭和二十三年十月から昭和二十四年四月に至る太原攻防戦に参加し、約四百名(邦人を含む。)の戦死者を出し、七百名以上が中共軍に捕虜となり、抑留せられた。これら抑留された者は、昭和二十八年から昭和三十一年九月までの十五回の帰還により、六九二名が帰国したが、これらの者のうちには、国共戦闘又は抑留間に受傷、り病した相当数の傷病者もある。又、現在、中国には、五十名以上の者が残つていると認められる。

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000193.html

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One thought on “「山西軍参加者の行動の概況について」

  1. 山西大同陈尚士

    关于日本人参加阎锡山军的行动概况
    (厚生省撤离援护局未归还调查部1956年12月3日制作)
    土八路译自日本网络
    http://shanxi.nekoyamada.com/
    一、从战争结束到阎锡山军进入山西的状况
    随着战争的结束,驻屯于山西省的日军第一军(司令官为澄田睐四郎中将,兵力约5万9千人),基于1945年(昭和20年)9月9日在南京的停战协定,接到了支那派遣军的命令,希望他们向第二战区司令长官阎锡山指挥的中国军队(阎军)办理投降的手续。可是,战争结束时,阎军主力处于陕西省,其移动受到中共军的阻挠,阎军得以进入第一军集结地山西省中部的时侯,已经是1945年(昭和20年)10月底的事情了。
    当时,阎军的素质和装备都很低劣,要是没有日军的援助,就会被中共军打败,山西省很有可能会急速地成为中共军统治的地区,因此,阎军以各种名目,没有实施对第一军的武装解除以及警备的交接,而且,就第一军的通讯联络加以了极端的限制。
    二、阎军对日军官兵的留用劝诱之开始及其影响
    由于前述的情况,阎军为了得到第一军的援助,首先对军队的高级军官进行了劝诱,希望他们留下来担任阎军的指导官,同时,以残留的日本人编成铁路护路队,为了将这支护路的队伍编入阎军,开始了招募活动。接着在11月下旬以后,到了直接对日军官兵劝诱让其加入阎军的状态。
    当时,由于前述的通讯联络的限制,第一军完全不知道山西省以外的日军回归的状况,完全不知中国国民政府对阎锡山下达了禁止将日本人编入阎军的命令等重要事项,所以,就回归日本内地,看透形势进行恰当的军内指导是困难的,不仅如此,再加上作为投降者,其行动被加以限制,所以没有能够完全拒绝阎军方面的劝诱活动。但是,军司令官以下的军部首脑,始终以第一军全体官兵完全回归日本内地的方针进行了指导。
    在这样的状态下,垒兵团的兵团长元泉少将以及第一军参谋岩田少佐,决定残留山西,之后,在阎锡山的庇护下,以致于达到了支持他们做残留山西工作的地步,这件事给予的误导是,残留山西好像是军内密旨似的,这件事给第一军对于希望残留者所进行的说服等,带来了非常大的影响。
    在山西的日本侨民方面,包括因家庭在当地等情况,战争结束后在当地退伍的原军人在内,有相当多的人应招加入了山西方面的铁路护路队。
    1945年(昭和20年)12月的月底,中国国民政府征用日本“技术人员”,要使他们在中国的复兴上协作,为此,公布实施了决定其处置的《日籍人员暂行征用通则》。以这个通则的执行为契机,阎锡山引用这个文件,把第一军的官兵作为“技术人员”来征用,决定了以这些人员编成“特务团” 的方针,公布了《第二战区特务团官兵待遇办法》,那里边规定了应聘特务团的日本军人的待遇等。接着于1946年(昭和21年)1月下旬,阎军方面将各个部队的官兵代表召集在太原,阎锡山也亲自参加了会议,对上述的待遇办法的主旨进行了说明,要求将这个会义的精神普及到各部队。于此同时,阎军致力于这样的宣传:在第一军官兵里边,如果不把一万人留在山西,那么,处在山西的日本军民,回归日本内地的事务就不能实现。
