日華事変と山西省


中華民族発祥地のひとつであり、古代から政治・経済の交流拠点として栄えた山西省は、近代史でもおもしろいトピックを与えてくれる。いち早く辛亥革命に立ち上がった山西省は、軍閥閻錫山の勢力下で優秀省に成長する一方、西から中共の脅威にさらされる。これに日本軍の懐柔工作が絡まり、政戦謀略の渦巻きは終戦以降も続いていく。

山西省の紹介
山西省は、中国内陸部に広がる黄土高原に位置する内陸省。北は万里の長城に沿って内蒙古自治区、東は太行山脈をはさんで河北省、西と南は黄河に沿って陜西省、河南省と接している。南北680キロ、東西300キロの縦長の平行四辺形の形をしている。面積は15万6600平方キロ、1993年現在で人口は3012万人。省都は太原市だ。

赤く塗りられた部分が中国山西省(Map by US Central Intelligence Agency.)

赤く塗りられた部分が中国山西省(Map by US Central Intelligence Agency.)山西省北西部の山間部に位置する保徳県の風景(1997年)山西省北西部の山間部に位置する保徳県の風景(1997年)

省内は険しい山岳、起伏に富んだ丘陵地、その間を黄河と支流が縦横に流れており、山と渓谷のいりくんだ複雑な地形となっている。標高は平均して1000~2000メートル。東部に太行山脈が、西部に呂梁山脈が南北に貫き、山間を黄河と海河の両水系から分岐した百以上に及ぶ支流が流れる。
気候は、大陸性気候に属している。省南東部の太行山脈が海風をはばむために華北の他の地域に比べて気温が低く乾燥している。冬寒夏暖、四季の変化が明瞭で、省内の南北で気候の差が大きい。
戦前は閻錫山の「保境安民」の治世によって、優秀省のひとつに数えられたが、現在では、戦後の沿海部を中心とした経済発展に取り残された内陸省のひとつに数えられ、沿海部と比較すると経済水準は高くない。しかし、ここ数年の間にめざましい経済発展を遂げている。特産品には、杏花村の「汾酒」、太原市の「老陳酢」などがある。特に後者の黒酢は、海外在住者が大量に購入していくことでも有名だ。

山西省の歴史
山西省は中華民族発祥地のひとつ。襄汾丁村人遺跡と陽高許家窟で発見された古代人の人骨は、それぞれ旧石器時代中期十万年前までさかのぼる。この時期、すでに汾河両岸と雁北地区では、集落が形成されていたと考えられている。新石器時代には、仰韶文化と龍山文化が栄えた。

王朝の成立について歴史学の観点から賛否両論のある堯、舜、禹の時代には、都はそれぞれ山西省南部に置かれたとされる。堯の平陽は臨汾、舜の蒲坂は永済、禹の安邑は夏県である。

紀元前11世紀から前771年に到る西周時代と、前476年までの春秋時代には、山西省は晋国領土に属し、それが山西省を表す「晋」の由来となった。前221年の始皇帝による秦王朝成立までの戦国時代には、趙、魏、韓の三晋分割が行われ、魏王朝は首都を現在の大同である平城に定めた。

北部の大同に残る北魏時代の仏教遺跡・雲岡石窟の仏像(2000年)

北部の大同に残る北魏時代の仏教遺跡・雲岡石窟の仏像(2000年)

その後、漢代を経て三国時代になると、山西では異民族の匈奴による侵攻が激化する。のちに異民族支配を経て、紀元618年には唐の高祖李淵が太原で挙兵し、長安に唐朝を開いた。唐代では、傑出した詩人王維や中唐の詩人白居易などの人物を輩出している。

唐朝が滅び、907年から960年の五代十国時代、五国のうちの三国、十国のうちの一国が山西に都を定めた。ついで北宋初期に山西は再び興隆し、南宋期も戦乱による被害は少なかった。1271年、元による治世が始まると、大陸支配の要地として蒙古の大軍が駐留し、文化、経済が発展した。

昔日の風景が残る平遙城内(1998年)

昔日の風景が残る平遙城内(1998年)

