中共

中国共産党の”抗日救国”

日華事変において、中共こそが救国を担ったという主張が長年にわたって流布されてきた。しかし、それは嘘である。そもそも中共指導部に、日本軍に対する抗戦意欲はなかった。中共の至上命題は大陸の覇権を握ることで抗日ではなかった。日本との戦争は国府を追放し、自らが権力を奪取する絶好のチャンスであった。対外的なアナウンスとして抗日を標榜しただけである。

中共のプロパガンダを真に受けて、国府に見切りを付けた元国府軍将兵や愛国学生が多数入党してきたが、中共が日本軍と真面目に戦う意志はゼロだった。下部党員で心情として抗日に燃えた者は多く、中共党員ではない中共シンパは率先して抗日を戦った。その事実と中共指導部が抗日を優先課題としていたか否かは別である。廬溝橋事件を中共の陰謀とする空想はあまり意味あることではない(中共自身がそれを仄めかしていた)。国家間の戦争はそう簡単に起こるものではない。日華事変は、偶発的に生じた廬溝橋事件をきっかけに、蒋介石が長年にわたって準備してきた対日戦を決意して主導したことによって引き起こされたものであり、中共はそれに乗じただけである。

八年間にわたる日中間の戦争で日本軍の矢面に立ったのは常に国府軍であった。中共はその指揮下にあったにも関わらず、根拠地建設を優先して積極的な作戦行動をとらなかった。そればかりか、命令に不服従の姿勢を示し、最終的には味方である国府軍を攻撃するまでにいたっている。敵軍が攻めてきたのに攻撃する意志がなかった国軍(一応、国府軍に編入されていた)というのは、世界でも中共ぐらいの特異な存在と言えるのではないか。図らずも毛沢東は1964年(昭和39年)に社会党の佐々木更三らと会見した際、「皇軍の力なしには我々が権力を奪うことは不可能だった」と吐露している。同様の趣旨の話は、ニクソンや田中角栄との会見でも披露されたと言われている。特に驚くことでも有り難がる話でもない。日華事変における中共の抗戦姿勢からすれば、当たり前の話である。

長城線で戦闘態勢をとる八路軍。手前の兵士は日本軍の軽機関銃をかまえている。このような勇ましい写真と、史料から明らかになる八路軍の姿には大きな乖離がある。 (写真出典:エドガー・スノー『抗日解放の中国』サイマル出版会,1986年)

長城線で戦闘態勢をとる八路軍。手前の兵士は日本軍の軽機関銃をかまえている。このような勇ましい写真と、史料から明らかになる八路軍の姿には大きな乖離がある。
(写真出典:エドガー・スノー『抗日解放の中国』サイマル出版会,1986年)

1936年(昭和11年)12月の西安事変、次いで翌年7月に勃発した日華事変で、中共は国府との間で停戦・合作にこぎ着けた。中共の有する兵力は国府軍第十八集団軍として正式に国軍に編入されることになった。日華事変で中共軍は、第二戦区司令長官である閻錫山の指揮の下、国軍の一部として正面戦場への出動を要請されたが断っている。対外的には事変勃発直後に「抗日救国十大綱領」なるものを発表して全国民に抗日を呼びかける一方、内部会議では正面戦場への参戦を否定し、根拠地建設を最優先することを決定していたからだ。中共軍は「独立自主」を旗印に日本軍の後方に展開したが、それは後方から脅威を与えることが目的ではなく、自らの支配地域を拡大することが目的だった。八年間に及ぶ抗日戦争において中共が誇ることができる戦例が「平型関」と「百団大戦」のたった二つしかない、しかも戦功と称しているその二つの戦いも実態はきわめてお粗末なものであった事実が、中共が軍事面でなんら寄与するところがなかったことを如実に示している。

忻口戦線における国府軍砲兵。忻口では約三週間にわたって激烈な闘いが繰り広げられたが、中共軍は"遊撃戦"と称して参戦しなかった。事変初期の国府軍の勇猛さは参戦した日本将兵の多くが記している。写真のおそらく野砲兵と見られる国府軍将兵は、ドイツ仕様の防毒面に機関短銃(米国式のThompson submachine gun)を装備している。攻撃する日本側と同じ程度に中国側の装備の充実度が高かった事実はあまり知られていない。(写真出典:楊克林, 曹紅編著『中国抗日戦争図誌』新大陸出版社有限公司,1992年)