    因此,在第一军的官兵里,产生了动摇,1946年(昭和21年)1月下旬以后,希望残留的人员不断地出现,据说,其数目大约达到了一万。(注:此后,由于后述的第一军方面的指导,希望残留的人数减少了,据1946年(昭和21年)年3月10日的调查记录,希望参加阎军的军人为5916名,在留的日本侨民为468名)。
    三、第一军司令官以下官员的指导
    第一军司令官在1945年(昭和20年)11月以后,就被作为战犯置于软禁的状态,但是他担忧官兵的动摇,得到了阎锡山的特别许可,在12月末到1月末的大约一个月的时间,巡视了各个兵团,他利用这个机会,讲明第一军回归日本内地的方针,将这一方针努力向官兵做了透彻的说明。由于认识到在一部分部队里,在长官和其部下之间,或者在战友们之间,相互再三进行残留的劝诱,在情谊上,有人委屈了自己的本意决定了残留;或者,在希望残留者与其他人员之间,产生的不和、摩擦等弊端。基于这种情况,第一军于1946年(昭和21年)2月4日发出了指令,希望将愿意残留者和其他人员的起居区分开来。
    基于上述的指令,至诚兵团、造兵团、至隆兵团分别决定让各自兵团的希望残留者全部集结在一个地方起居,可是其他兵团由于收容宿舍的关系等,进行了这样处置,即将大部分的希望残留者集结在一个地方,将剩下的那一部分希望残留者,在其所属的各个大队、中队,与一般的人员分开宿舍起居。(注:在这个2月4日第一军的指令里,使用的是“特务团留用承诺者”的名称。也有的人把由于这个指令而导致的集结误解成向特务团的转属,这个指令不过仅仅是关于区分起居的指令,本来,日本军人作为外国军队的要员,被转属到特务团那样的事情,在制度上是不可能的。
    就像上述的那样,第一军被夹在了这种全员回归的方针和阎锡山的要求残留之间,而处于困苦的(两难)境地,但依然坚持了全员回归的这个方针。只是就像前述的那样,中国方面就技术者的征用,正式认可这种状况,因为它的关系规则也已经公布了,对于想要通过正当的手续来残留的热情高涨的愿意残留者来说,禁止残留的已经变成了不可能的了,所以,(第一军)对于隶下的兵团反复告示了如下三个事项:(残留山西)说到底应该是基于本人的意志而决定的,自愿应征者应该是在退伍(解除军籍)之后应聘的,以及所属部队应该在充分确认本人决心的基础上进行处置。
    四、支那派遣军总司令官、中国国民政府陆军总司令官以及驻支美军司令官的、对于第一军回归的指导及其回归日本内地
    就像前述的那样,中国国民政府虽然于1945年(昭和20年)10月底,对于阎锡山招聘日本人,录用于省防军的计划发布了禁止的命令,但在1945年(昭和20年)的年底,公布了《日籍人员暂行征用通则》,承认了技术人员的征用,不过,其后变更了方针,并以1946年(昭和21年)1月20日的命令(诚字第219号)发出了布告,不准许征用日本军人以及不希望残留的技术人员。
    但是,阎锡山却向第一军隐匿了这个命令,依然继续强化执行了残留工作。国民政府进而于4月8日,以诚字第307号发布了修正的命令,除了在台湾征用的28000名(家属也在一起)日本人以外,不管本人是否愿意残留,一概不再准许残留。
    1946年(昭和21年)1月7日,由于驻华美军司令部的斡旋,国共达成协定的结果是,第一军的武装解除得以于1946年(昭和21年)1月底完成了。美军军官在2月以后还深入到山西的腹地,调查当地的异常情况,将处于中共包围之下的没有武装的日军诱导于铁路沿线,或者,为了第一军回归日本,力图促进与运输等方面的相关事项,而在当地进行了活动。
    另一方面,支那派遣军(总司令官冈村宁次大将),老早就为山西第一军的真相不明而忧心忡忡,决定派遣支那派遣军的参谋宫崎中佐到太原去调查情况,并向第一军传达了总司令官的全员回归方针。
