コラム


[政治]

日華事変において、中共こそが救国を担ったという主張が長年にわたって流布されてきた。しかし、それは嘘である。八年間にわたる「抗日戦争」で日本軍の矢面に立ったのは国府軍で中共ではなかった。そもそも中共指導部に、日本軍に対する抗戦意欲はなかった。中共の至上命題は大陸の覇権を握ることで抗日ではなかったからだ。

1940年(昭和15年)8月、山西省を中心に鉄道や炭坑に対する大規模同時多発テロが発生した。中共が誇る「百団大戦」だ。しかし実態はテロ・ゲリラ戦を超えるものではなかった。そして中共にとっては負け戦で戦略的にも失敗だったが、スタンスとしては日華事変を通して唯一の積極的なものだった。党内におけるパワーバランスが乱れたのだ。

1936年(昭和11年)の中共による山西侵入と全国的な国共合作の機運のなかで、山西省でもいよいよ「容共」への圧力が高まった。犠盟会の設立で妥協した閻錫山は、日華事変で思わぬしっぺ返しをくらう。

同胞たちよ、九・一八以来、我が国は八百余万平方里もの土地を失った。喪失した土地は、あろうことか十七個分の山西もしくは十八個分の山東、安徽なら十九、福建なら二十三、江蘇なら二十七、浙江なら二十八個分の土地である。瀋陽兵工廠 […]

[残留問題]

山西省に残留した元日本軍現役将兵の法的地位をめぐる問題について、平成18年8月16日付で厚生労働省に対し「山西軍参加者についての報告書の内容と国の対応に関する質問」と題した九項目にわたる質問状を送付しました。これに対して […]

山西残留将兵に対する国の見解は自願残留であり、一部の現役将兵は軍命があったから自願ではないという。どちらが真実なのか。結論から言えば、双方ともに都合の良い部分しか言っていないのである。すなわち、真実は両者の言い分の接点にある。

この厚生省の報告書には重要な論点が欠落している。第一に、特務団の編成は、第一軍による正規の作戦命令によっていたこと、第二に、現地除隊の趣旨が将兵に徹底していなかったことである。この二つの論点は、第一軍首脳部という公務員の関与の有無によって、国家責任を問われるべきか否かに直結する。

[戦争]

華北戦線において中国軍捕虜は、臨時の収容所で一定期間、労役に服した後、釈放(帰郷)または職業斡旋を受けた。太原では「工程隊」の名称で捕虜収容所が設置されている。捕虜として送還せず、「安居楽業ニ就カシメタル方針」ゆえである。

昭和14年(1939年)11月、山西省南部の黄河を見渡す風陵渡で、殷殷たる砲声が鳴り響いた。日本軍の潼関砲撃作戦である。この作戦に、日露戦争で活躍した二十八糎榴弾砲が参戦した。二十八榴が戦場で火を吹いたのは、おそらく、ここ風陵渡が最後だ。

重慶を攻略して蒋政権の屈服を目指す四川作戦(五号作戦)。秦嶺と巴山の二重の山脈越えを要する困難極まるこの作戦の主力には、山西省で山岳戦を戦ってきた第一軍が予定されていた。作戦発動を翌年に控えた1942年(昭和17年)夏、第一軍では、山岳部隊の研究と訓練が開始された。

中共が抗日戦争を語るときに必ず挙げるのが平型関における戦いだ。平型関では日中両軍が激戦を繰り広げたが、日本軍と戦ったのは国民政府軍(山西軍)であって、中共が参戦したのは一局面に過ぎない。しかも「抗戦初の勝利」と中共が自画自賛する戦いは、非武装に近い補給部隊を襲撃して物資を奪ったのが実情で、戦局に資するところもなかった。

航空機を利用して兵力を敵地に投入する空中挺進作戦。その構想は第一次大戦で生まれ、戦間期には落下傘降下を含めて各国で研究が行われたが、実際に戦場で試したのは日本軍が初めてだ。昭和12年(1937年)8月に、関東軍が内モンゴルで橋頭堡を設定するために行った、堤支隊による空地一体型の機動作戦がそれである。

1942年(昭和17年)5月25日、山西省東南部の山中で、八路軍参謀長の左権将軍が戦死した。左権は「抗日戦争」において前線で死亡した最高位の中共幹部だ。左権を討ったのは、八路軍の軍衣を身にまとい、敵地深く潜入した日本軍の特殊部隊「益子挺進隊」だった。

正論の記事で話題になった山形のシベリア史料館には、山西省を所管した第一軍の兵器引継書も保存されている。この兵器引継書を見ると、当時の様々な情況、すなわち、質の低下した帝国陸軍の実態や山西残留の片鱗などが如実に顕れている。同時に、内容は史料が本物であることを示唆している。