1368年、明軍が山西を占領して、山西は明朝支配下に入る。明代洪武年間に、太原に山西行中書省が置かれ、このときはじめて山西の名が生まれた。明代に入ると太原では「山西商人」に代表されるように商業が発達し、清の時代を通して以降300年間、山西省太原は中国随一の商都として栄える。

清代を経て民国に入り、辛亥革命でいち早く山西省で挙兵した閻錫山が山西都督に就くと、彼の「保境安民」(山西モンロー主義)政策によって中国有数の発達をみた。日華事変前後から中共の浸透が広がり、閻軍と日本軍が手を結ぶなど、政戦謀略が繰り広げられた。戦後も国共内戦で日本人義勇軍が残留して戦うなど激戦地だった。1949年(昭和24年)に太原が陥落、同年10月に中華人民共和国が成立し、北部の省境を外長城線まで拡大して現在に至っている。

省内に歴史文物は多く、中国三大石窟の雲崗石窟(大同)、中国四大仏教聖地の五台山、近年世界遺産に登録された平遙古城などがある。中国に存在する唐代以前の文物の3分の2以上が山西省にあると言われる。

 

辛亥革命と閻錫山

明治維新以降「富国強兵」につとめ、日清・日露戦争を勝利してアジアの強国に成長した日本は朝鮮半島を手に収め、中国にも権益を得て、否応なく大陸と関係を深めていく。この頃、中国では義和団事件の挫折によって清朝打倒の考えが広まり、孫文を中心とする革命派諸団体が各地に結成されて革命の息吹が熱を帯びてくる。アジア動乱の時代の幕開けだ。

閻錫山 (1883-1960)

閻錫山 (1883-1960)

1883年(明治16年)に山西省五台県で生まれた閻錫山(号は伯川)は、1904年(明治37年)、日本に留学し、在日中の翌年に孫文を首領とする中国革命同盟会に加入した。そして帰国後、1911年(明治44年)10月に革命派が武昌で蜂起するや山西省で挙兵。辛亥革命が成功した翌1912年(大正元年)1月の国民政府成立後、孫文から大総統の座を委譲させた袁世凱の命により、山西都督に就任した。

都督に就任した閻錫山はこれ以降、1949年(昭和24年)に中共軍が太原を陥落させるまでの三十余年の間、実力者として山西省の軍政両権を握る。中国近代史において閻錫山は地方軍閥の一人に数えられるが、辛亥革命に参加した古参党員としてのアイデンティティを生涯失うことはなかった。その点で、烏合離散を繰り返した他の軍閥とは趣を異とする。

国民政府の成立後、中国大陸では北方派と南方派の勢力争い、軍閥割拠によって政争・紛争が続き、混沌の度合いを深めていくが、そのようななかで、閻錫山は当初より中央政府と不即不離の関係を維持し、北方各派閥と対抗しつつ内治に専念する。「保境安民」すなわち「山西モンロー主義」である。山西省の豊富な鉱物資源を利用して早くから工業化に力を入れ、外国資本を呼び込んで鉄道や道路などのインフラを整備したり、教育機関の充実などをはかった。内乱の続く中国大陸において山西省を優秀省に発展させたその功績は、現在でも高く評価されている。

 

中国統一と山西省

1924年(大正13年)、国民政府では第一次国共合作が成立、翌年に孫文が死去すると、国民政府内部での勢力争いが顕在化してくる。翌1926年(昭和元年)、蒋介石が国民革命軍総司令に就任して北伐を開始すると、国民政府の分裂と再統一、北伐再開、蒋の復帰と情勢がめまぐるしく変化する。

そんななか、閻錫山は1927年(昭和2年)に国民革命軍北方総軍司令に就任して蒋介石の北伐に協力する。そして1929年(昭和4年)には、張作霖爆殺事件を契機とした東三省「易幟」によって中国統一がなされた。しかしその後も中国国内では政争が続き、閻錫山も1930年(昭和5年)と1931年(昭和6年)にはモンロー主義を放棄し、北方派と協力して、強権独裁を目指す蒋介石打倒を掲げて反蒋戦争に参加する。しかし中原大戦で蒋に破れ、大連に逃れた。このとき日本の庇護を受けたとされる。翌年8月に国民政府に帰参、1932年(昭和8年)に太原綏靖公署主任に任じられ、山西省の実力者の座に返り咲いた。