    宫崎参谋3月9日乘飞机到达太原,首先与第一军的首脑们以及留在山西的日本侨民进行了会谈,在确认了以前来自山西的各种情报都被阎锡山歪曲了的事实后,直接会见了阎锡山,并将中国政府下达的诚字第219号等前面记述的命令原本,呈示在阎的面前,而且,还让阎锡山承认了他对第一军隐匿了中国陆军总司令官何应钦的命令等,即为了回归日本,何应钦命令,要第一军在5月底之前,进入平津地区。
    第一军司令部知道这些情况后,立即向阎方交涉,解除征用者的征用,同时,对特务团留用承诺者发出了命令,要他们回归原部队,与部队一起回归日本内地。按照支那派遣军的命令,元泉少将以及岩田参谋被解除了职务。
    在各个兵团,对于留用承诺者,各自的队长发出命令,让留用承诺者集结而成的部队解散,另外,对于不服从这个命令而拒不归队的人员,其所属部队的干部,就回归问题进行了持续的说服工作,直到部队离开了当地。
    基于这种情况,不断地出现了变更了决心而归队的人员,各兵团希望残留者50%以上的人员回归了原部队,在那些人里边,也有的是部队到达天津后,才好不容易追赶上来而被收容的。但是,仍有2563名官兵强硬地主张残留,终于没有回国。(注:这些人里边的约1600人,在1947年(昭和22年)以及1948年(昭和23年)回国了) 。
    在让留用承诺者集结而成的部队解散的时候,对于阳泉的至隆兵团,当地的阎军认为解散是不合道理的,因而发生了抗议,不过,交涉的结果还是得到了圆满的解决。在其他地区,阎军方面没有发生妨碍留用承诺者回归原部队的行动。
    正当回归日本的那个时候,第一军为了对作为战犯的嫌疑人,被拘留的15个军民的提审、辩护、释放后的收容等提供方便,就在太原留置了中国战区日本官兵善后联络部太原联络班(班长是第一军参谋长山冈道武少将),第一军的主力于5月底完成了全部人员的复原。
    五、第一军对于残留在山西官兵的措施以及残留者的状况
    在离开山西后,第一军对于还残留在山西的约2600名官兵,按照陆军部队复原的有关规定,采取了当地退伍的处置(即解除了应征,解雇了军籍)。
    这些残留者最初被编入阎军的特务团,特务团在1946年9月的时候,又被改编成第十总队,早先编成的铁路护路队也被吸收到这支队伍里了。
    在参加了阎军的人员里,除了第一军所属的官兵以外,还有列举了下边的人员,不过,这些人的大部分是当初加入了铁路护路队的人员。
    (一)原来就居住在山西省的一般日本侨民(注:这些人主要所属于华北交通会社,山西产业公司)
    (二)在1945年(昭和20年)8月以及9月,因为家属在当地等情况,他们是从第一军当地退伍后,又在当地的应招者。
    (三)住在山西省以外的华北各地的一般日本侨民,在战争结束后进入了山西省。
    (四)1945年(昭和20年)8、9月的时候,在山西省以外的华北各地,有些人是在第一军以外的部队,办理了当地退伍手续之后的原军人。
    参加了阎军的残留者,大约有七成的人员,就像前述的那样,在1948年之前就回国了,但是,其他的人员还滞留在山西省,参加了如下的作战。从1946年7月到9月的大同攻防战,从1948年(昭和23年)6月到8月的晋中作战(为了保护小麦的收割,深入到太原南方太谷的阎军和中共军的战斗),以及从1948年(昭和23年)10月到1949年(昭和24年)4月的太原攻防战。有约400名(包括侨民)成为战死者,700名以上的人员成为中共军的俘虏,被扣留。这些被扣留的人员,从1953年(昭和28年)到1956年(昭和31年),通过15次回归,有962人回国了,但是在这些人员里边,也有相当多的人在国共内战或扣留期间受伤、生病。另外,一般认为,现在还有50名以上的人员滞留在中国。

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