忻口戦線における国府軍砲兵。忻口では約三週間にわたって激烈な闘いが繰り広げられたが、中共軍は”遊撃戦”と称して参戦しなかった。事変初期の国府軍の勇猛さは参戦した日本将兵の多くが記している。写真のおそらく野砲兵と見られる国府軍将兵は、ドイツ仕様の防毒面に機関短銃(米国式のThompson submachine gun)を装備している。攻撃する日本側と同じ程度に中国側の装備の充実度が高かった事実はあまり知られていない。(写真出典:楊克林, 曹紅編著『中国抗日戦争図誌』新大陸出版社有限公司,1992年)

1937年(昭和12年)9月の平型関戦は、日本軍の侵攻を長城線で阻止すべく国府軍が五万人を動員して一週間にわたって激戦を繰り広げたもので、中共の参戦は一局面に過ぎない。中共はこの戦いにあって、林彪部隊が板垣兵団を攻撃撃破したと称しているが嘘である。実際には、非武装に近い輜重部隊を襲撃して物資の略奪を行っただけで、日本軍の補給路を扼止することもなく独断で撤退を行い、戦局に意味ある効果は何らもたらさなかった(→コラム:誇張された「平型関大捷」)。山西省北部に展開した林彪部隊に対し、省東部に展開した劉伯承部隊は、同様に日本軍の輜重部隊を襲撃し、やはり戦果を誇張している(→コラム:「七亘大捷」の実相)。1937年(昭和12年)における中共の作戦行動で目を引くのは、この種の物盗りだけである。

一方、1940年(昭和15年)9月の百団大戦は、第一次攻勢で鉄道や重要施設へのテロを敢行し、第二次攻勢では日本軍に正規戦を挑むなど積極姿勢だった。「大戦」と呼べるほどのものかどうかは別として、中共自らがイニシアティブを発揮して発動した軍事攻勢であることは間違いない。ただ、抗日戦を通じて唯一という点で特異事例である。戦果については平型関と同じく誇張しており、戦術的に負け戦であると同時に、その後の日本軍の積極的な討伐を招いたという点で戦略的にも失敗だった(→コラム:「百団大戦」の政治背景)。作戦を指揮した彭徳壊は自己批判を行っており、後年、毛はそれを根拠に彭を粛正している。真の理由が権力闘争にあったとしても、当時の中共の抗戦路線としては百団大戦が逸脱したものであったことは明らかだった。

そもそも百団大戦が中共自身の手によって企図されたとするのには疑問がある。百団大戦が発動された年、1940年(昭和15年)の年頭に、中共は赤化した共同軍の処遇をめぐって国府軍(山西軍)との間で大規模な武力衝突事件を引き起こしており(→コラム:犠牲救国同盟会と山西新軍)、その際に国府軍から多数の秘密党員や中共シンパが根拠地に流入することになった。党内バランスが崩れたことが容易に想像できる。毛澤東自身が後に百団大戦を「右翼分子による策動」と総括しているように(おそらく延安では悲惨な粛清の嵐が吹き荒れたであろう)、この戦いは、抗日思想の強い旧国府系軍人の主導で発動されたものと考えるべきである。

百団大戦であれほど衝撃を受けた日本軍が次に発動した大作戦(中原会戦)は、中共相手ではなく国府軍の壊滅を狙ったものだった。このことも中共が軍事面で日本軍に脅威を与える存在ではなかったことを示唆している。そして中原会戦では、国府軍十万が殲滅されたと言われ、ちりぢりになった国府軍を中共が機に乗じて武装解除し、急速に支配地域を拡大させる結果となった。華北で日本軍が中共対策に本腰を入れはじめたのは翌年の1941年(昭和16年)以降からであるが、現地軍が主張した中共本拠の延安占領は退けられたうえ(西安作戦から四川作戦に格上のうえ延安占領は破棄、のちに作戦自体が中止)、対米戦の関係もあって装備優秀師団は全て引き揚げ、華北には装備・機動力・士気ともに劣る三線級師団(旅団)が配置された。国府軍なき中共相手の治安維持にはそれで十分だったわけだ。