中共や左翼が主張する「無人区」とは、日本軍が特定地域の住民を迫害・虐殺して”無人化”を図った蛮行とされている。しかし実情は、対敵経済封鎖の一環として行われた移住策で、住民を迫害するために行ったものではない。ただ、追われる住民にとっては悲劇だったと言える。

日華事変で日本軍は化学兵器を使い、守勢で装備不良の中国軍相手に大きな成果をあげた。日本軍はガスの使用を厳格に管理し、最初は催涙性のみどり剤のみを許可し、ついでくしゃみ性のあか剤、一部で糜爛性のきい剤も使用された。そしてあか剤、きい剤の解禁は、いずれも山西省における実験使用が最初だった。山西省は、中国戦線における化学兵器の実験場の役割を果たしたようだ。

戦争を知らない世代は第二次大戦でも大砲を馬が牽いていたと聞いて意外に感じるが、中国戦線では馬だけでなくラクダ(駱駝)も使われていた。

日華事変の勃発で満州から山西に派遣された独立混成第一旅団(酒井旅団)は国軍初の機械化部隊だった。中国戦線に派兵された日本戦車隊は総じて「鉄牛奮戦」と賞賛されている。ところが山西の地では、賞賛どころか現地で悪評が噴出したという。戦車の用兵を誤ったからだ。

1937(昭和12)年の山西戦場における勝敗を決めたのが忻口と娘子関での戦争だ。両地で太原攻略を目指す日本軍とこれを阻もうとする中国軍との間で激戦が繰り広げられた。

日華事変初期の山西作戦は成り行きで決まった作戦だった。関東軍と板垣兵団の独断専行に引きずられたが、武藤ら参謀本部の関東軍シンパも関与していた。

七七事件発生時、私は湖北省政府主席の任にあった。8月、蒋介石は南京で開催した会議において、軍事委員会の下に六つの部署設置を決定した…

戦争体験談で李樹徳さんが参加した黒龍関の戦闘では、日本軍が催涙ガスを使用した。S13吉県作戦に参加した第百八師団では、事前にガス教育が行われていた。

「七亘大捷」は平型関につぐ中共軍の勝利とされる。しかし実情は平型関と同じく、非武装に近い補給部隊への奇襲攻撃で、その戦功もあまり大きなものではない。

[事件]

防衛省の戦史史料には、駐蒙軍が1940年(昭和15年)に計画した人体実験について記された文書が存在する。この文書は、1995年に復刻出版された『極秘 駐蒙軍冬季衛生研究成績』の真贋を傍証するものだ。復刻本には、写真を含め、人体実験の全貌が恐ろしいほど克明に記されている。

陽高事件はチャハル作戦で関東軍が山西省北部で引き起こした虐殺事件だ。しかし事件は訴追されることなく歴史の闇に消えた。東条英機の戦争責任に関連して秦郁彦氏が光をあてたが、事件の詳細は今も不明だ。

占領地の人心掌握と行政指導を任とした宣撫官は、職責と理想のため、日本軍と現地住民との間でしばしば板挟みとなった。彼らは当時のエピソードを回想する回顧録に、日本軍の非違行為について書き残している。

1949年(昭和24年)4月24日、中共軍による太原陥落の日、省政府地下室など市内数カ所で、近代中国で前代未聞の集団自決事件が起きた。閻錫山は”先我而死”を選んだ殉死者を「太原五百完人」として称え、台北に招魂塚を建立し、その霊を慰めた。

日本軍の武漢への侵攻を恐れた中国軍は、1938年(昭和13年)6月、河南省の花園口で黄河を決壊させた。決壊によって流れ出た水は、河南省はおろか遠く安徽省まで冠水させた。蒋介石は自伝で犠牲者がほとんどなかったと弁明するが白々しい。犠牲者は十万人以上出たと考えるのが妥当だろう。

寧武で日本軍が四千人以上に上る住民と避難民を殺害したとされる寧武虐殺。しかしその主張を裏付けるものはない。敗残兵による掠奪や暴行、それに入城後に警備を担当した日本軍による便衣狩りが合わさって話が膨らんだのではないか。

[社会]

日本人の主導によって華北の占領地では都市計画が立案された。内地におけるそれと比較しても遜色のない立派なものであったが、時局から実施できたのは一部にとどまった。山西省でも実現できたのは上水道の建設ぐらいだったが、それでも住民に非常に感謝されている。

中国大陸において、水害と旱害に並んで恐れられてきた災害が蝗害(こうがい)だ。通過した土地の草木を全て喰い尽くしてしまう蝗群の威容は、戦前に大陸に出征した日本人もよく遭遇したようで手記などで紹介されている。