西安事変直前に洛陽で開かれた蒋介石の祝賀会にて。左から張学良、宋美齢、蒋介石、閻錫山。張学良はこの後、中共に唆走されて反蒋クーデターを起こした。

西安事変直前に洛陽で開かれた蒋介石の祝賀会にて。左から張学良、宋美齢、蒋介石、閻錫山。張学良はこの後、中共に唆走されて反蒋クーデターを起こした。

閻錫山が中共と妥協した犠牲救国同盟会によって組織された山西青年抗敵決死隊。最初から赤化されており、後に閻軍と武力衝突を惹起した。

閻錫山が中共と妥協した犠牲救国同盟会によって組織された山西青年抗敵決死隊。最初から赤化されており、後に閻軍と武力衝突を惹起した。

閻錫山が中共と妥協した犠牲救国同盟会によって組織された山西青年抗敵決死隊。最初から赤化されており、後に閻軍と武力衝突を惹起した。

中国の政治統一が進むにつれ、外国権益に対する反発が高まり、排日運動を激化させてゆく。この頃には中共も大陸政治に徐々に浸透を始めた。1936年(昭和11年)2月には、西から中共軍が山西省に侵攻し、閻政権を脅かした。反共の閻錫山も、抗日を標榜する中共との連携を余儀なくされた。

同年末には綏遠事件に続き、中共に唆走された張学良が蒋を監禁する西安事件が発生。国共合作を条件に命を救われ、西安から生還した蒋介石は権力基盤を固めた。抗日ブームを背景に軍の近代化を進めてきた蒋介石は、圧倒的な軍事力を背景に、「倭寇(日本)」との戦争を決意した。

 

日華事変の勃発
1937年(昭和12年)7月7日、北平(北京)郊外廬溝橋で、日中両軍の間で武力衝突事件が発生した。現地では停戦協定が成立したが、圧倒的な軍事力を背景に自信を持った蒋介石は、権益回収と圧力一掃を目論んで日本に対する本格的な攻撃を決意した。8月、上海で中国軍は総攻撃を開始、その後八年間にわたる日華事変が勃発した。蒋は中国全土に総動員を発令して日本軍への攻撃態勢を整えると共に、9月には共産軍を国民党軍に編入して第二次国共合作を成立させた。山西省でも続々と中央軍が北上、中共軍も正式に山西省に進出してきた。山西省を統括する第二戦区司令長官には閻錫山が就任し、山西における対日戦の指揮をとることとなった。

廬溝橋 (1992年)

廬溝橋 (1992年)

華北戦場では、日本軍が7月末には北平・天津地方を制圧し、8月には北支那方面軍を編成して保定以北の制圧に乗り出したが、側面支援のために南下した関東軍は無断でチャハルへの侵攻を開始する。内蒙独立と山西省の華北分離によって、新しい勢力圏を成立させることが目的だった。これに関東軍と志を同じくする板垣征四郎将軍が同調、9月には板垣兵団による山西省への侵攻が独断開始された。

10月、チャハル・山西への侵攻に反対していた参謀本部の石原完爾作戦部長が解任されると、陸軍中央は太原攻略作戦を正式に下令、苦戦する北部の板垣兵団を支援するため、河北省を占領した北支軍も山西省東部の省境より進攻を開始した。

忻口総攻撃第一日目、塹壕を飛び越えて突撃する日本軍兵士。

忻口総攻撃第一日目、塹壕を飛び越えて突撃する日本軍兵士。

忻口戦線における国府軍砲兵。閻錫山は忻口を決戦場に選んだ。

忻口戦線における国府軍砲兵。閻錫山は忻口を決戦場に選んだ。

中国第二戦区軍は、晋綏軍の他にも傅作義の西北軍、中央から派遣された衛立煌軍を合わせて兵力二十六万人の体制で日本軍を迎え撃った。省内の北部、東部の各地で、中国軍と日本軍の間で激戦が繰り広げられた。9月に北部の要衝である大同が陥落、10月には東部で娘子関が突破され、11月には決戦場とされた忻口が陥落した。北と東から挟撃されて中国守備軍は撤退し、11月8日、山西省の省都である太原が陥落した。閻錫山は南部の臨汾に後退した。