八路軍の軍衣を身にまとった益子中隊長ら。右の佐々木少尉に括弧書きで「則界村にて戦死」とあるのは、ニヶ月後の南部太行作戦における国府軍との戦闘によるものである。(出典:第一軍司令部「益子中尉ノ戦闘経過ノ概要」1942年)

八路軍の軍衣を身にまとった益子中隊長ら。右の佐々木少尉に括弧書きで「則界村にて戦死」とあるのは、ニヶ月後の南部太行作戦における国府軍との戦闘によるものである。(出典:第一軍司令部「益子中尉ノ戦闘経過ノ概要」1942年)

中共軍との戦いがどのようなものだったか一例を挙げよう。日本軍の姿を見ると中共は逃げた、という回想は多くの出征兵士が書き残している。1942年(昭和17年)5月、山西省南東部の山中に盤踞する中共軍の覆滅を狙い発動された「晋冀豫辺区作戦」において、日本軍は”逃げる中共軍”を捕捉するために、中共に扮装した特殊部隊を敵地に潜入させる便衣作戦を実行した(→コラム:八路に扮した益子挺進隊)。この便衣作戦において、歩兵第二百二十三連隊の益子挺進隊は、中共軍司令部を捕捉し、副司令官の彭徳懐を負傷、参謀長の左権を戦死せしめた。左権は抗日戦において戦死した最高位の中共幹部である。単身敵中に潜入していった益子挺進隊の総員はたった百名ほどだったが、驚くべきことに損害わずかに軽傷者二名のみで遺棄死体293、捕虜165の戦果を挙げ、全員無事に帰還している。この事実は、同じ益子隊が二ヶ月後の「南部太行作戦」において国府軍と戦いを交えた時、すなわち、将校二名の戦死を含む総員の半数弱が戦死傷するという壊滅的打撃を蒙っている事実と比較することで、中共の戦意と実力がどの程度のものであったかを示唆することとなる。中共が主戦場と位置づけ、最も活発に活動したのは山西省だったが、その山西省でも軍事面ではこのような有様だったのだ。日本軍と真面目に戦った、戦い得たのは中共ではなく、国府軍だった。

昭和20年(1945年)8月、日本は敗北した。この時に山西省にあった兵力は非戦闘部隊を含めて六万人弱だった。数で見ると多いと感じるが、国府軍が組織的抵抗を行っていた最盛期に比べて兵力で四割も減少している。人口比で考えると、2006年末の増派前のイラク駐留米軍と比べても八割にとどまる。それでも終戦まで主要鉄道の途絶もなく、治安地域も多少の縮小はあっても未だ広大だった。中共に戦う意志がなかった何よりの証拠である。

ところが、現地に派兵された日本兵と参謀将校は口を揃えて、中共の”ゲリラ戦”すなわち「遊撃戦」によって日本軍が悩まされた、とりわけ太平洋戦争以降、終戦までの華北においては、と主張する。中共の主張を裏付ける実体験として重宝される。しかし事実とは言えない。人というのは自分の居場所を物差しにして考えるから、八路は強いとか危ないと言うだけである。参謀将校の場合は、自らの仕事がより重要であると主張したい官僚特有の顕示欲がこれに加わる。そもそも「共匪」「赤匪」という呼び名が如実に示しているように”武装強盗”が跋扈するから「危ない」と国軍部隊が言っても説得力がないばかりか恥であろう。華北駐留の日本軍で、中共軍に殲滅された中隊以上の部隊はなく(それも百団大戦における数例のみである)、栄養失調になった者もいなかった。少なくとも山西省管内の日本軍は終戦まで白米を食していた。それに対し、補給路を遮断されて餓死者が続出し、凄まじい空爆と艦砲射撃で全てを粉砕してから、ようやく強力な機甲力を随伴して上陸してくる米軍を相手にした太平洋戦線と比較すれば何をかいわんやである。

ただ、中共がいくら軍事面でほとんど貢献がなかったとしても、最後に大陸の覇権を握ったという点では間違いなく勝者である。敗者は勝者に遠慮する。勝者が自信満々に語る「遊撃戦」論に敗者が異議を唱えず一目置くことは不自然なことではない。

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000394.html