太原陥落後に警備を担当した山岡兵団は、兵要地誌を元原稿にした地誌を出版したほか、現地の博物館を保護し、再開後はパンフレットまで発行している。陸軍の名で博物館のパンフレットを出したのは旧軍史上他に例がないのではないか。

戦前は国府と日本、戦後は中共政府と、為政者は変わっても共通して黄河治水の要とされてきたプロジェクトがある。三門峡におけるダム建設だ。この壮大なプロジェクトは、終戦でデスクプランとして終わった日本の計画を上回る規模で、戦後に中共政府によって実行に移された。ところが堰堤完成後わずか二年で大量の土砂が堆積し、完全な失敗に終わった。

戦時中、乾燥した山西省の各地に水をたたえた水田が誕生した。日本人によって水田の開発と水稲の普及が試みられたのだ。

現在も太原市内で国営の紡績工場として操業している山西針績廠は、戦前に設立された民間の紡績工場が母体となっている。

山西省北部の街・大同にある雲崗石窟は、信仰や宗派を問わず訪れた人すべてを感嘆させる素晴らしい遺跡だ。この雲崗石窟は戦前の日本人と深い馴染みがあった。

太原郊外に誘致された華北窒素は、日窒が技術の粋を集めた巨大プロジェクトだった。完成すれば中国最大の化学プラントになると言われたが、その夢も終戦とともに潰えた。

[人物]

日華事変初期の山西作戦で解せないのは、第五師団を率いた板垣征四郎将軍の意図だ。板垣と閻錫山との付き合いは古いが、山西作戦では敵将同士、矛を交えた。しかし、史実の断片からは、両者が通じていたことがうかがえる。両者の交錯点は”反蒋”である。

“軍師将軍”とも言える立場で、閻錫山の「股肱の臣」として活躍した趙戴文。晩年は中共シンパとなり、閻の信頼を失って、病没するまで軟禁状態に置かれた。

日本軍の生物戦研究のキーパーソンである石井四郎将軍は、七三一部隊を離任した際、短い間だが山西省の第一軍に勤務している。山西での勤務は、彼が陸軍内に組織を立ち上げて以来、生物戦研究から距離を置いた唯一の公職だった。

満州某重大事件(張作霖暗殺)の首謀者として知られる河本大作は後半生を経済人として生きた。満州を追われた彼が再起の地として選んだのが山西だった。山西産業株式会社社長として栄華を得たが、同時に山西は彼が終焉を迎えた地となった。

閻錫山(1883年~1960年)は、日本に留学した知日派で、辛亥革命に呼応して挙兵。その後山西省を拠点に勢力を誇った軍閥の首領だ。モンロー主義で他勢力の侵入を許さずに内治に力を注ぎ、内陸の山西省を優秀省に育てた。

戦争体験談で紹介している李献瑞さんの父である李成林(李樹森)将軍は、愛国者ゆえ、政治の世界では不遇の人生を送った。しかし国府、中共ともにその偉勲を認めている。

閻錫山の忠臣として太原陥落の殿(しんがり)を務めた王靖国は、非転向を貫いて五十九歳で獄死した。

[こぼれ話]

曹石堂さんにお会いしたのは、私が最後に山西省を訪れた2001年夏のことだから、もう五年も前になる。山西大学で日本語教師を定年退職された曹さんは、大学内にある官舎で、再婚された日本人の熊林さんと共に静かな日々を送られていた […]

終戦時、国民党は親日政府の政治家や官僚を中心に”漢奸”への裁判を行い、重罪とされた者は処刑された。ところがそれから四年後、新中国が成立すると、終戦時とは比較にならない遙かに大規模で苛烈、そして長期 […]

文革を評価した親中派の論客・安藤彦太郎は、自著『虹の墓標―私の日中関係史』の中で孫東元さんとの思い出を披露している。しかしその記述は、このホームページで紹介している事実と異なっている。

1941年(昭和16年)に河南省で前線部隊を慰問中に戦死した女性漫才師・花園愛子。漫才師で靖国にまつられたのは愛子だた一人だという。

元宮様の竹田恒徳氏は、若い頃第一軍の作戦参謀として山西省に赴任していた。戦後に中国政府の招待で旅行したおり、彼はお忍びで太原を訪問している。

新しい支配層として日本人がやってきたとき、生きるために、より良い生活を得るために日本語を一生懸命勉強した人たちは、その後の人生を完全に破壊されてしまった。

ホームページを見たというNさんからメールが来たのは9月のことだ。山西省で戦死したという叔父の詳細が知りたいという。Nさんは家系図を整理している際に、N叔父の墓標を写したと思われる写真を見つけ、具体的な戦死場所やその時の様 […]

戦争体験談で紹介している李樹徳さんは、戦前から中共に入党した功績のある者のはずだった。しかし戦後、彼の働きは忘れ去られた。彼の名誉回復がなされたのは1987年だ。