太原陥落に先立つ10月に日本政府は「支那事変対処要綱」によって親日派要人による統一政府樹立を決定、山西省では太原陥落後の12月、閻政権にかわる新政府である山西省臨時政府籌備委員会が発足した。同委員会は、翌年4月の中華民国臨時政府の成立とともに編入され、山西省公署が組織された。初代省長には、閻錫山の側近である蘇体仁が就任した。

 

中共の脅威と日本軍との提携
太原陥落二ヶ月後の1938年(昭和13年)1月、日本軍は山西省中南部への進攻を開始、山西省、河北省、河南省からの北、東、南の三手で中国軍を挟撃した。2月には臨汾と路城平野の各都市を陥落させ、3月には南部の要衝である運城が攻略された。中国軍は一部を山岳地帯で遊撃隊として組織するほかは、黄河を越えて、陜西省、河南省西部へと撤退した。これにより、山西省は全土を日本軍に制圧された形となった。

山西省を制圧した日本軍はこれ以降、1945年(昭和20年)8月の日本敗戦まで、内長城線以北を駐蒙軍、それ以南の山西省を北支第一軍が管轄する体制で警備を行うことになる。この間、戦争前に閻政権と提携した中共が、日本軍の進攻によって力の空白ができると、そのチャンスを利用して勢力を急速に広めた。閻政権と中共との確執は、1939年(昭和14年)12月、とうとう大規模な武力衝突事件(晋西事件、山西新軍事件)を生じるまでになった。こうして名実共に反共へと転じた閻の選んだのが、日本との連携だった。

汾西の山窟で挙行された会談で握手を交わす閻錫山(左)と岩松第一軍司令官(右)。破談に終わったこの会談を期に、閻政権と日本側との公式な連絡は途絶えた。

汾西の山窟で挙行された会談で握手を交わす閻錫山(左)と岩松第一軍司令官(右)。破談に終わったこの会談を期に、閻政権と日本側との公式な連絡は途絶えた。

反蒋独立志向の強い閻錫山を懐柔し、内蒙とあわせて安定化を目論む日本軍の動きは、日華事変の初期から始まっている。第一軍が中心となって、閻錫山の国府からの離間工作を行っており、これは後に「対伯工作」と命名された。中共との武力衝突後、閻は建前として中共との抗日統一戦線を維持する一方、この工作によって日本軍と不即不離の関係を続けることで兵力を温存する方針をとる。日本軍と閻軍は停戦協定を締結し、一部で物資の融通すら図られていた。結局、工作は最後まで実ることがなかったが、両者の関係は、戦後の国共内戦における日本人残留へつながる遠因となった。

 

戦後の国共内戦と日本人義勇軍の山西残留
国力を無視して南洋にも進出した日本の無謀な戦争は、1945年(昭和20年)8月、日本政府のポツダム宣言受諾による無条件降伏という形で終わりを迎えた。八年に及ぶ日中間の戦いもここに幕を閉じた。現地日本軍は武装解除され、日本に帰還することとなった。しかし、支配の基盤が大きく脅かされていた閻錫山は、中共との内戦の本格化を視野に入れ、現地日本軍の山西残留を現地軍首脳と画策する。その結果、当初は一万人近い邦人が山西省に残留、二千六百人に及ぶ日本人義勇軍が組織され、その後四年間の熾烈な国共内戦に参加する前代未聞の事態が生じた。

しかし戦局利あらず、1949年(昭和23年)年後半には、山西省は全土で中共軍に制圧される様相を呈してきた。省都太原では中共軍の包囲によって補給が途絶、城内では食糧難で人肉食も生じる事態となった。そして翌年の1949年(昭和24年)4月、太原は陥落した。閻錫山は直前に航空機で脱出、最後まで降伏せずに籠城した閻軍将兵と残留日本人が取り残された。残留将兵らは抑留され、多くは戦犯として獄につながれた。

中共軍の捕虜となった日本人義勇兵たち

中共軍の捕虜となった日本人義勇兵たち

太原陥落で中共軍に捕らわれた山西軍首脳

太原陥落で中共軍に捕らわれた山西軍首脳

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